蒼の夢 第三部

『蒼の夢3』

プロローグ

「今日は私達にとっては特別な日」
抑揚の無い少女の声が木の香りが満ちるログハウスの中に響く。
「お前達の祖が作られた日だったな」
答えたのは男の声。
男は大きな窓のあるリビングのソファーに腰掛けて、景色を見ていた。
窓の外は林間が拡がり、色付き始めた葉が数枚舞っていた。
そして、木々の間からは雄大な山脈の一部を見る事が出来た。
「祖の捜索が私達の任務」
「任務か。――しかし今は休暇中だ、ここの初雪はいつ頃だ?」
「平年では後五日程度」
「まっ、それくらいまでは居たいところだな、スキーは無理としても」
「私達の平均的休暇期間から計算して初雪が降るまで留まれる確率は――」
少女の声が無機質に続ける。
「そんな確率は聞くだけ空しい、さっきも言ったが今は休暇中だ、お前も仕事の事は忘れろ」
男が少女の言葉を遮る。
「――マスターが、そう言うのであれば」
「それでいい」
男は満足したように言った。

1章.ざわめき

十月は学校行事が盛んになる時期だった。
体育の日に運動会という学校は今でも多い。
しかし最近は、試験の絡みなどで五月に運動会をやってしまい、十月には遠足というパターンも多かった。
山内蒼が通う私立小学校でも十月のイベントは遠足だった。

「良い天気で良かったわ」
ラクティ・ラ・キアラ・山内-オーディアールがバスから降りて空を見上げた。
そこには涼しげな空気を含む透明な青空が広がっていて、少し視線を落とせば紅葉の始まった山々の連なりが見えた。
さらに視線を落とすと背の低いリンゴの木の連なりが視界を埋めている。
ラクティが降りたのは、南アルプスの麓にある果樹園の駐車場だ。
「後ろがつかえている、早く歩き出してくれ」
ラクティの後ろから蒼が言う。
降車口の真ん前でラクティが立ち止まったため、蒼を含む他の乗客が詰まる形になっていた。
「そう? ごめんなさい」
悪びれた様子なく数歩進んで道を空けた。
その後から蒼や他のクラスメイト達が次々とバスを降りて来る。
父母の姿はない、教師と生徒だけのリンゴ狩りの遠足だった。
生徒達の服装は制服ではなく各々動きやすい服を選んで着てきていた。
「来る前は『子供っぽい』と言っていたのに、上機嫌だな?」
蒼がラクティの隣に並ぶ。
その格好は、七分丈のボトムスに襟の大きい柔らかい感じのシャツと袖の締まったカーディガンだ。
リンゴ狩りというアクティブな行為に対応出来る格好だった。
「まぁ、来た以上は楽しむつもりよ」
ラクティの方は飾り気の多いショートワンピースにボレロを合わせて、下には紺のレギンスを穿いている。
そして、ファンシーリュックに擬態変形したサラマンダーを背負っていた。
何かあった時の保険としての意味だが、擬態と言ってもリュックとして問題無く機能しており、普通にラクティの持ち物が入っていた。
「二人とも、こんな所まで来て言い争いですか?」
美鏡さくらがバスから降りてさらに二人の横に立つ。
蒼とラクティが主に交流が深いクラスメイト三人のうちの一人だ。
ふわっとした柔らかい髪がチャームポイントで良家のお嬢様だった。
「いいえ、蒼がくだらない事を覚えていて、突っ掛かって来ただけ」
ラクティがどうでも良いふうに投げやりに言う。
「くだらない事とは何だ」
蒼がすぐに食って掛かる。
「だから、二人とも、もっと仲良くしてください」
さくらが蒼とラクティの間に入って、二人の距離を物理的に広げた。
「私は充分に仲良くしているつもりよ」
「私だって、必要ない争いはしたくない」
「だったら、いちいち揉めない事、貴方達が喧嘩すると学級委員の私が困るのだから」
さくらは二学期から学級委員をやっていた。
やや仕切り癖のあるさくらには似合う委員だった。
「そうだぞ、二人ともさくらを困らせるなよ」
さくらの古くからの友達である崎白悠美香が会話に入って来る。
ジーンズにシャツとベストという格好で、頭のポニーテールと合わせて活発なイメージを作っていた。
「現状さくらがとても困っているようには見えない。だから、その指摘は外れている」
「蒼ちゃん、それはそうでも、そういう意味じゃないから」
蒼の発言を、少しおろおろした感じで立川美佑が止める。
美佑は黄色のキャミソールの上に蒼と同じようにカーディガンを羽織り、下はミニスカートにスパッツを合わせていた。
「ん、そうなのか?」
「うん、言いたい事は『みんな仲良く』という事だから」
「そうか、分かった」
蒼が黙る。
「全く、そんなコミュニケーション能力で、よく今まで生きてこれたわね?」
その様子を見ていて、ラクティが軽く笑う。
「なんだと?」
蒼の目付きが鋭くなる。
「あー、もう、ラクティっ、どうしても喧嘩したいなら、余所でしてください」
さくらが厳しい口調でラクティを止めに入る。
「そうね、少しからかっただけよ。悪かったわ」
「分かってくれれば良いのですが、二人とも姉妹なのですから、もっと、仲良く出来ないのですか?」
「そう言われても結構離れて暮らしていたし、互いに微妙な距離があるわよね?」
ラクティが蒼に振る。
「ああ」
蒼は短く答えた。
蒼とラクティが姉妹というのは体面上設定であり、実際は何の関係もない。
微妙な距離どころか、蒼の中ではラクティは理解の範囲を超えた存在だった。
同族ではあるが、それ以上の共通点がまるで無い気すらした。
しかし、二人の外見は不思議な事に、パーツレベルでかなり類似していたが、その事は蒼は気にしていなかった。
「それでも今日は仲良くリンゴ狩りを楽しみましょう? 喧嘩しながらする事ではないわ」
さくらが何とか場をまとめようとする。
「まぁ、そうね」
「ああ」
ラクティと蒼が同意した。
「なら、あっちに集まる様子ですから、行きましょう」
少し離れた場所で担任が点呼を取り始めていた。
その場に向かって五人が移動する。
点呼の後はメインイベントのリンゴ狩りだ。
その後、昼食を挟んで午後にはリンゴの加工工場の見学、それが終わる頃には各自がもいだリンゴが包まれていて、それを持って帰るという流れだった。
「それでは、怪我をしないように気を付けてリンゴ狩りを楽しんでください」
リンゴ狩りの注意等を話していた担任が最後にそう言って、生徒達は各々リンゴ園の中へと入って行った。
蒼達もリンゴ園の中に入る。
高くて二メートル半程度に小さく育てられたリンゴの木が等間隔に植わっている様は、まるでミニチュアの林の中にいるようだった。
「自分が大きくなった様な気がするね?」
美佑が蒼に言う。
「スケールが狂うな」
「そうだね。でも、小さくても沢山なってる」
木は小さくても、赤く色付いたリンゴが一本当たり数十個はぶら下がっていた。
「ああ、手間を掛けて育てたのだろう」
「蒼ちゃんは、リンゴ狩り初めて?」
「初めてだ。というか、こういうふうになっている所を見るのも初めてだ」
「そうなんだ、私は前に一回経験があるけど、初めてみると驚くよね、一本の木にこんなになっていて、凄いなぁ、という感じで」
「そうだな」
人の改良によって小さいながらも大量になるリンゴの木は、人では無い蒼から見て、人の力を考えてしまう産物だった。
人の根気は時に自分達の力を越えるのではないかという……。
「なーに辛気くさい顔して木を見つめているのよ、折角だから、どっちが早くカゴを満杯に出来るか勝負しましょう?」
ラクティが蒼の背中を軽くはたく。
一人カゴ一つまでが採って良い分だった。
「どれでも良いなら、五分も掛からず一杯に出来る気がするぞ。持って帰るのだから吟味したい」
カゴは小学生サイズで十個入れれば満杯だ。
「うーん……まぁ、それもそうね。だとしたら、綺麗に赤くなっている奴を早くカゴ一杯にした方が勝ちで、どう?」
指先をアゴに当てて考えた後に提案する。
「分かった」
「なら決まり、さくら達も参加する?」
「いえ、私はゆっくり周ります」
「私はさくらに付き合うから」
さくらと悠美香が言う。
「そう、美佑は?」
「私は……参加しても良いけど、二人には勝てないと思うから」
視線をややさまよわせて言う。
「そんな事はやってみないと分からないぞ」
蒼が美佑の横に立って言う。
「そ、そうかな」
少し背の高い蒼を見上げる。
「ああ」
視線を合わせて頷く。
「う、うん、じゃ、参加する」
「なら三人ね。ルールを説明するわ、今から五分はポイント探し、五分経ったら開始して一杯になった時点で他二人の携帯を鳴らす事。その時点で残り二人は採 るのを中止して一旦集合。そして、採ったリンゴが本当に赤いか吟味して、全部綺麗に赤い場合はその人が勝ち、赤く無い場合は、その段階で綺麗なリンゴを一 番持っている人が勝ちね」
ラクティが一方的にルールを宣言する。
「分かった」
「分かりました」
一方的ではあるが、そこそこ考えられているルールだと思い蒼と美佑は同意した。
「OK、それなら開始よっ」
ラクティがみんなの前からリンゴ林の奥へと駆けて行く。
「じゃ、蒼ちゃん、また後で」
続いて美佑がラクティとは別の方向に向かう。
「ああ」
それを見送って蒼も二人とは別の方向に歩き出した。
リンゴ林の中には、生徒達がランダムに存在していた。
何人かで一つの木を囲んでいる所もあるし、一人しかいない場所もある。
蒼はひとまず誰も居ない木を探して奥へと進んだ。
木になるリンゴは、パッと見は大半が赤く色付いているが、完全に赤く綺麗な物となると限定された。
「中々、無い物だな」
五分の間に、どれだけ目星を付けられるかが勝負の決め手となるだろうと思った。
ポイントを探して進むと、気が付けばリンゴ園の端まで来ていた。
端には緑のフェンスがあって、その先は間伐された雑木林になっていた。
落葉樹が多いが、まだ緑の葉を付けたものが多く、落ち葉が余り目立たない。
「……」
微妙な違和感が蒼を包んだ。
「これは……」
周囲に誰も居ない事を確認してから、二メートル程のフェンスを軽々と飛び越える。
雑木林側に着地して奥を見通す。
「やっぱり、間粒子構成に乱れがある」
視界に映る雑木林の奥に蒼達が感じる事が出来る特殊な素粒子――間粒子の乱れが存在していた。
蒼やラクティは人とは違う竜と名乗る種族だった。
その竜が操る特殊な力の元が間粒子であり、その粒子の乱れは、その場に同族か敵が存在する可能性を高確率で示していた。
「しかし、こう立て続けに……」
蒼は一ヶ月前に、ある種同じように同族か敵の気配を感知してラクティと出会った。
敵に会うにしても、そのスパンは三年に一度程度。
同族に会うケースは下手すれば五十年に一度程度だ。
「偏りすぎだな」
呟きつつ、前方にある間粒子の乱れを探る。
乱れを引き起こしている原因は視界内には無い。
そして、相手がこちらを探っている感覚も感知出来ない。
「隠れているが、その気配が漏れているという事か」
気配が漏れるような隠れ方をするのは、能力が不安定になりやすい敵である可能性が高い。
「なら、殲滅するだけだな」
長袖のカーディガンを腕まくりして、右手の甲にプレート状の剣を生やす。
そして、背中に服を貫き白いプレートで出来た翼状の器官が広がる。
破れた服は録画を巻き戻すように塞がった。
「一気に行くっ」
地面を蹴って瞬間的に粒子の異常ポイントまでの距離を詰め、何の力も無い人間なら、そのまま通り抜けるそのポイントで腕の剣を縦に振るう。
ザクっと、景色が裂けて、その先に別の景色が広がった。
「やはり隠蔽詩か」
裂け目が勝手に広がって行き、そのまま奥にあった景色が本当の景色となる。
裂け目の奥には一軒のログハウスが存在していた。
内部に気配は無かったが、消している可能性が圧倒的に高い。
この時点で、そこに敵がいる事は蒼の中では間違いない事実になっていた。
直ぐさまログハウスに向けて駆け出す。
敵とみれば即殲滅、基本的に誰かとの共闘は考えない。
それが蒼の普段の戦い方であり、反射的行動のようなものだった。

「え!?」
ラクティが唐突に驚きの声を上げた。
もいだリンゴを地に落とす。
周囲に居た級友達が何事かと彼女の方を見た。
「な、何でもないわ」
言った後、背中に淡い桜色のプレート翼状物体を一気に展開させ、周囲の人間の現行記憶に干渉する。
その結果、ラクティはリアルタイムで記憶出来ない存在になり、人間の知覚から実質的に消えた。
「美佑っ! 気付いたでしょ、来てっ!」
叫びながらリンゴ園の端に向かって駆ける。
「は、はいっ!」
クラスメイトの中で、ラクティの声に唯一気付いた美佑がラクティの隣を併走する。
美佑にはラクティを認識する事が出来た。
それは美佑が純粋な人では無い証だった。

木の香りに満ちた部屋の中で、男の前に非機能的なメイド服姿の少女が立っていた。
「マスター、隠蔽壁及び簡易防壁が破損、指示を」
「任せる、武装は第三級までだ」
「了承」
メイド服を着た少女が部屋の中から消えた。

「っ!? くっ!!!」
蒼が相手を認識したのは攻撃を受けた後だった。
左の翼が根本から切断され、さらに粉々に砕け散った。
「お、お前は!? っ!」
身体をひねり後方の相手を確認する。
しかし、左半身の力がいきなり失われ、思わず体勢を崩して片膝をつく。
その状況で、やや見上げる視線の先に蒼を攻撃した存在がいた。
「私はラプリア・ランプル・エルトリア。隠蔽防壁への攻撃を敵対行為と判断、貴方を排除する」
飾りの多いメイド調の服を着た少女。
その背中には金属で作られた差し渡し三メートル程の翼が広がっていた。
羽の一枚一枚が鈍い銀光沢を放っている。


フリルが飾る右手を振り上げ、おそらく次手に繋がる動作を開始する。
「待てっ! 私は竜だ。無垢なる物と交戦する気はない」
攻撃を制止する。
蒼の予想とは違う相手だった。
少女に生える金属の翼は、蒼達、竜と関わりの深い『無垢なる物』と呼ばれる存在の証だった。
「特定コード認証、現行プログラム復唱、交戦意思の無い竜と接触は捕獲優先。自動判断により捕獲モードに移行」
振り上げた右手がピタリと止まり、その後、少女が無表情に告げた。
その目は人形に填るガラス玉のように意思を映していなかった。
「捕獲だと? お前のマスターは誰だ? レーナ・テルチェ・ユーリとの協定を知らないのか?」
竜と『無垢なる物』との間には取り決めがあり、互いに戦闘行為を行わない事になっていた。
それが通じない相手は、蒼の知識の中ではいない筈だった。
「レーナと竜と間の協定は無効、貴方に抵抗の意思を尋ねる、捕まる気があるか?」
少女が言う。
「何だと……」
蒼が口にしたレーナ・テルチェ・ユーリという存在は『無垢なる物』の代表を務めている。
そのレーナの意思に従わない『無垢なる物』がいるとしたら、『無垢なる物』と敵対関係にある組織――クレイドルの支配下にある裏切った『無垢なる物』だけだった。
「くっ……」
クレイドルと竜も現在敵対関係にあり、クレイドルに『無垢なる物』がいる事は、一応知ってはいたが出会うとは思っていなかった。
クレイドルの『無垢なる物』は、同じ『無垢なる物』に対する為のもので、竜に対するものではない。
故に偶然以外で出会う事は考えられず、さらにその偶然も極端に確率の低いものである筈だった。
「くそ……」
そして、敵対する相手としての『無垢なる物』は強敵だった。
それは『無垢なる物』という存在は、人が竜を模して創り出した戦闘兵器だからだ。
戦闘に特化している分、オリジナルの竜より強い存在が多い。
「……」
逃げるという思考が頭に浮かんだ時、
「捕獲モードに移行、エーテル機関正常、閉鎖空間スタンバイ」
ラプリアの翼がリーンと澄んだ金属音を立てる。
重なる金属羽が震えて共鳴しているようだった。
蒼を取り巻く空間が現空間から切り離されて、蒼を中心に四角い箱を構成しようとする。
「ちっ」
力の抜けた半身を起こすが、それ以上身体が動かない。
翼が半分無くなっただけではない異常な力の減りを感じていた。
「エーテル干渉か……私では……」
蒼達が使う間粒子とは別に世界にはエーテルという粒子が満ちている。
無垢なる物はそのエーテルを使い、間接的に間粒子を操作する事が出来る。
竜も逆に間粒子でエーテルに干渉可能だが、蒼は粒子コントロールが得意な方ではなかった。
「対象をロック、収束開始」
壁が可視出来る程の空間の歪みを伴いつつ蒼を包み込む。
「くそ……っ!」
どうにも出来ずに捕縛されるのを覚悟した。
「高位干渉力展開っ!!」
場に新たな存在の声が響く。
同時に四方を取り囲んでいた空間壁が消失した。
「な!?」
「バカっ! ボーッとしてないで早く逃げなさいっ!!」
その声はラクティのものだった。
「分かってるっ!」
言い返すが身体が思うように動かない。
「蒼ちゃん、こっち、私の手を取ってっ」
やや後方から美佑の声がした。
「美佑っ」
差し出された手を握ると、そのまま後に引かれた。
「蒼ちゃん、大丈夫!?」
美佑は蒼を胸に抱き、林の地面を飛ぶようにバックした。
ラプリアとの間合いが開く。
「美佑、すまない」
蒼は美佑の胸から身体を支えに何とか立って、ラプリアを見据えた。
ラプリアは第三者の乱入に対して特別動じた様子なく、機械的に首を四方に回し、
「捕獲対象が三体に増加、自己判断領域外現象発生、自衛モードに移行」
半ば棒立ちで動きを止めた。
「貴方『無垢なる物』よね、そっちの子が竜だと知っての攻撃?」
そんなラプリアの前に木陰から腕組みしたラクティが姿を見せる。
「竜は捕獲対象」
「そう、話には聞いていたけど、クレイドル側に寝返った存在という事ね。なら近くにクレイドル関係者であるマスターがいるのよね? あのログハウスかしら?」
四人がいる位置から、十数メートル先に蒼が最初に見たログハウスが建っていた。
そこに相変わらず気配は無いが、誰かが潜んでいる可能性は高かった。
「マスターに害する場合、全力で対象を排除する事になる」
ラプリアがあくまで無表情のまま警告する。
「なら、それでも構わないわ」
「マスターへの敵対行動と判断、思考優先順位切り替え、自己判断復帰、制限一定解除迎撃モード」
背中の金属翼が瞬間変形する。
翼を構成している羽が、金属光沢を捨ててクリスタルのような透明な物体に変わり、翼自体も元よりシャープに小さくなる。
「無駄な変形ね。――水の刃よ、四方より貫けっ!」
ラクティの背中の器官が淡いピンクに発光した。
直後、場に重鈍な音が響き、先に見えるログハウスがバラバラに崩れた。
「私は貴方のマスターを殺せば良いだけだから、悪く思わないで」
ラクティが告げる。
空間から水を極薄い幅で超高圧噴射し、ログハウスの木材を複数箇所切断したのだった。
建物の中にあった物体も水圧で切断出来る物なら切断されている事だろう。
「超高位干渉力展開、間粒子強制支配」
ラプリアはログハウスが崩れた事を無視してクリスタルの羽を共鳴させた。
「何を――」
言葉の意味を考えている内に身体に異変が起きた。
器官からの力の供給が急激に衰え、その輝きも消えてしまう。
「まさかエーテル機関で!?」
竜が使う力の元である間粒子をラプリアが全て支配していた。
竜は背中の器官から空間にある間粒子を吸収してエネルギーに変換していた。
間粒子が取り込めないという事は、器官でエネルギーを作れない事になる。
しかし、そもそも間粒子を扱う事が出来るのは竜だけの筈だった。『無垢なる物』に出来る行為ではない。
「貴方、一体……」
ラクティの知識の範疇を越える相手だった。
竜が攻撃力で勝る『無垢なる物』と渡り合う場合、有利になるのは間粒子を直接操る事が出来る部分だけだった。
『無垢なる物』はエーテル粒子という触媒を通じて間接的に間粒子を操る分、間粒子を竜に直接制御された場合、間粒子関係では何も出来なくなる筈だった。
その上で、ラクティは場の間粒子を支配下に置いているつもりだった。
「……あり得ない」
しかし、現実、背中の器官からのエネルギー供給は止まっていた。
『無垢なる物』の支配力が竜であるラクティを越えていた。
無補給状態での長時間戦闘は厳しい。
「…………」
ラクティは今は逃げるべきだと判断した。
敵の素性を気になったが、それを調べている場合では無かった。
『蒼、そっちは平気?』
頭の中で呼び掛ける。
『活動力を維持するだけで精一杯だ。美佑も、この状態が続くと少しマズイ』
二人の間には念話が可能な繋がりがあった。
『そうよね……じゃ、逃げる方向で行くわね』
念話を終え、ラクティは防御等に回していた余力を全てを切って、逃げる為の仕掛けを錬る。
「――支配完了、投降しますか?」
背の翼の共鳴の余韻を残して、ゆっくりとラプリアが言う。
無機質なその声は余裕の態度に見えた。
「そのつもりはないわ」
「その発言は理解不能。そちらが私に有効な攻撃を行える可能性は限りなくゼロ」
「頭脳は相当ポンコツなようね」
「私の頭脳は全ての『無垢なる物』の頂点に位置する」
「あっそ。――じゃ、これから貴方はどうするの?」
逃げる隙が必要だった。
会話を続けて一つの事を探る。
ラプリアのマスターの存在だ。
全ての『無垢なる物』には主人がいて、その主人の命令と守護が『無垢なる物』の絶対使命だった。
会話からラプリアは自立性が低いマスター依存型か、マスターの命令が全ての非自立型のようだった。
どちらにせよ、マスターは近くにいる筈だった。
ログハウスは外れだとしても、ラプリアがマスターの指示無しに行動しているようには見えなかった。
「マスターに判断を仰ぐの?」
「――」
ラプリアは口元の動きを完全に止めて無言になる。
実質、指示待ちなのだろう。
行動すら止めてしまうところから、予測した非自立型の可能性が高い。
その場合、マスターが近くに居なければ単なる人形でしかない。
「貴方のマスターは何処にいる訳? 近くに居るのでしょ?」
揺さぶりを掛ける。
「回答不能」
「そう、じゃ、こっちで探すわ。この子のマスターさん、見ているのでしょ? いい加減出て来たらどう? 困っているみたいよ?」
林の中に響く声で呼び掛ける。
「…………」
「…………」
ラクティとラプリア、共に無言のまま数秒が経過した。
「――まっ、このまま隠れている訳には、いかないか」
不意に男の声がした。
ラクティが声の方を向くと、木立から季節外れのアロハシャツに白のズボンを穿いてサングラスを掛けた男が現れた。
「竜が一度に三匹か、関わると非常に面倒だな」
ボサボサの頭を、手でさらにグシャグシャにする。
「ラプリア、撤退だ」
「撤退!?」
ラクティが男の言葉に驚く、まさか相手が退くとは思っていなかった。
「マスター、よろしいのですか? 竜は捕獲対象です」
「ああ、今は無視していい」
「了承」
「――で、君たちだが、黙って俺達を逃がしてくれるかい?」
男がラクティを見据えて言う。
「構わないわ。でも、せめて名乗って行きなさい。私はラクティ」
逃げてくれるのは有り難いが、このまま別れたのでは、やられ損とも言えた。
相手の正体の手掛かりくらいは知っておきたい。
「俺はアルバートだ」
面倒くさそうに名乗る。
「クレイドルの人間?」
「ああ、そうだ。だが、俺は『竜』担当じゃないんでね、君たちと、これ以上戦う理由がない。とりあえず、先制攻撃を受けた分は大目に見よう」
「そう――『無垢なる物』担当という事ね」
担当が違うから無視する、それだけの理由ではない気もしたが、今は助かったと思った。
「しかし、出会っちまったからな。この先、指示があればまた会う事になるかもな」
「担当替えがあるかも知れないという事ね」
「そんなところだ、上は偶然の中の必然を重視するからな」
「なら、私は二度と会わない事を祈るわ」
「そうかい。じゃ、俺達は消えるけど、それでOKって事だな」
「ええ」
「OKOK。――ラプリア、行くぞ」
「はい、マスター」
ラプリアがアルバートの元に瞬間的に移動する。
「じゃあな」
アルバートの別れの挨拶と共に二人の姿がその場から消えた。
どうやら空間を跳躍する力を有している様子だった。
「……屈辱ね」
力で完全に負けたのは数百年振りだった。
一人ごちり、
「蒼、美佑、平気?」
思考を切り替えて、蒼と美佑の元に駆け寄る。
「私は平気です、ただ、蒼ちゃんが」
「左の器官の修復が全く出来ない」
背中に生えている翼形状の器官の内、左側が根本を僅かに残して無くなっていた。
器官は普段は体内に縮小した形でしまってあり、主に大出力が必要になった時に背中に出して空間内の間粒子を掻き集める。
破損した場合でも修復可能で、ある種、髪の毛のように体内の根となるポイントを失わない限り、何度でも再生可能な物だった。
「それって、まさか基部をやられたという事?」
「いや、基部はある、とりあえず一度体内に戻してみる」
「そうね、私も」
蒼とラクティが、それぞれ器官をしまう。
「しまって違和感はある?」
「ある」
ラプリアが消えた段階で力の喪失感は無くなっていたが、器官の再生が出来ないという異常さが残った。
体内にしまってみても、左の基部が酷く冷たく感じた。
「かなり特殊な『無垢なる物』だったし、エーテルの影響があるのかも知れないわね」
「あんな『無垢なる物』がいるのか?」
「さぁ……私も知らないわ、詳しい人に聞いてみるしかないと思うけど」
「そうだな」
蒼とラクティの頭の中には、一人の同一の存在が浮かんでいた。
「あの、今さっきの人が『無垢なる物』という存在ですか?」
状況が把握出来ていない美佑が聞く。
美佑の竜関係の知識は、蒼の知識の一部が移動したものだった。
その蒼の知識の中に『無垢なる物』という言葉はあったが、それが、どんな存在なのかは詳しくは記録されていなかった。
「そうよ、私達『竜』を人間がコピーして生み出した存在。でも、さっきのは規格外ね」
「強すぎるという事ですか?」
美佑が客観的に見ての感想。
「ストレートに言えばそうね、かなり悔しいけど、何の対策も無しに出会って勝てる相手ではなかったわ」
認めるしかない力の差があった。
間粒子を操るタイプの戦闘を得意とするラクティからすると、全ての技が封じられたようなものだった。
「とりあえず、この後どうする? 蒼の体調次第だけどリンゴ狩りを続ける? それとも直ぐに戻る?」
「このままで問題ない。私のミスでこんな結果になっただけだ。この上迷惑を掛けたくない」
「そう、分かったわ。なら、達彦へのお土産くらいは持って帰りましょう」
蒼の気持ちを汲んで答える。
「ああ」
「はい」
「あと、勝負の件は無しね、体調の悪い蒼に勝っても嬉しくないから」
「だから、私は別に問題は、っ――くっ!」
そう勢い込んだ途端、背中に刺すような刺激が走る。
「ほら、無理しない。キツイならバスで休んでいてもいいわよ、気付かれないように記憶操作しておくから」
「いい、平気だから」
蒼がリンゴ園の方に向かって歩き出す。
「蒼ちゃん、本当に大丈夫?」
すぐに美佑が寄り添う。
「まぁ、言って聞く性格でもないわね」
ラクティは呟いて二人の後を追った。

三人が遠足を終えて地元に帰ったのは、午後五時を過ぎた頃だった。
バスの中で『無垢なる物』への対処について、蒼の自宅で話し合いをする事が決まり、学校前でバスを降りた後、美佑は一旦自分の家に帰り、蒼とラクティは蒼の自宅であるマンションに向かった。
ラクティにも自宅と言える場所があるが、最近は蒼の家に半同居状態だった。
マンションでは、達彦がラクティからの電話を受けて待機していた。
「大丈夫だって聞いたが、何とも無いって事は無いんだろ?」
玄関で達彦が蒼の様子を確認する。
ダメージについて電話で聞いていたが、実際に蒼の顔を見るまで心配だった。
「平気だ」
そう答えた蒼の表情は普段と変わらない。
特に流血や外傷がある訳ではないので、外見上はかなり大丈夫そうに見えた。
「急を要する感じではないみたいだな」
「ああ、問題ない」
「はいはい、強がりは良いから。――達彦、電話で言った、お風呂、沸かしておいてくれた?」
ラクティが蒼の言葉を遮るように言う。
「ああ、用意してある」
「じゃ、蒼、お風呂入るわよ」
二人は廊下に荷物を置いてお風呂に直行した。

「はい、背中見せて」
洗い場で共に裸になり、ラクティが座らせた蒼の後ろに座る。
身体の様子を確認するのは裸になるのが早い。
「別に、もう何ともない」
「とてもそんなふうには思えないわね」
ラクティが蒼の左の肩甲骨付近を指でなぞる。
器官がしまわれている為、見た目は普通の背中だが、触ってみると氷に触れたように冷たかった。
それで当人が何ともないわけがない。
「感覚はあるの?」
内部で壊死していたら、逆に何も感じなくなる可能性もある。
「ああ、器官があるのは分かる」
「なら、痛いのでしょ? 無理しないではっきり答えて」
優しい口調で、まるで姉のように聞く。
「……多少は」
俯き加減で答える。
「そう、切断後にダメージが残るという事は毒でも仕込んでいたのかしら……どんな感じに切られたの?」
「分からない、ただ、普通の方法では無いと思う。切断された時から血も出ていないし、もげた器官の方は粉々に砕けて消えてしまった」
「そう、じゃ、左だけ器官を出してみて、断面を見るから」
「分かった」
言われた通りにする。
器官は全て出した時、根本が約五センチほど残る形で切断されていた。
その切断面は石を磨いたようにスベスベで真っ直ぐになっていて、とても傷口には見えなかった。
器官は一見石状のプレートのように見えるが、内部には血が通っていて鳥の骨のように空洞が存在する箇所もあった。
しかし、蒼の傷口にはその空洞がなく、鏡のような面になっていた。
「これは確かに普通の方法で切断したのではないでしょうね、仮に溶かしたのなら穴は埋まるでしょうけど、逆にこんな綺麗な切断面にはならないだろうし」
ラクティが頬に指先を当てて考える。
「瞬間的に切断された感じだった」
蒼の感覚では防御する暇もなかった。
「それは、器官の構成を弄って『壊した』という事かも知れないわ」
「そんな事が可能なのか?」
「私達の身体の物理的な部分の構成物質は全て間粒子で出来ているのよ。忘れた?」
竜の身体はいわば仮初めの物だ。
しかし、仮初めの器が無ければ存在も出来ない。
竜は仮初めの器に己の意思を定着させて物理的に存在していた。
「あの敵に間粒子に干渉する力があるなら、出来ない事ではないかも知れないわ」
「竜の体構成間粒子を変質出来る能力か?」
とても信じられなかった。
竜の身体を構成している間粒子は、個々の竜の意思の力によって強く結びついている。
故に個々固有の形が産まれ、その固有の形が外見の差だった。
その個性とも言える意思力より強い力でなければ、竜の身体を変質させる事は出来ない。
「考えたくは無い話ね」
「そうだな――もし、その力があるのならラプリアは竜そのものを分解出来るという事になってしまう」
「いえ、それはどうかしらね。身体の中では変形する翼が意思力による結束が一番脆い部分だし、全身にまで干渉出来るかは怪しいわ」
仮に全身に干渉出来る力を持つなら、竜より存在自体が数段強い事になってしまう。
竜をコピーした存在に、そこまでの力があるとは思いたくなかった。
「だが、何にしても次に会ったら危険だ」
今の蒼にとって、防御する方法の全くない攻撃を繰り出す相手である事には何も変わりはない。
「そうね、何か対策を考える必要があるでしょうね。それと、器官の再生を何とかしないと――構成をイメージしても全く駄目なの?」
「駄目だ。切られた時、相当力を失っているからそのせいかも知れない」
「そう、じゃ達彦から貰う? 私からでもいいけど」
言いながら蒼の首筋に腕を絡める。
「ラクティを消耗させたくない」
「別に私はいいわよ、どうする?」
抱き締めつつ優しく囁く。
「なら……頼む」
達彦から貰うのは、その手順がある意味大変だった。
ラクティの好意に甘える事にする。
「方法はどうする? 簡素に行く? それともしっとり行く?」
蒼に横顔に、後ろから自らの頬を軽く触れさせる。
「最初から後者のつもりなんだろ」
ラクティの態度はあからさま過ぎた。
「そうね……自分の下僕の面倒はちゃんとみるつもりだから」
ラクティは蒼を自らの血族に加えていた。
竜は相手に血を飲ませる事で、その相手と繋がりを持つ事が出来る。
その繋がりは、人で言う婚姻のような関係だったり、主人と下僕の関係だったり様々だが、ラクティは形式上、蒼を下僕にしていた。
「下僕のつもりはない、単に便利だから繋がっているだけだ」
「あら、そう。だったら、拒否する? ――チュ」
ラクティが蒼の頬にキスする。
しっとりと受け渡す場合、互いの肌の触れ合う面積を増やす方法が有効だった。
ラクティは最初からそれが目的で、お風呂の用意を達彦に頼んでいた。
「今、拒否する理由がない」
「なら、美佑が来る前に済ませておきましょう?」
「……」
蒼はその身体を無言でラクティに預けた。

日本庭園に鹿威しの音が響く。
池と山に見立てた苔むした岩、植えられた木々の中にある紅葉の色は真っ赤に染まっていた。
敷地はぐるりと竹の柵によって囲まれ、庭園内には何の建物も建っていない。
竹の柵の上から差し込む陽光は橙。
そんな閉ざされた庭に人影が二つあった。
「予測より早いぞ」
「誤差範囲かと」
「誤差があっては困る――後は手筈通りに進めよ」
「畏まりました」
「しかし、いよいよか、長かったのぅ」
影一つが、橙の空に向かって手を伸ばす。
その手には沢山のコードが絡みついていた。

「こんばんは」
「いらっしゃい」
家にやって来た美佑を達彦が出迎える。
「二人ならお風呂に入っているから、上がって待っているといい」
「はい、お邪魔します」
美佑をリビングに通す。
「――それで蒼ちゃんは大丈夫なのですか?」
リビングの入り口で美佑が聞く。
そわそわと落ち着かない様子だった。
「まぁ、座って」
「は、はい」
達彦が勧めたソファーに腰掛ける。
「今のところ倒れるような事はないが、正直、俺にはどの程度の事態なのか把握出来ていない。ただ、気配は凄く弱くなっている」
「そうですか」
「君は敵を見たんだろ? 『無垢なる物』とはどんな相手だったんだ?」
達彦は電話で簡単に説明を受けただけで、詳しい事は聞いていなかった。
「基本的な外見は人間と変わりません。ただ、竜と同じように翼を持っていて、それが金属で出来ているという感じです」
「金属の翼ね」
「私もこれ以上は、後は人が創り出した竜のコピーであるという事くらいしか」
「人ね……」
達彦は竜ではあったが、ずっと人として生きていた。
その人の感覚からして、『竜』というあり得ない存在を簡単にコピー出来るとは思えなかった。
しかし、人の文明は模倣の繰り返しで進歩している。
その一点だけを考えれば人類ほど模倣が上手い存在はいないかも知れない。
「上がったわよ」
と、脱衣所に続く廊下から、パジャマ姿のラクティが現れる。
その後ろに同じくパジャマ姿の蒼が居た。
二人のパジャマはお揃いのラブリーな恐竜模様だった。


「二人とも、お邪魔してます」
美佑が軽く頭を下げる。
「あ、うん、いらっしゃい」
ラクティがまるで自分の家のように迎える。
「美佑、夜なのに、ごめん」
その後ろから蒼が言う。
「ううん、蒼ちゃん、大丈夫なの?」
「ああ、ラクティから力を貰ったから、問題ない」
「ほんとに?」
「ああ」
蒼は美佑を安心させるように、その目を見て頷いた。
「うん、じゃ、無理はしないでね」
「大丈夫だ、それより話し合いを始めよう、美佑は何時まで平気だ?」
「八時くらいまで」
「分かった」
「八時ね……まっ、話は終わると思うわ」
ラクティが時計を見る。
八時までは一時間半くらいの時間が残っていた。
「はい、少しくらいは伸びても平気です」
美佑はつい一ヶ月前まで普通の人間だったため、今でも家族がいて、その面では普通に暮らしていた。
ただ、一ヶ月前に死にかけて、その時、蒼の眷属となる事で命を繋ぎ止め、それ以来、竜側の都合を無視出来なくなっていた。
今の美佑は平均的な竜と比べて、五割程度の強さになっていた。
「じゃ、話し合いを始めるわ」
ラクティが仕切る。
「はい」
「ああ」
美佑と達彦が同意する。
「まず一つ提案、お風呂で蒼と決めたのだけど、今から私と蒼の二人の知り合いである『無垢なる物』に電話をしようと思うのだけど、異論はあるかしら?」
「異論も何も、俺には情報が少なすぎて意見出来ない」
「あ、私は、構わないです」
「じゃ、電話する事で問題ないわね」
ラクティがリビングにあった置き電話の前に移動して番号を打ち込む。
「――どちら様なんだ?」
達彦が小声で蒼に聞く。
「名前はレーナ・テルチェ・ユーリ、現状の『無垢なる物』達のまとめ役だ」
「それだけ聞くと、ごっつい偉い人のようだが」
「特に、そんな心配はいらない。私達に年齢は関係ないが、優しいお姉さんという感じの存在だ」
「そうか」
「あ、掛かったわ、ちょっと静かにしていて」
ラクティが達彦達に向き直り、軽くウィンクした。
それから受話器の先で相手と会話を始める。
少しして、
「――うん、お願い。じゃ、スピーカーに通すわよ」
ラクティがそう言って、電話の外部スピーカーボタンをピッと押す。
『あ、――はじめまして、レーナと申します』
「はじめまして、俺は山内達彦」
「あ、えっと、私は立川美佑です」
「久しぶり、ティリだ」
蒼が真名の方で名乗る。
『居る全員、関係者という事でいいですね?』
「ええ」
ラクティが同意する。
『分かりました。――それで至急のお話とはなんでしょうか? 普通、竜が『無垢なる物』を頼る事になるとは考えられないのですが』
「えーと、簡単に事情を説明すると、クレイドル所属の『無垢なる物』に襲撃されたけど、その子がオーバースペック過ぎて正直手に余るという話よ」
『クレイドル所属――その子は名乗りましたか?』
電話の向こうでレーナが息を飲むのが伝わった。
「ええ、ラプリア・ランプル・エルトリアと名乗ったわ」
『ラプリア……本物だとしたら最悪ですね。残骸が発掘されたとは聞いていましたが、修復を成す技があったとは……』
声のトーンが緊張したものに変わる。
「ヤバイ相手みたいね」
『大戦中最強のドールです。ラプリアの機能停止が大戦終息の一要因と言われる程、大局の鍵となった存在です』
「つまり最終兵器のようなものね、で、止まったという事は制御不能で自爆でもしたの?」
『いえ、私の妹と相打ちです。妹はラプリアを止める為に暗殺能力を特化して製作され、その役目を果たしました』
「暗殺で相打ちって、当時のリエグでも、それしか止める方法が無かったという事?」
正攻法で倒せない相手だとすると、厄介のレベルがさらに上がってしまう。
『そうなりますね、――それで、どんな攻撃を受けたのですか? ラプリアにしか出来ない攻撃方法なら、ラプリアが再構成された可能性が高い事になりますから』
「私が見た限りでは空間遮蔽などの空間コントロール、それと場の間粒子を完全にコントロールする力ね」
『それだとラプリアでまず間違いないですね。ラプリアの力は大きく二つしかありません。一つは自分の周り半径三十メートルの空間をある程度操る能力。それ によって範囲空間内での瞬間移動、空間歪曲による自己防御、閉鎖空間構築による対象物の完全隔離などが行えます』
「まぁ、そんな感じだったわ」
自己防御については不明だが、他の二つは観測ずみだった。
『あと一つが半径百メートル内の全素粒子を支配下に置く力です。これによって『無垢なる物』はエーテルの吸収を阻害され、竜は間粒子の吸収を阻害されます』
「『無垢なる物』が直接、間粒子を扱う事が出来るの?」
それが出来るとしたら『無垢なる物』の定義を無視する存在だという事だ。
『いえ、あくまでエーテルを触媒にして、場の粒子を操っています。ですから、一定以上の竜の力なら、間粒子をコントロールし直す事も出来ます』
「一定以上ね……」
ラクティは自身が特別弱いとは思っていなかった。
無意識に親指の爪を噛む。
『ともかく、その二つの能力で攻守共に完璧な存在となっています。ただ、逆にそれ以外では全ての『無垢なる物』の中で最弱です。肉体能力も少し強い人間程度ですし、術と言えるような粒子操作法は一つとして持っていません』
「極度にバランスの悪い子ね。――で、こっちから少し聞きたいのだけど、先に言った空間歪曲による自己防御ってどれくらいのものなの?」
『ラプリアの粒子操作範囲外から荷電粒子砲レベルの高エネルギー攻撃を行っても、ラプリア本体には届かないレベルです。彼女の体表面から約一ミリ程度の位 置で完全に空間が歪んでいるので光すら通しません。見えているラプリアの姿は歪みの外側にラプリアが投影している仮の姿でしかありません。つまり、ラプリ アの姿が本当に見えているままの姿なのかすら分かりません』
「それはどうしようもないわね。それじゃ、次の質問――ラプリアの粒子コントロール力は残留するの? ティリが粒子吸収器官を切断されて再生出来ないの」
お風呂場で力を渡しても蒼の器官は再生しなかった。
再構築が何らかの力によって阻害されているとしか思えない状態だった。
『切断された器官自体はどうなりましたか?』
「粉々に砕けた」
蒼が答える。
『そうだとすると、空間断絶による切断の後、構成粒子を完全支配分解していますね。ティリさんの片器官分の構成物質が根本から消失したと思ってください。 力が残留しているのでは無く、そこにあった物が無かった事になったようなものです。その場合でも竜が再生可能なのかは分かりません』
「やっぱり基本の体構成が削られたという事ね、一回切られただけで……」
ラクティの推測通りの答えだった。
『ラプリアはそう言う存在です。私達でも閉鎖空間に捕らえられて分解攻撃を受けた場合、エーテル機関で最大防御しても十五分程度で粉々になります。逆に直 接エーテルを制御出来ない竜だと、間粒子によるエーテル逆コントロールが出来ない場合、三分持たないかも知れません』
「何か対策は無いの? 倒せないにしても防御とか」
あり得ない強さの相手というのは、信じたくない話だった。
『ラプリアは主人の命令が無い限り動く事が出来ない完全非自立型のドールですから、主人を説得するのが最大の防御です』
「主人ね……まぁ、確かにそうね、それで助かったのだし」
いい加減な感じの人間だったから見逃してくれたという、プライドの傷付く生存だった。
『今の主人は当然クレイドルの関係者でしたよね?』
「ええ、アルバートと名乗っていたわ」
『知らない人物です。ラプリアの復活も新情報でしたから、ラプリアのマスターとして新たに選出された人物でしょうね』
「そう、あと、参考までに聞くけど、詳しくはどうやって倒したの? どんな攻撃も通らない存在でしょ?」
『特殊な武器を使いました。次元の壁を切り裂き、相手に刃先がめり込んだ時、刃先が枝分かれして体内のコアを走査し、即時破壊するという武器です』
「そんな武器が作れるなら、それを大量に投擲すれば良かったんではないの?」
『武器の起動にエーテル機関一個分の力を丸々使います。つまり『無垢なる物』一体に付き一本しか扱えません。そして、その武器を使うという事は、普通の 『無垢なる物』なら機能停止するという事です。実質、意味の無い武器ですが、妹は本当に特別に作られたドールなので使いこなして倒しました』
「それって竜にも使える筈よね、リエグの技術なら」
『はい、使えると思いますが、竜でも活動エネルギーの大半をつぎ込まないと起動しないと思いますよ』
「でしょうね。でも、一つは倒せる方法がある事が分かったわ」
『まさか再び戦う気ですか? お勧めしませんが』
「こっちから仕掛ける事はないわ。ただ、向こうが放置してくれるとは限らないから」
『クレイドルが竜の捕獲に動いているという話ですか?』
「ええ」
『ラプリアが竜関係で動く事は無いように思います。今回の襲撃は狙われたものですか?』
「いえ、偶然っぽいわ、互いに出会ってしまった……みたいな感じよ」
『でしたら推測ですが、ラプリアは私達への対策かと』
「例の一年半前の事件?」
レーナ側で一年半前に一つの事件があり、その時、クレイドルの日本支部が壊滅している。
『現状のこちらの戦力は、ラプリアに対抗出来る程ですから、私達を潰す為にラプリアを再構築したのだと思います』
「アルバートは自分は『無垢なる物』担当だと言ってたから、そうかもね。けど、こちらも出会ってしまった以上、何の備えも無しという訳には行かないの。出来れば力を貸して貰えないかしら?」
今の自分達では再び出会った場合、為す術無く捕獲されてしまうだろう。
それは避けたかった。
『こちらに対応出来る子はいますが今は動けない状態なので、くだんの武器をお貸しします。妹の形見としてこちらで保管しているので』
「そんな大切な物を貸してもらえるの?」
『ええ、どの道、私達には使えませんから。それに、こちらには武器が無くても勝てるだけの戦力があります』
「本当の意味での別格の子がいるのでしょ?」
『はい』
レーナが自信の籠もった声で頷く。
最強の相手が務まる相手が味方にいるという事だった。
『とりあえず、武器の運搬に一人必要なので、明日にでもウチの子に運ばせて、そのままサポートとして、しばらくそちらに居てもらう形で良いですか?』
「ありがとう、感謝するわ」
『いえ、クレイドル関係は元々こちらの範疇の問題ですから、こちらでもクレイドルが竜を求める理由を探ってみます。リエグの知識が欲しいだけとは思えないので』
「私達は、再び出会わないように祈っているわ」
『それが最良でしょうね』
「なら、そろそろ切るわ。本当にありがとう」
『いえ、それでは、失礼いたします』
レーナが電話を切った。
リビングに居る四人が顔を合わせる。
「状況は良いとは言えないという事ね。蒼の器官も直ぐに戻すのは無理みたいだし」
「基本の体構成が減ったという事は、その分、蒼ちゃんの存在が小さくなったという事ですか?」
美佑が心配そうに聞く。
「美佑は私の元の姿を見た事ないから分からないかも知れないが、今の姿も存在が減った結果だ。今回のは器官部位のみの存在を削られたという事だろう」
蒼の元々の姿は十七歳程度の少女だった。
それが色々あって存在をすり減らして、小学生サイズまで縮んでいた。
「確か、小さくなって一年以上経っているんだよね?」
「ああ、予定では後二年と少しはこの身体のサイズのままだ」
「じゃ、器官の再生もそれくらい掛かるの?」
「多分な。自分で減らした訳ではないから推測でしかないが、おそらく身体のサイズが戻ってから、その後、という感じかも知れない」
竜の寿命的には数年先というのは大した事の無い話だが、それまでの間、蒼の活動出力が半減するという事にはなる。
「結構、掛かりますね」
美佑が人間の感覚で感想を言う。
「そう? 短い方だと思うけど? ただ、今回はすぐに治せないのは厄介だけど」
ラクティが竜の時間感覚で言う。
戦力が一時的に下がる事は事実だが、数年で戻るなら別に問題ないという姿勢だ。
「それに、私が敵わなかった相手だから、どっちにしても向こうが本気を出せば、ここに居る全員が分解される運命よ」
「とんでもない奴に出会ったものだな」
達彦が愚痴る。
「向こうは大戦中の狂った兵器だから。私は大戦のすぐに後に産まれた存在だから知らないけど、三千年前の大戦は、時空を歪ませて次元崩壊の危機すらあったらしいわよ」
「私も大戦後の産まれだから詳しくは知らないが、天が割れ地が裂けたと聞くな」
ラクティと蒼が口々に恐ろしい事を言う。
神話に出て来る神々の戦いのようだった。
「その大戦って言うのは、一体、誰と誰の戦いで何の戦だったんだ?」
何か過去に大きな戦いがあった事は話の端々から分かるが、達彦には、いまいち全容がはっきりしなかった。
「ああ、達彦は竜だけど知らないのよね。――って美佑もあまり知らない? 蒼からどれくらい知り得たの?」
ラクティが気付いたように言い、途中で美佑に向き直る。
「リエグという王国があって、そこの内乱だったという知識はあります」
美佑の中には、蒼の眷属と覚醒した時、蒼から竜についての一定の知識が流れ込んで来ていた。
「そう、なら二人に軽く説明しておくわ。今からえっと……確か三千二十五年前に、今の黒海がある地域にあったリエグという国で内戦が始まったの。それが後に『大戦』と言われる戦よ。リエグは前に話したでしょ?」
「あのオカルト設定の国の話か、で、内戦レベルの戦いなのに『大戦』なのか?」
大戦と言えば世界規模の戦争を連想してしまう。
一国の内戦で使う言葉では無い気がした。
「内戦でも、一歩間違えば世界が滅ぶ戦だったから大戦なの。リエグという国は特殊進化した人類と竜が共存していた国なのよ。それで竜の知恵と人の知恵が融 合して『無垢なる物』が生み出された。けど、一つの予言を元に国が分裂して大戦が始まって、結果、その時リエグの力を悪用しようとした側の生き残りが、今 のクレイドルな訳」
「なら、クレイドルとは逆の考えを持った側はどうなったんだ? 滅んだのか?」
滅んだとしたら、抑えの消えた後、クレイドルが今よりもっと強大になっている気がした。
「いえ、それがレーナ達であり、大半のリエグの技術を黒海に沈めて封印しているの。その封印の鍵を守っている門番の話はしたでしょ?」
「ああ」
その話は前に聞いた事があった。
封印の門番は桁違いに強く、封印を解くのが難しいという話だった。
「で、リエグの技術が何としても欲しいから、別アプローチとして、リエグに関係ある竜を捕まえているという事だったな?」
「そうよ。でも、それだけでは無いかも知れないけどね。何しろ、この最近の動きだから、よく分からないのよ」
「まぁ、流れは分かったが……」
頭の中でラクティの話をまとめる。
どこか引っ掛かる事があった。
「あ、そうだよ、お前達が会ったラプリアって言う奴がいるなら、封印の門番を倒せるんじゃないのか?」
最強の『無垢なる物』だと言う存在が負ける相手は居ない気がした。
「どうかしらね。門番をしているのは大戦後に作られた大戦後の最強のドールなの。詳しいスペックは知らないけど、この三千年間クレイドルの攻撃を完璧に防いで封印を守っているのよ。もしかしたら、すでにラプリアとも一戦しているのかもね」
「それでも封印は解けていないと?」
「ええ、封印が解けたら私達も分かる仕組みだから、今のところ封印に異常はないわ、ねっ、蒼?」
「ああ」
「門番って奴は、本当に三千年間戦い続けているのか?」
「ええ、その為の存在だから、強さ的には神と言えるレベルらしいわよ」
「べらぼうだな……」
言葉が続かなかった。
蒼達でも間近で見て充分に強いと思っていたが、その遙かに上を行く存在が居た事が信じられなかった。
「本当は、その台詞を吐くべきは貴方であってはならないのだけどね」
ラクティがボソッと呟く。
「何のことだ?」
「いえ、貴方に竜としての自覚が全くないという話よ。その点では美佑の方が順応しているわ」
「私ですか? 私はまだ全然」
突然話を振られて焦りつつ、自分の前で両手の平を振る。
「間粒子操作も覚えたし、強化された身体の動かし方も出来ているし、一ヶ月とちょっとで凄い順応よ」
「ああ、そうだぞ、美佑は凄い、粒子操作だけなら私より上手いくらいだ」
ラクティと蒼が揃って褒める。
「ただ、少しでも役に立ちたくて、それだけです……」
「充分に居てくれて助かっているわ、今日だって、美佑の活躍があったから蒼を助けられたのだし」
「でも、今度ラプリアに出会ったら、まったく役立たずだと思います。今回は偶々上手くいっただけで」
「それでも、年中役立たずの誰かよりマシよ」
あからさまに達彦の方を見て言う。
「俺だって気配を読んだりくらいは出来るぞ」
「ああ、そうね、防衛ラインを広げている点では評価出来るわ」
「まぁ、確かにいい加減何とかしたいとは、俺自身思っているがな」
達彦は竜だったが力のほとんどが覚醒していなかった。
何故眠っているのか、原因はまるで分からない。
一度、本人の意識の無い時に器官を出しているが、現状自分の意思で出す事は出来ない。
ただ、竜としての質はかなり良いものらしく、ラクティより広範囲の気配を探る事が出来て、体内に溜める事が出来るエネルギー量も蒼やラクティの四倍近かった。
その為、主に広範囲の警戒と緊急時のエネルギータンクとしては存在価値を認められていた。
「戦闘をこなすとしたら、器官が出せないと厳しいわよね。いくら溜めが多いと言っても、戦闘で激しく消耗した場合、器官を出せないと回復に時間が掛かりすぎるし」
「努力はしているがな」
器官が体内にあるという感覚はある。
しかし、現代人の足の小指が簡単に動かないように、器官に意識を伝えて動かす事が出来なかった。
「何にせよ直ぐにどうこうなる話ではないわよね。――それで、あと他に今日中に話しておく事あったかしら?」
「こっちには情報が少ないからな、特に無いと思うが」
大筋知りたい事は聞いた。
あとは明日『無垢なる物』の代表の使いが来てから話せば良いだろう。
「特別ないだろ」
達彦の言葉に蒼が同意する。
「そうね。――じゃ、今日はこれで終わり、夕食時だけど美佑はご飯食べて帰る? 今日は私が作るわよ」
ラクティは料理がとても得意だった。
その為、ラクティが泊まる時はラクティが夕食を作る事が常だった。
「あ、いえ、私は帰ります。食べていると八時回ってしまうので」
「門限ね。分かったわ、じゃ見送りが必要ね、達彦行って来て」
「ああ」
蒼とラクティはパジャマ姿なので、すでに外に出る気はないのだろう。
それに蒼の負傷の事を考えれば、達彦が見送るのが妥当だ。
素直に頷く。
「別に近いですし、見送りなんて」
美佑が達彦の頷きを遮るように言う。
「小学生が遠慮するな」
蒼の知識を委譲されてから、美佑の精神年齢は明らかに上がっていた。
「……では、マンションの下までで」
「ああ」
「それではお邪魔しました。――蒼ちゃん、何かあったら私にも連絡してね」
「分かっている」
蒼と頷きあってから美佑が席を立つ。
「じゃ、ラクティ、飯は任せる」
達彦も席を立って玄関に向かう。
「ええ」
二人を見送り、ラクティはキッチンに向かった。
リビングに蒼が一人残される形になる。
「――っ」
途端に普通にしていた蒼の顔が崩れた。
下唇を噛み、拳を握り締める。
「あまり持たないかもな……」
平気という言葉は全て嘘だった。
体内にある器官の切断部分から、身体が冷えて行くような感覚を感じていた。
ズキズキと響くような痛みもある。
時々収まる事もあるが、切られた時から不規則に痛みを発していた。
竜の肉体は、実体のある仮初めであり、意識によって全て制御可能だ。
痛みも精神力で消す事が出来る。
その分、精神を消耗するが、痛みで戦えない時などは一時的に有効だ。
しかし、今回の痛みは無理に我慢する事は出来ても消す事は一切出来なかった。
身体の一部を奪われた痛みを蒼は感じていた。
そして、冷えが全身に波及するのを押し止めるために、蒼は力を使い続けていた。
「ともかく今は――」
爪が痛い程に手を握り、気合いを入れ直す。
蒼の表情が普通の状態に戻った。
藻掻くような激痛で無い事だけが救いだった。

2章.浸透

翌日の月曜は遠足の振り替え休日だった。
その休みの朝、ラクティの携帯電話が着信を告げた。
相手はレーナからでお昼には使いが到着するという内容だった。
「――お昼には来るらしいわ、屋上で待ち合わせよ」
通話を終えてラクティが言う。
ラクティの前には蒼と達彦が居た。
丁度、朝食の最中だった。
「使いって『無垢なる物』なのか?」
達彦がコーヒーを飲みながら質問する。
「そうよ。向こうは飛行が得意だから、飛んで来るみたい」
「飛べるのか?」
「兵器として開発された後期型の『無垢なる物』は陸海空万能よ。まぁ、私達でも完全に攻撃相を出し切れば陸海空宙まで行くけど、無駄だからしないだけ。大体、常時浮いても隙が増えるだけよ」
持っていたフォークを軽く揺らしながら言う。
「そんなものか?」
「そんなものよ」
言い切ったラクティが、ふと蒼を見遣る。
蒼の前に置かれた料理のほとんどが手つかずだった。
「ん? 蒼、どうかした? あまり食べてないみたいだけど」
フォークを置いて聞く。
「いや、何でもない」
「本当? 具合が悪いんじゃないの?」
「問題ない。ただ少し食欲がないだけだ」
「本当に?」
ラクティが心配げな顔で蒼を見つめる。
「――ああ、だから、少し部屋に戻っている」
蒼が席を立つ。
「部屋に戻るって、どういう意味?」
蒼の態度にラクティは不安を募らせる。
不和を生ずるような事をしてしまったのかと思う。
「いや、すまない、何でもないから」
蒼がそのままテーブルを離れてリビングから出て行く。
「ちょっと、蒼、何? どうかしたの?」
「おい、蒼!?」
二人とも腰を浮かせて蒼を追おうとする。
「来ないで」
その途端に後ろ姿のままの蒼の拒絶の言葉。
二人は半端な姿勢のまま、蒼がリビングから出て行くのを見守るしかなかった。
「……」
「……」
顔を見合わせる。
「達彦、見て来て、私が怒らせたみたいだから」
「あ、ああ」
固まった姿勢を崩して蒼を追う。
蒼は素早く自室に向かい扉を閉めていた。
達彦は部屋の前の廊下に立ちノックする。
「蒼? どうしたんだ?」
「――いや、何でもない」
少し後に返事がある。
「何でも無いって事はないだろ?」
どう思っても不自然な行動だった。
「…………」
扉の向こうで沈黙が続く。
埒があかない。
「――開けるぞ」
ノブに手を掛けると、鍵は掛かっていなかった。
そのまま蒼の部屋に入る。
部屋の中は、この一ヶ月の間で次第にラクティの私物に占領されて来ていた。
飾り気の多い小物や明るい色のクッションの並ぶ部屋の隅に蒼がいた。
クッションに座り壁に背を預けている。
「どうした?」
なるべく穏やかに声を掛ける。
「何でもない」
視線を逸らして答える。
「いや、明らかに変だろ、具合が悪いんじゃないのか?」
「……」
「体調が悪いなら無理するな。力の最大値はまるで戻らないのだろ? 気配が目減りしているからな」
器官が半分ないという事は、力の元の吸収量も半減するし、それをエネルギーに変える量も半減する。
達彦のように器官を出していない状態でもエネルギーの変換作業は行われていて、完全に半分無くなったのとでは大きな違いがあった。
「……良くはない」
小さな声で一言。
「なら、素直にそう言えよ。とにかく今は休め」
「休んで回復が早まる話ではない」
「そうだとしても痛いとかあるんだろ? だったら無理はするな」
「いや、自爆して弱っているのだから、どうしようもない、甘える訳にはいかない」
独断専行の結果で大きな失敗をした。
その事は達彦も聞いていた。
だから、自分が許せず、周りに頼る事が出来ないのだろう。
「いや、敵がいたらすぐに狩るのが竜の基本だろ? お前はそれに従っただけだ。今回はその相手が規格外の化け物だっただけ、つまり運が悪かっただけだ」
「だとしてもラクティや美佑を伴うべきだった。先にラクティが来ていれば器官の損傷は防げたかも知れない。これで私は前に輪を掛けて弱くなってしまった。正直、役立たずだ」
子供化した事で元の四割程度の力になり、今回の事でその四割がさらに半減してしまった。
つまり、元々の蒼の二割程度の強さになってしまったという事だ。
「戻す手段が無い事はないだろ?」
「……それは、意味が分かって言っているのか?」
達彦の問いを蒼が問いで返す。
蒼の身体を元に戻す方法がある事は二人とも知っていた。
大量の力を元に基本存在力を回復させれば良い。
つまり、達彦が一度に多量の力を蒼に渡せば良いだけだった。
「もちろん、お前がいいならだが」
一度に大量に力を渡す方法は一つに限られ、それがとてもシビアな行為であり、達彦は今まで躊躇っていた。
しかし今回は状況が特別だった。
蒼を助ける事になるなら、シビアな条件をクリアする覚悟があった。
「……」
蒼は無言だった。
そして、少しだけ表情を楽にして、
「いい。これだけ消耗している状態で全快させるのは、達彦の力を吸い過ぎる」
「器官が戻る程度なら、渡しても問題ないだろ」
「それでも、相当な量だ。今の達彦の存在構成に影響が出るかも知れない。戦力を考えるなら、ラクティが消耗した時の為にとっておいた方がいい」
「それは……」
器官の出せない達彦の力の回復は時間が掛かった。
今、達彦が持っている力は、単に使っていない分が大きな瓶に大量に蓄えられている状態だった。
「私の言っている事に、理論的問題があるか?」
「いや……」
蒼の言った事に反論は出来なかった。
仮に蒼が器官を戻しても、ラクティには勝てないだろう。
ラクティの方が戦闘慣れしていて強い。
それは確かだった。
「とにかく、そんな事考える必要ない」
蒼が締めくくる。
「本当にいいのか? 器官が戻れば少なくても体調は戻るだろ」
「いい、別に問題ない」
あくまで断る。
「……そうか」
無理に勧める事は出来なかった。
行為には蒼の同意が絶対的に必要だった。
「達彦――」
と、蒼が床に視線を落として言う。
「何だ?」
「いや……やっぱり、なんでもない」
迷いを含んだ物言い。
「何だよ、気になるだろ?」
「気持ちは嬉しい……それと、少しだけ、力を分けて欲しい」
「少しで良いのか?」
「――」
コクンと頷く。
「分かった」
蒼の側に寄る。
二人の間の力の受け渡し方法の第一段階はキスする事だった。
詳しくは吸収力が高い部分を液体を触媒にして密着させる事だったが、その中でもっとも簡単な方法がキスという手段だった。
「……頼む」
蒼が顔を達彦に向けて目を閉じる。
目を閉じるように教えたのは達彦だった。
いつもは素直に目を閉じようとしないのに、今日は自ら閉じた。
「……」
多少の不自然さを感じつつ、達彦は蒼の唇に自分の唇を合わせた。

良く晴れた空の下。
「どんな子が来るのかしらね?」
「さぁ、俺に聞くな。俺には全く知識が無いんだから」
マンションの屋上に達彦とラクティの姿があった。
「私も別に全ての『無垢なる物』を知っている訳ではないわ。どんなタイプの子が来るか、という話よ」
「何だ、喰う気か?」
ラクティは気に入った物を全て手に入れようとする所があった。
「私を好色家のように言わないで」
「お前、そういう所あるだろ?」
「可愛い子なら良いと思うだけよ。まっ『無垢なる物』の容姿は全て最上級クラスだから、顔だけなら問題ある子が来るって事は無いけどね」
「なら、性格も含めて可愛い子だと良いって事だな?」
「そうね……ところで、蒼は大丈夫なの?」
「しばらく休んでいたいと言っていたが、状態が急変するようには見えなかったな」
「なら良いのだけど……」
空を見上げつつ呟く。
蒼は朝、部屋に入ったまま出て来る事が無かった。
具合が余り良くないのは間違いないが、風邪や腹痛と違って、今回の場合はどうしたら良いか分からない。
本人が部屋に居て休んでいたいというなら、それに任せるしかなかった。
「――ん?」
と、達彦の気配を捕らえる感覚が違和感を認識した。
「来た様子だぞ。確かに竜に近い気配だな」
「あらそう。どちらの方向から?」
「真上だな」
上空四百メートルに『無垢なる物』だと思われる気配があった。
そのまま急降下して来る。
「私も捕らえたわ。――って、この気配!?」
ラクティの顔が強ばる。
「増大しているぞっ! 敵か!?」
対象の気配があと二百を切ったくらいから膨れ上がって来ていた。
「多分違うけど、戦いにはなるわっ!! もうっ! サラマンダー防壁展開っ!!」
ラクティは近くに座らせてあったズングリした縫いぐるみに声を掛け、自らは背中の器官を一気に広げた。
そしてサラマンダーと呼ばれた縫いぐるみが、ピョンと飛び上がり二人の真上に浮いたと思うと、薄い光の膜に変形した。
膜は縦横四メートル程のかまくら状に拡がり二人を包み込む。
「――氷槍よ、際限なく降り注げっ!!」
防壁の外で甲高い少女の声が響く。
同時に空に無数の氷柱が瞬間形成され、弾丸のように二人に向かって落ちて来る。
ズドドドドドドドドドドッ!!!!!
氷柱が防壁に激突して砕け散って行く。
何割かは、防壁外の屋上のコンクリートにも突き刺さる。
「私に氷で勝負する気? ――流動たる大気よ、我の思う場で凍結せよっ!!」
防壁の中でラクティが叫ぶ。
氷の激突と、砕け散る破片が多すぎて視界が効かない。
ラクティは自分が捕らえている対象周辺の空気を凍結させる手段に出た。
見えない相手が、空中で実質の固体窒素に閉じ込められ落下して来る。
しかし、その途中で、
「混沌たる原始の炎よ、その熱を開放しなさいっ!」
凍結した空気が爆音と水蒸気と共に気体に戻る。
光の防壁が爆風に震え、細かく砕けた氷が四散する。
視界が一気に開けた。
「キャハッ☆ まぁまぁの強さみたいねっ」
防壁のすぐ上に金属の翼を広げた小柄な少女が浮いていた。
やや短めの金髪に大きなブルーの瞳、薄黄色のセーラーカラーの付いたブレザーとミニのプリーツスカートというスクールスタイル。
一見すると幼い感じだったが、その口元に浮かべた笑みは、どこか狂気を秘めていた。
「何? 貴方、何のつもり?」
ラクティが臨戦態勢を維持したまま言う。
「別にぃー、単に竜の強さを知りたかっただけよ、やっぱり私達の方が強いみたいねっ」
少女がだらけた口調で言うと、ラクティの眉がピクっと動いた。
「唐突にふざけた事を言う子ね? 私達が『無垢なる物』より弱い訳がないでしょ? 貴方達は私達のコピー品でしかないのよ」
「そう? 竜をより優れた形にしたのが『無垢なる物』だよ、竜は大戦の時に大半が隠れて参戦しなかった臆病者でしょ?」
「竜は貴方達と違って『兵器』ではないもの。それに私は大戦後の産まれなの、あしからず」
「ふーん。じゃ、私の方がお姉さんという事ね☆」
勝ったという笑みを浮かべる。
「はいはい」
ラクティが適当に流す、付き合いきれない相手だと思った。
その上で本題をぶつける事にした。
「――で、この時間にこのタイミングで貴方が来たという事は、貴方がレーナの使いという事?」
それ以外には考えにくい。
突然攻撃して来た事を踏まえても、レーナと無関係な『無垢なる物』だとしたら、異常な確率で『無垢なる物』と出会っている事になってしまう。
「そうよ。それくらい分かるでしょ?」
少女は当たり前だというふうに答える。
その様子にラクティは頭を抱えて、
「礼儀知らずも良いところね、レーナの使いとは思えないわ」
「いきなり攻撃して来て、その態度か……」
隣の達彦も呆れ顔だった。
とは言え対応しない訳には行かない。
「それで貴方名前は? 私はラクティよ。こっちは達彦」
背中の器官をしまいながら言う。
「私はエシス・カリア・リムシィートよ。お姉ちゃんの使いで、これを届けに来たわ」
その手の平の上に、手品のように一つの木箱を出現させる。
「そう――サラマンダー、戻って」
器官をしまったラクティが防壁を解いた。
合わせて木箱を持ったエシスが屋上に着地し、背中の機械翼が四散するように消えた。
竜の器官はあくまで『生えて→引っ込む』イメージだが、エシスの機械翼が消えるのは瞬間的だった。
「それにしても……」
ラクティが周りを見渡して漏らす。
屋上はエシスの攻撃でそこら中にボツボツと弾痕のような窪みが出来ていた。
「予め人を遠ざけておいて良かったわ。騒ぎになっているところだったもの」
「まぁな」
達彦が同意する。
屋上での出来事全てを無視するように、ラクティはマンション住人の記憶操作を完了させていた。
「貴方は常識をわきまえていないようね」
エシスをやや軽蔑の眼差しで見る。
「何の常識? 私達は常識を超越している存在でしょ? いつから、そんなに人間臭くなったの?」
エシスは逆にラクティを小馬鹿にしたような目で見つめ返した。
「……」
ラクティは深く息をして、その後、急に晴れやかな笑顔になった。
晴れやかすぎて怖い笑顔だ。
「所詮『兵器』は無骨ね。――それをこちらに渡して、お使いの貴方は早く帰って」
手を伸ばして木箱を催促する。
「うんと、帰りたいのは私もなんだけどー、お姉ちゃんにしばらくサポートしろって言われているから帰れないのー。聞いてないかなぁ?」
「……」
そんな事をレーナが言っていた記憶があった。
しかし即座に、こんなサポートなら不要だという結論がラクティの中で出る。
「別に心配しなくていいわ。私の方からレーナに断っておくから、要は武器が手に入ればいいのだから」
「それでいいの? この武器ね、かなり扱い方が特別で危険だよ」
エシスが木箱の蓋を開ける。
そこにはビロードで覆われた窪みに収まった三十センチ程の両刃の小剣が入っていた。
柄を含めて全てが金属で出来ていて、複雑な彫金を施された鍔が付いていた。


「『絶対の歪曲剣――アブソリュートディストーション』、勝手に起動しないようにセーフティーが掛かっているの」
「だったらセーフティーを解除してこちらによこして」
「それは無理ー。危険だって言ったでしょ? セーフティーを解除したままの状態にしておく事は出来ないの」
「どういう意味?」
「セーフティーを解除したら刀身が発光するのだけど、その光っている間に起動の為の力を送り込まないと、刀身が砕けてしまうの」
「二重の安全装置って事?」
「そう、それで、発光中にむやみに『無垢なる物』がブレイド部分に触れると、大量のエーテルを持って行かれて即停止という事になるの」
「なんて使いにくい剣……」
とても限られた条件下でしか使えない剣だと思った。
しかし、異常に強力である事も確かな様子だった。
「なら、ともかくセーフティーの解除の仕方を教えてくれない? 後はこちらで何とかするわ」
「あ、それも無理。この剣、お姉ちゃんから私に一旦委譲されたのだけど、セーフティーを解除出来るのは持ち主である『無垢なる物』だけ、竜には解除出来ないから」
「……イライラする剣ね」
状況的に剣とエシスを抱き合わせ販売されたようなものだった。
だが、だとすると気になる事がある。
「だったら、貴方はこの剣が使えるの? それとも、実戦で必要になったらセーフティーを解除した後、私に寄越してくれるの?」
「分かんない、レーナお姉ちゃんからは、使うなと言われているけど、セーフティーの解除要請が竜からあれば従えって」
「……レーナは何を考えているのかしら」
解除した後の事は任せる、というふうにも聞こえる話だった。
元々扱いに困る武器であり、その使用は現場に一任するという考え方なのかも知れないが、せめて、もっとマシな使いを寄越して欲しかった。
「頭痛がするわ」
「とりあえず、しばらく、よろしくね☆」
エシスが罪のない笑顔で笑う。
「達彦任せたわ」
ラクティはエシスに視線を合わせず言った。
「俺に振るのか!?」
思い切りたじろぐ。
「貴方の家でしょ。私には関係ないから」
エシスが留まる理由は理解したが、納得は出来なかった。
「おいおい。使い方とかはお前がいないと分からないだろ」
「セーフティーを解除した後に力を送れば良いのでしょ? そんなの感覚よ」
「そんな簡単に出来るの? この剣は『無垢なる物』専用なんだよ」
ラクティの乱暴な物言いにエシスが口を尖らせる。
「リエグの技術体系は、私達の理論を元にしている所が多いのよ。エーテルで起動する物体なら間粒子でも制御出来るわ」
「自信満々なセリフぅ、なら、いま使ってみる? 竜なら失敗しても死ぬって事はないだろうし」
「フン、壊す『無垢なる物』が無いわ。貴方を切り刻んでいいならそれでいいけど、まだ消滅したくないでしょ?」
対象がいない状態で起動させても、ちゃんと動いているかは判断出来ない。
「うーん、確かにそうね。仮に刀身が消滅しなくても、その後、ちゃんと動いているかは誰か切らないと分からないか」
「そうよ。ラプリアが来るまでは無用の物でしかないわ」
「ラプリアねー、クレイドルも私が居なくなって困ってるのかなー」
エシスがサラッと呟く。
「は? 今、なんて言ったの?」
「クレイドルも困ってるって」
「いえ、その前に、貴方、クレイドルに居たと言わなかった?」
「ん? お姉ちゃんから聞いてない? 私はクレイドル最強の『無垢なる物』だったのよ」
やや胸を張って言う。
「それは寝返り? あ、そうね――クレイドルに居た事が寝返りだから、元の鞘に戻ったという事かしら?」
「単にマスターを変えただけよ。私はマスターの居る側に付くだけだから」
「ふーん、そういう事ね」
レーナがエシスを寄越した訳がやっと分かった。
元々クレイドルに居た存在なら内部の事に色々と詳しい。
この先クレイドルと対立を深めるなら必要な情報源だった。
「……大丈夫なのか? 敵側に居たって」
達彦が小声でラクティに聞く。
「問題ないわ。『無垢なる物』は主人に絶対だから、今の主人はレーナ側の人間なのでしょうから確実に味方よ」
「まぁ、お前がそう言うなら信じるが」
達彦が黙る。
「私が信用出来ない?」
「いいえ、それは無いわ。物である以上マスターに絶対なのが分かっているから」
「そっ、じゃ、そろそろ部屋に案内して欲しいな、まさか屋上に住んでいる訳じゃないんでしょ?」
「貴方だけ屋上住まいでもいいわよ、下宿の身分なら良いんじゃない?」
「そういう意地悪言うと、お姉ちゃんに電話するよ」
「冗談よ――達彦、案内して」
「なんで俺が――って」
思わず断ろうとして、ここが自宅だった事を思い出す。
最近、自宅という感覚が薄れる程に他人が家を占領していた。
「ああ、分かったよ」
「じゃ、そこの下郎、案内して」
「下郎じゃない。俺が家主だ、行くぞ」
達彦はエシスの発言を大人の余裕で流して、階下に降りる階段に向かった。

「今、奪い取るのがもっとも効率的だと判断」
「それじゃ、意味無いんだとさ」
「『意味がない』と判断するだけの情報が不足」
「俺も知らんさ、ただ、そういう命令だ」
「――了解」

「私がお姉ちゃんに言われたのは――」
屋上から降りて三人がリビングに集まりエシスが話し始めた。
蒼は、まだ部屋から出て来なかった。
テーブルの上には冷えたジュースが並ぶ。
「とりあえず、アブソリュートディストーションを届ける事と貴方達竜の警護、あとクレイドルに関する情報提供の三つよ」
「なら、クレイドルが、どうして竜に興味を持つようになったか知っている?」
ラクティがグラスの氷を揺らしながら聞く。
レーナが詳しく無かった事から、大した事は知らないのだろうと思ったが、一応だった。
「竜の話は私が居た頃はほとんど聞かなかったわ、そもそも、遭遇率が低すぎるから敵指定はされていたけど、会ったら、その時、各自判断って感じね」
「まぁ、私もクレイドルと戦う事なんて、この最近まで無かったわよ」
クレイドルが竜に関心をもって、その為の専用機関まで作ったのは、本当に最近の事だった。
組織の内部で何か大きな転換があった事は間違い無い。
「なら次に、ラプリアの発掘について何か知っている?」
強力無比な『無垢なる物』の発掘と再生が、竜の捕縛を開始した時期と被っている気がした。
レーナは違うと言っていたが、一概に無関係とは思えない節があった。
「ラプリアは、私が居た時にコアは回収されていたわ。ただ、砕けていて使い物にはならなかったみたい。それをどうやって再生したかは知らない」
「貴方がクレイドルを抜けたのは、例の一年半前の事件の時?」
「うん」
「なら、その再生を貴方が居なくなってから今までの間にやったという事になる訳ね」
エシスが最強のドールだったというなら、その彼女の抜けた穴を埋める為に急いで修復したと考えるのが妥当だろう。
しかし、急いで回復出来る技術があるのなら、エシスが居た時に復活させて戦力強化も出来た筈だ。
やはり何か引っ掛かる。
「破壊されたコアの再生は、私の知識だと元から作る並に難しいと聞いているわ。だとしたら、クレイドルは『無垢なる物』を作れる技術があるの?」
そこまでリエグの技術を手に入れているとしたら、黒海の封印を解くまでもない。
その技術だけで全ての物が手に入る事だろう。
「ううん、それは無いと思う。コードの書き換えくらいは出来たけど再構築は無理だったわ、だから、ラプリアの復活は謎なの。――で、偽物かも知れないから、それを確かめる意味でも私が来たのよ」
「一年半の間に、その技術を持ったという可能性は?」
「それだけの力を持ったのなら、一年半の間にもっと勢力を拡大している」
「だとすると相当に不可解よね、出来る筈のないコアの再生、竜への対応の急な方針転換……」
二つに繋がりがある気はするが、繋げる為の情報が全く不足していた。
ただ、繋がっているとした場合には、竜側にラプリアが再出現する可能性が非常に高くなる。
「向こうの出方である程度は予測出来るかもね。――話は分かったわ」
「もういいの?」
「ええ、今のところ充分よ。本当はこのまま帰って欲しいのだけど」
用なしという視線でエシスを見る。
「その言い方は何かな? 私が帰ったらきっと全滅しちゃうよ」
エシスもラクティを見下すように見返す。
「貴方が居ても大して変わらないのでは?」
「私は剣を使わなくても対応出来るようにお姉ちゃんに派遣されたの。貴方達の護衛だって言ったでしょ?」
「最強のドールに勝てる自信があるの? 凄いわね」
ラクティが思い切りエシスを小馬鹿にした笑みを浮かべる。
「ふふんっ、貴方のように弱くはないから」
エシスはあくまで自信満々だった。
どこまで行っても平行線の状態。
共にジュースの入ったコップを握る手に力が込められていた。
「――」
達彦は自分が割って入るしかないと覚悟を決める。
「まぁまぁ、もう少し穏やかに。二人ともラプリアとの戦闘になったら協力して戦えばいい」
「達彦はこの子の肩を持つの?」
ラクティがキッと達彦を睨む。
エシスと協力する気が最初から無いラクティには、達彦の提案はエシスに味方しているように聞こえるのだろう。
「そう言う話じゃなくて、とにかく、お前は落ち着け」
「フン、もういいわよ」
ラクティが席を立つ。
「どこに行くの? お客様を放置して」
微妙に勝ったという顔でエシスが言う。
「自ら『様』を付けるお客なんて聞いた事ないわ、それと家に帰るだけよ」
「え? ここに住んでいるんじゃないの?」
「いいえ、ここには遊びに来ているだけよ。――サラマンダー帰るわよ」
ラクティの呼び掛けに、リビングの奥から縫いぐるみが歩き出る。
「達彦、蒼の事、お願いね」
「あ、ああ」
帰るというラクティを無理に止める事は出来なかった。
必要な話は終わっていたし、ラクティの都合もあるだろう。
「じゃ、また、そのうちに」
ラクティが玄関に向かって行ってしまう。
「――ね? あの子どこに住んでいるの?」
玄関の閉まる音が聞こえてから、エシスが達彦に聞く。
「街にあるデパートがあいつの家だ」
ラクティは大型デパート丸々一つを自分の家にしていた。
中に生活に必要な物は全て揃っているからだ。
当然、そこに居る人間には、自分が住んでいる事を気付かれないように記憶操作してあった。
「ふーん、割と楽しい事しているのね。――で、蒼って?」
「ウチの子だ。すでに気配を感じてるんじゃないのか?」
いくら弱まっているとはいえ、人では無い気配が同じ家の中にある事に気付かない相手では無いと思った。
「まぁ、感じてはいるけど、竜の平均を大きく割り込んでない? さっきの子も大きい方では無かったけど」
「竜と会うのは随分久し振りなんだろ? 平均とか分かるのか?」
「大戦時に沢山見たから、私達は一回メモリーしたら忘れないし」
「そうか」
便利なものだと思う。
「まぁ、でも、貴方も不思議よね。気配だけなら小さいけど、それは小さく抑えている気配で、内面に相当な力を溜めている感じなんだけど」
「そんな事も分かるのか?」
「うん、近付けばね。私はかなり性能が良いから」
エシスが胸を張って言う。
今までの言動からも自己の強さに相当な自信がある事は間違いない。
「一つ聞いていいか?」
「なに?」
「『無垢なる物』の中で君より性能が良い子は、あまり居ないのか?」
平均的な『無垢なる物』の強さというものが知りたかった。
達彦の見立てでは、エシスはラクティと余裕で渡り合う。
むしろ、エシスの方が強い可能性がある気がしていた。
それではラクティが言う『竜が無垢なる物より強い』という話が崩れる事になってしまう。
「えーと、お姉ちゃんは多分、戦闘力的には私より少し弱いけど、私が好きだから特別として、知っている範囲では完全に論外が一人居て、後はラプリアと封印の番人かな」
「じゃ、上から四番目か?」
「多分ね、でも、ロスト固体が何体かあって、そのスペックは知らないから、その中に強い子がいたら分かんないかな。多分、起動すらしてないとは思うけど」
「ロストって?」
「大戦の時にね、大量生産した中に、強いけど起動条件厳しい子が何体か居て、その子達は捨てたのよ、それがロスト分」
「捨てたって……大丈夫なのか?」
人型の物体をポイポイ捨てるのはそもそも気分が悪いし、その強さを考えると簡単に捨ててよいものとは思えない。
「多分、大丈夫よ、実際一体も発見されたって話を聞かないから。見付からないように捨てたみたい」
「それで平気なのか……」
「問題ないという『結論』が当時はあったから。まぁ、それはそれとして、蒼って子の話に戻していい?」
「あ、ああ。――今、少し具合が悪くて自分の部屋で寝ている」
「ふーん、ラプリアにやられたという子ね」
「そうだ」
「だったら無理に挨拶する必要もない?」
「そうだな……出て来ないところをみると、あまり状態は良くない様子だし、また今度にしてくれ」
「分かったわ。――で、私の部屋だけど、ここにあるかしら?」
「現状、このリビングくらいしか空いてない」
ラクティや美佑は蒼の部屋に泊まるが、いまエシスを通す事は出来なかった。
あとは達彦の部屋とキッチンとリビングしかない。
「そんな事だと思った、まぁ、それならどこか適当に退去させるから」
「住人の記憶を操作するって事か?」
竜のコピーなら竜と同じく『無垢なる物』にも記憶操作が可能かも知れなかった。
「そうよ、貴方達の近くに居ないと警護の意味がないし」
やはり記憶を弄る事が可能なようだった。
「いや、うーん、それは……」
達彦がアゴに手を当てる。
「何よ? 何かあるの?」
「まぁ、仕方ないとは思うが……」
出来れば近隣住人にあまり迷惑は掛けたくないと思ってしまう。
「まさか人間に迷惑が掛かるのが嫌とか?」
「『まさか』という程に意外な事ではないと思うが」
「それ、人を喰らう者が言う台詞?」
「お前達はどうなんだ?」
「『無垢なる物』は原則人間に危害を加えられないのよ」
「追い出すのは危害じゃないのか?」
「危害と思わなければいいわ、私は制御コード弄っているから、ある程度は融通が利くの。それでも殺すのは結構精神削るし」
「そんな融通は利かせなくていい」
「……分かったわ。そこまで言うなら空き部屋を探すわよ、一室くらい空いているところあるでしょ」
「多分な」
達彦は八階建てのマンションの五階に住んでいた。
一階層基本八室で構成されている為、探せば一つくらい空いている気がした。
「それなら、今から探して来るから待ってて」
エシスが席から立って、あっと言う間に玄関から出て行った。
「忙しない奴だな」
達彦はテーブルに残った二つのグラスを片付けて、蒼の自室に向かった。
お客が来たのに、ずっと出て来ないのは流石に気になった。
「蒼、平気か? 開けるぞ」
扉の前でノックの後に聞く。
「うん、問題ない」
返事を受けて達彦が扉を開ける。
「今、レーナの使いの『無垢なる物』が来ていたんだが」
「うん、話は大体聞こえていたから特に説明はいい」
蒼はベッドの縁に腰掛けていた。
朝よりは具合が良い様子に見えた。
「そうか。その内、向こうが挨拶したいらしいが、どうする?」
「分かった、でも、今は無理だ」
「了解、そう言っておく」
「うん、ありがとう」
「じゃ、何かあったら呼んでくれ」
達彦は蒼の部屋から出た。
心配する程には具合が悪くないように見えた。
少し安心した達彦は、リビングでエシスを待つことにした。

その日の夜。
達彦は久し振りに一人の食事をしていた。
蒼は食べたくないと一人部屋に籠もったままで、客として来たエシスは二階に仮の居を構えた後、そっちの改装に忙しく動いていた。
「……」
一人の夕食は下手したら何ヶ月振りかも知れない。
微妙な寂しさを感じてしまう。
「慣れって言うのは恐ろしいな」
元々、一人で生活していた達彦からすれば一人の食事くらい普通だったが、最近の騒がしさの方が、いつの間にか普通になっていた。
ちなみに食べているのはカップ麺だ。
「ん?」
と、麺を摘む箸が止まる。
「ラクティか?」
屋上辺りに一つの気配を感じた。
ただ、とても気配を絞っている様子で、気配に敏感な達彦でもない限り気付かないような小さな気配だった。
「……様子を見て来るか」
何かあってからでは遅い。
達彦は意識を集中させつつ屋上の様子を見に行く事にした。

「達彦……?」
蒼が部屋から出た時、丁度、玄関の方に向かう達彦の背中が見えた。
そのまま蒼の事に気付かず外に出て行ってしまう。
蒼は一緒にご飯を食べようと思っていた。
「……」
リビングの方を見遣ると、テーブルの上には食べかけのカップ麺が置いてあった。
買い物や散歩などにしてはおかしい、それに一声も無しに出て行く事も変だった。
「……」
蒼はほぼ迷い無く達彦の尾行をする事にした。
室内着のブラウスとミニスカートの上に軽く上着を羽織る。
何かあってからでは遅い。
器官の付け根の痛みは、ずっと休んでいた事もあって多少は治まっていた。

「――」
屋上への非常階段を息を殺して上がる。
小さな気配は確かに屋上にあった。
階段を昇りきって、コンクリートの壁の影から屋上の様子を伺う。
「――って、ラクティか」
そこに居たのは昼間出て行ったラクティだった。
その足下を縫いぐるみのサラマンダーがチョコチョコしていた。
「おい、何やっているんだ?」
壁の影から出て声を掛ける。
「あら――気付いたのね」
ラクティが振り返って、どこか決まりが悪いという顔をする。
「『気付いた』って、秘密な事でもしていたのか?」
「まぁ、大した事じゃないわ。あの子が壊した屋上を直していただけ、ちょっと気になったから」
氷柱弾によって抉れた穴がすでに大半埋まっていた。
サラマンダーが穴の上で不格好に回ると穴が塞がる。
「別に隠れてする事でもないだろ?」
ラクティの元に歩み寄る。
「下手な善人にはなりたくないのよ」
やや戸惑った顔で言う。
「そうかい」
気持ちは分かった。
あからさまな善行は偽善者っぽくなってしまう。
「それにしてもよく気付いたわね? 相当力を絞っていたのだけど」
「一応、今は警戒態勢だからな」
敵が攻めて来る可能性がある今、達彦の警戒レベルは高かった。
「達彦がそれだけ頑張ってくれているなら、不意打ちはまず無理ね」
「いや、広げているから精度は荒くなっている。お前のは、お前の癖があったから何となく気付いただけだ」
「そう。それはつまり、私を気に掛けてくれているという事かしら?」
ラクティが言葉の途中で柔らかく微笑む。
「そりゃ仲間だからな」
「仲間ね――私は仲間になった覚えは無いわよ。利害が一致しているから一緒にいるだけ」
「それを世の中では仲間って言うんだよ」
ラクティは随分と素直ではない性格だった。
「そう?」
「全く利害が一致しない連中が仲良くするか?」
「それは仲間という言葉の一例ね。でも、友情とか愛情とかの言葉で片づけるよりはマシかしら」
「なら、お前と蒼との間には友情も愛情も無いと?」
軽く真意を探るように言う。
ラクティは不意に瞳を閉じて、
「愚問ね」
達彦をあしらうように言う。
「何だよ」
「いえ。ところで達彦は蒼の事を好きなんでしょ?」
「俺の質問はスルーで、同じ事を俺に返すのか?」
達彦が苦笑いする。
ラクティが素直に答える筈が無いと思っていたとおりの展開だった。
「そうね、だったら別の事を聞いていいかしら?」
閉じた瞳をゆっくりと開き、一瞬どこか遠くを見て言う。
「別にいいぞ」
「達彦は私には本気になってくれないの?」
軽く受けた達彦に対して、ラクティの顔は真剣だった。
「い、いきなり何だ」
突然、空気が変わった事に驚きつつ、少し前にラクティにキスされた事を思い出す。
「キスしたでしょ?」
その事を言う。
「本気だったのか?」
あの時ラクティが何を思ってキスをしたのか、達彦は真剣に考えようとしなかった。
軽い冗談のつもりだったという事にしておかないと、途端に気まずくなると思ったからだ。
「達彦は何の気持ちも無しにキスする女の子がいると思う?」
「そ、それは……」
「曖昧な答えは嫌よ、どうやら私は貴方の事が好きみたいだから」
「『どうやら』って、お前の方が曖昧だろ?」
「だってそれは、私にも気持ちが定められないから、だから、達彦の気持ちを先に確認したいの」
ラクティが視線を逸らす事なく言う。
「……」
答えに詰まる。
随分とずるい話のような気もした。
しかし、ラクティらしいとも言える。
そんなラクティの事を嫌いではない。
しかし、だからといって正反対の感情に傾くかは別だ。
その上で、嫌いでも好きでもない、という事もない。
「迷っているなら、背中を押してもいいかしら?」
ラクティが軽く頬に小指を当てて言う。
「え?」
聞き返したのと同時に、ラクティが達彦に抱き付いた。
キュっとラクティのしなやかな手が達彦の腰に回る。
「ま、待てよ」
上擦った声が出てしまう。
狼狽する自分が居た。
「これなら、私の気持ちはハッキリしたでしょ?」
ラクティが達彦の胸に顔を埋めて、ややくぐもった声で言う。
その顔がどんな顔をしているのか達彦には見えなかったが、何となく想像は出来た。
「そ、それは……」
達彦の声とその両手が宙をさまよう。
抱き締め返してしまえば、それで答えを告げた事と同じになってしまう。
ラクティの外見はお子様だが、蒼と違って心は完全に大人の女性だった。
達彦の答えがどうであっても、その事への対応をすでに考えているだろう。
「俺は――」
言い掛けた時、
ガタ。
達彦の背後、屋上への階段口で物音がした。
「蒼!?」
振り向かなくていいラクティが、先に顔を上げて物音の正体に気付く。
「!?」
すぐに達彦も振り向いて背後を確認した。
そこには震える小さな少女が立っていた。
少女は顔を強ばらせて、大きく開いた瞳から沢山の滴を溢れさせていた。
何故、気配に気付かなかったのだろうか? 探ると蒼の気配は、まるで一般人のように小さくなっていた。
広範囲に感覚を広げている分、『一般人』のような小さな気配は無視していた。
「くそっ、――蒼っ!」
己の失態に悪態をつき、身体を反転させて蒼の方に向かおうとする。
だが、身体に回った腕が振り解けなかった。
「ラクティっ!?」
「行かないでっ、行って貴方は言う言葉があるの?」
半ば悲鳴のような声。
「く――」
ラクティの腕の力は本気だった。
しかし、もし達彦が全力で引き剥がそうとしたら、ラクティは力を緩めるだろう。
だが、そうしたところで、次に何をするべきか達彦には分からなかった。
ラクティの言うように蒼に言う言葉が見付からない。
単に蒼の元に行っても蒼は逃げてしまうだろう。
さらに、今ラクティの腕を振り解く事は、ラクティの想いを振り解く事と同じだった。
――――。
数秒の迷い。
その間で最初に身体を動かしたのは蒼だった。
「っ!」
涙を堪えるように顔を歪ませて、昇って来た階段を駆け降りて行く。
「――」
達彦の身体は動かなかった。
色々な想いがない交ぜだった。
それ故、行動を選択出来ず何も出来なかった。
だが、結果としてラクティの側に居る事を選択した事になってしまう。
屋上に少しの沈黙が降りた後、
「――ありがとう、達彦」
ラクティが淡い声で呟いた。
達彦の身体に回していた腕の力が弛む。
「いや、感謝されるような事はしていない、俺は結局――」
ラクティの感謝を受ける資格は無かった。
自分は選んだ訳ではない。
「ううん、その先は言わないで、私は嬉しいから」
ラクティが胸元から顔を上げて達彦を見つめた。
その目は蒼とは違う意味の涙で満ちていた。
「ラクティ……」
心が混乱していた。
愛おしい気持ちと、やるせない気持ち。
後悔する事すら出来ないような空白と、その空白に流れ込んでくる少女の体温。
二つの混じらない感情。
「…………」
「達彦、好き、お願い……ずっと側に居て」
ラクティが真っ直ぐに達彦を見て紡ぐ。
達彦の中で放っては置けないという気持ちが溢れた。
そして、大きな感情の揺れの後、達彦の宙に浮いていた腕がラクティの背中に回った。
その事で、気持ちの波が全て収まる事は無かったが、それ以上、酷くなる事も無かった。
「達彦」
ラクティは安心した顔で再び達彦の胸に顔を埋めた。

自分の足音が酷く他人の足音に聞こえた。
涙で前が良く見えない。
ただ闇雲に階段を駆け下りてマンションの非常口から外に出る。
「っく」
急に失った器官の付け根がズキズキと強く痛んだ。
アスファルトの路上にしゃがみ込み、ミニスカートから伸びた自分の膝に顔を埋める。
「うっ、っ、ううっ」
痛い。
痛い。
痛い。
涙があり得ないくらい溢れて、自分の太股の上に落ちる。
付け根の痛みで泣いているのではない。
もっと別のところが痛くて堪らず涙が止まらなかった。
「わ、私は……っ……うっ……」
何が痛くて、どうして悲しいのだろう。
自分は何に泣いているのだろう。
涙が溢れた時の事を思い出す。
「達彦……」
達彦とラクティが抱き合っていた。
その事がとても悲しかった。
達彦が自分以外に優しくしている事――。
そんな事は起きないと思っていた。
それは『達彦は裏切らない』という自分の勝手な思い込みだった。
その事実を思い知らされた。
「いや……」
裏切りという言葉は間違っていた。
信じていたのは、ただの甘えだった。
「私は、気持ちを、達彦に……」
蒼は達彦に何も言った事が無かった。
何も知らない達彦に対して、裏切りという言葉はあり得ない。
達彦の優しさに、ずっと甘えていただけだ。
それに対してラクティは告げていた。
「だから、負けたのか……」
告げられなかった自分の心の弱さだった。
確認する事で何かが変わってしまう気がしていた。
だから、何も言わず達彦の好意を当然のように受け取っていた。
単にずるいだけの自分だった。
その狡さに自分自身呆れて、自分が許せないから『痛い』のだ。
「……っ」
弱くて何の力も無い自分。
何もかも失ったような気持ちになる。
その中で痛みだけが残り、弱った自分に追い打ちを掛ける。
ボロボロだった。
「おやおや、こんなところで」
不意に頭上から男の声がした。
道路なのだから、誰か来ても不自然はない。
蒼は顔を上げた。
構うな、と言おうとした。
「え――」
男は昨日出会ったアルバートだった。
咄嗟に身体を倒して路上を転がり間合いを取って、立ち上がる。
「そう警戒しなくてもいいさ、別に一戦交える為に来た訳ではないからな」
「ふざけるなっ」
叫んで右腕にプレート剣を生やす。
「マスター」
唐突に空間からラプリアが出現して、蒼とアルバートの間に入る。
「問題ない、下がれラプリア、それよりお嬢ちゃんが騒いでも周りに気付かれないようにしろ」
「はい――了承しました」
ラプリアが退き、アルバートの横に控える。
「……何のつもり?」
アルバート側が交戦の意思が無いのは確かな様子だった。
剣を構えつつ話を聞く体勢を作る。
「まぁ、少し話をしに来ただけだ。お嬢ちゃんにとって得になる話をね」
アルバートが飄々と語る。
「とりあえず本題から言う。俺達の側に付かないか?」
「何だと?」
思わず聞き返す提案だった。
「理由は今から説明する――が、その前にその剣しまってくれないか? こっちはラプリアを静止させているんだしな」
「…………」
とにかく相手の真意を確かめる必要があった。
蒼は渋々剣をしまう。
「OKOK、じゃ、順を追って説明する。まず、こっちはお嬢ちゃんの力がどうしても欲しい」
「私の力?」
自分には何もないと、さっき思ったばかりだった。
「そう。お嬢ちゃんは自分でも知らない力を持っているんだよ」
「私が……?」
理解出来ない話だった。
「それと、次にこっちに付く利点を説明しよう」
「…………」
「お嬢ちゃんの器官だけど、それ、このままでは永久に生えてこない、それを俺達なら治してあげられる」
「そんな話、信用すると思うのか?」
「まぁ、無理だろうねぇ」
アルバートはさも当然のように言う。
「だったら、何故そんな話をするんだ?」
「信じて欲しいからさ」
「ふざけるな」
信じてもらえない事を当然だとしておきながら、信じて欲しいという。
矛盾でしかない。
「別に全然ふざけてなんていないさ。つまり、一度で説得出来るとは思っていないという話だ」
「何度来ても無駄だ、お前達の言う事を信じる道理がない」
「さて、それは追々分かる事さ」
アルバートが言葉に含みを持たせた。
「マスター、時間が」
と、横に控えていたラプリアが口を挟む。
「もう時間かい?」
「エシスが気付くと予想される時刻まで、後百十二秒」
「なら、今日は帰るか――お嬢ちゃん、また来るよ」
「二度と来なくていい」
「それじゃあな」
アルバートとラプリアが踵を返す。
と、
「ああ、そうそう、忘れるところだった」
急に立ち止まって振り返る。
「これを渡しておく」
指先で小さな何かを弾いて蒼に寄越す。
キャッチすると一枚の金貨だった。
「何だこれは?」
「リエグの金貨だ、それに詩編を組み込んである、俺達との連絡に使えると思ってくれ」
「そんなもの必要ない」
「だったら捨ててくれ。――今度こそ、じゃあな」
アルバートがヒラヒラと手を振って数歩進み空間の中に消えた。
後には誰も居ない夜の道路が広がる。
ラプリアの空間跳躍だろう。
「…………」
渡された金貨を見つめる。
そこには頭から角の生えた女性が彫り込まれていた。
リエグの女神のレリーフだ。
蒼はしばらく金貨に視線を落として、それをスカートのポケットにしまった。
「……」
そして、現状を思い出す。
達彦とラクティが抱き合うところを見て逃げて来たという事実は、何も変わっていなかった。
今すぐ戻るのは、どんなに耐えても無理だった。
「美佑……」
携帯を取り出して美佑に掛ける。
今、頼れる相手は美佑しかいない気がした。

3章.変調

「結局、帰って来なかったわね」
「ああ」
火曜日の早朝、リビングのテーブルで達彦とラクティは向き合っていた。
夜、飛び出して行った蒼は一晩連絡も無いまま帰って来なかった。
「蒼が行きそうなところと言ったら、一カ所しか思い付かないけど、こちらから連絡するのも……」
「昨日の説明をしないって事は出来ないからな」
「そうよね」
共にコーヒーカップを揺らす。
「達彦は蒼との関係をどうするの? 一つの価値観を言うなら竜は一夫多妻的な状態でも有りよ、そもそも結婚というような考え方はないから」
「まぁ、竜の価値観ではそうだろうな」
竜は血の従属で関係を作る。
オス型が複数のメス型に血を飲ませた場合、人間の状況に例えるならハーレムの完成だ。
しかし、現状、達彦がラクティを従えている訳ではない。
血による支配レベルはラクティが蒼を従えて、蒼が達彦を従えている状態だ。
達彦とラクティとの間には血による繋がりはない。
「私は人間の倫理に縛られないけど、貴方は人として生きて来たのでしょ?」
「ああ」
「だったら、どうするの?」
どちらでも良いという言い方。
「ラクティには、その……価値観以前に独占欲とかないのか?」
真意を探るように言う。
「あるわよ、当然」
「なら、俺がフラフラしているのは嫌だろ」
「そうね、でも、正直、私も戸惑っているのよ。貴方の事を自分のものにしたいと思っているけど、蒼の事もそう思うから」
「…………」
答えに困る。
ラクティの戸惑いは自分の迷いとある意味同じだった。
「いっそ、私がハーレムを作るというのも有りかもね」
ラクティがまるで他人事のように呟く。
冗談だとすぐに分かるが、力のヒエラルキー的には、それも有りだった。
「そうだとしたら、お前は女王様だな」
「美佑も従えたい気分になりそうね」
「まっ、それはそれとしてだ。一つのパターンとして、俺がお前を選んで、お前が俺を選んだ場合、蒼は孤独になるよな」
達彦は考えた事を話す。
「互いに一人だけと付き合うなら、そうなるわね」
「それは俺が言えた話ではないが、酷な事だと思う」
「当事者が言ったら駄目な台詞ね」
「ああ、たが俺としては、そうならないパターンを望んでいる」
「そうね……でもそれは蒼の気持ち次第よ。貴方が誰も傷付かないと思って考えた事でも、蒼にとってお節介かも知れないし」
「そうだな……」
達彦の選択に関わらず、蒼がそれを良しとしない事は充分にあり得た。
また、ラクティが達彦と蒼の両方を選ぶ場合でも蒼の立場は同じだ。
蒼の気持ちを最優先しようとすれば、結果として達彦とラクティの関係は上手く行かなくなる。
全員が何も痛くないという選択はあり得ないに近い話だった。
「あと、仮に貴方が私と蒼を自分のものにしたいというなら、もっと強くなる必要があるわよ」
「強くないと権利が無いって事か?」
「野生の掟でしょ? それに、貴方の力は本来もっともっと強いのだから」
「そう言われても、もう一年はトレーニングしているんだぞ」
力を使う為に、何もしなかった訳ではない。
だが、最初の一歩である器官を出す事が達彦には出来なかった。
実質、ここ一年で進歩した事は気配を詳しく探る事くらいだった。
「だとすると、普通の方法ではどうにもならないのかも知れないわね。中から抉り出すとか」
うっすら微笑んで言う。
「マジか? グロはやめてくれ」
「別に流血する話ではないわ、構成に手を入れて引き上げるという話よ。竜の身体の構成は通常『あくまで人間』を意識しているだけなのだから」
「俺にその実感がない」
「でしょうね。人として生きて来たから人以外の器の形を魂が知らないのよ」
「なら、お前には別の身体の実感があるのか?」
「あるわよ、私は産まれが特別だから、――って、まぁ、それはいいわ。少し手順を踏んで貴方の構成を見たい気持ちね」
「手順って何をするんだ?」
蒼と出会った時、同じような事を言われたのを思い出す。
今回も同じような展開だとしたら、今は遠慮したかった。
「邪魔の入らないところで詩編を撃ち込む形かしら、でも、これを私がやって良いのかは不明ね、下手すると強力に邪魔されるかも知れないし」
「邪魔が入らないところでやるんじゃないのか?」
「邪魔させない為の防壁を突破してまで邪魔する人がいるって事よ。緊急性が出るまではやらない方が無難かしらね」
ラクティが一人結論を出す。
「その言い方だと、すでに俺の事を色々と知っているみたいだが?」
「貴方の特殊性が気になって少し調べただけよ。今のところ気にしなくていいわ」
「力が使えない事がそんなに特殊か?」
「ええ。――でも、ひとまずこの話はおしまいね。話を蒼の事に戻しましょう? 帰って来たら、まずどう対応するの?」
逸れた話をラクティが修正する。
目下の問題は蒼の事だった。
「昨日の事を話すしかないだろ」
「それを誰が話すの?」
「それは、俺が話すさ」
「話せるの? 昨日も聞いたけど、達彦は蒼の事が好きなのでしょ?」
「それは……」
蒼の事をどう考えているか、いま、その答えを求められた場合、言える事は一つだけだった。
「嫌いじゃないさ、あいつの力になりたいと思う。ただ、恋愛対象かと言われたら違うかも知れない」
「それはどうして?」
「蒼が子供過ぎるからだ」
「外見なら私も大して変わらないわよ、私も恋愛対象にはならない?」
「いや、蒼は身体が小さくなったと同時に精神まで低年齢化した気がする」
今の蒼は恋愛というより父性を刺激される感じだった。
守りたいとは思うが、異性として強く意識する事は出来なかった。
「それはどうなのかしらね」
ラクティが異論を挟む。
「お前は昔の蒼を知らないのだろ?」
「そうね、達彦がそう感じるなら、達彦の中の主観である以上どうにも出来ない事ね」
「とにかく話は俺がする」
「分かったわ。なら、お願いね」
「ああ」
「それじゃ、あと一ついい?」
「何だ?
「蒼への力の供給よ。今のところ蒼が戦う必要はないから通常の食事で足りるとは思うけど、もし大量に消耗した場合、貴方がキスするの?」
「人工呼吸のようなものだと思えば俺は……、後はお前の気持ちの問題だ」
「そう……そうね、なら、私としては……」
思案顔でコーヒーカップの縁を指先でなぞり、
「そんな事で嫉妬をする気はないわ。ただ、私がキスして欲しいと言ったら、してくれる?」
とても普通な口調で言う。
「時と場所による」
表面の普通さとは裏腹に相当に気にしているのが分かった。
出来る限り無難な答えを返す。
「そう――まぁ、その答えなら確かに後は私の問題ね、私がちゃんと貴方を振り向かせれば済む事。貴方の気持ちは、まだ私に本気とは言えないみたいだから」
ラクティが悪戯っぽく微笑む。
それは達彦の心理を見抜いているという現れだった。

立川美佑の家は、達彦のマンションから徒歩二十分のところにある住宅街の一軒家だった。
別段大きくも小さくもない二階建てで、特徴と言えば、美佑が小学生になった時に建てた物なので、他の家と比べて新しいという事くらいだ。
その家の二階の一室が美佑の部屋だった。

「そろそろ連絡した方が良いと思うよ」
「…………」
部屋には美佑と蒼が居た。
蒼はベッドの上で毛布を頭から被っている。
美佑はパジャマ姿でベッドの横にある机の椅子に座って、蒼の方を見ていた。
「それに今日学校だから、制服いるでしょ?」
「……行きたくない」
「私は構わないけど……ここに居ても午前中には誰か迎えに来ると思うよ」
「…………」
毛布の中で考える。
仮に隠れたとしても、達彦が本気で気配を探れば簡単に見付かってしまうだろう。
それに、行く宛ての余り多くない身の上である以上、すでに美佑宅に居る可能性が高いと思われている気がした。
どの場合でも、美佑の言うとおり午前中には達彦達と顔を合わせる事になる。
「電話しにくいなら、まず、私が掛けるから――それでいい?」
「――分かった」
毛布を被ったまま頷く。
美佑には大体の事は伝えていた。
頼ってしまう形になるが、達彦に直接電話する勇気が無かった。
「じゃ、掛けるね」
美佑が携帯から達彦の家に掛ける。
数度のコールの後、達彦が出た。
軽い挨拶の後、本題に入る。
『蒼がそこにいる事は分かった。迎えに行った方がいいか、本人に聞いてみてくれ』
「その前に、蒼ちゃんから聞いた事は事実なのですか? 昨夜の事です」
確認しておきたい事柄だった。
美佑は達彦の気持ちは蒼に向かっていると思っていたからだ。
『ラクティとの事なら事実だ』
「そうですか……蒼ちゃんの事は何とも思っていなかったという事ですか?」
『そういう話を君にする必要があるのかい?』
「聞いておかないと、私が蒼ちゃんに何て言っていいか、分かりません」
『――分かった。蒼の事は家族だと思っている、家族に恋する事はない』
少しの間の後、達彦は淀みなくそう発した。
「分かりました、確かに達彦さんからみれば子供に見えてしまうのは仕方ないと思います」
『……じゃ、話を戻していいか?』
「はい、少しお待ち下さい。聞いてみます」
一旦電話を保留して蒼に向き直る。
「電話、大体聞こえていたよね。それで、達彦さんが迎えに来たいと言っているけど、どうする?」
「問題ない」
達彦の話はショックだったが、予想範囲でもあった。
ともかく会うだけは会わないとならない。
「分かった、無理に会わせる形にして、ごめんね」
「いや、それは美佑が謝る事じゃない。それで、あと、今日はこのまま美佑の家から学校に行くから、制服と鞄を持って来て欲しいと伝えてくれ」
「うん、分かった」
電話の保留を解除して達彦に今の内容を伝える。
そして、達彦がその内容に同意して美佑の家に来る事になった。
用意の時間も考えると、後三十分程で到着するだろう。
「気持ちの整理付けられそう?」
電話を切って聞く。
「どの道、このままは無理だから」
蒼が毛布の中から出て来る。
昨日の夜に家を飛び出して来た時のままの格好だ。
「蒼ちゃんは達彦さんの事、どこまで好きなの?」
「どこまでって……そんなの分からない、ただ、ずっと一緒に居たいと思っている」
「それは……一緒に居るだけなら、多分、難しくないと思う。問題はその先、蒼ちゃんは大人だった時があるんでしょ?」
「ああ」
「その時、達彦さんとは恋人同士だったの?」
「いや、違う」
「だとしたら、残酷だけど、単に蒼ちゃんがラクティさんに負けただけ、だって言えると思う」
「それは……分かる。だから、達彦がラクティを選んでも私が恨んだり怒ったりするべきでも無いとも分かる……分かるけど……」
どうにも出来ないモヤモヤした気持ちが抑えきれなくなってしまう。
嫉妬といえばそれまでだが、それだけではなく自分自身の気持ちの弱さを呪っていた。
「本当に会って平気?」
「大丈夫だ。私の問題だから、私が何とかしないと駄目だ」
「分かった、なら、達彦さんが来る前に髪とか整えておいた方が良いと思うよ」
「そうだな」
蒼の長い髪は、そのまま垂らされてやや乱れていた。
「ブラシは私の使って、そこの棚にあるから」
鏡の置かれた棚を指す。
「私は、下に行って朝食持ってくるね」
「ああ、ありがとう」
蒼がお礼を言って、美佑が自室を出て行こうとした時、その身体がグラっと傾いた。
「美佑っ!?」
すぐに蒼が動いて美佑の身体を支える。
床への激突は避けられたが、腕に抱き留めた美佑の様子は明らかに変だった。
「あ、蒼ちゃん、変だね……急に力が……」
とにかくぐったりしていた。
「何だ……これは……」
発熱や発汗はない、逆に体温が低下して脈も下がっていた。
貧血かと思ったが、その場合、脈の低下は説明出来ない。
「ごめんね……達彦さんが来るのに……私……」
「いい。今、おじさんとおばさんを呼ぶから」
階下には美佑の両親が居た。
昨晩、蒼が訪ねた時には多少驚いていた様子だが快く一泊させてくれた。
「駄目っ……これ、多分、病気とかじゃ……ないから……」
「病気じゃないって……まさか!」
蒼はある事に思い至った。
美佑は自分の眷属として繋がった存在だ。
蒼の力の低下が、美佑の力の低下に繋がったとしても不思議はない。
一度も眷属を作った事が無いため、勝手が分からないがその可能性が最も高い。
「美佑、力が不足しているんじゃないのか?」
「そ、そうかも、初めてだから、はっきりしないけど……」
眷属になって一ヶ月しか経っていない美佑にも、力が減った時の実感は、いまいち分からない様子だった。
美佑は、疲れている時やお腹が減った時とはまるで違う身体能力全体の低下を味わっていた。
「すぐに補給をっ」
眷属との力のやり取りはとても簡単で近くに居れば可能だった。
便宜上、手の平から受け渡す為にそこに力を集める。
「くっ!」
力を集中させた途端に背中にある器官の付け根に激痛を感じた。
そのまま収まっていた痛みが激しくぶり返す。
「蒼ちゃん!? 痛いの?」
「平気だ……力を渡すから、受け取ってくれ」
「だ……駄目だよ……蒼ちゃんは傷が癒えていないのでしょ? 私に力をくれたら、きっと酷くなる」
「そんなこと言っている場合じゃない。眷属は力を完全に失えば死んでしまうんだぞっ」
「大丈夫、まだ、完全に無くなるなんて事は、無いと思うから」
「そんな推測で危ない事が出来る訳ない、今、残量を調べる」
眷属との繋がりをオープンにして、美佑の身体構成を意識下で走査する。
蒼にとって初めての経験だったが、やってみると難しい事ではなく、自分の身体がもう一つ別にあって、それを調べているような感覚だった。
美佑の力の残量と、平均的な一日の消耗量と自然回復量を計算する。
「全然、足りない……」
二回復して三減ってるような状態だった。
それでも今までもっていた事を考えると、自分の力の低下が美佑の力の自然快復力を低下させているとしか思えなかった。
自分の状態の悪さがダイレクトに伝わり過ぎている気がしたが、それ以外の理由も考えられない。
「ごめん、私のせいだ。私のパフォーマンス低下が美佑の竜としての能力低下を招いている」
「じゃ、なおさら蒼ちゃんから力を貰えないよ、言い方は悪いけど、共倒れになっちゃう」
「でも、緊急事態だ。一旦力を渡して回復させないと今日すら危ない」
一旦事態を収拾して、その後、自分の力を回復させる方法を考えるしかないと思った。
「だったら、達彦さんから、お願いする」
「な、何を? 達彦だって?」
全く予期出来ない発言だった。
「どういう意味だ?」
美佑の答えによっては蒼の中で大きな何かが崩壊する気がした。
声が無意識に震えてしまう。
「私……達彦さんの血を飲んでいるの、だから、達彦さんから、力を貰う事も可能なの、蒼ちゃんも知っていると思っていたけど……」
申し訳無さそうに言う。
「い、いや、初耳だ。いつ飲んだんだ?」
震えに自分で気付き、なるべく抑えて聞いた。
「記憶は無いの……ただ、達彦さんから聞いた話だと、この前の事件の時に、私の存在が弱まって消えようとした時に繋ぎ止めてくれたのが達彦さんで、その後、蒼ちゃんの眷属になっても、その繋がりは残っているの」
「そうか……」
短く頷いたが、内心は色々な感情がせり上がり整理が付かない状態だった。
想像していた最悪の形では無いが、それでも『良い話を聞いた』とは思えない。
「黙っていて、ごめんね……その、知っていると思っていたから」
「別にいい、私が気付くべき話だ」
眷属が誰か他の竜と繋がっていた事に気付けない段階で自分のミスだった。
このところずっと自分の失敗が続いていた。
「ともかく、今のままじゃマズイな。一旦、美佑と私と達彦の事を、おじさんとおばさんから隠す。それでいいか?」
「う、うん。でも、そんなに力を使って平気なの?」
「二人の人間の記憶から少しの間消えるくらいなら、器官を出すまでもないから平気だ」
「そう……だったら、お願い」
「美佑は寝ているといい。達彦は私が外で出迎える」
「あ、ありがとう」
「じゃ、ベッドまで運ぶから、掴まっていろ」
「うん」
美佑の腕を首に回してベッドまで運ぶ。
「なら、出て来る」
そして、美佑の両親の記憶を操作しつつ玄関に向かい外に出た。
外は晴れていて朝の弱い光に満ちていた。
「…………」
手櫛で髪を整えて、達彦がやって来るであろう方の道路を見る。
ある程度まで近付けば気配で分かるが、どうしても、その方向を見てしまう。
会って何を言うべきか……。
自分が身を引く発言をすればまるく収まる事は分かっていた。
そもそも恋愛対象として見られてなかったのだから、身を引く以前の話かも知れない。
理屈ではそれで正しいと思った。
しかし、そんな理屈だけで、気持ちを割り切る事は出来なかった。
「諦めるなんて、言えない……」
ずっと一緒にいるつもりだった。
その事に対して明確な理由は無い、ただ、一緒に居たいと思っていた。
今さら消す事は出来ない気持ちだ。
その上に、今の蒼には達彦と一緒に居る以外の居場所が無いに近い。
もし、諦めると言ったら出て行く事になってしまう可能性が高い。
それは気持ち以前に他の障害が多すぎて無理だ。
もちろん、諦めないと口にした場合でも障害はある。
一番はラクティとの関係だ。
険悪な関係には成りたくなかった。
「…………何も言えない」
それが結論だった。
モヤモヤした気持ち全てに蓋をして普段通りに振る舞えば、きっと達彦も普段通りに接してくれる。
それは可能性の高い予測だった。
「うん……それでいい」
自分を無理矢理納得させる。
他に手立てが無い以上、思考停止に近い行為だったとしても仕方がないと思った。

達彦は道路の先に蒼の姿を認めた。
気配から位置は特定していたが、家の外に出て待っているとは思わなかったので、少し戸惑った。
どんな顔で会えばよいか迷いながら歩いて来たからだ。
「…………」
なるべく普段通りの顔で蒼に接近して、
「おはよう、言われた制服と鞄を持って来たぞ」
「おはよう、ありがとう。――それより緊急事態だ、すぐに家の中まで来て欲しい」
蒼は挨拶そこそこに達彦を美佑の家の中へと案内する。
予想していなかった事態に困惑しつつ、
「な、何があったんだ?」
周辺の気配を探りつつ言う。敵だと思われる気配は特になかった。
室内にある美佑の気配が小さい気がするが、抑えていれば変な話ではない。
「とにかく来てくれ、記憶操作はしてあるから」
蒼は達彦から鞄と制服の入った袋をむしるように奪って玄関の奥へ消えた。
「おい、蒼っ」
ひとまず蒼の後を追う事にした。
何の挨拶も無く他人の家に入るのは気が引けので、軽く『お邪魔します』と呟いて二階に上がった。
「こっち」
上がってすぐ、蒼が部屋の扉を開けて廊下に立っていた。
「だから何があったんだ?」
促されるままに部屋に入った。
雰囲気から美佑の部屋だとすぐに分かる。
「美佑に力を分けて、出来る筈でしょ」
「力って……」
何を言い出すのかと思ったが、ベッドで寝ている美佑が目に入り、口を閉じる。
「あ、すみません……本当なら、蒼ちゃんから貰うべきなのですが……」
目の合った美佑が弱々しく言う。
「気配が弱いと思ったが、活動力不足か?」
「は、はい……半分は、そうです」
「半分?」
「正確には吸収力が低下して、活動力が足りない状態だ。おそらく、私が弱くなったせいだと思う」
蒼が美佑に代わって達彦の問いに答える。
「お前の力の減りが眷属に影響するのか?」
「そうだと思う。むしろ、眷属を維持するだけの力がなくなったというべきかも知れない」
「そうか……」
状況は把握した。
自分を養う余裕が無いのに、他の誰かを援助するというのは確かに無理だ。
「だから、達彦が力を分けてあげてくれ」
「いや、俺でいいのか?」
達彦から美佑への力の受け渡しが出来る事を蒼が知っているという事は、達彦が美佑に血を飲ませた事も知っているという事だ。
きっと美佑が話したのだろう。
その上で『自分の眷属に対して他人が力を与える事』への抵抗が無いとは思えなかった。
まして、昨日、色々とあったばかりで、美佑は女の子でもある。
「問題ない。緊急事態だ」
蒼が達彦の迷いを断ち切るように言い切る。
「わ、分かった」
切迫した状況なら致し方ないという事だろう。
「私は部屋を出ているから」
蒼が部屋を出て行き扉を閉める。
その時、制服の入った袋を持って行ったので、おそらく着替えを済ますつもりだろう。
「――じゃあ、俺から力を受け渡すという事でいいか?」
遠離る蒼の気配を感じつつ言う。
「は、はい」
「分かった」
互いに微妙に緊張してしまう。
他人の大切な物を預かって修理しているような心境だった。
「受け渡し方法だが、まず普通にやってみる。ただ、俺は血を飲ませた相手にやるのは初めてだから、失敗したらすまん」
「はい、お願いします」
「――なら、始める」
達彦は力を集中して美佑に渡すイメージをした。
蒼に力を渡す場合はキスすれば良いから、ある意味簡単だが、普通に受け渡すのは全く慣れていなかった。
「んっ」
ベッドで横たわる美佑の身体が少しビクっとした。
達彦は力の移動を感じた。
成功していた。
ひとまず美佑の許容量限界までの力を送る。
「よし、いいだろう」
「ん……あ、身体が大分、楽になりました」
「まぁ、気配も回復している。おおよそ、一週間程度は無補給でも平気だろう」
「そうですか、ありがとう御座いました」
「じゃ、俺は帰るよ。ついでに蒼に記憶処理を終了するように言って」
「分かりました。では、また」
「ああ」
達彦が美佑の部屋から出る。
力の移動が簡単に出来た事は助かったと思った。
蒼の気配を探り居場所を確かめる。
「一階か」
階下に移動して蒼の気配を追う。
途中、美佑の両親の姿を認めたが、達彦の事には全く気付かない。
蒼は気配の位置と家の構造を推測すると、おそらく脱衣所という場所にいた。
その場を仕切る扉をノックする。
「おい、こっちは終わったぞ」
「あ――うん、少し待って、着替えているから」
「ああ」
扉越しに会話して、達彦は扉の横の壁に寄り掛かった。
少しして扉が開く。
チラッと中を覗くとやはりお風呂と脱衣所がそこにあった。
「待たせた」
「いや――」
達彦は言葉の途中で思わず息を飲んだ。
蒼の制服姿が新鮮だったからだ。
「あ、そうか、遠足の後から冬服か……」
蒼の通う学校は、そういう決まりになっていた。
冬服は白のブレザーと青のスカートという構成で、ブレザーには青いセーラーカラーがついていて清楚さを醸し出していた。
さらに制服の一部のベレー帽を被って、髪をいつものツインに結っていた。
「何だ、達彦が持って来たのだろ?」
気付かなかったのか? という顔をする。
「ラクティが詰めたからな、流石に下着とかまで、俺じゃ無理だ」
「ああ……そうか……そうだな……」
蒼が微妙に視線を逸らして身体を半回転させた。
ツインテールと短めスカートの裾がフワッと舞った。


「……」
達彦の心が一瞬震えた。
写真に撮りたい瞬間だと思った。
その気持ちが、娘を愛でる気持ちなのか、それとも想い人への恋心なのか、はっきり分類が出来ない。
「どうかしたか?」
蒼が達彦の顔を下から覗き込む。
その身長差は明らかに父と娘の差。
しかし、気持ちの差は何の差なのか……。
「いや、昨日の事だが」
差の意味を明らかにするためにも、放置出来ない話題を振る。
自分の心に区切りを付ける必要があった。
「ん? 何のことだ?」
「昨日……屋上で」
「何かあったか? そう言えば昼間、来客があった時に暴れていた様子だが、お遊びだろ?」
まるで普通に蒼が言う。
「昼間の奴はそうだが……、夜、何か見なかった?」
「さぁ、何も見てないぞ」
「そ、そうか」
きっぱりと答える蒼に対して、それ以上何も言えなかった。
掘り下げるには蒼の協力が必要な話題であり、また、蒼にその気が無いのなら後回しにした方が楽な話だった。
「――ところで、お前の体調は平気なのか?」
話を変える。
こちらも気になる事の一つだった。
「何とか平気だ。普通に生活する分には支障はない」
「そうか」
「ただ、美佑への力の供給は難しいと思う。その部分ではまた頼る事になりそうだ」
「ああ、それは別に問題ない」
「すまない」
「いや。――じゃ俺はもう帰るから、記憶操作は終わりにしていいぞ」
「分かった。わざわざ来てくれて、ありがとう」
「ああ、じゃあな」
蒼に手を振って玄関に向かう。
完全に普段通りの蒼だった。
蒼の中で何かの区切りがあったのかも知れない。
自分がラクティとの距離を必要以上に縮める事をしなければ、元のまま行くのではないかと思ってしまう。
「…………」
楽観的だと分かっていても、それに期待してしまう。
達彦はそのまま玄関を出て帰路に着いた。
蒼の拳が爪が食い込む程に握り締められている事に気付かぬまま……。

「なぜ、私が貴方の世話をしなくてはならないのかしら?」
「誰もいないのだから、当然でしょ? 私はお客様よ」
山内家のダイニングでは、エシスがテーブルにつき、ラクティがキッチンで朝食の準備をしていた。
作っているのはフレンチトーストとカニのサラダマリネだ。
料理の得意なラクティとしては大した事のないメニューだが、作る相手に納得がいかず手が進まない。
「大体『物』が食事する方が不自然だと思うのだけど?」
物を強調して言う。
「別に、食べちゃいけない法律ないし、それを言ったら竜だって、食事必要ないんでしょ?」
「法律とか……程度の低い返しはどうでもいいわ。貴方達の身体は機械でしょ? 食べた有機物はどうなるのよ?」
「そーいうー汚い事、食事の前に言うの? そう言う事は考えないのが正しい生き方よ」
エシスが『まぁ下品』という目でラクティを見遣る。
「わ、私はそう言う意味で言った訳ではないわっ、そう言う下品な想像になる方が下品なのよ」
思わず大声で言い返す。
「言った方が何とか……とか、そんな程度の低い返しは別にいいから、早く朝食作ってね」
エシスが小悪魔的に笑う。
「うるさいわっ」
無視して手を動かす事にする。
達彦と食べる為に作っていたので最初から二人前あり、作業はついでだった。
エシスの為にゼロから作っているのでは無いと思う事にする。
黙々とカニと混ぜるセルフィーユを千切る。
そして約十分後――。
「はい、出来たわよ」
テーブルの上に朝食が並んだ。
「あら、まぁまぁ美味しそうね」
言いながら、早々とフレンチトーストに手をつける。
「挨拶もなしなんて、育ちが知れるわよ」
「美味しかったら言ってあげるわ――はむ」
大きく一口トーストにかぶりつく。
むしゃむしゃと咀嚼してごくり。
「――決めたわ、私の食事係になりなさい」
前後を無視して急に言う。
「は? 何をボケた事言っているの?」
ラクティは唖然とした顔で返した。
「褒めたのだから喜ぶところでしょ?」
それにエシスが呆れ顔で返す。
「どこが褒め言葉だったのかしら?」
「貶してはいない筈よ」
「ええ、それは、そうね。でも、とても見下された気がするのだけど」
「気のせいよ、きっと」
「そう、ふふふふ」
込み上がって来る怒りを抑えて顔に笑みを貼り付ける。
「そうよ、うふふ」
エシスも笑い返して、二人の乾いた笑いがダイニングにこだました。
先に怒りを顕わにした方が負けという空気が漂う。
「――ところで、挨拶はどうなったのかしら?」
ラクティが笑いを切り上げて言う。
「料理番に召し抱えてもいいけど、挨拶する程じゃないわね」
「どういう基準よ」
「私の基準よ」
「そう――」
次から次へと減らず口を叩くものだと思う。
まともな返答を期待する方が無理なのかも知れないと悟る。
「まぁ、いいわ。――いただきます」
挨拶してラクティも食べ始める。
目の前の存在は無視する事にした。
レタスとカニ肉にフォークを刺して口に運ぶ。
垂らしたレモン汁の酸味が朝の目覚めを誘う。
「あ、ところで、あの召使いはどこに行ったの?」
不意にエシスが話し掛けてくる。
無視しようと思ったが達彦の事だったので答える事にする。
「達彦なら蒼に荷物を届けに行ったわ、往復で四十分くらいかしらね」
食べながら答える。
「その蒼って言う子は、まだ見た事ないけど」
「昨日は具合が悪かったから部屋に居たのよ。気配は分かっていたでしょ」
「一応、でも具合が悪いなら、なんでどっかに行ったの? お医者?」
「竜が医者に行く意味がないわ。友達の家にお泊まりよ」
適当に暈かして答える。
「ふーん。――じゃ、もう一つ聞いていい? そのラクティの格好は制服? 学校に行っているの?」
「そうよ」
制服のブレザーの上にエプロンを着けて料理していた。
髪はストレートのままだ。
「学校って、まさか小学校じゃないよね?」
「小学校よ、背格好的にね」
ラクティのサイズは蒼より少し大きいくらいだ。
外見上小学生には変わらない。
「なら、人間のお子様相手に偉ぶっているのね、きっと」
駄目な権力者を見るような冷めた目でラクティを見て言う。
「いちいち噛みつくわね。男子が数人勝手にかしずいているくらいよ」
「ふーーーん、まぁいいけど、人の趣味だし。私も前に学校行っていたけど、退屈で辞めちゃった」
「そうね、貴方には向かないでしょうね」
「どういう意味よ?」
「いえ、感じたままを言っただけで他意はないわ。レーナは大学でしょ? 好きなら付いて行ったらいいのに」
「大学でのレーナは余所余所しいから嫌い」
「そう。レーナも苦労しているという事ね――さて」
ラクティが食べ終えてテーブルから立つ。
「学校に行って来るから、達彦が帰って来るまで留守番お願いね」
「それくらいは頼まれてあげる」
「なら、お願いね」
食べた食器をキッチンに戻して、ラクティは学校に行く為の準備を始めた。

「あら?」
朝の路上でスーツ姿の村井七瀬(むらいななせ)は立ち止まった。
周囲には民家が建ち並び、駅の方向に向かう通勤通学の人間が居た。
至って普通の朝の光景の中で、七瀬は違和感を覚えた。
「流石に今回は無視してくれないという事ですか?」
誰ともなく呟く。
その瞬間、七瀬の目の前の空間が縦に裂け、そこから赤い振り袖を纏った雪のように白い手が現れた。
周りを歩く人間は誰一人その異常には気付かない。
「久し振りじゃのぅ」
白い手の主たる存在が空間を割って出現する。
振り袖を着た十歳程度の黒髪の少女だった。
近い年齢的に七五三が連想される衣装だったが、着こなしがまるで違った。
子供が着物に着られているという感じは全くなく、明らかに着慣れた様で凛とした空気と清楚な美しさを作り出していた。
「ディビジョンを放つ程度までは回復しているようですね」
七瀬は少女の出現に驚く事もなく淡々と対応する。
「一見で別体と気付くか――まぁよい、ともかく足止めをさせてもらうまでじゃ」
赤い紅を注した口元で笑みを築き、その内から力を解放する。
髪の毛がさざめき、少女の背中の帯の結び辺りから漆黒の翼が生える。
その翼は金属の骨組みに生物の皮膜が付いたような異質な構造で、皮膜部分は黒く透けていた。
「私を止められますか?」
相対する七瀬も、その背に真紅の器官を出現させた。
同時に二人の姿がそこから消えた。

「…………」
朝の教室の机の席に、蒼は黙って座っていた。
隣に座る美佑も黙っている。
二人はラクティやさくらや悠美香より先に教室に到着していた。
他のクラスメイトも、まだまばらだ。
「…………」
何か話そうと思っても、言葉が口から出なかった。
色々と覚悟したつもりだったが、昨晩事情を全て話した相手に対して、今朝あった事を考えると何も言えなくなってしまった。
眷属としての繋がりは、男女の場合、婚姻の意味すら持つ事がある。
その繋がりを美佑が達彦と持っていたという事、そして、自分の体調が戻るまでその繋がりが重要な意味を持つという事、さらに美佑が自分の友達であるという事。
全てを整理して、隣の美佑に話し掛けるには、思考をまとめる時間が足りなかった。
沈黙の時が流れる。
美佑も何も言わないという事は、美佑の方にも話し掛け辛い心理があるという事だろう。
時間だけが過ぎれば、やがてラクティが来る。
そうなると、余計話し辛くなる事は分かっていた。
「……美佑、私は、別に怒ってはいないから」
蒼は意を決して自分の気持ちの中で唯一確実な事を告げた。
美佑に対して『怒る』という感情は全くない。
それだけは伝えておくべきだと思った。
「うん……」
「今回の事は私が不甲斐ないだけだ」
「ううん、そんな事」
「いや、すまない、美佑に嫌な思いをさせた」
「そんな、蒼ちゃんが謝る事なんて……」
「私が悪いから悪いだけだ。もうすぐラクティも来る、だから、この話はここまでだ」
「わ、私は蒼ちゃんの味方だから」
美佑がやや勢い込んで言う。
本当に本心なのだろう。
「ありがとう」
その言葉が今の蒼には重かった。
美佑の信頼に応えるだけの責務を果たしている自信がまるでなかった。
己の不甲斐なさをただ責める。
と、蒼の理解感覚の範囲にラクティの気配を捕らえる。
「…………」
達彦に対しては、何も無かった事にして済ませたが、ラクティに対しては無理だと思った。
しばらくして、
「おはよう」
ラクティが教室に入って来る。
クラスメイト数人と挨拶を交わして蒼の席の前に立つ。
「おはよう、蒼」
「あ、ああ、おはよう」
「昨日の事、私から言い訳する事は何もないわ。怒るならそれでいいし、恨むならそれでもいい」
ラクティは覚悟を決めた表情をしていた。
引くつもりは一切無いという事だろう。
「分かった」
覚悟の段階で負けていると蒼は感じてしまう。
怒る気にも恨む気にもなれなかった。
「私からはそれだけ、あと、他の事については、私の方は特別に態度を変える気はないから」
「ああ、その方が助かる」
それは本心から出た言葉だった。
ラクティとギスギスした関係になるのは避けたかった。
「それって、蒼は引く気なの?」
ラクティが意外そうに言う。
「いや、話を分けて考えたいというだけだ」
「そう、分かったわ。――なら、そう言う事で」
「ああ」
蒼が頷くと、ラクティは自分の席に向かった。
「……蒼ちゃん、本当にそれでいいの?」
黙っていた美佑が聞く。
「問題ない、ラクティと事を構える気はない」
「でも、それじゃ……」
美佑が言い掛けて口を噤む。
言いたい事は分かった。
現状を維持するような事をしていたら、勝負にはならないという話だ。
「今、ラクティと揉めている場合ではない、そう思うだけだ」
現状、ラクティと揉めて発生する不都合の方が、気持ちを我慢する事より問題だった。
仮に何者かと戦闘になった場合、ラクティが居なければ勝負にもならない。
「それなら、色々な事が落ち着いたら勝負するの?」
「……決めていない。私とラクティの気持ちだけの話じゃないし、その時までにどうなっているかは、分からない」
「そうなら、私は何も言えないけど……後悔はしないでね」
「ああ」
二人は会話を終えた。

退屈な授業が続いていた。
一日休んだとはいえ、クラスの内の遠足の疲れは抜けきっておらず、教師までもがいつものペースではなかった。
小学生の引率というのは、それだけ精魂すり減らすという事なのだろう。
「……」
ラクティは頬杖をついて、その授業を聞いていた。
戯れに学校に入ってみたが、授業で楽しいのは音楽と図工と体育くらい。
それ以外の科目は完全にどうでも良い内容だった。
別に学校に入った事を後悔はしないが、退屈な授業というのは余計な事を考える時間を増やすだけだった。
「……」
今、ラクティの脳裏にあるのは、目の前の黒板で展開されている算数ではなく、自宅にしているデパートに置いてある物の事だった。
とても大切な物をデパートに置いていた。
ラクティは二十五年程前にデパートの建設が始まった時から、そこに住む事を考えて工事そのものに手を出していた。
デパートは人間には地下二階地上十階と認識されているが、実際は地下四階まで存在して、地下三階にはラクティが集めた嗜好品の数々が並び、地下四階にはラクティにとって最も重要な物が安置されていた。
一ヶ月前にデパート内に敵が溢れた時にも、密かにドール達を使って地下三階と四階の封印を確かめていた。
封印は並のものではなく、掃除ロボットが書いた召喚詩の影響を受ける事なく、その奥の物を守っていた。
「まっ……」
軽く吐息のように呟く。
召喚詩を書いたのは正確には敵ではなかったので、発見されていたとしても無視された可能性があるが、おそらく、その相手にも気付かれていなかった。
「……」
ともかく、その大切な物を使うか、使わないかをラクティは考えていた。

「流石に五竜と言ったところかのぅ、まだ粘るか」
「いえ、貴方こそ、ディビジョンにこんなに力を送り込んで大丈夫ですか?」
「心配には及ばぬ」
現実とは僅かにずれた空間で、七瀬と赤い振り袖の少女が対峙していた。
その場は空のような場所で周囲には果てしなく何もない。
天地もなくただ柔らかい光に満ちた空間。
それでも色彩は現実と同じに存在していて、七瀬の真紅の器官と少女の赤の振り袖がとても映えていた。
「余とて安寧と寝ていた訳でないからのぅ、今のそちを止めるくらい出来ずでどうする」
少女の機械とも生体ともつかない漆黒の翼が大きく広がる。
合わせるように、七瀬の四方に二メートル程の黒い球体が四つ浮かび、そこから幾筋もの闇色の閃光が放たれる。
「防壁展開」
七瀬が防御の詩編を唱え、閃光が数枚の光壁に阻まれ、共に消滅する。
直ぐさま別の詩を聞き取れない発音で詠唱しながら、球体と球体の間に向かって跳躍して包囲を破ろうとする。
「無駄じゃっ!」
五つ目の球体が七瀬の前方に出現し、直ぐさま漆黒の閃光を吐き出す。
「――炎の鎧と化せっ、炎装!」
七瀬は詠唱を完了させ、詩編が発動する。
その身体を包み込むように炎が産まれ、炎を纏った姿となる。炎は内側の七瀬を焼く事なく、外側にだけ熱を放出する。
七瀬は、そのまま黒い球体に体当たりした。
閃光は炎に焼かれ、球体は七瀬を飲み込んだ後、内側から黄色い炎を噴き出して爆ぜた。
「他もっ!」
七瀬は炎を纏ったまま残り四つの球体に次々と突入して、それらを破壊する。
「派手よのぅ――ならば」
少女がその手に細身の長剣を空間より呼び出した。
切っ先を七瀬に向けて駿足で間合いを詰める。
「接近戦ですかっ」
炎を纏った右側の器官を前に回して剣を受け止める。
切っ先が器官の表面で弾かれると同時に少女が剣を手放す。
「もらったわっ!」
剣が瞬時に融解し細いワイヤーとなって七瀬の器官に絡みつく。
ワイヤーは一気に器官全体を覆い、覆われた部分の炎が消え去った。
少女はその部分に向かって両手を振り下ろす、そしてモーションに合わせて、その手の中に巨大な斧が瞬間形成される。
「くっ!」
七瀬はワイヤーを力で引きちぎり器官の一部を畳み、そこで大戦斧を受け止めた。
ガンッ!!!!
大質量が石を砕くような音と共に器官に斧が半分以上めり込む。
「炎弾を舞えっ!!」
左手から複数の炎の塊を少女に打ち出す。
「斬り切れんかったかっ!」
振り袖を翻して炎弾をかわし、残りを大戦斧で薙ぎ払う。


そして、全ての炎弾を処理されるのと、少女が割り裂いた七瀬の器官から血が噴き出すのはほぼ同時だった。
「その傷では、この空間を壊すに時間が掛かる筈よの、斬り落とせずとも目的は達したぞ」
「自己修復開始――貴方はそのディビジョンは捨て駒ですか?」
七瀬の唱えた回復詩に合わせ、光の輪が器官の破損部分を何重にも取り巻く。
徐々に出血が収まり亀裂が小さくなって行くが、その速度は遅い。
よく見ると、黒い粒子が取り付き傷の再生を阻害しているように見えた。
「そうじゃ、後は場の維持とその傷をいたぶる事に力を注げばいい。この姿も、もう消える」
「足止めに一体どれ程の力を使う気ですか?」
「それ以上の対価が見込まれておる。――ではな」
少女の姿が掻き消えた。
「向こうも本気という事ですか……」
七瀬は諦めたように呟き、傷の修復に全力を傾ける事にした。

4章.変色

学校が終わり帰路についた蒼は、一人でマンションの入り口に居た。
最近はほぼラクティと一緒だったので、一人の帰宅というのは一ヶ月振りだった。
「用事か……」
そのラクティは用事があるからと、自分の家である街のデパートに先に帰ってしまっていた。
どうしても必要な用事だと言っていたが、それが蒼と一緒に帰る事を避ける口実だった可能性もある。
互いに普通にすると決めても、何処か余所余所しいふうになってしまうのは仕方がない事かも知れない。
まして、昨日の今日となれば尚更だ。
「……」
色々と気が重かったが、一番の問題はこれから帰宅する事だった。
家に戻れば達彦が居る。
達彦に対して『何もなかった』ように振る舞い続けると決めた後でも、心に何も感じないでいる事は出来なかった。
いつ揺らいでしまうか分からない。
「……」
だが、いつまでも入り口で立ち止まっては居られない。
深呼吸してから、エントランスロックを解除し、ガラスの自動ドアをくぐる。
「ん?」
建物の中に入った瞬間、そこに居た中学か高校生くらいの少女と眼が合った。
その途端に少女の顔が歪み、
「お前はっ!!!」
激高の形相で絶叫する。
合わせて、少女の背に『無垢なる物』の証である機械の翼が瞬間構成された。
「!?」
蒼は本能的に後ろに飛び退き、まだ開いたままだった自動ドアから外に出た。
同時に背から器官、腕にプレート剣を生やして構え、ドアの向こうを睨む。
「殺すっ!!!!」
少女が閉まり始めたガラスのドアに体当たりして、蒼との間合いを詰める。
大量に飛び散るガラスの破片。
ガラスは破損時の安全のために破片が粒状になるように作られたもので、ガラス片の一つ一つが一センチ以内の粒になる。
そして、その粒が宙に浮いた状態でピタリと止まり、一瞬の間の後、蒼に向かって超高速で撃ち出された。
「光壁防御展開!!」
片器官を身体の前に出して、意識下での表層に光の膜を張り銃弾のようなガラスの粒を受け止める。
詩の発動と着弾は、ほぼ同時だった。
ガラスの弾は光壁に当たると、その部分を破壊して消えた。
光壁が虫食いの葉のように穴だらけになって行く。
蒼がマズイと思った時、少女が蒼の上方に飛び上がる。
「根源たる原始の炎よ、我が命によって、敵を焼き滅ぼせっ!!!」
空中に浮き、振り上げた手の平の上に真っ赤な光球を出現させ、それを蒼に向けて放り投げる。
「くっ!」
防御で蒼の動きが止まった事を利用した攻撃だった。
器官を動かし上から来る光球に備えるが、防御の光壁はほぼ消滅していた。
もう一度、唱え直そうとした時、
「うっ!?」
激しい目眩と失った器官の付け根の痛みを覚えた。
片器官での竜詩の行使は、詩の制御に慣れていない蒼には負担の大きい行為だった。
その事は分かっていたが、まさか一度の詩の行使で負荷が表面化するとは思っていなかった。
器官への光球直撃を覚悟する。
しかし――。
「空間断裂」
唐突に抑揚の無い声が場に響き、蒼の真上の空間が断裂した。
亀裂は景色を一部ぶらし、現空間と異空間を繋げる。
光球はその亀裂に当たり、そのまま異空間に消え、同時に亀裂自体も消滅した。
その場に一つの人影が現れる。
「ラ、ラプリアっ!?」
ラプリアが蒼の前に立っていた。
瞬間移動して来たのだろう。
それは理解出来たが、この場に現れる理由が全く理解出来なかった。
「何でよっ!! 何でお前がっ!!」
上空の少女が怒鳴る。
「エシス、私との戦闘は無意味、退く事を勧告します」
ラプリアが上空の少女をエシスと呼ぶ。
蒼はその名前を聞いて少女の正体を知る。
薄々はレーナの使いとしてやって来た『無垢なる物』だと思っていたが、やはりその通りだった。
名前だけは漏れた会話から聞いていたが姿を見るのは初めてだった。
「なら、どうして私を……」
レーナの使いなら味方の筈だった。
それに『無垢なる物』は基本的には竜に攻撃を仕掛けない。
突然現れたラプリアといい、何が何だかまるで分からなかった。
「ラプリアっ、何のつもり!? どうしてそいつを守ったの!?」
「マスターの命令」
「今のマスターは誰よ? 何が目的よっ!?」
「その質問に答える事を許可されていない」
「あっそ、で、そいつを庇うのね?」
「イエス」
ラプリアが短く答えた。
「そう、だったら、まず貴方を倒す必要があるわけね。――システム『清風凛』より『真烈火凛』に移行、コード制御限定解除、空間干渉スタートっ!」
エシスの翼が両翼幅三メートル程から五メートル程に肥大化して、場の空気が変わる。
「なに……!?」
蒼の気配を感じる感覚が、全方向約十メートルほど先で遮断された。
すぐにエシスが空間を球体に閉じたのだと悟る。
「空間再制御スタート」
対するラプリアはあくまで無機質に唱えて、背中の金属の羽をクリスタルへと変質させた。
エシスの空間遮蔽を解除しようとしている様子だった。
「無駄ね、この空間では私の方が上位となるのよっ! ――光塵よ我が剣となれ――」
エシスの手に光の粒が集まり、片手サイズの光の剣となる。
「お前じゃ避ける事も出来ないでしょっ!」
上空から急降下してラプリアを頭から斬りつける。
「制御率十パーセント、自己防御優先」
しかし、光剣がラプリアの頭に届く直前で不自然にねじ曲がる。
歪曲した空間が全ての物をねじ曲げラプリアに届かせない。
ラプリアに避ける必要を与えない絶対の防御――空間歪曲防御だった。
「チッ、流石は最強ねっ!」
エシスが後ろに飛んで、一旦ラプリアと距離を取る。
手に持つ光剣は、ラプリアから離れた瞬間に元に戻っていた。
「再び勧告、私との戦闘は無意味、退く事を求めます」
ラプリアが最初と同じ口調で言う。
起きている事象にまるで動じた様子がない。
「そんな事、私が決める事よっ! 空間歪曲防御があっても攻撃を通せばいいだけでしょ? 制御ポイント限定一点突破っ!」
エシスが剣を両手で水平に真っ直ぐ構えて、ラプリアに突進する。
切っ先が空間歪曲領域に触れた途端、閃光と共にその場の空間に波紋が走る。
刃先がぶれ、波紋面の景色がグニャグニャになる。
そこが歪曲面の境目だった。
「少しは入ったわよっ! どりゃーーーーーーーっ!!!」
両足を踏ん張り、光剣に全力を込めて突き立てる。
確かに歪曲している内側に切っ先が消えていた。
「力技――先端にエーテル集約、極点空間断裂発生後、こちらの空間歪曲への干渉突破」
「悠長に解説している場合? あと少しなんだからっ!!」
空間に広がる波紋が少しずつ拡大して行く。
それに伴って切っ先が数ミリずつラプリアに接近して行く。
「力には力、防御力局所集中」
空間に広がる波紋が、ラプリア側から押されたように逆波を立てる。
「ノって来るとは意外ー、なら、とことん行くわよっ!!」
エシスが切っ先を押し返す。
波紋が複雑に揺れ、空間自体がぐらぐらと揺れているような錯覚を作り出した。

「待てよ、おい!?」
達彦が異常を感じたのは、エシスがガラス扉を叩き割った時だった。
すぐに状況確認に向かい、階段を駆け下りる途中で、エシスによる空間断絶が発生してしまう。
全ての物が、それより先に進めなくなった。
それが丁度マンションの出入り口を含んでいたため、数分で住人に気づかれ、エントランスで騒ぎになってしまう。
状況的には、何もない場所でそれ以上前に進めないのだ。
そして、その見えない壁の向こうは普通の景色が映っていた。
「マズイな……」
器官を出せない達彦には記憶操作は出来ない。
「ともかくラクティに来てもらうしかないな」
記憶を操作する意味でも、空間断絶の向こうに行く為にも、ラクティを呼ぶしか方法が無かった。
エントランスの片隅で携帯を取り出して、ラクティに掛ける。
が、いくら掛けても――
『お掛けになった電話番号は、電波の届かない所にいるか、電源が切れています』
のコールが続くだけだった。
「ったく、何やっているんだ!?」
時間的に学校は終わっている。
何処かにいるとしたら、自宅であるデパートの可能性が高い。
直接向かう事も考えたが、目の前の空間断絶に変化があった場合に対応出来ない。
達彦はイライラしながら電話をかけ続けた。

「サラマンダー、進捗状況を報告して」
ラクティがゴス和服を着て、白い特殊プラスチックに覆われた大きな部屋の中の椅子に腰掛けていた。
椅子の前には、キーボードのような操作盤があり、そこから伸びたコードが部屋の中央にある巨大な円筒形のガラスの筒に繋がっていた。
ガラスの筒は偏光処理が掛けられ中が見えない。
その筒の周りでサラマンダーが、ぴょこぴょこと動いていた。
「うん、そう……まだ掛かるのね、なら、血だけ抜いて少しストックしておいて」
頭の中でサラマンダーの応対を聞いて、指示を出した後に椅子から立ち上がる。
「え? ちょっと上に行って来るわ、警備の子達に力を分ける必要もあるし」
ラクティが白い部屋から出る。
部屋の外はコンクリートの壁で覆われた廊下が部屋を取り囲んでいて、その廊下にある扉を潜ると、今度は配管だらけの広い空間に出る。
その空間の端に上に向かう階段があり、ラクティはそこを昇って上の階に出た。
そこは、貸倉庫屋のコンテナの中のような場所で、空調の効いた空間に幾つもの扉が付いた小さな部屋が並んでいた。
その真ん中の廊下を進んで行くとまた階段があり、それを昇ると、今度は小部屋に出て、その壁には大型金庫の扉のような分厚い金属の扉があった。
「ラー・リフ・*・る・あ・***」
扉の前で聞き取れない竜詩を唱えると、重そうな金属の扉がゆっくりと開いて行く。
そして、ある程度隙間が空いた時、ポケットに入れてあった携帯電話が着信を告げた。
「あら? 達彦?」
とりあえず、扉を出てから携帯を手に取る。
そこはデパートの地下駐車場だった。
ラクティの足下に二体のビスクドールが傅く。
「警備と人払い、ご苦労様、力を回復させるわね」
電話のコールスイッチを押しながら言って、ドールに自分の力を受け渡す。
その後ろで金属の大扉が閉まり、閉まると同時に只の壁になってしまう。
「もしもし、何かあったの?」
『やっと繋がったか、緊急事態だ、すぐにこっちに来てくれ』
「なに? ラプリアが来たの?」
『分からん、ただ、エシスが急に全力を出して空間を遮断した。俺の感覚ではその時、蒼も巻き込まれているが、遮断された中の状況は分からない』
「あーーー、あの子はもうっ! それだと、ラプリアが出現した可能性があるわね」
『そう思った方がいいだろうな』
「で、剣は? アブソリュートなんとかは、エシスが持っているの? それとも空間断絶の外にあるの?」
『さぁ、分からん、エシスの部屋を調べてみる』
「なら、私が向かうまでに、それをよろしくお願い、すぐに行くから」
『ああ、分かった』
「じゃ、何かあったら連絡して。一旦切るわよ」
『了解』
通話を終えて踵を返す。
「本当にもうっ、間に合わないじゃないっ!」
壁に手を触れると、そこに再び金属の扉が出現した。
「貴方達は、また警備をお願い、下に行ってすぐ戻ってくるから」
ラクティは聞き取れない竜詩で扉を開けて、いま出て来た順路を小走りで戻った。

「そろそろ貫通ねっ! どうする気?」
エシスがニヤリと笑う。
「……」
エシスの持つ剣の先が、ラプリアの顔面数ミリ先に迫っていた。
その場で激しい力の衝突が起きているのだが、ラプリアの表情は冷静なままだった。
「推定を越える状況には対処出来ないもんね、アンタ、フリーズでもしたの?」
「推測――後三百九十六秒で歪曲空間面突破」
「あら、自分が壊れる秒読み? いい趣味ねっ!!」
「…………」
ラプリアは特に反応する事なく、ただ立ったままだ。
そして、蒼もどうして良いか分からず立ちつくしていた。
「私は……」
ラプリアが自分を庇っているのは明白だった。
そして、味方としてやって来たエシスに攻撃されている事も事実。
ラプリアがやられたら次は自分の番だった。
今、自分が動いてラプリアを助けるべきなのかも知れない。
だが、背中の器官をもいだのはラプリアだった。
「くっ……」
迷っている間に時間が過ぎる。
『お嬢ちゃん、聞こえるかい?』
急に蒼の頭の中に男の声が響く。
ラプリアのマスター、アルバートの声だった。
「金貨か……」
アルバートから渡された金貨を蒼は捨てずに持っていた。
『そ、その通り。まっ、それは良い、ラプリアを助けてやってくれないか』
脳内に急いだ口調が響く。
「唐突になんだ」
『状況は見て分かるだろ? ラプリアから緊急信号が俺の所に来ている』
「……ああ、ラプリアが押されている」
『なら、助けてくれ、時間がない』
「だろうな、あと四分くらいで防御が突破される」
『それだけあれば間に合う』
「お前達を助ける理由がない」
『一回は助けたぞ』
「一回は殺されかけた」
『チャラって事か、なら、器官の修復と新たな力を用意しよう』
「その条件を飲んだとして、今のエシスに勝てる見込みが、残念ながら無い」
蒼の見立てでは、エシスの力はラクティを凌いでいた。
器官を失っている今、勝てる気が全くしない相手だった。
『だから、それを今すぐ戻してやるから、ラプリアを助けてくれ』
「何……?」
耳を疑う話だった。
『どのみち、ラプリアが倒れたら、お嬢ちゃんもヤバイだろ?』
「それは……」
『なら迷っている時間は無い筈だ?』
「……器官が戻る話、本当なんだろうな?」
もし器官が戻るなら願ってもない話だった。
それに、このままではエシスに殺されてしまう確率が高い。
何も出来ず殺されるくらいなら、誰からの助けかを考えている場合では無いかも知れない。
『保証する、渡した金貨に強く『来い』と念じればいい、詩編が発動する』
「何が来るんだ?」
『お嬢ちゃんの記憶かな……俺にも詳しくは分からん、ただ、害がない事は確かだ、元々、お嬢ちゃんのモノだからな』
「…………」
アルバートの言っている事の意味が分からなかった。
『考えるのは結構だが、もう時間がない、死にたくなかったら決断してくれ』
「……分かった」
蒼はポケットから金貨を取り出した。
ラプリアの空間歪曲が破られるまで、あと二分を切っただろう。
――来いっ!!
生き残るには念じるしか選択肢は無かった。
途端に金貨が強く光る。
「な!?」
「なにっ!?」
エシスがすぐに気付く。
「何かするつもりっ!? させないわよっ!!」
光の剣から右手を離すと、そこに炎の塊を発生させ蒼に向かって撃ち出す。
「空間歪曲展開」
ラプリアが唱えて炎の塊が弾かれ、その場で爆発する。
が、同時にエシスの剣の先が、ラプリアの顔前にあった空間歪曲壁を貫き、ラプリアの顔の右目の下に突き刺さる。
「え!?」
驚いたのはエシスだった。
ラプリアが自らの防御を捨てて、誰かを助けるとは思わなかった。
「焼きが回ったわねっ!」
光の剣を振り上げて、ラプリアの顔の右半面を切り落とす。
口から上の顔面右側と右耳から続く後頭部、それから長いツインテールが宙を舞う。
「蒼様、早く」
ラプリアが残った口で紡ぐ。
「っ……!」
蒼にも状況が理解出来なかった。
ラプリアが捨て身で守ってくれるとは全く思っておらず、手にした金貨の輝きは直視出来ない程に強くなり、それが変形して行く。
金貨を中心に空中にリエグ文字が浮かび、金貨の構成が分解され再構築される。
現れた物は済んだ蒼色の宝石。
「コア……か?」
それは『無垢なる物』のコアと覚しきものだった。
大きさは様々だが、何かしら色の付いた宝石である事は蒼の知識でも知っていた。
エーテル機関そのものであり『無垢なる物』の全能力を司るパーツ。
『ミ・ツ・ケ・タ』
コアが言う。
瞬間、コアが蒼い光の粒に分解して粒子となって蒼の左半身に絡みつく。
「っ!!」
粒子は次々とパーツと化し、左の失った器官部分に金属のフレームが構築され、青白く光るガラスのような大きめの羽が八枚生える。
さらに左手に金属とも何かの鱗とも取れる物質で出来たガントレットが出現して、手の平を完全に覆い前腕部は制服の上に装着された。
その事で左の手の平部分が、元の二倍ほどのサイズになる。


「な、何だ……これは……わ、私は……」
変化は身体だけでは無く蒼の精神にも起きていた。
膨大な量の知識と『自分が何者であったか』という記憶が魂に流れ込む。
全てが一瞬だった。
「そうか、そういう事か……分かった、替わってあげる」
蒼の顔つきが戸惑いから凛としたものに変化し、左目の色だけが蒼色になる。
「ま、まさか……」
エシスの表情が変化した蒼を見た途端に凍り付く。
「未だ全開とはいきませんが、慣らしには丁度良いです――エーテル機関始動」
蒼がいつもと違う口調で呟いた瞬間、エシスの視界から蒼が消えた。
「がッ!!!」
ほぼ同時にエシスの視界が蒼の左の手の平によって塞がれる。
顔面を蒼に掴まれ持ち上げられていた。
反応も防御も間に合わないスピード。
「妹の顔を壊してくれたお礼をしますね」
「んっ、んぐぐぐぐっ!」
エシスの顔に蒼のガントレットが食い込んで行く。
「んふっ!!」
エシスはまだ手にしていた光の剣で蒼をでたらめに斬りつける。
しかし、まるでゴム鞠を叩いているように反発する手応えがあるだけ。
「可愛い攻撃ですね」
剣は蒼の身体に届く前に急速に減速して、まるで空気に弾かれているように見えた。
「んぐっ! んっ、んんふっ!! んんんっ!!」
エシスが塞がれた口で叫ぶ。
「うるさいですよっ!」
蒼が巨大化した左手に力を込める。
ミシミシと人では無い音を立ててエシスの顔が砕けて行く。
「んんんんっ!!!!!」
エシスがもうメチャクチャに剣を振るが、全く蒼には届かない。
ボロボロとエシスの顔のパーツの表層が崩れて落ちて行った。

少し前――。
デパートの屋上にラクティの姿があった。
一番高い給水タンクの上に立っている。
「――分かったわ、剣は見付かったのね、ありがとう、今から行くから」
手にしていた携帯電話をポケットにしまう。
その右手には見慣れない指輪が填っていた。
さらに、ポケットから銀色の小さな筆箱のようなケースを取り出す。
「まぁ、これで足りると助かるけど」
ケースを開けると赤い液体の詰まった注射器が何本か入っていた。
それは『何か』の血液だった。
「んっ――」
注射器を一本取り出し、躊躇う事なく左の太股に突き立て、中の血を体内に入れて行く。
適当に刺したように見えて、しっかりと静脈を捉えていた。
「本体能力行使――対価支払い完了、高速移動モードスタンバイ」
注射器を抜いてケースにしまいポケットに戻す。
「生きてるといいけど」
ラクティの背に器官が一気に展開された。
展開と同時に薄桃色に発光して、やや小型なサイズに変形する。
その器官をフードのように移動させ、先端流線型を形作る。
「じゃ、行ってくるわね」
まだ地下にいるサラマンダーと念話して、ラクティはそこから飛び降りた。
その直後、淡い桜色の光がデパートから達彦のマンションの方角に向かって一筋走ったのだった。

「なっ!?」
エシスを掴んでいた蒼は、真横からのエネルギー反応にエシスを投げ捨て対応した。
ほぼ同時に、伸ばしていた左手のあった場所に氷の刃が伸びる。
それはエシスが作った空間遮断壁の外側から伸びていた。
「ちょっと、どういう事よっ!?」
空間の境目に亀裂が拡がり、そこから器官を広げたラクティが姿を見せた。
その腰には小剣が収まった鞘が巻かれていた。
氷の刃はラクティの出現と共に水に変わり路上に広がる。
「……そうですか、お知り合いですか、分かりました、一旦停止します」
蒼が呟き左目が元の茶色に戻る。
そして、
「ラクティ、何しに来たんだ? どうして私の邪魔をするんだ?」
いつもと同じ口調に戻って言う。
「は? 何を言っているのよ? この子は一応味方よ」
ラクティは投げ捨てられたエシスの元に駆け寄り、その身体をしゃがんで膝の上に乗せる。
「破損が酷いわね……意識はある?」
「っ……わ、わたし、は……お、お前なんかに……」
エシスが紡ぐ声は歪んでいた。
顔パーツの生体化が崩れ、ひび割れたマネキンのような表皮になっていた。
特に右側の破損が酷く、頬骨が割れてこぼれ落ち眼球が露出していた
とても見られた顔ではない。
「エーテル循環を回復させたら、自力で治せる?」
「と、当然でしょ」
「そっ――なら、エーテル干渉スタート」
ラクティがエシスの顔に手をかざして、温かい光を放出する。
「ラクティ、何をやっている!?」
「治療よ、何か問題でも?」
顔だけ蒼に向けて答える。
「その『無垢なる物』は、私を攻撃した――敵だ」
「何かすれ違いがあっただけでしょ? それより、蒼の後ろの子は、ラプリアではないの? どういう状況なのよ?」
ラクティの顔が静かに緊張していた。
ラプリアは半分顔を失ったまま、ただ立っていた。
「ラプリアは味方だ」
蒼が躊躇なく言う。
「それはどういう意味なのかしら?」
抑えた声が響く。
「言ったままの意味だ」
「そう」
エシスの顔から手を退けて、
「エシス――立てる」
「立てるわ……あ、ありがとう」
答えたエシスの顔は元に戻っていた。
「今はいいわ」
エシスが立った後、立ち上がって一歩前に出て蒼と対峙する。
「ラクティが、その『無垢なる物』の側に付くなら、自衛のために敵対する事になる」
「それは私のセリフ、蒼がラプリアの側に付くなら、敵対せざるを得ないわ」
互いにとても冷静に言う。
それは、その裏にある激情を強く強く抑え込んだ結果だった。
「ラプリアを破壊する事は私の半身が許さない」
蒼が告げる。
「そう……まっ、その姿からして、大体の予想は付くのだけど、『無垢なる物』のコアを取り込んだわね?」
遮断空間に割り込んだ時から当然気付いていたが、あえて触れずにいた事だった。
最初にその事に触れたら、その段階で決定的に敵対する事になる気がしていたからだ。
「元に戻っただけだ」
「『無垢なる物』と融合した姿が、元の姿だというの?」
「形と意思の無い半身が拠り所にした物が『無垢なる物』のコアだった。そのコアを取り込んで、半身も取り戻した」
「何を言っているの? 半身って何よ?」
蒼の回答はラクティの想像を超えたものだった。
「私は分断されて産まれた存在だった。知識と体と力を切り離されて産まれた。その知識の部分が戻っただけだ」
「分断されて産まれた……」
ラクティが眉をひそめた。
何かに思いを巡らせるように視線を下方に向ける。
「質問には答えた」
「そうね……なら、もう一つだけ聞いていいかしら?」
が、すぐに普通に戻って聞く。
「ああ」
「依り代にしたコアはラプリアとどういう関係? ラプリアが持って来たのでしょ?」
コアの出所が気になった。
そんなにホイホイ転がっている物ではない。
「ラプリアのプロトタイプ、リルラル・フラリル・エルトリア――データ収集起動の後、コアを封印された『無垢なる物』だ」
「そう、だからラプリアの味方になる訳ね。元々そう言う定めだったと……」
ラクティが腰の小剣を気にする。
「ラクティは、その『無垢なる物』を庇うのか?」
「状況的にね。この子の側に居ないと困る事が多いから」
「なら、その『無垢なる物』に私を攻撃した理由を聞いてくれ」
「いいわよ、それは私も知りたいし。――エシス、どうなの?」
「あ、あいつは、大戦の時、私を含む大量の『無垢なる物』を破壊した、破壊の為だけにある存在よ」
エシスがラクティの背に隠れた状態で言う。
身長的にはエシスの方が少し高いが、ラクティを楯にしていた。
「大戦……ああ、理解してる……確かに記憶にあるようだな」
蒼が一人呟き、
「私の姿を見た途端に、当時の記憶が蘇ったという事か……」
「そうよっ、お前は存在しちゃいけない存在なのよっ!」
「お前が私を攻撃した時、私は元の姿に戻っていなかった、当時の記憶も持っていなかった。その状態で何も確認せずに攻撃して来た事について、何か言い訳はあるか?」
「無いわよっ!! 結果的に間違って無かったもんっ!」
「分かった。だったら、お前は最初から敵だったという事だな」
エシスの言葉から、どの道、顔を会わせた段階で戦闘が起きる事が決定していたと分かる。
昨日の内に顔を会わせなかったのは、幸運な偶然だったという事だろう。
「ラクティ、今の話を聞いても、その『無垢なる物』の味方をするのか?」
「そうね……」
ラクティがこめかみに指先を当てて軽く瞳を閉じる。
その様子をエシスが、どこか心配そうに見守る。
そしてラクティが瞳を開き、
「残念な話ね。貴方を助ける為に駆け付けたのに、貴方を敵に回す事になるなんて……少なくても、今の貴方とは組めないわ」
とても悲しそうな顔で言う。
しかし、口調には揺るがない覚悟が籠もっていた。
「そうか、分かった。――ああ、もう変わる……ああ、出来れば、その方向で頼む」
蒼がまた一人呟き、直後、その左目が蒼い光を放つ。
すぐに光は落ち着き、左の瞳の色が蒼く変わった途端、蒼の雰囲気が変わった。
「では、貴方は敵という事で認識いたします。その剣、アブソリュートディストーションですよね、最大危険物と認識して、優先排除して宜しいですか?」
「そうよ、好きにしたら。――ところで、貴方がリルラルね?」
「はい。ただ、正確には『リルラルであった物』です。名を持たぬ【――】と一体化しています」
不思議な発音の間を作って一つの固有存在を示す。
「それが、蒼が言った形を持たない知識の事ね」
「【――】は禁忌に触れた故に分割され、その力を奪われた存在です。ただ、私の中にその知識が宿っているだけ」
「そう、おおよそ状況は分かったわ。要するに貴方を倒せば蒼は元に戻るという事ね」
「蒼様は知識を受け継ぐ力そのものの器――つまり私の器です。一旦、融合した今、分離は不可能です」
「それはどうかしらね。――エシス、離れて」
「う、うん」
ラクティはエシスを下がらせて、腰の小剣に手を掛けた。
「封印された状態で、どうするのですか?」
「リエグ以前の遺物を取り出して来たわ――エーテルデバイススレイバー起動」
右手に填めた指輪が光り、その手でアブソリュートを抜く。
鞘から抜かれた刀身に指輪から伸びた無数の光の糸が絡み付き、やがて刀身が発光して糸が消える。
「安全装置を解除せずに使う気ですか?」
「ええ」
「こけおどしですね」
「どうかしらね――こちらから行くわよ」
発光するアブソリュートを手にリルラルに向かって路上を蹴る。
「早いっ!」
エシスが驚くスピードで間合いを詰め、リルラルに刀身を振り下ろす。
「対象固定、減速化」
リルラルは振り下ろされた刀身を異形の左手で受け止める。
よく見ると刀身は左手に触れる前に、何もない所で阻まれていた。
「あら、そういう能力なのね」
ラクティは振り下ろした小剣が、ある瞬間から強制的にスローになるのを感じた。
どれだけ早く振り下ろそうとしても、小剣に重鈍な何かが絡みつき力が空回りする。
「はい、私に対して向かって来る物体の空間内移動時間を制御しています」
「なかなか便利な力ね」
小剣という物体が空間を移動する速度をコントロールされていた。
リルラルは小剣が左手に触れる直前で超減速を起こし、見かけ上は途中で止まったかのように防御していた。
「刀身が私の手に触れるまで後約八千時間掛かりますが、どうしますか?」
「コンマ何秒を一年ほどにしているという事ね、だったら、その制御空間を切断するだけよ――ディストーション」
「そんな事――っ!?」
出来る筈がないと言い掛けたリルラルが、直ぐさま左手を下げて後ろに飛ぶ。
丁度ラプリアの隣に着けて左手を見る。
「く――」
手の平の装甲の一部が縦に裂けていた。
「どうかしら? 流石にコアを走査して破壊するのは無理でも、効果的でしょ?」
ラクティが開いた間合いを計りながら言う。
アブソリュートディストーションは、空間歪曲防壁を突破する為の空間切断能力を有している。
その力が安全装置の解除無しに開放されていた。
「エーテルデバイス全てをスレイブ化するオブジェクトですか……」
「そうよ」
右手の指輪が光る。
「面倒な物を――ラプリア、いつまでぼーっとしているのですか? あの剣、本当に一部起動しています」
リルラルが少し苛ついた口調でラプリアに言う。
「姉様、お久しぶり、現状マスターの指示待ち」
顔が半分無いラプリアが悠長なペースで答える。
「貴方は本当に……アルバート聞いていますよね? ラプリアを本起動させてください、剣が生きています」
『まぁ、そろそろか。――ラプリア、作戦の二段階目だ。エーテルドライブリミッターキャンセル』
リルラルとラプリアの脳内にアルバートの声が響く。
「イエスマイマスター、エーテル機関リミッター解除、自己修復スタート」
あくまで棒立ちのまま呟く。
次に起こった現象は本当に一瞬だった。
路上に散らばっていたパーツが瞬間転移してラプリアの顔に戻り、即座に元通りに組み合わさった。
「空間断層多段転移」
そして、クリスタルの翼が高く澄んだ音を鳴らす。
「ラクティ防御してっ!」
エシスが叫び、ラクティが攻撃の質を捉える。
「分かっているわっ!」
多数の空間の亀裂がラクティに殺到する。
空間ごと切れてしまうため、三次元物体では防御不可能な攻撃だった。
まともに喰らえばバラバラになる。
「空間障壁展開っ!」
「ディストーション」
エシスがラクティの周りに空間の楯を張り、ラクティは僅かに歪んで見える断裂をアブソリュートを巧みに操り切断した。
「くっ」
六割程度がエシスの張った楯と相殺され、二割程度はラクティが切り捨てた。
が、残り二割が主にラクティの器官を切り裂いた。
器官のそこかしこから血しぶきが上がる。
服も何カ所も切れて、露出した肌には赤い筋が走った。
器官がバラバラにならなかったのは、器官を存在させているラクティの意思力があったからだった。
「第一波完了、マスターが現場では姉様の指示に従えと」
何事も無かったようにラプリアが言う。
「流石に桁違いの力ですね。――貴方達、まだ抵抗を試みますか? 無駄に竜を消滅させるのは、こちらとしては本意ではありません。当然『無垢なる物』のコアも貴重です」
リルラルが余裕の口調で告げる。
「まるでプロテニスの試合みたいね、互いに威力がありすぎて、打ち合いにならない」
両者、受け止められるタイプの攻撃では無いため、一撃一撃で結果が出てしまっていた。
「そうかも知れませんね。それでどうしますか?」
「こちらが次の手を用意するしかないでしょ? エシス、アブソリュートの安全装置を解除して」
器官からの流血が続く状態で言う。
「い、いいけど、少し掛かるし、本使用する為のエネルギーは?」
「私が用意するわ」
スカートを探って言う。
「その器官で?」
「直せばいいのよ」
ポケットの中にある銀ケースから、注射器を取り出して素早く太股に突き立てる。
「本体能力行使――対価支払い」
ラクティの身体がビクっと内部から蠢き、器官の亀裂から血が激しく噴き出る。
「ちょ、ちょっと大丈夫なの?」
エシスが焦る。
ラクティはそれには答えず、
「空間干渉能力展開、高度自己修復、高位間粒子支配」
器官から流れていた血が不気味なくらいピタっと止まり、流れていた血すら綺麗に消え去る。
「じゃ、同じ事を返してあげるわ。対象固定――全面空間断裂圧迫。エシスは今のうちに解除を」
アブソリュートをエシスに投げる。
「あ、うん」
そして、ラクティの器官が内側から桃色に強く光り全体が透けた。
その光が場の支配を確定して行く。
「危険――姉様、もっと側に」
「分かっていますっ」
リルラルが翼を畳みラプリアに抱き付くくらいに接近する。
「防御面拡大」
ラプリアが自分の体表面の歪曲防壁をリルラルを包むまで広げる。
そこにラクティが作り出した十センチ程度の空間亀裂が無数に全方向から雪崩のように押し寄せた。
衝突面が波打ち、二人を包む歪曲壁が顕わになる。
その防壁が徐々に内側に向かって小さくなって行く。
ラクティの攻撃に押されていた。
「姉様、謝罪します。――自己防御優先」
「ま、待ちなさいっ」
防壁が一気に小さくなりラプリア一人分になる。
「くっ! 強制全ベクトルディレイ」
リルラルの左翼のガラス状の羽の一枚が光となって弾けた。
同時にリルラルに向かうあらゆるベクトルの空間移動時間にディレイが発生した。
実質止まったような時間の中、迫り来る空間断裂の隙間隙間をぬってその範囲外に出る。
「もう、この身体は私だけのものではないのに」
それでも何カ所かボディーに切り傷を作る。
「…………」
無言でリルラルを見るラプリア、彼女の方は自己の防壁で全ての空間断裂を相殺していた。
「これで力的には同等、いえ、私の方が上でしょうね、場のエーテルを制御下においたから」
発光し続ける器官を背に言う。
「貴方……何者ですか? ただの竜がこんな力を持っている筈がありません」
リルラルの左翼からのエーテルの吸収が止まってしまう。
蒼の持つ力を汲み上げるが、どの道、持久戦は出来なかった。
「竜を馬鹿にしないで欲しいわね。『無垢なる物』は竜のコピーでしょ? 逆を言えば竜は『無垢なる物』と全て同じ以上の事が出来るのよ」
「それは初期の話です。戦闘用に特化した私達後期型のドールに勝てる竜なんて存在しません」
「目の前の私が見えないの?」
「否定してみせます。ラプリア、場の支配を取り戻しなさい」
「はい、姉様」
ラプリアの翼が根本から伸びて大きくより複雑な形になる。
何本もの剣を背から生やしているようだった。
すぐにラクティが支配してる場のエーテルに対して抵抗力が産まれる。
「あらあら、まだそんな力があるの? 最終兵器だけの事はあるわね。――エシス、解除はまだ?」
「もう終わるわ――最終安全装置解除、アブソリュートディストーション第一段階起動」
小剣の刀身が白く眩しく光る。
「はい、ラクティ」
「ええ、ありがとう――エーテルコントロール、デバイス直結」
エシスから渡されたアブソリュートに、ラクティの右手の指輪から再び光の糸が伸びる。
その瞬間だった。
「作戦実行条件コンプリート、コア制御コード限定解除、オーバーリミッター開放」
ラプリアがその場からテレポートして、ラクティの脇に出現、流れるようにアブソリュートを奪い、再度テレポートしてリルラルの元に戻る。
「姉様、力を借ります」
「な、何?」
ラプリアの背中の翼から幾本かのコードが伸びてリルラルの機械翼と結びつく。
「デュアルコアシステムスタート、広域空間干渉発動、空間遮断壁破壊――長距離テレポート」
エシスが作り出した閉じた空間が一瞬で破壊され、同時にラプリアとリルラルの二人の姿がその場から消えた。
「――え」
全てがあっと言う間だった。
完全に虚をつかれてしまった。
ラクティは唖然となるしかなかった。
「テレポート出来たの……?」
エシスも呆然となる。
閉鎖空間内においてラプリア本体のテレポートは封じている筈だった。
そもそも、テレポートすれば楽に避けられた攻撃をラプリアは避けなかった。
「こちらを油断させた上で、でも、アブソリュートディストーションの封印を解くくらいには力を出して見せたという事かしらね」
ラクティが相手の策を分析する。
「わざわざ力を抜いて、こっちを誘っていたという事?」
「まぁ、端的に言うとそうね。見事に填ってしまったわ。……っ!!」
ラクティが急に路上に片膝をつく。
「がっ、ガハッ!!!」
むせるように咳き込み、手で口元を押さえる。
その手の隙間から血が溢れていた。
「な、なにっ、ラクティっ!?」
エシスが駆け寄る。
「ぁ、はぁ……はぁ……ぐっ、ぐはっ、対価分、この身体がすり減っただけよ……」
尚も咳き込みつつ言う。
急速に背中の器官の輝きが薄れ、不透明のプレート状に戻ってしまう。
「あの注射?」
「ええ……別に心配はいらないわ……力だけは満ちているから、まだ、今なら治せる範囲……自己修復開始」
ラクティの身体全体が淡く輝く。
「それより、達彦に気配を探ってもらって……私の理解感覚範囲の外側まで転移した様子だから」
「う、うん」
エシスが周囲を見渡して達彦を捜す。
「ラクティっ!」
だが、それより前に達彦が二人の元に駆け寄って来た。
「達彦、蒼の気配を追って」
未だ苦しげな顔でラクティが言う。
「大丈夫なのか? 気配は約三百メートル先に飛んだ後また飛んだ、一体何が起きたんだ?」
「そう……まぁ、そんな事だと思ったわ、蒼は半ば自発的に飛んで行っただけ無事は無事だから、それ以上は後で説明するわ――っく、んっ」
ラクティが身体に力を込めて立ち上がる。
「お、おい!?」
「体は心配いらないわ。人として構成されている分の内臓二個を再生させただけだから、寿命も少し削ったけど」
立ち上がったラクティの表情は、もう普通に戻っていた。
とても、言葉通りの事をしたとは思えない。
「一体何をしたんだ? ここに来た時も異常だったし」
達彦はラクティが文字通り飛んで来た事を言う。
時速にして軽く三百キロは出ていた。
さらに、マンションの住人と近隣住人の全てに一瞬で記憶操作を施して、隔離空間から遠ざけ、アブソリュートディストーションで空間を切り裂き、中に突入したのだった。
「それも後で説明するわ――それより、まだ力が残っている内にする事があるのよ。まずみんなを戻して」
背中の器官を広げて再び内側を発光させる。
「広域記憶操作」
散らせた人間を元の場所に戻るように促す。
当然、閉じた空間や割れたガラスの事は忘れさせた上でだ。
「――はいOK。あとは現場の修繕ね、範囲内無機物復元」
戦闘で多少破壊されたアスファルトやエシスが割った自動ドアのガラス、さらには破れた自身の洋服などを元に戻す。
ある程度の修復なら、ラクティは今までもこなして来ていたが、一瞬で範囲全ての物を修復する力は法外だった。
「終わった――エシス、翼をしまいなさい」
「あ、うん」
竜と『無垢なる物』が共に背中の翼形状の物をしまう。
「じゃ、色々と聞きたいと思うし、色々と話しておく必要もあるから、部屋に戻るわよ」
「あ、ああ」


達彦はラクティの不自然な力に戸惑いつつも頷いた。
「えっと、私も?」
エシスが自分を指差して言う。
「当然よ、蒼の昔の事、知っているのでしょ?」
「蒼って言うより、多分、リルラルの方だけど」
「今となってはどっちも同じよ。――さっ、戻るわよ」
ラクティが言って三人がマンションの方に踵を返した時、達彦の動きが止まった。
「まて、竜が来る」
「誰? 達彦の知っている存在? 移動速度は?」
ラクティの感覚範囲では、まだ気配を捉えられない。
「これは、前にどこかで……似た気配が混じっている。移動はおそらく建造物の上をジャンプしている」
「なら当然、私達に用事という事ね。人払いがまた必要かしら……」
三人、足を止めてしばし来客を待つ。
「私も捉えたわ。んーと――ああ、大体予想が付く相手ね」
ラクティは近付く気配と似た気配を知っていた。
「誰だ?」
「まぁ、もう来るでしょ」
「あ、見えたわよ」
エシスが近くの建物の上を見て言う。
そこに立つ人影がジャンプして達彦達の少し前の路上に着地する。
器官は出していない、戦闘態勢では無い様子だった。
「君は……」
「お久しぶりです。山内先生」
やって来たのは、達彦が一年と少し前に高校教員として出会った夏本真由(なつもとまゆ)だった。
セミロングの髪にリボンを飾る髪型は変わらないが、着ている制服が前の学校の物とは違っていた。
「どうして君が?」
真由は人間だった筈だ。
「先生は、あの時の事をあまり覚えていないかも知れませんが、あの後、七瀬先生の眷属になりました」
「七瀬さんの……」
達彦の中で蒼が小さくなった事件に関する記憶は曖昧だった。
自身が暴走して、それを七瀬と蒼が止めた事は聞き知っているが、それ以上の事はあまり良く知らない。
「七瀬……ああ、あの人ね。このタイミングでの登場という事は、私が知っている事話していいの?」
ラクティが訳知り顔で言う。
「はい、はじめまして、ラクティさんですよね? 七瀬先生から聞いています」
「ええ、はじめまして」
「話はまず私の方からあります。あと、失礼ですが、そちらは?」
エシスを見て言う。
「私? 私はエシス・カリア・リムシィート『無垢なる物』よ」
「私は夏本真由、五竜眷属です」
「五竜眷属!? 五竜がこっちに来ているの?」
エシスが驚いた顔をする。
「その辺も含めてお話しするつもりです」
「分かったわ、ともかく部屋に戻りましょう? 私達、丁度戻るところだったけど貴方が来るみたいだから待っていたの」
ラクティが場をまとめる。
「そうだな、部屋で話でも構わないだろ?」
「はい」
真由が頷き、四人はマンションの中に入って行った。

「合流ポイントへのテレポート完了――リンクシステム停止、デュアルコアモード終了、リステクション(res・ti・tu・tion)コードリジューム」
何度目かのテレポート後にラプリアがリルラルに絡めていた翼のコードを解いて言った。
そこは廃業した店舗の一室という感じの部屋で、床や壁には何かの機材を剥いだ跡と廃品が残っていた。
目張りされた窓から差し込む光が室内に一筋のび、その光に照らされたガラクタから美容院かそれに似たような店だった事が伺えた。
「姉様、アブソリュートディストーションの時間を遅くしてください」
ラプリアがすぐに淡く発光する小剣をリルラルに渡す。
「遅くすればセカンドセーフティーが働かないという事ですか?」
聞きながら小剣の時間を遅くする。
「はい」
「でも、結局この状態では本起動はしないのですよ?」
あくまで刀身が砕ける事を防ぐ手段でしかなかった。
「はい、しかし、時間は稼げます」
「どういう事ですか?」
「それには俺が答えよう」
柱の影からアルバートが現れる。
シワの寄ったジャケットと白のオープンシャツの隙間から金のネックレスが覗いていた。
「貴方がラプリアの現マスターですね?」
気配で分かっていたので特には驚かない。
「ああ」
「蒼様の記憶にあるより軽薄な感じですね。――ラプリア、マスター選びは慎重にしないといけませんよ」
「はい、姉様」
二人顔を見合わせる。
「おいおい、ラプリア、そこは素直に頷くところじゃないだろ」
「『軽薄そう』という外見条件は同意出来ました」
「そうかい」
アルバートが諦めたように言い、
「まっ、とにかく上手く行った様子で良かったよ。作戦についての説明は今からしてやるから、その辺に適当に腰掛けてくれ」
部屋の中には、一応座れそうな物体が幾つかはあった。
アルバートは低めの棚に軽く座った。
「ええ、お願いします。私もまだ状況把握が完全ではありませんから」
壊れ掛けた椅子の一つを修復して腰掛け、さらに先の戦闘で破れた制服を直してから、背中の翼をしまい左腕の装甲を解く。
隣でラプリアは立ったまま無言で翼をしまった。
「なら、まずリルラルは下がってくれ。自分じゃ気付かないかも知れないが、今のお嬢ちゃんの身体で、その状態は負荷がでかい。全てを受け入れる器ではないからな」
「負担が……? 分かりました交代します」
左目がスーッと茶色に戻る。
「――何が問題なんだ?」
蒼が表面化する。
リルラルと蒼の記憶は融合時に混合した為、蒼の人格でも『無垢なる物』に関する知識は全て持っていた。
「お嬢ちゃんは三つに別れた存在なんだ。リルラルが『知識』、お嬢ちゃんが『力』、そしてもう一つ『体』がある。その知識は得ただろ?」
「ああ」
「今のお嬢ちゃんの身体では『知識』と『力』を同時に受け入れるには無理がある。少し間なら可能だが、いずれお嬢ちゃんの身体が崩壊する。真なる器となる『体』が必要となる」
「理解は出来る話だ。――それで『体』は? どこにあるのか目星はついているのか?」
「残念ながらまだだ。だからアブソリュートディストーションの時間を止めたんだ。『体』が見付かり融合した場合、その力なら馬鹿食いするエネルギー消費にも耐えられる計算だからな、それまでの間に壊れない為の時間稼ぎだ」
「そういう事か……しかし、この小剣がそんなに重要なのか?」
まだ手に持つ小剣を目の前に持って来て言う。
いくら脅威になるからと言って、実質、クレイドル最強の『無垢なる物』を使ってまで手に入れる程のものだったとは思えない気がした。
「その剣は、唯一『封印の門番』にも対抗出来る武器だ」
「それは……確かに重要だな」
思っていた以上の答えだった。
リエグの遺産を守り続けているという半ば伝説の門番。
現在まで三千年間、あらゆる開封アプローチを全て弾き返している存在だ。
それを倒す事が出来る武器となれば、クレイドルは何が何でも欲しいだろう。
「ひとまずお嬢ちゃんが無くさず持っていてくれ、一応、これが鞘だ」
アルバートが皮と金属で出来た鞘付きのベルトを蒼に投げて寄越す。
「分かった」
制服のブレザーの下にベルトを巻き小剣をしまう。
「それで、私はこれからどうしたらいいんだ? こっち側に引き込んだんだから、先も考えているんだろ?」
「プランは二つある、万一『体』が見付からなかった場合に備えるプランと、あくまで『体』を探すプランだ」
指を二本立てて言う。
「一つ目のプランを説明してくれ」
「要は、その剣を起動状態に持って行ければいい訳だから、無理矢理にでも起動させる」
「どうやって?」
ラクティが似たような事をしていたが、全ての力を解放する事は出来なかった様子だった。
「起動用の『無垢なる物』のコアを用意する、端的に言うと『無垢なる物』を一体犠牲にして、そのコアを起動用にするという話だ」
「まさか……リルラルのコアを使うとかではないだろうな?」
「蒼様、良くお分かりで」
ラプリアがボソッと言う。
蒼がギョッとした顔で、
「本当に?」
「いえ、冗談です。最悪の場合は私のコアを使用します」
「それは駄目だろ、リルラルが嫌がる」
ホッとしつつも困った顔で言う。
「まぁ、俺としてもラプリアを失うのは本意じゃない。――で、別の候補が居る」
「誰だ?」
「お嬢ちゃんを襲ったエシスだ。あの強さなら充分にアブソリュートディストーションを起動出来る」
「なら、エシスを倒すという事になるのか?」
エシスの強さなら確かに充分だろうと思う。
しかし、倒すとなると大変な気がした。
「ああ、エシスは元々クレイドルに居たからな。色々と弱点は分かっている、まぁ、強制停止コードとかもあったが、それは流石にマスターが変わった今は使えないが」
「戦いやすい相手という事か?」
「まぁ、そうだな。エシスの力の大半を無効にするデバイスも、すでにラプリアに組み込んである」
「それがあって、やられる振りをしたのか? とんだ茶番だったな」
労いの視線をラプリアに向ける。
「いえ、予定通りの行動を取っただけです」
何でも無いというふうに言って、
「ただ、今度会った時に、顔面破損のお礼はします」
「そうか……」
顔を壊された事を割と気にしている様子だった。
「で、どうする? 体を探すか? エシスを倒すか?」
「エシスを倒す方向で私は行きたい。体を探すだけじゃ、事が進まない気がする」
蒼としても、いきなり売られた喧嘩の決着を付けたい相手だった。
「分かった、だったらその方向で動く」
「ああ」
アルバートと蒼が頷き合う。
「そんじゃ、一旦、家に戻るぞ」
立ち上がって言う。
「アジトという事か? 私は今すぐにエシスの所に戻ってもいいぞ」
「それは駄目だ、ラプリアが今日の戦闘で相当疲労している、備蓄エーテルを回復させてからで無いと、今度の戦闘はおそらく危険になる」
「場のエーテル制御合戦になるという事か?」
「それもあるが、おそらく再び空間を区切って、内部のエーテル量を絞ってくる可能性が高い、リルラルの記憶にないか?」
「いや、リルラルの戦闘経験データは、そんなに多くはない」
「聞いた話だと、すぐに封印された様子だしな、強くても色々と知らないという事か」
「ああ、だから戦い方の話を聞かせてくれ」
蒼が素直に教えを請う。
元の自分なら言い出せない事だったかも知れないが、リルラルと融合した事で非常に合理的な判断が出来るようになっていた。
分からない事があるのに無理を通しても仕方なかった。
「OK、じゃ行くぞ、外に車が止めてある」
三人は廃屋を出て、アルバートの駐車してある車に向かった。

5章.変成

「お茶、行き渡ったわね」
達彦宅のリビングに四人が集まり座っていた。
ラクティが各人に紅茶を配って話し合いが開始される。
「じゃ、最初に一つ提案、このまま行くと、おそらく全員の疑問点が少しずつ違うから、話が混乱すると思うの。誰のどの話を先に聞くかで理解度が変わる事もあると思うし」
ラクティがもっともな事を言う。
全員の知っている事と知らない事が明らかにずれている気がした。
このまま話を初めても、三人の知識の差が埋まらないと、いちいち話を戻したりする必要が出てしまう。
「じゃ、どうするんだ?」
「悪いけど、まず私が真由さんから話を聞くわ、その上で達彦の疑問には私が答えて、私の疑問にはエシスに答えてもらうわ」
四人の中で一番情報を纏める能力があるのは、おそらくラクティだろう。
その彼女に知識を集約する事で話をスムーズにするというのは、手段としては正しいと言えた。
「分かった、それで構わない」
「いいわよ、別に」
達彦とエシスが同意する。
「真由さんも、それでいい?」
「はい、構いません。――では、まず何から話せば良いでしょうか? 特に無ければクレイドル――ベリテッド協会の今の目的について、お話したいのですが?」
「そうね、なら、それからお願い、当然、蒼が絡んでいるんでしょ?」
絡んでいなければ連れ去るという事はしないだろう。
「はい、クレイドルの目的はリエグの力の再興と『無垢なる物』のコアの収集です。ですが、それとは別に分割された蒼さんの本当の姿を復活させるために動い ている部署がベリテッド協会と言われています。私はリルラルとの融合を防ぐ為に来たのですが、少し遅かったようですね」
「なぜ、そんな事をクレイドルがするの? リルラルが融合した形が本当の姿ではないの?」
「クレイドルは真の姿の時の蒼さんに恩があるんです。その恩を返す為に、分割封印された蒼さんの真の姿を取り戻そうとしています。リルラルが融合した事で、三分の二は戻りましたが、まだ真なる器が足りません」
「確か、リルラルが蒼は力に当たると言っていたわ、そして自分は知識に当たると、残りは体という事ね?」
「そうです。真なる姿そのものが足りていません。リルラルと融合しただけの蒼さんでは全力は出せない筈ですし、仮に全力を出したとしたら、その身体が持ちません。全力に耐えうる真なる器が必要なのです」
「じゃ、目下、向こうは体を探すのに必死という事?」
「はい、おそらくは」
「そう。それで、そもそも分割された理由は何なの? 当然、それも知っているのでしょ?」
「はい、大戦時クレイドル側に付いた為、その罰として分割封印されたと聞いています。クレイドルはその事を恩に感じています」
「それは……思ったより面倒くさい話みたいね。――で、蒼の本当の姿というのは?」
「五竜の一柱、リティスです」
「はぁ……やっぱり、そういうオチね」
ラクティが悪い予想が当たってしまったという顔をする。
「ちょ、ちょっと待ってよっ! 五竜の一柱? あの子が!?」
その横でエシスが身を乗り出す。
「五竜って、一万年以上生きていて、七千年くらい前にこっちに来たっていう、始まり竜でしょ? もう三体しかいない筈じゃないの?」
「そう言う事にはなっているわね。存在していると言われるのはメリアシスク、ユーシリア、エスリートの三体、真由さんはエスリートの眷属でしょ?」
「はい、そうです、エスリートの眷属です。残り二体はこの空間には居ません、メリアシスクはより高次元に、ユーシリアは異空間にそれぞれ移動しました」
「私としてはエスリートも大戦後にどこかに行って、この世界からは消えたと思っていたわ。それがまだ居て、消滅したと言われているリティスまで、まだ存在しているっていうの?」
エシスが興奮気味に続ける。
それには理由があった。
始まりの五竜は実質、神にも等しい存在であり、竜と関わりのあったリエグの関係者なら崇拝してもおかしくない存在だった。
「そう言う事よ。順番があるからエシスは少し黙っていて、まだ私の番だから」
ラクティが冷めた目で言ってエシスを鎮める。
「どうしてラクティは冷静なのよっ」
「そうね……色々と話していいのよね?」
真由に目線を送る。
「はい、構いません」
「情報解禁という事ね。――私が大して驚かないのは、五竜と一緒に居るからよ、そこの達彦とね」
「――は?」
振られた達彦が間抜けな声を出す。
その後すぐに、
「え? ええええっ!?」
エシスが立ち上がって達彦を指差す。
「はいはい、落ち着いて、達彦は五竜の一柱リブオールよ。それは間違いないわ、ただ、どうして力が実質的に封印されているのかは、分からないけどね」
「それは私が説明します。山内先生の力が封印されたのは、リティスの分割に反対した罰だと聞いています。今の山内先生は五竜として記憶と力の大半を別次元に封印された上で、人の器に転生させられた姿です」
「それは、本当の話なのか?」
当の達彦には、まるで実感が無かった。
「はい、先生は多分途中まで普通の人間として生きて来ましたよね、それ自体は偽りではありませんが、本質的には真実でもありません。全ては人として転生した結果ですから」
「転生って事は、俺はリブオールの生まれ変わりという事か?」
「はい、それも何十代目かの生まれ変わりです。あくまで人として生まれ変わるため、百年くらいで死に、次の対象に転生を繰り返して来ていますから」
「じゃ、俺の前の代の時は、何事もなく人としてその人は死んだというのか?」
「ええ、特に何も事件は起きていませんから、ただ、何時かの世代では少しばかり人では無い力を発揮して、何かに名を残しているかも知れませんが、それは詳しく調べていないので不明です」
「…………」
何も言えなくなる話だった。
達彦が俯き、場が沈黙してしまう。
「――ショックなのは分かるけど、話を進めるわよ」
ラクティが言う。
まだ話さなくてはならない事が残っていた。
「達彦の封印は解く事が出来るの? それとも、今はあくまで人の体という事で無理なの?」
「封印は時間と共に弱っていると聞いています。人の体という制約はありますが、竜の力ならば構成変換可能ですから、内と外から力を掛ければ破れる可能性は高いという話でした」
「ふーん、それで簡単には器官が出せなかったわけね」
「そういう事だと思います」
「じゃあ、少し話を戻すけど、蒼の分割も時間と共に効力が弱まり、ある程度くっつき易くなっていたという事かしら?」
「その可能性は高いと思われます」
「ならクレイドルは、分割封印が弛むタイミングで、リティスの力の受け皿となっている竜を探す為にベリテッドを組織して、竜の捕獲に乗り出した。という事ね」
「そうですね」
「結果、蒼が見付かり、あちらにとって事が上手く運んでいる訳ね」
「残念ながら、その通りです」
「大体状況は分かったわ、あと一つだけいい?」
「構いません」
「エスリート本人はどうしたの? 貴方が駆け付けて来たという事は、こうなる事をある程度予想していたのでしょ?」
「はい、それは、七瀬先生はこうなる前に何とかするように動いていたのですが、クレイドル側に阻まれて、現在、異空間に閉じ込められています」
「五竜を足止め出来る存在がいるという事?」
「その話は後でするつもりです。ただ、七瀬先生は閉じ込められた異空間から、私に至急向かって欲しいという指示をくれただけですから、その指示も眷属の繋がりがあるから、何とか受け取れたような状態で、こちらからはどうする事も出来ない状態です」
「助けは要らないの?」
「そもそも無理だと思われます。異空間は内側から壊すしかない様子ですから」
「そう、分かったわ、マスターが大変な時に色々とありがとう真由」
「いえ、これも七瀬先生の指示ですから」
言って、真由が紅茶を口に運ぶ。
「じゃ、後はエシスに聞くから」
エシスに向き直る。
「私だって色々と知りたいんだけど?」
「後にして、今は私の質問に答えて」
反論しにくい強い口調で言う。
「うーー、まぁ、助けてもらったから、答えてあげるわ」
エシスが渋々と承知する。
「ありがと――じゃ、聞くけど、大戦の時、貴方は蒼に会ったの? リルラルに会ったの? それとも、もっと違う『モノ』と会ったの?」
「顔は蒼、翼は両翼とも『無垢なる物』、中に入っていたのは、多分、リルラルだけど、さっきのリルラルのように理性はなかったわ」
「となると、蒼とは完全に別物という事よね。顔が同じだとしても、分離体の一つがリルラルと融合した結果だと思えば、不思議はないし。理性が無かったというのは融合直後で不安定だったとか」
「さぁ、そこまでは分からないわよ、とにかく洒落が効く相手じゃなかったわ」
思い出すのも恐ろしいという顔をする。
「能力同じだったの?」
「同じよ。ただ、ラクティが来る前に、今は全力が出せないっていうような事を言っていた」
「それは私の読みだと手を抜いていた可能性もあるけど、真の器が手に入るまで全力を出せないのかも知れないわね、或いは、蒼とくっついて能力が落ちたとか」
「より完全に近付いたのに、力が落ちるの?」
不思議そうな顔をする。
「生身の竜と『無垢なる物』の融合っていう無茶をしたのだから、反動がある可能性はあるわ」
「そんなものなの?」
「推測だけどね。あと、当時にリルラルがどうやって止まったのか、貴方は知っている?」
「製作者が強制ストップさせたらしいけど、私はやられて停止していたから、確実な情報じゃないわ」
「ちなみに、それはラプリアが作られた後のこと?」
「そうよ、リルラルは一旦コアに戻された状態で保管されていた時に、何かが取り付いて再起動したの」
「だったら、製作者がストップさせたのでしょうね。理性が無いまま暴れていたら、その内にラプリアと姉妹対決になっていたでしょ? 互い敵を殲滅させていたら、いつかは出会っただろうしね」
「それでつぶし合ってくれていたら、こんな問題にはならなかったのに」
「そうね。じゃ、貴方から聞きたい事は大体いいわ、ありがとう」
「なら私達の質問タイムだね」
やっと来たというように目をキラキラさせる。
「ええ、どうぞ」
ラクティが軽く紅茶を飲んで質問に答える体勢を作る。
「まず、あの注射はなんなの? あり得ないくらいパワーアップしたけど」
戦闘中にラクティが打った注射の事を言う。
「私の本体の血液よ。――こう答えても、意味が分からないとは思うけど」
「当然よ、本体って何よ?」
「この身体以外に私には別の身体があるの、竜的に言うと攻撃相が分離して別の身体になっているの、産まれたときからね」
「身体が二つで産まれたという事?」
「そう。存在が確定した時から私には身体が二つあったの。で、こちらの身体の方に意識があって、もう一つの方は意識も無く攻撃相のまま固まっている身体だったのよ」
「そんな事がありえるの?」
「前例は知らないわ。でも一つだけ分かっている事がある、攻撃相の身体は力の消耗が激しすぎて、仮に融合した場合、百年も持たず死んでしまうという事よ。だから産まれて一度も融合した事がないし、結果、今の私には攻撃相が出せないの」
竜の寿命は、その意思力の強さに関係があり、並の竜でも五千年程度は生きる。
それが百年になってしまうという事は、五十倍の速度で消耗するという事だった。
「じゃ、つまり注射で強くなったのはどういう事なの?」
「本体の力を取り込んだだけ、負担が大きすぎて対価として内臓一個くらい破壊されるけど、すぐに寿命を削って治せるから、一時的に戦闘力を上げるには役立つわ」
あっさりとした口調でえぐい事を言う。
「どれくらい削るのよ?」
「そうね、別に厳密には決まっていないけど、一度に入れる血の量に比例して身体が蝕まれるから、治すために削る寿命の量も増えるわ。さっきの例だと連続二本で百年くらいかしら」
「それって、五十本くらい打ったら死ぬって事?」
ラクティはすでに三千年生きている、仮に残り二千五百年でも単純計算で五十本が限界だった。
「連続で打てばそうなるわね、でも、五十本分も本体の血を抜いたら、本体が死んでしまうから無理よ。それに、そこまでするなら本体と融合した方が早いわ」
ある意味当然な事だった。
「確かに……。それで今まで何本打ったのよ? 減った寿命は戻らないのでしょ?」
「あら、そんな事を答える必要があるかしら? 私の死期を計算したいの?」
ラクティが答えながら、優雅な動作で紅茶を飲む。
その姿は全てに対して威圧感を発していた。
「それは、別に、そんなつもりはないけど……」
エシスが食い下がる。
彼女は先の戦闘で結果的にラクティに助けられていた。
その事でラクティの寿命が減っていると思うと、居心地が悪い。
返せる借りなら返しておきたかったし、返せない借りなら、その重さがどの程度なのか知っておきたかった。
「寿命を何とかする方法はないの?」
「そうね、同等以上の竜を飲み込めば理論的には寿命が延びるわ。相手の意識も取り込むから、それを殺さないと、その後『私』では無くなってしまうけど」
「……」
実質、借りを返すのは不可能だと言う回答だった。
「あと他に聞きたい事はある?」
「あるわ、その指輪は?」
エシスがラクティの右中指に填る指輪をさして言う。
宝石の付いていない金の指輪だが、よく見ると細かい文字が表面に彫られていた。
「これはリエグ以前に竜が作った物、竜は間粒子を直接使うから、エーテルを大して重要視していなかったのだけど、折角世界に溢れているからと、研究した時期もあるの、その時に作られたエーテルデバイススレイバーよ」
「私のエーテル循環を回復させたのも、それよね? まさか、それ『無垢なる物』も一つのデバイスとして奴隷化出来る品物だったりするの?」
エーテル循環とは『無垢なる物』にとって血流のようなものだった。
それが止まると、ただの素体に戻り、さらにはコアまで還元されてしまう。
「あら、よく分かるわね」
ラクティが涼しい顔で言う。
「……」
エシスが能面のような顔でラクティから距離を取る。
「でも、心配しなくても平気よ、意思がある物をスレイブ化するには、この指輪じゃ出力が足りないから。精々、相手のエーテル循環に干渉するくらい、それも相手が弱っているか、同意の時にね」
「ほ、ホントでしょうね?」
カクカクした動きで聞く。
「嘘を吐いても仕方ないわ、――それで、あと何かある?」
「う、ううん、今はいいわ」
「そう。じゃ、達彦何かある? そろそろショックから立ち直った?」
達彦の顔を覗き込むようにして聞く。
「あ、ああ。お前、かなり無茶したんだな、体調は本当に問題ないのか?」
「血を打った後は力が満ちているから回復はすぐよ。寿命は減るけど、それは体調には影響しないから」
「そうか――お前の決断なら止めはしないが、早死にするような事は出来ればしないでくれ」
達彦が真面目な顔で言う。
「分かっているわ、特別な時じゃなければこんな事をしないわ、貴方の為にもね」
ラクティが達彦に向けて柔らかく微笑む。
その顔を見た真由が、
「あ、えっと、お二人はそう言う関係なのですか?」
少し意外そうな顔をする。
「ええ、何か問題?」
「いえ、山内先生は、その……蒼さんと仲が良かったように記憶していたので」
「いや、それは――」
達彦が口籠もる。
一言で説明出来る話ではなかった。
「まぁ、色々あったのよ。それに今はそんな話じゃないでしょ?」
ラクティが達彦の代わりに言う。
「そ、そうですね、失礼しました」
「分かってくれればいいわ。――で、達彦、他に質問は?」
「ああ、次は蒼の事だ、蒼は結局どうなったんだ? 説明は一応聞いていたが、もう一度教えてくれ」
「状況的にはラプリア側に付いたという事かしらね。蒼は元々ラプリアと関係があったのよ」
「どんな関係があったんだ?」
「蒼の一部が、昔にラプリアの姉であるリルラルと融合していて、そのリルラルと蒼がさっき融合したの。蒼はその事に同意していたみたいだから、無理矢理では無かった様子ね」
「じゃ、蒼はこの先、さっき話に出ていた真なる器を求める事になるのか?」
「私が蒼の立場なら、そうするわ」
「現状で蒼の本人の意識はあるのか?」
「あるみたいね、リルラルと同居しているみたい」
「なら、その上で蒼はラクティに敵対したのか?」
「完全に敵対意識があるかは分からないわ、ただ、蒼はリルラルの意思を尊重した様子よ、だから、ラプリア側に付いたという感じね」
「そうか……」
蒼が何を考えていたのかは達彦には分からない。
ただ、説明を聞くと達彦の側に付く合理的な理由はない気がした。
感情的にどうなのかは、それこそ本当に当人にしか分からない話だ。
「あとは何かあるかしら?」
「いや、今はいい」
情報を整理する為の時間が欲しかった。
「そう、だったら少し休憩しましょう。――お茶のおかわりを作るわね」
ラクティが席を立ってキッチンに向かう。
「あ、私、お手伝いします」
真由も席を立った。
エシスは、微妙な面持ちで何か考えを巡らせている様子だった。
しばらくは静かにしているだろう。
と――。
「ん」
達彦のポケットの中の携帯が震えた。
「――美佑?」
取り出してみると美佑からの着信だった。
このタイミングで美佑が自分に対して掛けて来るという事は、今起きている事に何かしら関係がある気がしてならなかった。
そして、携帯が掛かった事で、ふと蒼の携帯の事を思い出す。
今も掛かる状態になっているのだろうか?
「とりあえず」
その思考を一旦置いて美佑からの電話に出る。
蒼の事は後で確かめれば良い。
「もしもし」
『あ、達彦さん、今、そっちで何か起きていますよね、もしかしたら、ラクティさんもいますか?』
やや興奮した様子の美佑の声。
「ああ、起きている。ラクティもいるが、どうしてそう思ったんだ?」
相当に現状に関係ある様子だった。
『その、私の眷属としての力が、いきなり跳ね上がったんです、知識も一緒に増えて、これ、凄すぎて……』
「蒼の事が、そっちに影響したのか……、こっちに来れば状況説明出来るが、今、動けるかい?」
『は、はい、すぐ行きます。――では』
通話が切られた。
本当に焦っている様子だった。
「さて……」
携帯を握ったまま、先程、端に置いた事を考える。
蒼に掛けてみたらどうなるのか?
電源を切っている可能性も高いが、案外忘れてONのままかも知れない。
どちらにせよ時間が経つにつれて掛からなくなる可能性が上がる。
「駄目もとか」
達彦は蒼へ電話を掛ける事にした。

アルバートが運転する車の後部シートに、蒼とラプリアが座っていた。
車は目立つ事のないセダン型で内装も至って普通のものだった。
「あ――」
「蒼様、携帯ですか?」
蒼の制服のポケットに入っている携帯電話の振動に、蒼とラプリアの両方が気付いた。
取り出して着信を見る。
「……達彦か」
それだけ確認して電源を切ろうとする。
「出ないのですか?」
ラプリアが小首を傾げて言う。
「いや、出たらまずいだろ」
「別に構わないぜ、今、知られてマズイ事は特にないしな。ただ、通話を終えたら目的地に着く前に電源は切ってくれ」
運転席からアルバートが言う。
車の中から見える景色的に、都市部に向かっている様子だった。
「分かった」
蒼は通話ボタンを押した。
『もしもし、蒼か?』
「ああ、何だ?」
『いや、その、出るとは思わなかった』
「達彦が掛けて来たんだろ?」
『そうだが、今、無事なのか?』
「何も問題はない、あったら電話に出る筈がないだろ?」
『今、どこに居るんだ?』
「車の中だ」
『どこかに移動中という事か、誰が運転しているんだ?』
「達彦には関係ない事だ」
『そうか、言える筈ないよな、お前はそっち側に付いたんだろ?』
「成り行きだ、それに、この身体の別の意思が決めた事でもある」
『リルラルか?』
「知っているなら話は早い、リルラルが居る状態でそっち側に付く事は出来ない」
『そうだろうな、確かに……』
「分かったのなら、もういいか?」
『最後に聞く、仮にそっち側が俺達を殺す事になった場合、お前は俺達と戦う気があるのか?』
「今、答える事ではない」
『――分かった』
「じゃ、美佑の事を頼む」
蒼はそこで通話を切った。
達彦の返事を確認する精神的余裕が無かった。
今さら、どうしたら良いか迷っている自分がいる事に気付いてしまったからだ。
本当に『成り行き』でこうなってしまったに過ぎない。
現状、リルラルと融合した事を悔やむ気は全くないが、自分の立ち位置についてはぶれている部分があった。
達彦の側に戻る事が出来ないのは確定だとしても、達彦を敵に回すというのは想像出来なかった。
ラクティを攻撃しておいて自分自身おかしいと思っても、割り切れる事ではなかった。
元々、達彦に会うのが辛いと思っていたところで起きた事件だった。
もう会う必要は無くなったが、それはそれで蒼の心をぐらつかせた。
「蒼様、大丈夫ですか?」
何時までも携帯を握っている蒼に対してラプリアが言う。
「あ、ああ、別に何でもない」
電源を落としてポケットにしまう。
「目的地まで後二十分程で到着。それまで、お休みください」
ラプリアには蒼が疲れているように見えた様子だった。
「いや、何でもない」
「分かりました。――では、私は静かにしています」
ラプリアがそのまま口を閉じる。
蒼に気を遣っての行為だった。
「……」
ラプリアが黙ったので、蒼は窓から外を見ながら決まらない答えを考え続けた。

美佑が達彦の家に急いでやって来てから数分が経っていた。
その間にラクティと真由が美佑の事を調べ、割とあっさり結論が出てしまう。
「これは、あれね――五竜の眷属として目覚めたというか、それに相応しくなったというか、美佑の場合、達彦の血も飲んでいるから、手に負えないというか、行きすぎてしまったというか、そんな感じよ」
ラクティがリビングに居る面々を前に自分と真由の見立てをまとめて言う。
「それは、つまり、私が凄く強くなったと……」
美佑がどこか他人事のように言う。
余程急いでいたのか、制服姿のままだった。
「はい、それだけの力の自覚はあると思います。現状、同じ五竜眷属である私より力は上になっています」
「それは……でも、急に頭の中に知識だけ流れ込んで来ても、全くやった事のない事ばかりでは、全然実感が……」
「その辺りは、私が同じ立ち位置の存在として、分かり易く説明します」
真由が自分の胸に手を置いて言う。
「お、お願いします」
「眷属は基本的に主人の竜をサポートする存在ですが、五竜の眷属となると、サポートの水準もより高レベルになります、仮に五竜同士が戦った場合はサポート要員である眷属の質が戦いを左右すると言っても良いくらいです」
「そ、そんなに重要なんですか?」
「はい、五竜の力は拮抗しているため、そのまま戦うとほとんどの場合、一対一では勝負が付きません。だから、眷属の質が少しでも高い方が戦いを有利に出来ます」
「それは何となく分かる気がします」
力が等しいもの同士が戦った場合、一瞬の隙や、ちょっとの運の差、また、第三者の協力の有無で勝負が分かれる。
さらに両者が桁違いに強い場合は、隙や運と言った要素が影響する割合が下がって行き、ほんの僅かなブレのようなもので勝負が決まってしまう。
その状態で第三者が介入する事は、互いにブレを意図的に起こす事でもあり、勝負の行方が大きく変わっても当然と言えた。
「具体的な例を挙げると、力を発動させる為に必要な間粒子の奪い合いを決着させるかリセットさせるか、そのどちらかの状況を有利にした方が勝利に繋がります。その為の力を五竜眷属は持っています。それは空間遮蔽能力と開放能力です」
「空間を閉じる事で使える粒子の量を限定して、より支配しやすくするという事ですか?」
「はい。閉じた空間内で五竜が互いに空間内の間粒子を支配下に置こうとした場合、その支配率は五割ずつになり、勝負は実質、自身が溜めている力の差によっ て決着します、また、意図せず閉じ込められた時は、その空間を破壊する事で使える粒子の量を増やして逆転を狙う事になります」
「それって、閉じたり開いたりにならないか?」
達彦が素直な疑問を口にする。
「そうですね、ですから、閉じた空間を破られないように眷属が頑張る形になります。それから、短時間の内に同じ空間座標内で何度も空間を閉じる事は次元に 残留痕を付ける為、物理的に二回が限界なので、破られた後に、もう一度閉じるのが実質の決着になります」
「だとすると、私が閉じる側なら、閉じた後、頑張れるかで勝負が決まるという事ですか?」
美佑が少し分かって来たという顔で聞く。
「はい、備えなく閉じる事はまず無いので、基本的には閉じた段階で閉じた方が有利ですから」
「そうですね。なら、逆に破る側になる時の例として、私が蒼ちゃんの側にいない時に蒼ちゃんが閉じ込められたら、その事が分かって外からの干渉は出来るのですか?」
「はい、大体はテレパシーで連絡があります。今回も私に七瀬先生から連絡がありました。それから外からの干渉は当然可能です」
真由の答えを聞いて、達彦は矛盾を感じた。
「その話、さっき七瀬先生が内から破るしか無いって、言わなかったか?」
美佑が来る前に話していた事だった。
閉じ込められた七瀬を外から何とかする方法は無いと真由は言っていた。
「はい、七瀬先生が閉じ込められているのは、単に遮蔽された空間ではなく、完全に別の異空間だからです。五竜もしくはそれと同格の存在は神と同等の力を一部有するため、イデアの実を作り出す能力があります。簡単に言うと想像を現実にする力です」
「デミウルゴス――プラトンの論理ね、後ですると言って話、今からするつもりでしょ?」
ラクティが口を挟む。
世界の裏には完全なる存在があり、その影が投影される形で現実界が出来ているとする考え方だ。
万物を創造した完全な神がデミウルゴスだ。
その力―神力を持ってすれば、全ての物を創造する事が可能となる。
「はい、私が行うサポートの話と関係があったので。――イデア論は人が辿り着いた理屈としては的を射ているので言葉を利用させて戴いています。五竜の神力 の強さでは万物の創造とまでは行きませんが、消耗を度外視すれば何もない異空間を作り出す事くらいは可能です。今回、七瀬先生は、そうして作られた異空間 に捕らわれています」
「敵が五竜という事はないでしょ? 誰が異空間を作り出したの?」
それだけの強さの相手となると限られて来る。
「はい、五竜ではありません。敵の詳しい正体は分かりませんが、その強さから大戦以前に五竜が倒した筈の強い魔竜の生き残りかと思われます」
「やっぱりね、そんな魔竜が居たのね」
魔竜とは、人という形に固定されている間粒子と意識力を吸収して、人を喰らい続けるだけ強くなる竜の敵となる存在だ。
強さに際限が無いため、いつかは神に近付いてもおかしくはない。
それを阻止する為に竜は魔竜を狩っていた。
元々、人を喰らう魔竜がこの世界に渡り来て、放置出来ない強さになってしまったため、竜が追い掛けて来たという構図があった。
ラクティはエスリートが絡んで来ている時点で、クレイドル側に魔竜の存在を疑っていた。
「その魔竜はクレイドルといつから組んでいるの?」
「怪しいと七瀬先生が思ったのは一年くらい前だと聞いています。ただ、それ以前から接触があった様子です」
「魔竜はその事に気付いたエスリートを異空間に閉じ込めたという事ね。でも、法外な力を使ったという事は、閉じ込めるだけで、その後、エスリートを倒す力は残らないという事よね」
戦う事が目的だとするなら、普通に隔離空間を作り出した筈だった。
「はい、相手を異空間に閉じ込めるなどという事は、普通出来てもしません。激しく消耗する割に、効果は足止めだけですから。ただ、確かに足止めとしての効果は絶対的なものがありますが」
「エスリートの動きがそれだけ邪魔だったという事かしらね」
簡単に始末出来ず、どうしても邪魔な相手が居たとしたら、一旦足止めするという事もあり得るだろう。
「しかし、実質、相手の動きも止まる事になります。組織としては動けるでしょうが、異空間を創造した魔竜は、消耗からしばらく動けないかと」
「それだけの意味があったのでしょうね。ともかく、やっと話が見えて来たわ、大戦前から居る古い魔竜は、すでに人を喰らう必要が無い程に力を蓄えている。 だから、私達の通常の狩りには引っ掛からない。その上で竜に恨みがあって潜伏したままクレイドルに協力するというのは、ある事だろうし、クレイドルが魔竜 の求めに応じて竜を捕らえるというのも理解出来るもの」
ラクティが自分の理屈を確かめるように頷きながら言う。
確かに筋の通った考え方だった。
狩られる側の魔竜が竜を恨むのは当たり前の事だと言える。
「いや、納得するのは待ってくれ」
達彦が少し難しい顔で言う。
「なに?」
「多分、このメンツの中では俺が一番、話の理解度が低いと思うのだが、前に俺が見た魔竜は意思の疎通が出来るような相手じゃ無かったんだが、まともに理性があるタイプもいるのか?」
約一年前に達彦が遭遇した魔竜は、ただの化け物でしかなかった。
少なくても理性があるタイプとは思えなかった。
「魔竜にもタイプは色々あるわ、それに意思が育たず強くなるというのは、力を制御出来ず自爆する道よ。長く存在している魔竜は竜と大差ないわ。形態も人型になる事がほとんどよ」
「そうなのか」
実際に見た事がない以上、ラクティの話を信じておくしかない状況だった。
他のメンツから特に異論が出ない事からも、意思のある魔竜も居るという事なのだろう。
「なら、大体疑問は解決した? 他に何か疑問がある人はいる?」
ラクティが周りを見渡して言う。
特に声を上げるメンツは居なかった。
「じゃ、ひとまず会議終了ね。――それで」
ラクティが真由を見る。
「真由さんはこの後どうするの? エスリートからの指示は蒼とリルラルの融合を防ぐ事だったのでしょ?」
「はい、でも、他に皆さんのサポートの為に来たつもりですから、しばらくは滞在します。この先、空間遮断が出来る人材が必要だと思いますし」
「エスリートの事はいいの?」
自らの主が身動き出来ない状態というのは気になるだろう。
「心配ですが外からどうにも出来ません、ですから、私としては、まずは美佑さんに力の使い方を個別指導したいと思うのですが」
真由が美佑を見遣ると目が合う。
「それは、私からもお願いします」
「では、決まりですね」
美佑と真由が頷き合う。
「なら、二人はそれでいいとして私達はどうする? ご飯でも食べる?」
ラクティが達彦とエシスを見る。
「よくも、そんな呑気な事が言えるわね、私なんて、まだ状況が凄すぎて整理出来ていないのに」
エシスが真面目な顔で言う。
達彦は無言だった。
「私はある程度推測が付いていたからよ。知らなかった二人はショックが大きいかも知れないわね」
「それはショックよ、五竜が絡んでいるとか。――この後どういう方向に動くの? 戦う場合、どう考えてもこちらの戦力不足なんだけど」
「そうね、私は竜として魔竜を倒すのは義務のようなものだから、それを優先して、クレイドルの中の魔竜を何とかしてみようと思うわ」
「五竜クラスの相手に勝てるって言うの?」
「勝ち負けだけで状況が決まる訳ではないわよ。それで貴方はどうするの? アブソリュートディストーションか無くなった今、この状況だと貴方が私達に積極的に協力する理由は無いと思うのだけど」
「『無垢なる物』はクレイドルと敵対しているのよ、ここで抜ける理由の方がないわよ」
「あら、元々クレイドル側に居たドールとは思えない発言ね」
「そんなの関係ないわ、マスターの居る側の意見に従うだけ。とても合理的な判断よ」
「そうね――」
エシスの発言を軽く受ける。
皮肉のように言った言葉は、あくまで確認だった。
ドールに個人的愛着のようなものは実質皆無であるという事だ。
マスターが好きと言ったものを好み、マスターが嫌うものを嫌う。
それが本来の形の『無垢なる物』だった。
故に、いつでもマスター次第で、敵にも味方にもなる存在だと言えた。
だとすると、ラプリアのマスターが敵なのかという点は、まだ疑問だった。
立ち位置が不透明過ぎた。
クレイドル内で最強のドールであるラプリアをホイホイと使える立場が、組織で低い位置の筈がない。
その上で、最初に出会った時に消せた筈の自分達に何もしなかった。
後々、敵になる事が分かっていて野放にしたとも思えた。
それに今回撤退した事も不可解だった。
戦いの状況的に、少なくても数の上では一対二であり、ラプリア側の方が優勢だった。
「何よ、急に黙って」
エシスが考え込むラクティに対して言う。
「いえ、貴方が単純で助かったという事を思っていただけよ」
適当にはぐらかす。
「むーー、何よ、コロコロ付く相手を変えるのが、信用出来ないとでも?」
ほっぺを膨らませる。
「別にそう言う話じゃないわ、むしろ逆よ。単純さを誇りに思っていいわ」
「むむ、それはそれで納得出来ないわよっ」
グーに握った手をブンブンと振るう。
怒っているエシスは、ちょっと可愛いかもとラクティは思いつつ、
「だったら、気にしなくていいわ、まぁ、貴方の立ち位置は分かったから、後は達彦ね、貴方はどうする気?」
あっさりと流して、達彦に話を振る。
「俺か……俺は……」
達彦は答えを詰まらせた。
何をするべきか見えなくなって来ていた。
達彦にはラクティのように竜として魔竜を狩る意思はない。
また蒼との事は、さっきの電話の内容的にも説得するのは無理に思えた。
それに、元々蒼と気まずくなっていた時に、蒼が出て行く事態になってしまったのは致命的だった。
「なぁ、俺が答える前に一つ聞くが、ラクティは蒼に対して、この先どういう姿勢で当たるんだ? 敵として当たるのか?」
「そうね――今の蒼が自身の真の器を取り戻そうとするなら、敵になるのかも知れないわ。リルラルとの融合を解けば良いという話ではないみたいだから」
「そうか……」
「達彦は蒼を諦め切れないの?」
「いや、実はさっき電話したら繋がったんだが、すぐに切られた。色々と無理っぽい」
「あら、出るには出たのね、ちなみに聞くけど、後ろの音とかどういう状況だったか分かる?」
「多分車に乗っていた」
「そっ、なら、しばらくは何もない可能性が高そうね」
どこかに移動しているという事は、達彦達に関係ない目的を少なくとも一つは解決した後、次のアクションを取ると考えられた。
そうで無いなら、わざわざ撤退した不可解な行動の意味が無い事になってしまう。
「それで、もう一度聞くけど、達彦はどうするの?」
「そうだな……俺はお前について行くよ。何かの役には立つだろ」
「そんな受け身な意見でいいの?」
「今の俺には能動的になる為の要因がない」
「――分かったわ。だったら、後で私に付き合って」
「ああ」
「なら、これで話は終わりね。そろそろ夕ご飯の支度をするわ、何人食べる?」
リビングを見渡して言う。
五人分の食材ストックは無いため、五人全員が食べるとなった場合、買い物に行く必要があった。
「達彦とエシスは自動的として、貴方達はどうする? 食べていく? というより真由さんはどこに滞在するの?」
「私は近くにホテルをとろうと思っていたのですが」
真由が言うと、美佑が反応した。
「だったら、私の家に来てください。力の使い方を学びたいですから」
「迷惑じゃないの?」
「いえ」
「そう、なら、お邪魔させて貰うわね」
「じゃ二人はこのまま帰る?」
「はい、帰ります。急に出て来たので、一旦戻りたいのもありますから」
「分かったわ、何かあったら連絡するから」
「はい、それでは」
美佑が席を立つと、真由も続いて席を立った。
「では私も」
「ええ、じゃあ」
「ああ、また」
ラクティと達彦が挨拶を返して、美佑と真由が玄関から出て行った。
外はすでに日が落ちかけ、暗くなり始めていた。

アルバートが車を停めたのは、繁華街から少し入ったところにある喫茶店の駐車スペースだった。
茶屋がある立地としては悪くない場所で、専用の駐車場まで構えている点からしても、ある程度繁盛しているように見えるお店だった。
ただ、今日は休業日なのか店の入り口には『closed』のプレートが下がっていた。
「ここが目的地か?」
蒼が怪訝な顔をする。
これから話す内容は、喫茶店の中で話すような事には思えなかったからだ。
「ああ、一応自宅だからな」
「……は?」
思わず間抜けな声を上げてしまう。
「茶店が自宅じゃ問題あるか?」
「なら、アルバートがマスターなのか?」
「ああ」
即答だった。
「……」
思っていなかった展開に蒼は絶句した。
そして、ラプリアの姿を改めて見て気付く。
「ラプリアが給仕なのか?」
「その通りです、蒼様」
無駄に装飾の多いメイド服も、喫茶店の衣装だと考えれば納得出来た。
しかし、それ以外の事は全く納得出来なかった。
「なぜ喫茶店なんだ? 他の従業員は?」
まず大きな疑問をぶつけて見る。
「酒系の店でも良かったんだが、ラプリアの外見年齢的に諦めただけだ。他の従業員はいない、ラプリアはスーパーウェイトレスだからな」
「いや、そもそも何故、店舗を構えているんだ、という話だ」
根本の疑問はそれだった。
「趣味だ。それにアンケート葉書やらに『秘密家業』とも書けんだろ、適当な仕事をしている必要があったんだよ」
アルバートの回答は、蒼が知りたい事とは微妙にずれていた。
アンケート葉書に答える事が、そんなに重要とも思えない。
その上、趣味と言い切られると他に突っ込んで聞けなくなってしまう。
「――分かった。それで、店員二人が出払っているから、今は閉まっていると」
「ああ、そうだ。今日はもう開ける気はない。明日は開けるがな」
「そんな事で、お客は大丈夫なのか?」
「常連は不定期に店が休みになる事になれている。一応、隠れた名店なんでな」
「…………」
これ以上、質問する事の方が余計に疑問を増やすような気がした。
「とりあえず中に入るぞ。――勝手口はこっちだ」
三人が茶店の裏手にある従業員口から店内に入る。
建物は三階建てで、一階は完全に喫茶店のスペース。
二階と三階が居住スペースとなっていた。
入ってすぐの階段を上がり、二階の居住スペースに入るところで靴を脱ぐ。
「おじゃまする」
「姉様、ここは『ただいま』です」
「いや……私は……」
新たに帰る場所が出来たという認識をすぐに持つ事は出来なかった。
この先、ずっと同じ場所に帰還する可能性の方が低いかも知れない。
「何か問題がありますか?」
「ん……た、ただいま」
ぎこちなく言って室内に上がる。
特に変わった事の無い普通の家の内部だった。
リビングに進み、
「とりあえず飯か風呂だ、お嬢ちゃんはどっちが先がいい?」
アルバートが着ていたジャケットを、そこにあったソファーに投げ捨てて言う。
「そんな場合なのか? 色々と詳しい話が聞きたいのだが」
「家に帰ったら、まずは休息だろ、どうしても話がしたいならラプリアとするといい、ラプリアは疲れ知らずだからな」
「さっき、ラプリアが消耗していると言わなかったか?」
そう聞いた気がした。
「戦闘用の力を消耗しているだけだ。日常生活をする分には何も差し支えはない」
「じゃあ、今から話をする気はアルバートには無い訳だな?」
「ああ、だからラプリアに聞いてくれ。そうだな、何なら先に風呂に一緒に入るといい。俺は酒でも飲んで待っている」
アルバートがどっかとソファーに腰掛ける。
ジャケットを下に敷いてもお構いなしだった。
「マスター、シワになります」
「気にするな、それより風呂を用意してお嬢ちゃんと入って来い」
「了解しました。――蒼様、こちらです」
ラプリアが蒼の手を取る。
「あ、ああ」
二人は浴室とキッチンのあるスペースに向かった。
建物の二階部分はキッチンとリビングとトイレと風呂。
三階部分が寝室とその他という間取りになっていた。
「瞬間給湯装置ですが、本当の意味で瞬間ではないので、少々お待ち下さい」
ラプリアがキッチン脇の風呂のコンソールを操作して丁寧に言う。
「ああ」
蒼もそれくらいの事は分かっていたが、突っ込む事はせずに頷いた。
「こちらへ」
ラプリアが言う場所に簡易椅子が二つあった。
料理の合間などに腰掛ける椅子に見えた。
その椅子に隣り合って座る。
「蒼様、一つ伺います」
「なんだ?」
「現状で姉様の知識をどの程度まで、蒼様の方で把握しておられるのですか?」
「そうだな、個人的な記憶以外は大半共有している、ただ、リルラルの戦闘経験は特殊過ぎるから、使える物だとは思えない。だから、私が聞きたいのは主にその辺りの事だ」
「分かりました。では、戦闘に関する事をお教えします」
「頼む」
そこで会話が途切れて、二人、風呂にお湯が張るまでを無言で待つ。
共に自ら進んで会話する方では無かった。
やがて、お湯が溜まり合図のブザーが鳴った。
「蒼様」
「ああ」
二人立ち上がって脱衣所に向かう。
そこで服を脱ぎ始めて、蒼はふと一つの事を思い出した。
ラプリアの空間歪曲防御の事だ。
常時展開されていて、その姿ですら、歪曲面に自らの姿を投影させているだけだという話。
つまり、ラプリアが服を脱ぐという行為は、空間歪曲防壁の外に服を出す事なのか、それとも、着ているように見えている服は、実は歪曲面に映している立体映像でしかないのか?
考えると、とても気になる事柄だった。
リルラルの知識にもその事は無かった。
ラプリアが脱ぎ始めるのを観察してしまう。
「……何ですか? 蒼様?」
「いや、ラプリアは常時、身体の表面全てに防壁を展開しているんだろ? 服を脱ぐとか、どうやってやるんだ?」
「現状、薄い膜を服の上から全て被っていると考えてください。膜は非常に薄く、外から私の肌を触っても、肌触りは普通の素肌と変わりません」
ラプリアがその手の甲を蒼に触らせる。
すでに何度か触っているが、改めて撫でると、確かに普通の人間の肌にしか思えなかった。
「服を脱ぐという事を便宜上する場合は、膜の内側で服の構成を分解して消し去ります。一瞬で消す事も出来ますが、マスターが味気ないと仰るので、一枚一枚脱ぐように消し去る事にしています」
「そうしたら、膜は服があった空間分余らないのか?」
「即座に身体に密着します。問題ありません」
「じゃ、絶えずその膜の内側に居るって事なのか?」
とても息苦しい気がする話だった。
「膜という表現だと色々と語弊があるかも知れませんが、あくまで例えです。蒼様が私の肌を素肌だと感じたように、私も蒼様の素肌を防壁の内側から感知出来ます」
「そうなのか……まぁ、ラプリアに不便が無いなら、それでいいんだろうけど」
「はい、一時一部を開放する事は出来ます。例えば、エシスに顔面を破壊された時などはそうしていましたが、基本的に空間歪曲防壁は絶えず私を守っています」
「なら、何か受け取って身につける時は、防壁の内部に入れて、そこで何とかするのか?」
「そうなります、分解出来るものなら分解して装着する事もあります。服などはそうです」
「その状態でお風呂とか、完全防水膜に守られて入る事になって、それで問題ないのか?」
服を着て入っているような気がした。
「身体を清潔にするという意味に置いては無意味だと思われます。防壁面の汚れはすぐに消去出来ますし、自動的に消去されています」
「だったら、付き合わせて悪い」
「いえ、娯楽としての意味はあります」
「それなら、いいんだが……」
「まだ、何か?」
「いや……」
ラプリアがどうやって服を着たり脱いだりするのか分かったが、もう一つ気になる事があった。
防壁の内側にある本当のラプリアについてだ。
防壁の内側で服を着替えているにしろ、防壁は光すら曲げていると聞いた。
つまり、防壁に対してラプリアが服を投影しているから外から確認出来るだけだ。
そうなるとラプリアが何をどう投影するかはラプリアの自由な訳で、防壁の内側は一体どうなっているかは、完全に謎だった。
深く考えないなら、そのままの姿を防壁に投影しているとするべきだろう。
しかし、深く考えると……。
「防壁に対して投影している自己の姿に対して、自由度はあるのか?」
蒼は思い切って聞いた。
その瞬間、ラプリアが不自然に動きを止めて、
「……その質問に対しての回答は出来ません。姉様ですら知り得ない事の筈です」
ことさら機械のような口調で言った。
「わ、分かった。ごめん」
反射的に謝ってしまう。
触れてはならない領域なのだと悟る。
「いえ――では服を脱いで、お風呂へ」
「あ、ああ」
二人は共に服を脱いで髪を軽くアップにまとめ、浴室に入った。
二人の身長差はラプリアの方が二十センチは大きい。
外見年齢的にも、蒼がお子様なのに対してラプリアは中学生以上に見えた。
その差は裸になった時にもはっきりと分かり、蒼のまな板ボディーに対して、ラプリアの身体は控えめだが、出るところはそれなりに出て均整を保っていた。
「……」
ドールは全て美しく作られているという知識が蒼の頭にはあった。
確かにラプリアの身体は綺麗だった。
それが、本当の身体を投影しているかどうかなど、些細な事だと思える美しさだった。
「なんでしょうか?」
「いや、私は随分と子供の身体だな、と思っただけだ。一年前はラプリアと同じくらいだったんだが」
「本当の器を取り戻せば良いだけです。では、お背中を流します」
「じゃ、頼む」
蒼がお風呂椅子に腰掛けて、後ろにラプリアが立つ。
一昨日、ラクティと同じような状況になった事を思い出す。
僅かな間で色々な事が変わってしまった。
まさか、ラプリアに背中を流してもらう事になるとは思ってもいなかった。
「掛け湯をします」
ラプリアが手桶にお湯を汲んで、蒼の背中に掛ける。
暖かい刺激が心地よい。
冷えるように痛む身体の不調は、リルラルと融合した事ですっかり消えていた。
あのまま苦しむよりは確かに今の方が数段良い。
その為に捨てなくてはならない物があった事は事実だが、後悔しても意味の無い事だった。
どの道、真なる器を手に入れる為には、リルラルとの融合が必要であり、自己の再生という新たな目標は、とてもすんなり納得出来る話だった。
現状の選択が正しかったと、気持ちに区切りを付ける。
「そう言えば、融合前に助けてくれて、ありがとう」
ラプリアへのお礼がまだだった事を思い出す。
「いえ、問題ありません」
「あの時、すぐに助けに来たという事は、近くにずっと居たのか?」
「はい、エシスの行動には予想が付いていたので、機を伺っていました」
「だとすると、私がピンチになる時を待っていたという事だな」
「はい、そういった状況にならない限り蒼様が姉様を受け入れる事は無いと、マスターは考えていたので」
「そうか」
ラプリアは、まるで悪びれた様子なく作戦の裏を話した。
仲間に引き込む相手を、あえて一度危険に晒して、その事を理由に説得するというのは、狡猾といえば狡猾だ。
「気に触る事でしたか?」
気付いたというふうに言う。
「いや、この状況になった以上、過程は関係ない。それより、これからの戦い方を教えてくれ」
話を本題に切り替える。
「少々お待ちください。このまま洗い場で話をすると、蒼様が冷えますので湯船に」
「そうだな」
蒼が立ち上がり、その間にラプリアが自らに掛け湯をして、二人で浴槽に入った。
浴槽の広さは二人入っても窮屈ではないサイズだった。
「まず、姉様の特性を蒼様にお話しします。知識だけでは足りない事もあると思われます」
「ああ」
「姉様は私とは違い、完全自立型ドールです。ですが、現状、蒼様に従う形を取る事になると思われます」
「それは融合の時に聞いた」
身体を借りる代償として命令には従う――という約束の元の融合だった。
「そうだとするなら、形式上、蒼様は姉様のマスターという事になります。私は、その上で蒼様に対して接する形になります」
ラプリアが自分に対しての優位度に付いて語る。
それはラプリアにとっては重要な事なのだろうと蒼は思った。
ただ、
「そんなに固くなる事はない。あと、別に『様』付けでなくてもいいぞ」
気になっていた事だけ言った。
「そうは参りません、蒼様」
「ドールとしての規律問題か?」
「はい、機械の私には出来ない話です」
「分かった、無理にとは言わない」
ドールは作られた時の規定や制限を余程の事がない限り破れない。
非自立型の『無垢なる物』の制限について詳しい訳ではないが、ラプリアは特に制限が多いように感じた。
融合しているリルラルは実験型自立ドールのため制限はほぼ何もない。
ただ唯一、製作者であるグランドマスターの命令に従う規則があるが、その規則ですら、蒼と融合した今、蒼の意思で曲げる事が可能だった。
「姉様はドールの中でも特別です。姉様と同等の自由意思を持つドールは、私の知識の中では存在しません」
「そうなのか?」
自分が知っている他の『無垢なる物』について考える。
自由意思が無いと言えるようなドールとは逆に出会った事がなかった。
さっき見たエシスも随分とのびのびやっているように見えた。
「説明は難度が高いので省きます。ただ『無垢なる物』には気持ちというものが存在しません。そうみえるものは、見せかけの演算プログラムだと認識してください」
「……」
何とも答えにくい話だった。
気持ちが無いという事は、感情が無い事と同じだ。
激高したエシスに怒りの感情が無かったとは思えなかった。
「話が逸れました、姉様の特性について話を続けます。姉様の固有能力は対象にエーテル干渉して特殊フィールドを作り、そのものを構成している間粒子の時間を制御する力です」
「その力は目の前で使われていたから、一応理解している」
能力の結果として、今もアブソリュートディストーションの時間を遅くしていた。
「はい。能力によって物体や現象の時間を操作するフィールドを形成可能です。ただ意思の力によって纏まっている物体、人や竜、『無垢なる物』の時間に干渉する事は出来ません」
「分かった」
自己を加速させて攻撃に使うなどは出来ないという話だった。
「また、リミッターを解除する事で、意図した対象全てを自動的に制御下におく事が可能になりますが、現状、使えるのは残り七回です」
「ああ、リルラルから聞いている」
先程の戦闘において、リルラルが全方向ディレイを発生させた時、背中の八枚の羽の一枚が消滅した事がリミッターを解除した証だった。
一枚一枚に大量のエーテルが固定されていて、それを使用する事で能力の上限を超えた力を使う事が出来た。
羽はリエグの技術がある時ならば再生可能だったが、現在では不可能となっていた。
「私としては切り札という認識だ。私がメインに出ている時なら七回まで使えるが、その後、リルラルが表面化出来なくなる。それを考えたら実質六回が限界だ」
リルラル自体の起動維持の為に、最低一枚はエーテル吸収器官として残す必要があった。
「姉様の事を考えて戴ける気持ちは、勿体ないと考えます。仮に全ての羽を使う事になっても、姉様のコアが消える事はありません。その後、リエグの力が手に入れば回復させる事が可能です」
「割とドライな意見だな」
もっと姉の事を思っている気がしていた。
「いえ、物が一歩退くのは当然です。あくまで蒼様が生き残ってこそ、価値があります」
「……分かった」
ラプリアの卑屈とも言える態度には慣れる必要があると思った。
表面上は合わせないと話が進まなくなってしまう。
その上で、自分がラプリアとリルラルの事をちゃんと考えれば問題ない筈だと思い直す。
「では、次の話をします。私も姉様も広域破壊型の能力は持ち合わせていません。故に、エシスなどの広域破壊能力を持つ相手とは相性が余り良いとは言えません。これからエシスと戦う時、大戦時に暴走してエシスを倒している事は忘れてください」
「ああ、大戦時の戦闘データの記憶を覗いたが、あの時のリルラルは半ば精神体として存在して、リミッターも無くなっていたようだからな」
「はい、霧散する前のリティスの知識の器の意識との融合だったため、肉体を持った現状とは状況が違います」
「それは理解している」
リティスが分離した時、力の器に対して蒼の意識が産まれ、知識の器に対しても別の意識が産まれた。
しかし、知識の器が意識を持つ事は、自らの分離体の回収を始めてしまう事を意味するため、その意識は生じた瞬間に五竜によって消されてしまった。
だが、五竜にも完全に消し切る事は出来ず、僅かに残った意識の破片が密かにリルラルの封印されたコアを依り代に復活し、霧散してしまう前にリティスの知識をリルラルに引き継がせたのだ。
その時に暴走状態になったのは、薄れた意識の中で強まった生存本能のようなものだったのかも知れない。また、その記憶はリルラルにもはっきりとは残っておらず、リルラル自体が後で推測した結論だった。
「暴走中にリルラルがエシスと戦った記憶は細かくは残っていない、ただ圧倒的な力で倒したというだけだ」
「敵味方関係無しに約三十体の『無垢なる物』を機能停止にしたと聞いています。その中にはエシスクラスも数体居た様子ですから、その時の力は私と比べて遜色なかったと言う事になります」
「本来のスペックでは同等だとリルラルが言っているが」
蒼がリルラルの言葉を代弁する。
リルラルと蒼は、どちらが表面化している時でも情報を共有していた。
蒼が表に出ている時でもリルラルは全ての事を見聞きしている事になる。
「自身の周りの時間を完全操作出来る状態なら、そう言えますが、現状、基本防御力という点では私よりはるかに劣ります。元々が実験個体ですから戦闘仕様ではありません。そこを考えて行動してください」
「いや、その事はそんなに問題視する事はない。私の身体能力が使える今、余程の不意打ちでも無い限り、攻撃は避けきれる」
「お言葉ですが、私の不意打ちを回避出来なかった事、説明して戴けますか?」
ラプリアが嫌味に聞こえる事を言う。
しかし、本人には全くその気は無く、単に言葉の裏付けを提示して欲しいという意味だった。
感情を持たないという意味が、ラプリアを見ていると分かる部分もある気がした。
蒼は特に気にする事なく、
「あの時の私は万全では無かった。ある事で、この身体のサイズになってしまい、それ以降ずっと本調子ではなかった。今は問題ない、身体のサイズは変わらないが力は昔と同等に戻っている」
リルラルと融合した事で元の自分くらいの力は戻っていた。
「こちらの資料だと、蒼様は近接戦闘型の竜となっていますが」
「ああ」
そこまで分析されている事は多少意外だった。
以前よりクレイドルに捕捉されていたという事だろう。
「その点では姉様と相性が良いですが、再び、私が不意打ちしたら回避出来ますか?」
「最悪でも直撃は回避出来ると思う」
蒼の自信だった。
近接戦闘だけなら元の力はラクティより上だと思っていた。
「分かりました。――では、次に力の危険性についてお話しします。これは、姉様の方に主に関係がありますが、真なる器が手に入る前に、姉様の意識下で姉様 の知識にあるリティスの能力を使う事は非常に危険です。竜としての力の上限は蒼様の意識にある範囲に留めてください」
「アルバートがリルラルが出ているだけで、負担が大きいと言っていた事と関係あるのか?」
「はい、竜と『無垢なる物』の同化自体が、元々リティスが確立した技術であり、今の蒼様の身体では長時間の同化状態維持は困難です。推測となりますが、連続十二時間程度の同化で、蒼様の器官がオーバーヒートすると思われます」
「オーバーヒート……つまり、間粒子の吸収が出来なくなるという事か?」
生体部分に対して機械的な言葉を使われても、しっくり来なかった。
「そうです。極度の疲労蓄積による機能停止と言い換えられます。その段階で同化状態の維持は困難となり、数十時間の休憩が不可欠になります。また、先に十二時間と示した時間は、力の使い方によっては短くなる事もあります」
「分かった、気を付ける。それでリティスの知識は私も共有しているが、私が竜として使うのも問題なのか?」
「その線引きは蒼様当人にしか出来ません。今の蒼様の出力で『明らかに不可能』だと思われる間粒子操作や戦闘方法を行えば、その反動が当然身体に来ます。 蒼様が使用して反動の無い技ならば、姉様と同化している時に使用しても問題ありません。そう言った意味でも、力の上限は蒼様の意識の範囲内という事になり ます」
「反動の具体的な例は、器官が停止する以外に何かあるのか?」
「最悪、構成パーツの分解や蒼様の生命稼働停止などがあり得ます」
「……穏やかな話ではないな。確かに、使ったらマズイ気がする技の知識はあるが」
使用して死ぬ程だとは思わなかった。
少しの間動けなくなるくらいのリスクなら、リルラルの羽を使用しない新たな切り札になるかと考えていたが、諦めるしかなかった。
「力と知識が合わさった今、全ての力を使用する事が可能です。ただ、それを発現させる実体が脆弱だという事です」
「早く器を探さないとな」
「はい」
結論として、真なる器の発見まで蒼は本気で戦えない事になる。
アブソリュートディストーションをエシスのコアを使って起動に持って行ったとしても、その後、封印の門番との対決がある以上、蒼の力が戻っていた方が有利な事は明白だった。
その意味でも、なるべくなら器探しもしたいが、未だクレイドルが見付けられていない物を、蒼一人で見付けられる筈もなかった。
「しかし、今はどの道エシスを倒す事を考えるしかないか」
「その事で、マスターが言った話の続きがあります。エシスは空間閉鎖能力を有しています。閉鎖された空間ではエーテルの量が限られる為、どれだけエーテルを支配する事が出来るかで勝負が決まります」
「空間閉鎖はラプリアも出来るだろ? なら、仮にエシスに閉鎖されても破る事もさっきみたいに出来ると思うが?」
「他者の閉じた閉鎖空間を破壊するには、閉じる事の倍の力を使います。その上で策が無ければ再び閉じられてしまいます。また、同じ場所では二回以上の空間 遮蔽は空間に出来る歪みの為、物理的に不可能です。その為、再び空間を破れば閉じ込められる事は無くなりますが、その段階の消耗差で、すでに決着が付いて いると言えます」
「なら、先に閉じるように動くか、こちらに備えがある時にあえて相手に閉じさせるようにする必要があるという事だな」
「はい、五竜であるリティスの知識と力を使えば、蒼様にも空間閉鎖は可能ですが反動があると予想される為、その辺りの事は全て私が担当します」
「ああ、分かった。頼む」
「閉じた空間では、とにかく素早く間粒子とエーテルを支配下に置いてください。相手がエシスのみなら、こちらは間粒子を直接支配出来る竜がいる分、有利になります」
「ラプリアの粒子支配力も相当だろ?」
竜であるラクティが負ける程の支配力だった。
「はい、ただ、エシスの側も対策を取ると考えられるので、私の粒子支配も万能ではありません」
「そうか……まぁ、その時は何とかする」
「では、基本的な話はここまでです。他に知りたい事はありますか?」
ラプリアが質問する側なのに、少しだけ小首を傾げて言う。
「エシスを倒す具体的な作戦はあるのか?」
決まっているなら、是非に聞いておきたかった。
「基本的な事は決まっています。エシスは性格的に戦いを好むので、誘い出す事は容易です」
「だろうな」
少ししかエシスの事を知らないが、好戦的である事は良く分かった。
「数日は私の力の回復を待つ事になります。その後、エシスを襲撃します」
「エシスの所在は分かるのか?」
「予想では、蒼様のお知り合いの所から移動する確率は低いです。仮に移動した場合でも、行く場所はレーナの所しかあり得ません」
「分かった、なら、ラプリアの回復までは待つだけだな」
今のところの結論が出る。
知りたい事も急ぎでは特に無かった。
蒼とラプリアはしばらく湯船に浸かった後、身体と髪を洗ってから浴室を出た。
「あ――」
ふと、着替えが無い事に蒼が気付く。
普通なら忘れる筈の無い事だったが、流石に色々とあって他の事で頭が一杯だったという事だろう。
着ていた制服と下着をそのまま着るしか無いと考えていると、
「蒼様、どうかしましたか?」
ほぼ瞬間的に着替えを終えていたラプリアが、蒼の事を覗き込む。
「いや、着替えが無かったと思って」
「そうでした。失念していました。申し訳ありません」
ペコリと頭を下げて謝る。
「別にラプリアが謝る事じゃない、急な事だったし」
「いえ、こちらが蒼様を迎える事は確定でしたので、用意しておくべきでした」
「気にしなくていい、今日は、そのまま着るから」
さっきまで穿いていた下着を再び身につける。
「いえ、少々お待ちください。マスターに聞いて来ます」
ラプリアが一人脱衣所から出て行った。
「……しばらく居るなら、どの道、色々と用意しないと駄目だな」
服だけでなく日用品も必要だと思いつつラプリアを待つ。
三分程ショーツ一枚でたたずみ、
「お待たせしました」
戻って来たラプリアの手には上下の下着があった。
「ラプリアの替えか?」
「はい、サイズの問題は身につけた後に調整します」
「分かった」
いま穿いたショーツを脱いで、ラプリアの持って来た物を穿く。
ブラを身につけると、当然のように胸とブラの間に隙間が出来た。
「調整を――思うままに縮め」
ラプリアがブラに触れて呟くと、ブラのサイズが蒼にピッタリの物に変わる。
「ありがとう」
「いえ、手際が悪く申し訳ありません。この後は夕食の予定ですが、パジャマに着替えますか? でしたら用意します」
「いや、この制服のままでいい。他の着る物は明日にでも用意すればいい」
ついでに生活必需品を買い揃える予定を立てる。
お金は多少荒っぽいやり方になるが、カードや判子が無くても、窓口で記憶操作をすれば自分の口座から引き出す事が出来た。
本当はカードを取りに帰りたい所だが流石に無理だった。
「分かりました。では、明日買い物に同伴します」
「ああ、すまない、こちらからも頼む」
言いながら着替えを済ませて行く。
「ただ、お店があるので手の空いた時間になりますが、良いですか?」
「問題ない」
アルバートが明日は店を開けると言っていた。
二人がどんな店員振りなのかを見る事が出来ると思うと、多少、興味はある話だった。
「では、私は夕食の準備のために先に失礼します」
「分かった。着替え終わったらリビングに行けばいいか?」
「はい、マスターが居ると思います。――それでは」
ラプリアが再び脱衣所から出て行った。
出てすぐ脇がキッチンなので、わざわざ断って出て行く程の事でも無いのだが、その辺りがラプリアらしいところだと、今までの会話から理解出来た。
蒼は髪をその場にあったドライヤーで乾かしてから、制服に袖を通して、アブソリュートディストーションを腰に巻いてからリビングに向かった。

6章.そうだとしても

窓のない部屋に沢山の医療器材が置かれ、そこで数名の全身防備のスタッフが慌ただしく動き回っていた。
部屋の中央には場違いに豪奢な椅子が置かれ、そこに一人の少女が眠るように座っていた。
少女はまたも場違いな赤い振り袖を優美に着こなし、その姿は完成された日本人形のようにも見えた。
そして、その振り袖の袖からは、幾本ものコードが伸び、周囲の医療機器と繋がっていた。
少女が治療を受けているにしては、明らかに通常と言われる範疇を越えた状況だった。
「バイタル正常値に移行しました」
一つのモニターを見ていた男の声が、防護服のスピーカー越しに響く。
「意識が戻られるぞ」
別のスタッフが言う。
部屋に居た他のスタッフ達が、その声に反応して豪奢な椅子の前に並んだ。
医療機器の微細な機械音だけが響く空間の中で、少女の閉じられていた瞳が開く。
「――戻ったぞ、皆、ご苦労」
眼前に並ぶ者達を見て言う。
「無事のご帰還、何よりで御座います」
スタッフの中の一人が前に出る。
「そう大袈裟な事でもあるまい。今、余の身体の状態はどうなっておる?」
「はっ、元来よりの生体パーツが三割ほど機能停止、エーテル機関での補佐率が、その分上昇しております」
「ふむ、そんなものか。――スピリチュアルトランスクリプトの方は進行したか?」
「エーテル基に89パーセントまで完了しております」
「そうか、まずは、そちらの進行を急げ、余は今一度眠る」
「はっ、了解致しました」
返事を聞いた後、少女は再び瞳を閉じた。

「こっちよ」
ラクティがデパートの地下駐車場で、達彦の前に立って歩く。
夕食の後、電車でラクティの家である街のデパートに来ていた。
「こんな所に何があるんだ?」
「私の個人的スペースよ、――あ、そこで止まって」
「ああ」
コンクリートの壁の数歩前で達彦を止めて、ラクティ自身は壁に手を付く。
「ラー・リフ・*・る・あ・***」
聞き慣れない竜語による詠唱の後、壁に金属の扉が出現して、そこが開く。
その隙間からチョコチョコと縫いぐるみのサラマンダーが出て来た。
「留守番ご苦労様、言っていた準備は出来ている?」
ラクティが聞くと、サラマンダーがコクリと頷く。
「そう。じゃ、達彦付いて来て」
ラクティが扉の内側に達彦を招く。
「秘密の隠し部屋ってところか?」
「そんなところね、まっ、入って」
「ああ」
達彦が扉を潜ると自動的に扉が重い音と共に閉まる。
中は蛍光灯に照らされた小部屋で、下る階段が一つだけあった。
ラクティとサラマンダーがその階段を降りて行くので、達彦もそれに従った。
降りてすぐ、何処かの貸倉庫のような空間に出て、大量のロッカーが整然と並んでいた。
「ここは?」
「私物置き場よ、三千年も生きていれば色々と溜まるの、凄いお宝もあるわよ」
「ほぅ」
ラクティが集めたお宝というと至上の品々が想像された。
「まっ、今回は関係ないわ。武器とかあれば良かったのだけど、私、そう言うのは興味が無いから集めていないの、用事があるのは次の階よ」
「そうか」
どうやらお宝を見る事は出来ない様子だった。
少し残念に思いつつも、ラクティの後について通路を進み、現れた次の階段を降りる。
「今度は何ともケミカルな感じだな」
「ええ、私の本体を管理している場所だから、維持の為の設備がここにあるの」
降りた場所は、剥き出しの配管が並ぶ化学工場のような場所だった。
「夕方、話していたお前の別の身体という奴か」
「そうよ、このデパートは本体の維持の為に私が建てた物なの。私という意識が抜け出ているけど、本体は本体で生きているし食事もしているから」
「……」
食事と聞いて、ある事が頭に過ぎる。
竜も人の意識を喰らう事が出来て、その方法がもっとも効率の良い力の吸収方法だった。
魔竜のように全てを喰らい人を殺める事は無いが、少しの量を喰らっている竜は普通に存在していると、蒼から聞いた事があった。
「ふふ、嫌な事を考えている顔ね」
ラクティが達彦の考えを見透かすように笑う。
「私も綺麗事を言う気はないわ、本体の維持の為にデパートという設備を使って人を喰らっているわ、こういった場所は、人の強い感情が集まるから、それを吸 い上げているの、昔は遊園地を管理していた事もあるけど、あれはあれで面倒だからデパートに替えてみたの」
「それだけ大食いという事か?」
達彦は人を喰らわずとも生きていられた。
喰らわなくては維持出来ない程の存在が、ラクティの本体という事になる。
「私が抜けているから制御が難しいのよ。私が入れば多分ある程度抑制出来るとは思うけどね、今の時点ではかなり大食いだと言うしかないわ」
「そうか」
「とにかく、こっちよ」
ラクティが管の這わされた通路を進み、一つの扉の前で立ち止まる。
コンクリートの壁に取り付けられた頑丈そうな金属の扉だった。
と、ラクティが屈み込み、
「サラマンダーは向こうで準備していて、後から行くから」
足下の縫いぐるみに言うと、サラマンダーがテクテクと別方向に歩いて行った。
そして、ラクティは達彦に振り返り、
「この中にいるけど。一応確認するわ、見る気はある? 見たくないなら見なくてもいいわ、ここに来た用事はもう一つあるから」
真剣な目で見つめる。
その目線が僅かに揺れている事に達彦は気付いた。
本体を見せる事に対しての迷いなのだろうか?
その事は逆に、見る事に何らかの覚悟がいると言っているようなものだった。
「興味だけなら見たいが、そう言う話じゃない様子だな」
ラクティの気持ちを察して言う。
「誰かに見せるのは初めてだから」
視線を逸らして呟く。
珍しく弱気にみえた。
まるで、見せる事を怖がっているようにも見えた。
「分かった。何があったとしても、その事で俺の気持ちが変わる事はないから」
ラクティを安心させるように言う。
「そう、じゃ、ついて来て」
素っ気なく言って扉を開ける。
「――これは」
その扉の厚さに達彦は驚いた。
三十センチは軽くあり、つまり、中は三十センチのコンクリートの壁に仕切られた空間という事だった。
さらに、その空間の中にはもう一つ白いプラスチックの壁に仕切られた部屋があり、二重構造になっていた。
「原子炉並の防護よ。このプラスチックの壁は、それ自体が結界になっていて、外からの全ての探査を素通りさせ、内からの力をある程度は吸収出来るようになっているわ」
言いながら、プラスチックの壁にある扉を開ける。
開ける瞬間、ノブの周りを詩編の発動による光輪が一瞬だけ回った。
「早く入って、隠している物だから」
「ああ」
ラクティの招きに応じて、プラスチックの壁の扉の中に入る。
そこは、水族館の中というのが一番近いイメージの場所だった。
中央に天井から伸びた大きな円筒形のガラス筒が置かれ、その周辺に椅子やモニターが置かれている。
思ったよりは簡素な部屋だったが、
「くっ」
達彦はそのガラス筒から異様な威圧感を覚えた。
ガラスは曇っていて中が見えないが、そこにラクティの本体が安置されている事は明らかだった。
「シェードを取るわよ」
「ああ」
ラクティがモニター近くの機材のスイッチを押す。
ガラスの曇りが徐々に晴れて行く――。
「これは……鎧?」
血肉の色をした鎧がそこにはあった。
シャープな突起が目を引くデザインで、表面が脈動しており、鎧自体が生きている事が分かる。
全体の型は人型をしているが、首から上が存在せず腰の上くらいから鱗のようなパーツで出来た長い尾が生えていた。
「自分で言うのも変だけど、結構グロイでしょ? 生肉で作った鎧という感じかしら」
「……固いのか柔らかいのか不明な有り様だな」
外装は柔らかそうな肉に見えるが、形作られている雰囲気は鉱物で出来た鎧のようだった。
「割と固いわよ。表面の直ぐ下に外骨格のような骨があるから」
「首が無いのはラクティが入っていないという事なのか?」
中にラクティが入る事で装着完了となる鎧にしか見えなかった。
「少し違うわ。これは私の攻撃相だと言ったと思うけど、今の私は仮初めの肉体なの」
「つまり、どういう事だ?」
「この肉体は、ある竜がくれたものなの、言い方を変えれば遺品よ。だから、小さいまま成長しない。私が小さい事、不思議に思わなかった?」
「まぁ、多少は……」
蒼が縮んだ事で慣れていたが、ラクティが竜として成人している筈なのに小さい事は確かに疑問に思っていた事だった。
ただ、仮に本人が趣味で縮んでいるのだとしたら、深くは聞けない事なので触れないでいただけだ。
「達彦は蒼がちっちゃいから耐性があったのかもね。竜の身体のサイズは偽装している場合以外、小さい程弱いわ。だって、背中の器官がその分小さくなるからね」
「その身体の事、聞いていいのか?」
遺品という言葉が気になった。
「ええ、あえて言えば恩人の身体よ。竜はこの世界に五竜が来てから『ある時その場に産まれる存在』になったの、でも前触れはあるのよ、それを感知して産まれる竜に最初の知識を与える竜がいる、この身体は、私が産まれた時、私に知識を伝えに来た竜のもの」
「なら、まさか、その竜を……」
ラクティは産まれた時から攻撃相が分離していて、しかも、一度も融合していないと言っていた。
だとしたら、産まれた時に今のボディを手に入れたという事だ。
そうなると結論は限られる。
「殺したという事なのか?」
達彦は躊躇い気味に聞いた。
「割とストレートに聞くのね?」
ラクティが微妙な笑顔を作る。
「いや、すまない」
「ううん、謝る事じゃないわ、私の話し方だと、そうとしか思えないでしょうし、それで事実だから」
ラクティは、そこで言葉を切って、とても真面目な顔で続けた。
「私はそのままでは死す定めだったの、けど、私の所に来てくれた竜が、自分の身を差し出してくれた事で私は生きながらえている。その時、その竜にトドメを刺したのは間違いなく私」
「…………」
「そんなに深刻になる話じゃないわ、もう三千年前の話よ。――それより、今の事を達彦と相談したいの」
「あ、ああ」
ラクティの口ぶりは割り切っている風にも思えたが、どこか引き摺っている部分もあるようにも見えた。
そして、当人は無理をしてでも引き摺らないようにしている気がした。
「こっちの本体の事だけど、正直、この先の戦いで使うべきか迷っているの」
話題の変更は、引き摺りたくないという気持ちの表れだろう。
「使えば、実質『死』だろ」
達彦はラクティに合わせて答えた。
「即死では無いけど、結果的にはそうね。でも、仮にその場で殺されるような事態が起きたら、使うしかないでしょ?」
「それはそうだが」
「正直、ラプリアクラス一体なら何とか出来ない事はないと思うの、でも、二体同時は無理だと思うわ」
「先の戦闘では退けたんだろ?」
「向こうが引いただけよ、戦い続けていたら負けていたと思う」
「じゃ、向こうが全力で来る事態になったら、本体と融合するって事か?」
「いえ、逆よ。今の私達に向こうが戦いを仕掛けて来る価値があるとは思えない。むしろ、私の方がこれからクレイドルを探る段階で、あちらに全力で挑む必要が出ると思っているの」
「事が決定的になったら、融合してから仕掛けるという事か?」
「ええ、だから、そうだとして、達彦に聞きたいの、私が本体と融合する事を貴方はどう思う?」
ラクティが自身の不安と迷いを誤魔化すように手の指を絡めてクルクルと回す。
まるで見た事のない仕草だった。
「……」
死んでしまうと分かっている以上、簡単に決断出来る話ではない。
さらに、達彦の事を信用して自身の弱さをあえて晒しているのが良く分かった。
真剣に考えて答える必要があった。
「無理に勧める事は到底出来ない」
沈黙の後、達彦は一番伝えたい事を言った。
ラクティに死んで欲しくない。
それが達彦の正直な気持ちだった。
「……ありがとう、心配してくれて」
「当然だろ」
自分に好意を持ってくれている相手の事だ。
心配して当然だった。
「うん……でも、嬉しいから。――達彦の気持ちは分かったわ」
「それで、ラクティはどうする気なんだ?」
「私は……いえ、今は、ごめんなさい、ここでは答えられないわ」
言い掛けて急に謝る。
「そうか、だったら無理に聞く気はない」
「ありがとう、優しいのね」
「ラクティ自身の事だからな、最終的な事はラクティが決めるしかない。それだけだ」
「確かにそうね……分かったわ。本当にありがとう」
続けて三度目の感謝の言葉と共に、ラクティは頭を下げた。
「そんなに感謝されるような事は言ってないぞ」
達彦は照れ臭くなってしまう。
「いいえ。――じゃ、ここはもういいから、移動するわ」
ラクティがガラス筒のシェードを戻して踵を返す。
その顔はどこか晴れやかなものに見えた。
二人で部屋を出て、また配管剥き出しの通路を進む、地下はかなり広く、しばらく進んだところで別の扉の前でラクティが立ち止まった。
またも頑丈そうな金属の扉だった。
「ここは?」
「詩編の発動実験室よ、大掛かりな竜詩の発動を確かめる部屋」
「で、何をするんだ?」
「貴方の力の封印について調べるの、五竜が施したものだと分かった今、ある事を試したいのよ」
「前に言っていた、俺の身体の中から力を引き出すという話か?」
「封印の質が分かったから、ことさら無理にという訳でもないわ、とにかく入って」
ラクティが扉を開けて中に入る。
達彦もそれに続いた。
中は広い防音室のような場所で、壁一面が穴の開いた白いプレートに覆われ、床と天井は互いにすり鉢状に窪み、互いの距離は約五メートル。そして宙に不思議なバスケットボール大の球体が五つ程浮かんでいた。
その球体の一つにサラマンダーが乗っている。
「用意出来ている?」
ラクティが聞くと、サラマンダーが『コクリ』と頷いた。
「じゃ、達彦、部屋の中心、窪みの底に行って」
「まず、何をどうするのか聞きたいのだが?」
「目的は貴方の器官を引きずり出す事。方法は、貴方の生存本能を刺激して内側から封印を破る力を強める、その上で私は外側から封印の綻びを探して、そこを広げるわ。弱っているという話だったから」
ラクティが器用に球体の一つに飛び乗って腰掛けつつ言う。
「話だけ聞くと、非常に恐ろしいのだが」
「そうね、死ぬほど痛めつける事になるから覚悟はいると思うわ」
あくまでサラッと言う。
「おいおい、冗談だろ?」
「本気よ」
「マジか?」
「マジよ」
即答だった。
達彦はゴクリとツバを飲んだ。
そして咄嗟に出口に向かって駆け出す。
「サラマンダー、ロック」
ラクティの命令に合わせて、扉がガコンと嫌な音を立てて閉まる。
「待て、殺す気かっ!?」
「強くなる為の対価は必要よ」
ラクティは笑顔だった。
「それは、理解しない事はないが、急過ぎる」
「事態が急変した事は理解しているでしょ? 変に部屋の端にいると、余計危ないわよ。覚悟を決めなさい」
「うっ」
逃げ道の無い状況だった。
ラクティは本体との融合を死ぬ覚悟で臨もうとしている。
その状態で自分だけ逃げるというのは、考えてみると出来ない。
達彦は部屋の中心、窪みの真ん中に移動して、
「やるなら、やれ」
「それでいいわ。一応この部屋の設備を説明しておくわね、ここは詩編現象の圧縮や分解が出来る場所なの、この部屋限定で力を強めたり、弱めたり出来るとい う事だと思って、で、貴方の身体に負荷を掛けるのだけど、どんな負荷が良い? 凍結や炎上だとダメージが大きすぎるから、加重か電撃辺りがいいと思うのだ けど」
「いや、電撃でも死ぬし、燃えるだろ」
「死なない程度に一点に集めるから」
「だったら、加重でやってくれ」
ビリビリされるよりはマシだと思った。
「分かったわ。サラマンダー、加重設定よ」
特にサラマンダーは動かないが、何かをしたのだろう。
そして、すぐに、
「じゃ始めるから、達彦は器官を出す事をイメージしておいて、出した事が無いに近いと難しいかも知れないけど」
「分かった」
「では、詩編スタート」
「くっ!!」
想像を超えた重みが達彦の身体に掛かる。
耐えきれず床に膝をつく。
身体中がミシミシと音を立て、頭が締め付けられる。
また呼吸も苦しくなり、肺を膨らませる事が出来なくなる。
当然言葉も出ない。
ただ歯を食い縛り、全身の軋みに耐えるしかなかった。
「さて、後は私の方ね、解析開始、竜語発音形態に咽喉部対応――ィ・*??」
ラクティの声が人の耳には聞き取れない領域のものに変化する。
ある種、甲高い音が室内に木霊して、達彦の周りに光の殻が発生する。
その殻の表面を沢山の詩編文字が躍り乱れて、封印の解析を進めて行く。
五分間その状態が続き、
「ぐぅっ!!」
呻くような悲鳴に合わせて達彦が吐血する。
白い床に血溜まりが出来る。
ラクティの表情が険しい物に変わった。
解析されて行く封印の構造を頭の中で整理して、その綻びを開くポイントを探る。
五竜の施した封印を解く事は、ある意味、スパコンがやる地球環境のシミュレーションより難しい。
手掛かり無しでは何年掛かるか分からない。
しかし、ラクティはエスリートが一度封印をこじ開けている現場を見ていた。
手掛かりはその時にエスリートが発した古代竜語の発音だった。
それを記憶を頼りに再現して行く。
近い音を何度も試して封印の緩みを探った。
聞き取れない声の発生が続き、急にラクティの顔がハッとなる。
「――ェ、達彦、聞こえてないかも知れないけど、踏ん張りなさい、綻びを広げるわ」
発音が人語に戻り、達彦の周りを取り巻く光の殻の形が変化する。
二点を軸に膨れあがり達彦の背に器官の形を構成して行く。
「器官分のスペースは広げたわよ、後は内側から生えてくれば……」
生えるかどうかは、残りは全て達彦次第だった。
達彦は身が潰れそうになりながら、自身の身体に器官が生える事をイメージし続けた。
そして、ラクティが封印を緩めて数秒後――。
達彦の背中の一部が内側から少し盛り上がった。
「サラマンダー、加重レベルを下げて」
器官が出るなら、一時的に負荷を下げた方が出やすいと思い、指示を出す。
「っ――くはぁっ!」
達彦が空気を思い切り吸い込み、
「ゲ、ゴホッ! ゴホッ! ガハッ!」
激しく咳き込む。
加重が弛んだ事で、締め付けられていた肺が再び動き始めた様子だった。
同時に背中の膨らみが大きくなり服を突き破る。
「成功ね」
その後、ほぼ瞬間的に達彦の背に器官が構成された。
五竜の一柱リブオールの器官が現れる。
それは黒くエナメルに光る器官で、蒼やラクティのように複数枚出るのでは無く、二枚の巨大な器官が鳥の翼のような形状で伸びるものだった。
翼自体は小さなプレート状の羽により形作られ、そのまま鳥の翼を連想する事が出来た。
ただ、質感が硬質であり、羽の数も鳥に比べれば少なく、何処か抽象的なイメージな翼と言えた。
また、大きさ自体は、根元から翼の先までで三メートル程はあり、ラクティ達の器官の倍はあった。
「思ったより巨大ね……。サラマンダー、治癒の詩編を発動させて、私も力を注ぎ込むから」
感想を呟き、達彦の身体の傷の治療に入る。
すぐに達彦を覆っていた光の殻が消え、替わりに光のリングが何重にも達彦の身体の周りを回る。
「もう少し苦しいと思うけど我慢して、治療しているから、達彦も器官が出ているのだから、自分で間粒子を集めてみて、自己回復が早まる筈よ」
「っ、そうは、言うがな……がっ、ガハッ!」
達彦がなおも吐血しながら答える。
「後で頑張ったご褒美くらい上げるから、気張りなさい、達彦だって治りたいでしょ」
「わかった……っ」
褒美が欲しい訳ではないが、このまま回復せずという訳にもいかなかった。
自身の器官に集中して、そこに感覚がある事を確かめる。
「これが……器官か……」
今まで感じた事のない間粒子を吸収する為の器官の存在。
それは呼吸する為の『穴』がもう一つ増えたような感覚だった。
その穴を通して一気に力が集まって来る。
「思ったより凄いな……」
傷付いた部位に対して集めた力が分散して行き、その場を修復して行く。
「今まで器官無しで生きていたのだから、急に器官を手に入れたら、それは凄いと思うわよ」
「確かに」
達彦の身体が急速に元に戻り、膝をついていた姿勢から立ち上がる。
「治ったようね」
「ああ」
全身の痛みは完全に消えていた。
「ある意味、高地トレーニングをずっと続けていたような物ね、平地に戻ったら、その分パワー増す的な展開。今の達彦の身体能力は並の竜の倍くらいはあると思うわ」
器官が無い状態を低酸素状態と例えた話だ。
「倍かどうかの実感は無いけどな」
「そうね、自身では分からないかも知れないわね。でも、元々の力を考えたら倍でも控えめな話よ、貴方は五竜なのだから、それこそ十倍といっても良いくらい」
「十倍ね、ますます実感のない話だ」
「ともかく実験は成功したから、次は器官の使い方を含めて身体の動かし方を叩き込む段階ね、身体能力だけあっても、身体の使い方を知らなければ意味ないもの。――別の部屋に移動するわよ」
ラクティが球体の上から飛び降りて扉の前に移動する。
「褒美をくれるんじゃなかったのか?」
「まだ後よ。先に器官に慣れないと駄目、器官に違和感あるでしょ?」
反論を挟めない口調で言う。
「まぁ、それはな」
急に生えた器官に慣れている筈もなかった。
「だったら、ツベコベ言わない」
「ああ、了解」
一理はあったので、達彦はラクティに従う事にした。

翌日の朝――。
蒼は慣れないベッドで目を覚ました。
少し開いたカーテンの隙間から差し込む光が、室内をボーッと明るくしていた。
「そうか……」
昨日の事を思い出して自分がいる場所を理解する。
多くの事が変わってしまった。
今までの自分には戻れない変化。
その事は分かっていたが半ば自分の意思とは別の部分で決定した変化に対して、慣れない気持ちは残っていた。
変化を否定する気は無いが、きっちりと受け入れて、立ち位置を固めるまでには、まだ時間が掛かる状態。
「私は……」
ただ、何をするべきかだけは分かっていた。
分割された自身を元に戻す事。
その事だけは揺るがない目的だった。
「さて」
気持ちの整理を一旦区切る。
そして起きようと思った時、ふと、隣で寝ていたラプリアの姿が無い事に気付いた。
「先に起きたのか?」
その場合でもラプリアの性格的に蒼を起こしそうな気がしたが、何か用事があって一人で先に起きたのかも知れない。
と――。
『蒼様、おはよう御座います』
リルラルの声が脳内に響いた。
『ああ、おはよう』
蒼も脳内で答える。
『お悩みの件、理解はします。けれど、そうだとしても、全ては蒼様の目的と私の目的の為です』
リルラルの意識は蒼の目覚めに合わせて覚醒していた。
蒼が悩んでいた事もリルラルには伝わっていた。
『分かっている、ただ――』
全ての立ち位置が変わった状況でも、今までに関わった全てと敵対する事になるのは無理な気がしていた。
『どうしても攻撃出来ない対象がいるようでしたら先に教えてください。思考イメージを渡して貰えれば分かりますから』
『今回の事に無関係だと思う存在には危害を加えたくない』
蒼は美佑や他の友人、そして達彦の事を思った。
『対象登録完了。では、この方々は攻撃対象から外します』
『ああ』
『では、この後はどうなさいますか?』
『普通に起きるだけだ』
『分かりました。私は意識を沈ませておきます』
頭の中からリルラルの存在が消えて行く。
その時だった。
「!!」
『蒼様っ!』
空を切る殺気が真上から振る。
瞬間的に身体を横に捻って回避する。
ドスッ!!
蒼が寝ていた場所がベッドごと真っ二つに切断された。
切れた掛け布団の羽毛が宙を舞う。
ベッド自体は断面があまりに綺麗な為、すぐには崩れず、
「何だっ!?」
蒼が起き上がったと同時に、真ん中に向かって窪むように崩れた。
「お見事です。蒼様」
すぐ目の前の空間が揺らぎ、メイド服姿のラプリアが出現する。
「ラプリア……一体、何のつもりだ?」
ラプリアが空間の歪みに潜伏して、そこから不意の一撃を放ったのだと理解する。
「蒼様が本当に不意打ちに対応出来るかの調査です」
「調査……」
昨夜のお風呂場での会話の事だろう。
それは分かったが、今のラプリアの一撃は喰らえば、ただでは済まない本気の一撃だった。
ジト目でラプリアを睨む。
それを気にとめた様子なく、
「蒼様、お手数ですが、そこを移動してください、ベッドを修理します」
平然とラプリアが言う。
「……」
蒼が壊れたベッドから飛び降りる。
文句を言うだけ無駄な気がした。
機械的な反応というものが、時に恐ろしいという事を知った瞬間だった。
「ラプリア、仮に私が攻撃を喰らっていたら、どうするつもりだったんだ?」
淡々と修復の詩編を展開するラプリアに聞く。
「はい、当然、蒼様を叱った後に治療します」
「叱った後なのか……」
「自身の力の過信は死に繋がります」
「…………」
「――直りました。朝食の準備が出来ています、一緒に」
「あ、ああ」
もっとも過ぎるラプリアの言葉に何も言えず、蒼はそのまま彼女に従って寝室を出た。
それから洗面所に向かい顔を洗ってからリビングに入った。
「よう、眠れたかい?」
テーブルの脇に白シャツに黒ズボンの上にエプロン姿のアルバートが居た。
格好だけは茶店のマスターのそれだった。
「仕事着か?」
「ああ、うちゆっくり開店だから九時からだ」
聞いていない事を答える。
時計を見ると七時半、まだかなり余裕のある時間だった。
「今から着ている必要があるのか?」
「いちいちまた着替えるのが面倒だろ?」
「まぁ、そうだが」
たわいもない受け答えをして、テーブルの席につく。
すると、すぐにラプリアがコーヒーの入ったカップを蒼の前に置いた。
「蒼様、砂糖とミルクは?」
蒸気の漂うカップからは、コーヒーの良い香りが立ち上がっていた。
「別にいい」
特にブラック派では無いが、元々、食事に拘りがない事もあって気分で答えた。
「そうですか、食事はサンドイッチですが、構いませんか?」
「ああ」
「では、用意します」
ラプリアがさっとキッチンに消えた。
「茶店のマスターなのに、朝のコーヒーはラプリアに淹れさせるのだな?」
思った事を振る。
アルバートの格好は、拘りのコーヒーを淹れるマスターという雰囲気を醸し出していた。
「俺のは仕事用だ、タダでは飲ませられない」
「プロ意識だな」
「まぁな。だが、ラプリアもスーパーウェイトレスだから、美味いぞ」
「そうか」
勧められたコーヒーを口にする。
味が分かる方では無かったが、酸味を抑えた上品な味わいだった。
「美味いか?」
「不味くはない」
「そうか。――ところで話は変わるが、お嬢ちゃんは学校に行っていたんだろ? このままだとサボりになるよな?」
「そうだな、もうそんな状況ではなくなった」
仮に通うにしても、通学時間が掛かりすぎて厳しい距離になってしまった。
「つまり暇って事だよな?」
「ああ」
「だったら店を手伝ってくれ」
「私が? 何故?」
蒼にとって意外な一言だった。
自身と喫茶店というものが全く結び付かない気がした。
「だから暇だろ? 何もする事ないだろ?」
「それと手伝う事は直結しない」
「まぁ、そういうなよ、ものは経験だ」
アルバートが迫る。
「……」
確かに何もする事はなかった。
服を買いに行く約束はあったが、それまでは完全に暇だった。
暇を潰せるなら良いかと思って、
「分かった」
「よし、決まりだ」
アルバートが何だか満足そうな顔をした。
「――お待たせしました」
ラプリアが両手にサンドイッチの載ったお皿を持って現れる。
「ああ、ラプリア、喰ったら例の準備だ」
「了解しましたマスター」
二人だけに分かる会話をした後、サンドイッチを食べ終えてから、三人は揃って階下に向かった。

「ここは?」
未だパジャマ姿の蒼が聞く。
三人が移動したのは、茶店のカウンター裏にある厨房のさらに奥の部屋だった。
授業員控え室という感じの部屋で、ロッカーと椅子それからトイレに通じる扉があった。
「見ての通りの場所だ」
アルバートが答える。
「で、何をする気なんだ?」
「お嬢ちゃんの着替えだ」
「着替えね……」
蒼は側に控えるメイド姿のラプリアの事を改めてマジマジと見た。
「つまり、店員をやる以上はラプリアと同じ格好をしろ、という事か?」
「察しが良いな」
軽快にアルバートが言う。
「……」
察しない方が馬鹿だと思える場面で、褒められても嬉しくはなかった。
「何だ、嬉しくて言葉も出ないか?」
「お前はやけに嬉しそうだな」
アルバートの様子を見る限り、蒼にメイド服を着せる事が目的のようにも見えた。
「日々の生活には潤いが必要だからな」
ある意味分かり易い理由を述べる。
しかし、理解はしたくないと蒼は思った。
「多少は付き合ってやる、居候をする訳だからな」
「話が早いな。――じゃ、ラプリア、後は任せた」
「はい、マスター」
アルバートが控え室から出て行った。
「では、蒼様、着替えを」
ラプリアが蒼と向き合う。
「別に構わないが、私のサイズに合う衣装はあるのか?」
「すでに準備してあります」
ラプリアの手に一着のメイド服がどこからとも無く出現した。
「……」
そのくらいの事ではすでに驚かない。
朝食時のアルバートとの会話の時点で、何とかしていたのだろう。
「これは蒼様のサイズに合わせて作ってあります。デザインも私より多少幼く」
「幼い必要はあるのか?」
「平らな胸を可愛く飾る為には、幼い方向にアピールするべきだと、マスターが」
「あいつ……殺す」
それ程、胸のサイズを気にする方ではないが、ストレートに指摘されると頭に来てしまう。
「しかし、事実です」
ラプリアが全く悪気のない顔で言う。
「ラプリアは、私の味方じゃないのか?」
「可愛い方がお客様への受けが良い、というのは事実です」
「そっちか……まぁ、いい、着ると言った以上は着る、貸して」
蒼がラプリアの手からメイド服一式をやや強引に奪う。
「着方は分かりますか?」
「目の前に見本がいるから、大丈夫だろ」
一式を確認する。
ワンピースに付けエリ、エプロンとニーソとヘッドドレス。
自らヘッドドレスなど付けた事がないが、目の前のラプリアを参考にすれば何とかなる気がした。
パジャマを脱いで着替えて行く。
「……確かにピッタリだ」
おそらくラプリアの力で調整したものだろう。
サイズに関しては、お風呂の時にラプリアに記憶されていても不思議ではなかった。
その事に対して、とやかく言う気は蒼の中には無かった。
もう、好きにしてくれ、という諦めの境地に達していたからだ。
スルスルと袖を通してワンピースを着る。
後は付属品の取り付けだった。
「これが、可愛いという事か……」
蒼自身にはよく分からなかった。
ただ、リボンやら大きな襟やらを自らに装着して行く。
ラクティなら分かるのだろうと、頭の片隅で思ったが、今は深く考えない事にしてその思考を消す。
「これでいいか?」
一応全パーツを身につけて言う。
「ヘッドドレスが曲がっています」
ラプリアが蒼の頭に手をやってヘッドドレスの位置を修正する。
「これで宜しいです。鏡の前に」
「あ、ああ」
言われるままに鏡の前に立つ。
白と黒の配色の可愛い系のメイド服を着た少女が映っていた。
「よく、お似合いです」
「そうか?」
正直自分では全く分からなかった。
「続いて作業の手順を説明します」
「言っておくが当然初心者だぞ」
「見習いコースマニュアルがあります、問題ありません」
「従業員一人なのに用意がいいな」
ラプリアにマニュアルなど不必要な筈だ、そうなると誰の為に作った物なのか全く持って怪しい。
「不慮の事態に備える事が必要」
答えつつ、一つの冊子を蒼に手渡す。
「不慮か? いいけど……」
貰ったマニュアルを開いて一読する。
蒼の学習能力は実は高い。
「まぁ、大体分かった、店は九時からだっけ?」
「はい、その前に清掃や仕込みがあります。ですので、そろそろ時間です」
「そうか」
部屋の隅にあった時計を見ると、八時を過ぎたところだった。
「では、蒼様、カウンターの方へ」
「ああ」
二人で控え室から出てカウンターの裏に移動する。
そこには腰掛けて待つアルバートの姿があった。
「お、似合うじゃないか、お嬢ちゃん」
蒼を見るなり椅子から立ち上がって言う。
「素直に受け取っておこう」
「それは自分でも似合っていると思っているのかい?」
「褒め言葉を無下にする気がないだけだ」
「難しい言葉を知っているね、お嬢ちゃん」
アルバートは子供を褒めるように言う。
蒼は気になっていた事を言う事にした。
「私の生体年齢は約三千歳だ、お嬢ちゃんは止めて欲しい。蒼でいい」
「そう言っても、そのナリじゃなぁ、良くて小学校六年生だろ」
アゴに手をやり蒼をマジマジと見る。
「小学生を働かせていいのか?」
「まぁ、それはそれだ、通報とかの心配は別にいらないぞ、手は回してある」
「用意が良いことだな」
どんな手段を講じたのかは聞きたくない話だった。
「で、仕事の手順は理解したか?」
「ああ」
「じゃ、とりあえず、一日よろしくな」
「ああ、よろしく」
仕事としての挨拶を交わして、蒼の喫茶店勤務初日が始まった。

長い漆黒の髪の女性が、何処かの大学の図書室と思われる部屋でノートPCの画面を眺め、難しい顔をしていた。
「先輩」
その女性を背後から小声で呼ぶ声。
「あ、恭司さん」
「なに、何かあったの?」
女性の表情を見て、恭司と呼ばれた男が言う。
「いえ、エシスからの報告でアブソリュートディストーションが奪われたと。それから、クレイドルの艦船が黒海に結界を張って待機しているのが分かったそうです」
緩く瞳を閉じて、たおやかな口調で話す。
「まさか、封印を解く気なのか?」
「いえ、そうとは言い切れません。現状の戦力であの子に勝てるとは思えませんし、あの子の方も艦船を敵と認識していない様子です」
「だったら何をする気だ?」
「おそらく高密度エーテル結晶の生成でしょう。あの場所は三千年経っても、まだ大戦の影響が色濃く残っているため、エーテル密度が地上で最も高い場所ですから」
「止めなくていいのか?」
「この動きは以前にもあった事です。その時の結論は静観です。私達の目的はあくまで封印の管理ですから、こちらから仕掛ける戦いは例外的です」
瞳を開き、穏やかなまま冷静に言う。
「随分と平和的だな」
恭司が少し呆れたような顔をする。
「はい、元々、追われ追う立場です。深入りすれば捕獲される危険もあります」
「そうだったな……。それで、アブソリュートディストーションが奪われたというのは?」
「エシスからの報告だけでは詳しく分かりませんが、第一安全装置を解除した段階で持ち去られたという事ですから、今頃は刀身が砕けている筈です」
「妹の形見だろ、エシスに持たせて良かったのか?」
「道具は必要とされる時に使われ、壊れる時に壊れるものです。全く役に立たなかったという事はなかった様子なので構いません」
「悟った言い方だな」
「お気に召しませんか? マスター」
漆黒の髪の女性の口調が急に機械的な物に切り替わる。
「先輩、こんな所で止めろって」
「――はい」
「妹の形見が壊れて、悲しい気持ちがあるんだろ? 無理にそういう風にしなくていいから」
「そんな事は、ありません」
一瞬の間を置いて否定する。
「だから無理するなって、それから人形に感情が無いって話もいいから。――とりあえず、外に出よう」
恭司が手を伸ばす。
「すみません」
女性がノートPCを畳み、その手を取って立ち上がった。
そのまま二人、図書棟から外に出る。
そこは大学内の敷地に植えられた木々が茂る場所で、休憩用のベンチや自販機が置かれていた。
紅葉した落葉樹の葉が風に舞う秋のキャンパス。
「辛いと思ったら、俺にも話してくれ」
「ありがとう御座います。でも、平気です、妹と言っても、実際ほとんど話した事もないので、ただ、少しだけ昔を思い出しただけです」
木々の間をゆっくり歩きながら会話する。
「そういう時は色々と話してくれたらいい、何でも聞くからさ」
「いえ、大した事ではありませんから、それより、今日、十月さんは?」
「十月は、まだ講義だ」
「そうですか、割と真面目ですよね、彼女」
「キチッと性格ではあるかもな」
「恭司さんは、私と十月さんのマスターですよね、そして、実質エシスのマスターでもある」
先を歩く黒髪の女性が立ち止まり振り返る。
「何だよ、先輩、急に」
「名前で呼んでください。恭司さんはキチッとしたいと思わないのですか?」
「いやそれは……」
恭司がやや目を逸らして、
「それは?」
「俺は、由梨香先輩の事を大切に思っている。それは断言出来る」
再び由梨香の事を真っ直ぐに見て言う。
「ありがとう御座います。――ただ」
「ただ?」
「今のセリフ、十月さんにもきっと言いますよね?」
「っ」
恭司の目線が再び揺れる。
「状況的に三人のマスターである事は責めませんが、そうだとしても、ある程度の節度をもってください」
由梨香がやや厳しい顔で言う。
「あ、ああ」
「分かって戴ければ良いのです」
表情を柔和な物に戻して、
「――それで、さっきの話に戻りますが、クレイドルの動きが気になる事は事実です。その事で、しばらく恭司さんの側を離れて良いですか?」
「どこに行くんだ? しばらくってどれくらい?」
「そうですね、一週間くらいです。場所は特定出来ませんが、日本を離れる事になると思います」
「黒海に行く気じゃないだろうな?」
「いいえ、戦いになるような事はしません。それは約束します」
「まぁ、俺に止める権利はないだろ、先輩は組織の代表なんだし」
「いえ、その前に貴方の所有物です。止める権利は貴方が有している事、忘れないでください。その上で今の言葉は許可と受け取ります」
「ああ、別に構わない」
「分かりました。では、明日の朝に発ちます」
「準備は?」
「これから少し。留守の間の事はグラビオに言ってあります」
「分かった」
「では、私はこれから準備をするので、恭司さんは十月さんの所に行ってあげてください」
由梨香が歩き始める。
「さっきの話の手前、行きにくいんだが?」
「気にしないでください。ただ、確認しておきたかっただけですから。――それでは」
恭司から遠離って行く。
その背中が小さくなるまで恭司は歩き出す事が出来なかった。
今さらながらの由梨香の話が気になったからだ。
恭司が三体の『無垢なる物』のマスターになって、すでに一年以上が経過している。
その間、誰も口にしなかった事を唐突に言われて、何も思わないという事はない。
「……」
何か胸騒ぎのする恭司だった。

エピローグ

木製の椅子が並ぶ室内、天井近くに作られた窓にはステンドグラスが収まり、聖書の一節を表現している空間。
場にある光は月明かりのみ。
そんな空間の正面にある祭壇脇の扉が開き、一人のシスターが出て来た。
「そろそろなのです」
誰ともなく一人呟く。
「予想外に時間が掛かったのです、けれど、これでやっと」
シスターの歳は十代前半に見えた。
顔は良く見えないが、修道着を着て手に大きなトランクを持っていた。
「では、長らくお世話になったのです」
そう発して、シスターは椅子の並んだ空間を歩き、大扉から建物を出て行った。
後には、ただ静寂だけが残った。

蒼の夢第3部 完