『蒼の夢2』
プロローグ
良く晴れた九月の午後の住宅街。
「蒼ちゃん、じゃあねー」
「うん――美佑また来週」
ランドセルを背負った少女二人が道の角で別れた。
どうやら小学校からの帰りのようだった。
「――さて」
蒼と呼ばれた少女が、おもむろに呟く。
別れた少女の姿が消えた事を確認し、さらに、周囲の様子を探るように頭を軽く左右に振り、直後、その場から跳躍。
一気に二階建て民家の屋根に飛び、そこから更に高い五階建てのマンションの屋上まで飛ぶ。
そして、向かう方角を決めて、高さが大体同じな別のマンションの屋上に飛び移った。
そんなジャンプを何度か繰り返して、少し洒落たマンションの屋上に着地して足を止めた。
軽く乱れ髪を整えてから、そのマンションの非常階段に向かい五階を目指す。
五階の通路まで来て、ドアが並ぶ廊下を進み、一つの部屋の前で止まる。
表札は『山内』
インターホンを押して、
「ただいま、達彦」
1章.同期行動
1
「お前さ、いい加減屋上から帰って来るのやめないか?」
「何か問題?」
夕食時、ダイニングテーブルに向かい合って座る山内達彦(やまうちたつひこ)と山内蒼(やまうちあお)。
二人は体面上は親子という事になっていた。
達彦は三十過ぎの少しだらしないが優しい感じのお父さんという風体。
蒼の方は、反抗期の真っ直中です、という顔の少女。
達彦は少し困った顔で蒼を諭す。
「その内、誰かに見られたらどう言い訳するんだ? 明らかに困るだろ?」
「基本的に見られないようにしている。仮に見られたら記憶を消してしまえばいい」
蒼の返答は、普通ではあり得ない内容だった。
そもそも、屋上から帰還する事自体、まず無い。
「はぁ……お前には本当に社会的常識が欠けているな」
達彦が溜め息を吐く。
「必要ない」
一瞬で切り捨てる。
「いや、必要だろ。それにお前も必要があると思うから、学校では普通にしているんだろ?」
「他人に合わせた方が便利な時もあるだけだ」
「そうかい……はぁ」
もう一度溜め息を吐き、テーブルの上のカップ麺の蓋を開ける。
お湯を入れて大体、三分経ったところだった。
「まだ、二分五十八秒しか経ってない、私の方は二分五十四秒」
「そんな事はどうでもいい」
達彦は箸を手に取りカップの中の麺をかき混ぜてから、一口すすった。
テーブルの上には、カップ麺が二つと麦茶のペットボトルとコップしかない。
親子二人の夕食としては、あまりに簡素だった。
しかし、その事にこの二人から文句が出る事はない。
「はい、三分」
蒼がカップ麺を開けて、同じようにすすり始めた。
数分、無言の食事タイムの後――。
「ごちそうさま」
蒼が空になったカップを置いた。
続いて達彦が無言でカップを置き、空いた手で麦茶の入ったコップを口に運ぶ。
そのコップが口から離れたタイミングで、蒼が口を開く。
「達彦、お風呂は?」
「炊いてある」
「そうか、なら入るから、背中を流してくれ」
「いやさ、思うんだが、お前の年齢的にそれはセーフなのか?」
蒼の外見年齢は第二次性徴前後という感じだ。
「別に、いつもの事だ。バスタオルの準備お願い」
蒼がテーブルから立ち、浴室があるキッチンの方に向かう。
「はぁ、蒼に、普通の女の子を望むのは無理なんだろうな」
三度目の溜め息を吐き、達彦もバスタオルを取りにテーブルから離れた。
*
同じ頃――。
「じゃ、見張りお願いねー」
街の中心部にあるデパートの内部テナントの一つ、リラックスバブルバスの販売店。
そこに銀髪の少女が全裸で佇んでいた。
歳は十歳程度。
少女の声はフロアに響くが、営業時間の筈なのに誰もこない。
さらに、売り物であるバス設備が完全に起動していた。
普段は販売説明時に試し起動する程度のものだが、今は、バスタブにお湯と泡が満ちて『入れる』状態になっている。
「こんな物まで備えてくれるなんて、ホントに人間って都合の良い生き物ね」
少女がデパートの明るい照明の中、全く恥じる様子もなく浴槽に浸かる。
不自然な事に、販売店の周囲半径五メートルに人影はない。
その少し先では、普通に買い物しているお客がいるのに、少女の近くには店員を含め誰一人近づかない。
「丁度良い湯加減ね、ふぅ……ブクブクブクブク」
一息吐いてから、お湯の中に顔を半分沈める。
大量の泡の中に少女が吐いた息の分の泡が混じる。
「ブクブクブクブク……ぷはっ、お風呂が終わったら地下へ行って、今日は何を食べようかしら」
少女は地下の食料品売り場を想像してニンマリした。
お風呂の後は食事と大体決まっていた。
「うーん、今日は簡単にカレーにしようかな、後はアイスクリームをデザートに」
とても楽しそうな顔で想像を続ける。
少女のいる空間と、デパートの他の部分の空気は明らかに違っていた。
その場だけ、他の全ての人間にとって、完全な意識外にあるという様子だった。
*
戻って、山内家。
「達彦、もっと右」
「はいはい」
マンションのやや小さめの浴室に達彦と蒼の姿があった。
蒼は背中を達彦に向けていた。
背中にはボディーソープの泡が大量についていた。
「達彦も、大分背中流しが板について来たな」
「そんな事が板についても、何の得もない」
「私が得するぞ」
「あっそ」
「じゃ、そろそろ流して、お湯に浸かるから」
「はいはい」
生返事を繰り返してシャワーのコックを捻り、蒼の背中の泡を流す。
「泡が流れたら、達彦が先に浸かれ、狭いからな」
「はいはい」
泡を流し終えて達彦が浴槽に浸かる。
そして、すぐに蒼が浴槽に足を入れる。
「ちゃんと座れるようにしろ」
「命令の多いお嬢様だな」
達彦が浴槽の中であぐらをかき、その上に蒼が座る。
「今日も平和に過ぎたな」
蒼が達彦の胸板に身体を軽く預ける。
「そうだな」
「しかし、私はこんな事をしていて良いんだろうか?」
「ずっと戦っていたんだろ、休息も必要だ。まぁ『この状態』が『良い』とはとても思えないが」
「どういう意味だ?」
蒼が疑問の顔をする。
「現状が倫理的にギリギリって事だ」
「達彦はすぐそれだな、別に関係ない。お前とは血の契約をしている」
「そういう話じゃない、俺はお前と違って常識人だったからな」
「過去形じゃないか」
「そりゃ、仕方ないだろ、非常識の固まりと一緒に暮らしているんだから」
常識を過去に置いて来なければ、現状を受け入れる事が出来ない。
達彦の日常は蒼と出会った一年前の事件によって全く別の物に変化していた。
「……私といるのが嫌なのか?」
達彦の胸板から少しだけ身体を離す。
「それは難しい質問だ」
「なら、嫌なんだな」
達彦には見えない視線を寂しげに揺らす。
「そう結論を急ぐなよ。――そうだな、嫌な率四割、良い率六割で、良い方が勝っているから」
「嫌な率を一割以下にしろ」
即座に言う。
「無茶言うな」
「……私の何が、そんなに迷惑なんだ?」
「非常識で年齢と姿が合ってないところだな」
蒼は姿だけが人間の別の生物だ。
その価値観も寿命も人とは全く違う。
「姿か……別段、人と差があるとは思わないが?」
「ああ、でも、今のお前の姿はお前の実年齢から見てずれているだろ?」
「そんな事か。この姿は、もっとダイレクトにお前から吸収出来れば回復も早い。しかし、お前が拒むから」
自らの姿を確認して言う。
蒼の現在の体型は十歳程度の女児の平均体型だ。
いや、平均より無い胸かも知れない。
とにかく幼い体つきだった。
「ダイレクトって、その発言は犯罪だ」
達彦が蒼の背中から目を逸らす。
「何がだ?」
「全部だ」
「意味が分からない、仮に犯罪だとしても、それは人界での話だ。私達には関係ない」
「ここは完全なる人界だ」
「人なんて、全て切り離して、ただ利用できる立場だ」
言い切る蒼に対して、達彦は額に手を当てた。
「……基本的な価値観が違い過ぎる」
どうやっても埋まらない溝があるのを感じた。
「どうして嘆く? 私達は楽しくやっているだろ?」
離れていた蒼が達彦に再び密着する。
「それはな……」
お湯の中でも感じる蒼の体温。
その体温を大切にしたいとは思っている。
立場上の保護者として、また、もっと違う大事な存在として。
「私の事、嫌いか?」
呟くように聞く。
「……」
思っていても、言葉に出来ない時がある。
「…………」
蒼は返事を待っている様子だった。
「子供は、そんな事気にするな」
誤魔化しで言って、蒼の頭をぽんぽんと撫でる。
「子供じゃない、姿だけだ、お前も今そう言っただろ?」
はぐらかされた事に対して口調を強める。
「いや、多少は幼児化しているぞ」
「そんなつもりはない」
頬を膨らませて否定する。
「……まぁ、そういう事にしておくよ」
突っ込むのは可哀想だと思った。
「分かればいい。それで、ダイレクトに繋がる気はないのか?」
蒼が話を達彦の戻して欲しくない方向に戻す。
「それだけは無理だ。違う意味の全てを捨てて、駄目になろうとは思わない」
「そうか……残念だ。となると、あと二年半くらいはこの姿だな」
「丁度、小学校卒業くらいで良いじゃないか、そのまま中学に入れ」
「行く意味があるのか? 小学校は一応の世間体という物を理解して行っているが、中学くらいなら引きこもりで通してもいいだろ。
クラスに一人はいると聞いたぞ」
蒼が敏感に世間の流れを読んだ発言をする。
「駄目だ。そんないらん知識だけは立派だな、それに小学校楽しいだろ?」
「それは、楽しくない訳ではない」
蒼の視線が少しだけ泳ぐ。
「なら学校には行っておけ、お前に必要な最低レベルの常識は教えてくれるからな」
「全部知っている事だ」
「知っていても、お前は実践してないだろ」
蒼の頭を軽く小突く。
「あらゆる常識を実践する必要がないからだ」
軽く口を尖らせて言う。
「今のその姿で凄い事言うなよ。俺の立場が本気で犯罪だろ」
「そうなのか?」
キョトンとした顔。
基本的に分かっていない証だった。
「今の日本で幼女を囲っているおっさんは、間違いなく逮捕だからな。世間的には親子であり、お前が小学校に行っている必要があるんだよ」
「なら、お前が幼児にでもなれば良い、多分出来ない事はない筈だ」
「ギャグか? 何の解決にもならない事を言うな」
「至って真面目な話だが」
本気でキョトンとした顔をする。
「……まぁ、とにかく小学校で人付き合いとか学んでくれ。というか、お前友達いるんだろ?」
「いる」
「そいつの事好きなんだろ?」
「ああ」
「なら良い事だ。しかし、そいつは、お前のどこが気に入ったんだろうな?」
「格好いい所だと言っていた気がする」
「格好いい、ね、それは当たっているかもな」
蒼の立ち振る舞いは、基本的には狩りをしている狼のように隙がない。
だが、別に乱暴な訳でなく、言うなれば『クール』だった。
「それじゃ、そろそろあがるぞ」
蒼の脇の下に手を入れて持ち上げる。
「やめろ、自分で立てるっ」
ジタバタジタバタ。
「お嬢様はたまには大人しくしていなさい」
蒼を抱えて浴槽から出る。
「あー、離せっ」
「はいはい」
蒼の足を浴室の床に着ける。
「じゃ、俺は先にあがるから、後は一人で洗えよ」
「髪は洗ってくれないのか?」
「『洗え』と命令するのか? お嬢様?」
聞かれ、やや考えた顔をして、
「――いや、いい」
「なら、ちゃんと洗えよ。じゃあな」
達彦は先に浴室から出た。
後ろ手で浴室の扉を閉めて、腰にタオルを巻いて身体を拭く。
そして、キッチンに向かい冷蔵庫から缶ビールを取り出して開ける。
プシュ。
ゴクゴクゴクゴク。
「っ――はぁー、やっぱり、おっさんの定番は最高だな」
一気に半分近くを飲み干して、多少濡れても平気な椅子に腰掛ける。
つくづく平和だと思ってしまう。
仮にまともに嫁を貰って結婚していたら、こんな生活もあり得たかもという気持ちになる。
娘が十歳まで父親と一緒にお風呂に入るというシチュエーションは例外だとしても、今の生活は本当に一般的な家庭という感じだった。
母親がいない事も、離婚率が高い現代なら珍しい事ではない。
「しかし、ずっとこのままでは無いんだろうな」
ビールをテーブルに置く。
達彦と蒼は人間では無い。
荒唐無稽な話だが、人とは別の生き物。
竜と呼称される存在。
竜は、この世界にランダムで発生する魔竜を狩る事を使命としている。
魔竜は人を喰らい強くなる。
強くなった魔竜は竜を襲う。
だから、強くなる前に見つけ出して狩る。
単純な図式だ。
結果として人を魔竜の脅威から守っている事になるが、蒼にその意識はない。
あくまで、副産物として結果でしかないという考え方だった。
そして、人は魔竜も竜の存在も知らない。
それは竜と呼ばれる種族が人の記憶に干渉出来るからだ。
完全な記憶の消去、または書き換え、一時的な勘違いを引き起こす事も可能だ。
そうする事で竜は人と距離をおいて、この世界に存在していた。
いつから竜がいて、そもそも何故竜がいるのか、その答えを蒼は知らない。
達彦はもっと知らない。
「俺は、一体何者なんだろうな……」
達彦自身が、己が人ではないと気付いたのは一年前の事だ。
それまでは純粋に人だと思って生きて来た。
いや、今でも本人に『竜』だという強い自覚はない。
あくまで『人』の方が強い。
しかし、一年前の事を思うと自分が人では無い事を、どうしても否定出来ない。
「それに、蒼との繋がりは確かに感じるからな……」
同族として通じ合う事。
感覚が似ていた。
同じ何かを共有しているとも思えた。
「まっ、考えても答えが出る事じゃないか、とりあえず、この街に落ち着いている訳だし」
竜であると自覚して、何か得があるとは思えなかった。
人の形態をしている以上、人としての生活がある。
その為に、今年の四月にこの街に引っ越し、蒼を小学校に入れた。
その手続きは、全て蒼の記憶を変える力によって行った事だが、それは仕方ない。
「そろそろ、仕事でも探すか……」
達彦の現在の職業は無職だ。
それでも生活出来るのは、蒼の資金力のお陰だった。
蒼の銀行口座には、全くあり得ない額が眠っていた。
どういう方法で集めたお金かは考えたくない。
達彦にも前の仕事での貯金があるにはあるが桁が何桁も違う。
「お嬢様の紐生活って言うのも、身体が鈍るだけだしな」
生活費の全てをまかなっている蒼を『お嬢様』と呼んでしまうのは、自然の流れだった。
達彦は腕をぐるぐると回してから、残りのビールを飲んで立ち上がった。
「たつひこー」
丁度、お風呂場から声がした。
「何だ?」
「もうあがるからドライヤー用意して」
「早いだろ、ちゃんと洗ったのか?」
「問題ない、別に人間みたいに体液が滲んで、絶えず汚れる体じゃないから」
「生々しい言い方をするな、それに、お前が汗をかいているの、普通に見た事あるぞ」
「あれは演出だ、とにかくドライヤーお願いー」
「はいはい」
何が演出なのかと思いながら、達彦はドライヤーを持って蒼の元に向かった。
それは、とても普通な二人の最後の夜だった。
2
土曜日の朝。
達彦と蒼に特にする事は無かった。
達彦は昨晩、仕事を探す事を決めたが、動くのは月曜からにするつもりだった。
蒼は家では基本的に喰っちゃ寝だ。
それには理由があり、一年前の戦いですり減らした力の回復を待っているからだった。
「あ、そうだ達彦、昨日出た宿題、ランドセルの中に入っているからやっておいて」
クーラーの効いたリビングのソファーに寝転びながらテレビを見つつ蒼が言う。
Tシャツと短パンという完全にごろ寝モードの格好だ。
見ているのは、土曜の朝にやっているアニメ番組だった。
『小さな魔法使いトゥインクル』
小学生から大きなお友達まで幅広い人気がある。
「当然のように言うな、お前の学力なら一秒で終わる内容だろ」
アニメに興味の無い達彦は近くの椅子で、冷えたお茶を飲んでいた。
「達彦こそ口答えか? いつもやってくれているだろ? それに紙に解答を書き記すのに一分以上は掛かる。
そんな無駄な事を私がする必要があるのか?」
「いや、それはお前の宿題だからだろ」
とても当たり前の事の筈だ。
「うるさい奴だな、私は無駄な事はしたくない。だから、宿題は達彦の仕事だ」
蒼の中で当たり前の事を、何度も言わせるな、という空気で言い放つ。
「はぁ……分かったよ。まっ、俺もこの歳で分数の計算とか、漢字の書き取りをやるとは思ってなかったさ」
諦めたと言う様子で腰を上げて、蒼の部屋に向かう。
達彦が宿題の在りかを聞かないのは、達彦が蒼の宿題をするのが日常だからだ。
大体、部屋にあるランドセルの中に入りっぱなし。
蒼は宿題を一回でも自分でやった事はない。
蒼の担任は達彦の字を、蒼の字だと思っているだろう。
達彦は蒼に対して、まるで弱みを握られているように甘い。
実際、弱みという程では無いにせよ、蒼の資金で生活している身の上だ。
文句は言えない立場という物があった。
蒼の部屋に入り、壁に掛かっているランドセルの中を漁る。
宿題と思われるプリントはすぐに見付かった。
と、一緒に入っていた携帯が着信を告げて震えた。
「友達からか? メールか」
携帯を手にして、一旦蒼のところに戻る。
「おい、メールだぞ」
「ん? ああ」
達彦が蒼に携帯を渡す。
蒼はすぐにメールの中身を確認した。
「……うーん」
「何だ? 何か困る事か?」
「いや、遊びに誘われた。急だけど来ないか? という内容だ」
「行けばいいんじゃないか?」
「まぁ、そうだが、初めて行く場所だからな、探査も行ってない」
「どこだよ?」
「ここから二駅離れた場所にあるデパートだ」
「小四の集まりにしては遠くないか?」
二駅先は、いわゆる街で大型の商店やデパートが建ち並んでいた。
自分が親だとしたら、心配する距離と場所だった。
「ああ、その件は、友の内の一人が大学生の姉を同伴しているとの事だ。元々その姉の誘いらしい。メールだから詳しくは分からないが」
「ふーん、なら、別に行ってくればいい。宿題はやっておいてやるし、お前、別にする事ないだろ?」
一応、大人がいるなら大丈夫だろう。
「そうだな、分かった。なら出かける事にする。駅に十時に待ち合わせだから、急がなくては」
そう言って、蒼は携帯で返事を打ちながら自分の部屋に向かった。
十中八九着替えるのだろう。
部屋に入ってすぐに、
「宿題は出しておくぞ」
扉の隙間からプリントが一枚床に置かれた。
「はいはい」
生返事をして、達彦はコップに入れてあったお茶を一口飲んだ。
約十分後。
蒼の部屋の扉が開いた。
「じゃ、行ってくる」
「ああ」
蒼が急いでいる様子で玄関に向かう。
現在九時四十八分、駅までは人の速度で走らないと間に合わない。
「あ、ちょっと待て、屋根の上を飛ぶなよ。道路を走っても間に合う時間だ」
「達彦は、走るのと飛ぶの、どっちが身だしなみが乱れると思う?」
蒼の着替えた服は、涼しげな薄手のブラウスと、控えめにフリルの付いたミニのフレアスカートとオーバーニーソ。
「知るか、とにかく飛ぶの禁止」
飛んだら、どんなに気を付けてもパンツ丸見えの格好だった。
「まぁ、今回は屋上に上がる時間の方が掛かるかも知れないし、達彦の言う事に従う事にする、じゃ、改めて行ってくる」
「ああ、いってらっしゃい」
達彦が見送ると、蒼は玄関で夏向きの白いミュールを履き、ポシェット一つを肩から下げて、特に振り返る事もなく出て行った。
玄関が開いた時に入ってくる外の熱気に、残暑を感じ、
「さて――宿題でもするか」
達彦はリビングに戻り宿題を片づける事にした。
3
蒼が道を走って駅に着いたのは、九時五十七分だった。
大人が走って十五分の行程を九分で駆けた。
それでも、人目を気にして異常な速度にならない事を踏まえつつ、さらに、そこそこヒールのある靴で減速した結果だ。
駅が見える直前で、さらに速度を落として、普通に駆けて来たシーンを演出しつつ目的の人物を捜した。
と、
「あ、蒼ちゃん、こっち、こっち」
相手が自分を見付けてくれた様子だった。
蒼が気配を探る事をすれば百メートル先からでも、知り得る一個人を特定出来るが、そんな無駄な事は今はしていなかった。
「おはよう、美佑」
蒼にメールをくれた相手だった。
立川美佑(たちかわみゆう)、蒼の友達の一人だ。
少しおっとりした感じの子で、体育が苦手で音楽と家庭科が得意。
家庭科が壊滅的で、体育は当然のように最優秀生徒の蒼とは対照的とも言えた。
性格もサバサバした蒼とは違い、優しく少しお節介な部分があった。
二人に似ている所があるとすれば長い髪くらいだろう。
蒼は外に出る時は大体ツインテールに結び、美佑は後ろに垂らしたまま、サイドに細いリボンを絡めていた。
「おはよう、早かったね。走った?」
「うん」
「ごめんね、暑かったでしょ? 待ち合わせ、もう少し遅くも出来たから」
「特に問題ない、他のみんなも居るし、そうも行かないだろ」
言って、蒼は他のメンバーに挨拶する。
「さくら、悠美香、おはよう」
「おはよう、蒼ちゃん」
「おはよう」
呼ばれた二人が挨拶を返す。
美鏡さくら(みかがみさくら)と崎白悠美香(さきしろゆみか)。
さくらは優等生タイプの子で、容姿も小四にして整っていた。
ふわっとした髪を肩より少し長いくらいに垂らしている。
悠美香はやや蒼に似た感じの子で、キツクないレベルの吊り目で、適度な長さの髪をポニーテールにしていた。
「で、蒼、こっちが私の姉ね」
悠美香が隣に立つ姉を紹介する。
「悠美香の姉の真央(まお)です。よろしくね」
「よろしく」
蒼は簡素に挨拶した。
簡素なのは、別に真央の事が気に入らなかった訳ではなく、ほぼ誰に対してもだ。
「あ、真央ねぇ、蒼の態度は気にしなくていいから、蒼は、いつも無愛想だから」
悠美香が解説する。
「そういうフォローなの?」
真央が少し困った顔をする。
「私は、どんな評価でも大して気にしない」
「だってさ、だから、真央ねぇも気にしない方向で」
「うーん、それでいいの……?」
やや考えている様子だったが、特にその後、言葉は続かなかった。
「で、蒼にこの集まり説明するけど、美佑はどこまでメールしたの?」
「あ、うん、全然詳しい事は伝えてないよ」
「そう、じゃ、えっとね、真央ねぇがこのチケットを貰って来たの」
五枚のチケットを蒼に見せる。
そこには『小さな魔法使いトゥインクル』が決めポーズを取っている絵と『原画展』という文字が書いてあった。
「これは原作版の原画展だな、現在これが開催されていると?」
「うん、そういう事。蒼ちゃんもファンなんでしょ?」
「ファンという程の事はない。ただ、毎週欠かさず見て、原作もチェックするようにしているだけだ」
言い切る。
「蒼ちゃん……それは、もう完全にファンという領域ですよ」
さくらが真面目な顔で言う。
他の三人は突っ込むに突っ込めないという顔をしていた。
「そうか? それで、これからこの原画展に行く訳だな?」
「ええ、ついでに買い物とかも出来るかなって、そんなプランで問題ない?」
「ああ」
「じゃ、話がまとまったところで、行きましょうか?」
真央が年長者として残り四人を先導する。
四人の方は、意味無く捻くれた性格の子はいないらしく真央に従った。
そのまま電車に乗って二駅先を目指す。
「そういえば、今日の放送をみんな観たのか? 時間的に観れなかっただろ?」
蒼が電車の中で小声で聞く。
五人は三人が座り二人が立っていた。
立っているのは蒼と真央だ。
「ああ、大丈夫、真央ねぇの携帯で観たから」
「私は、始まる前に準備しておいて、終わってから急いで間に合ったよ」
「私は録画です」
三者三様の答えが返って来る。
「さくらは録画派か、リアルで観ないと感動が半減しない?」
「携帯の小さな画面で観ても、感動が半減しませんか?」
悠美香の発言にさくらが反論する。
「小さくても高画質だ」
「うちは大画面7.1ch環境ですよ」
「二人とも、そんな事で言い合わないの、電車の中でしょ?」
真央が止めに入る。
「はーい」
「はい、すみません」
二駅という短い距離だ。
電車はすぐに目的の駅に到着した。
「ん、ちょっと待ってくれないか?」
蒼が改札を出ようとする面々を止める。
「なに?」
真央が聞き返す。
「大した事じゃない、トイレに行きたいだけだ。すまないが待っていて欲しい」
「なら、私も……」
美佑が蒼の側に寄る。
「そっ、じゃ、私達は改札を出た所で待っているから」
「ああ、そうして欲しい」
「先に行ったら嫌だよ」
二人が残り三人と別れる。
トイレの案内板を見付けて、そちらに向かう。
「混んでないといいけど……」
「まぁ、大丈夫だろう」
「あ、空いてなかったら、蒼ちゃん先でいいよ」
「そうか? すまない」
トイレを発見して中に入る。
丁度、一室空いた所だった。
「蒼ちゃん、先どうぞ」
「分かった」
蒼は美佑を待たせて先に個室に入った。
家を出る時に急いだせいで、トイレに行き忘れてしまったのが響いていた。
それと、一つ念のために確認しておく必要がある事があった。
蒼はまず用を済ませてから、その確認作業を始めた。
*
「朝からスイカは、やっぱり無理があったかしら」
少女が一人、デパートのワンフロアをトイレを目指して歩いていた。
縫いぐるみを抱いて、とても変わった格好をしているその少女の事を、誰も気にとめない。
お客も店員も、皆、少女の事を見ていない様子だった。
少女の格好は、和服と洋服を合わせたような物で、上は振り袖だが下はパニエで広がったミニスカートとブーツ。
とても長い銀色の髪には先に緩いウェーブが掛かっていて、目はコバルトブルーだった。
その子がフロア内の階段部分にあるトイレに入る。
トイレの中には誰もいなかった。
「あら、偶然。人払いする必要なくて助かったわ。でも入り口だけは――」
そう言い二秒程目を閉じて、持っていた縫いぐるみを、備え付けのベビーベッドに置いて個室に入る。
「水物はやはりトイレに直結するわね、気を付けないと」
腰掛けて一息吐く。
振り袖が汚れないように膝の上に畳む。
「今日は何して遊ぼうかなー。今日から何かのイベントが始まるみたいだし、ちょっと見て来てもいいかもね」
独り言を言いながら用を足す。
そして、そろそろ流して終わりにしようと思った時――。
*
「あ――」
蒼は思わず声を出してしまった。
「なに? 蒼ちゃん、何かあった?」
外の美佑に聞こえてしまった。
「いや、何でもない、もう出るから」
そう答えて、着衣を整えて個室を出る。
「美佑、すまないけど、私は出て待っている。――いいか?」
「う、うん。いいけど、なに?」
「ああ、ちょっと電話だ。個人的な」
「そう、じゃ、私、終わったら改札の外のみんなの所にいるね」
「そうしてくれ、多分、美佑が来る頃には、私もみんなの所に居ると思う」
「分かった。じゃ」
美佑が個室に入った。
蒼はすぐにトイレから出て、理解感覚を現状の最大に広げた。
ほぼ同時に蒼が捉えた相手も同じ事をして来た。
「不味いな。竜だ……互いに位置は知れた訳だし、どうする?」
あまり考えている時間は無かった。
理解感覚とは竜が備える探索能力であり、己が捉えた空間に存在する色々な事象を大体、把握する事が出来る力だ。
捉えられる空間の広さは、今の蒼の場合半径百メートル強。
蒼がトイレで行った事はデパートに感覚を飛ばしての内部探査だった。
それなりに人が集まる場所では、蒼の敵である魔竜の発生が無いとは言えない。
ただ魔竜の確率はごく僅かであり、蒼が以前遭遇したのは一年前だった。
そして、たった一年で次に出会う事は希だった。
「これは、魔竜ではない? 人を喰らった痕跡が探知出来ないし、だが、同族であるとしたら、誰だ?」
魔竜は人を喰らう。そして、その時に特徴のある出来事が発生する。
その痕跡が全く無かった。
だとすると、同族である可能性が高くなる。
「……」
蒼は外に出る為に、上階にあるホームに向かう。
ホームからはデパートの外観を見上げる事が出来る。
さっき電車から降りた時に確認済みだ。
必要なら、そこから跳躍してデパートの内部に奇襲を掛ける事も可能な位置取りだった。
「軽く人払いするか」
蒼は軽く目を閉じて、背中から服の中に収まる範囲で小さな突起を生やした。
「――美佑達はどうするか……一旦忘れさせるか……」
階段を登り切り一時の集中。
蒼が再び目を開いた時、蒼の周囲の人間は蒼を知覚出来なくなっていた。
「美佑、すまない。――で、こちらは今のところ動き無し、探り合いか?」
ホームからデパートに視線を向ける。
線路を六つ挟んでその向こうに直ぐデパートが建っている。
駅とは線路の下を地下で繋がっていて、駅ビル構造になっていた。
「突入するとしたら、あの窓か……。内部の構造が分からないのは痛いな」
デパートの側面には窓の多い面と、そうでは無い面がある。
線路に向いている側は、窓の少ない面だ。
一フロアに対して二個程度しか窓がない。
「いや、非常階段の方がいいか?」
全体が細い格子によってガードされた非常階段が、建物の側面に下から上まで伸びていた。
格子を切断して階段から入った方が、その後の行動を取りやすいだろう。
「しかし、一体何者だ……?」
蒼が疑問に思う事は、仮に同族だとしたら出会う確率が高すぎるという事だった。
竜の同族は蒼が知る限り十五、六体しかいない。
はっきり言って魔竜と出会うより、同族と出会う方が難しい。
その上で、同族とは一年前に二人も出会っていた。
数年以内に、これ以上出会う気がしない。
「やはり敵なのか?」
どちらにしても、たった一年の内に再び会うとは思っていなかった。
ただ、何にしても、同じ理解感覚が使える事だけは確かである以上、同系列の力を持つ存在だ。
油断は出来ない。
「竜以外だとしたら……可能性が無いわけではないが……」
呟きつつ記憶を探り、過去のある出来事を思い出す。
竜の力をコピーした存在がこの世には存在する事。
だが、その存在もとても数が少なく日本には一体しかいない。
さらに、その存在と蒼は面識があった。
「別の奴が来ているとしても、まず無いか」
結局、対象を絞りきれない。
「しかし……」
相手はおそらくデパート内から動く気はない。
「こちらから突入するしかないか」
対象の確認の為には、それしかなった。
理解感覚での探り合いで、相手の力の規模は大体予想が付いていた。
今の蒼に出来る戦闘術は、元々の四割のパワーと、腕から生やす事の出来る剣での剣技、それと、空間に存在する特殊な
粒子を少しだけ操る事だ。
それだけの力でも、勝てる相手だと判断した。
「行くか!」
タンっと、ホームを蹴って跳躍する。
早く動かないと、美佑達がデパートに入ってしまう。
飛ぶの禁止も何も無かった。
蒼が蒼の事を忘れさせても、美佑達は元の目的は覚えている。
もし、危険な相手が潜んでいるなら、その目的すら忘れさせる必要があった。
一飛びで線路を横断して、非常階段の格子に迫る。
浮いた空中で、右手の甲から白い石のようなプレートが刃物のように一メートルほど伸び、その刃で格子に斬りつける。
ガシャンッ!!
派手な音を立て格子の一部が崩れ、蒼が入れるくらいの隙間が出来た。
そして、空間中の特殊な粒子を操る力を使い、空中に空気を固めた足場を一瞬だけ作り、そこを蹴って切られた格子の内側に飛び込んだ。
「身体が無駄に軽いな……」
元々のサイズより三割は小さくなった身体で言う。
「とにかく急ごう」
美佑達の娯楽を無駄に奪いたくないという思い。
その事が蒼を動かしていた。
非常階段から十階建てのデパートの五階に突入した。
相手の気配は一つ下の四階にあった。
同じ階にしなかったのは、戦いになった場合、上に位置した方が有利だと判断した為だ。
「接近が分かっている筈なのに動きなしか」
非常階段はデパートの店員の詰め所に繋がっていた。
扉をこじ開けて入ると、すぐに店員と鉢合わせたが、瞬間的に相手の知覚から自分を消した。
記憶に干渉するという事は、対象を記憶する事が出来なくも出来る。
ある物を見た瞬間から記憶出来ないというのは、実質認識出来ないのと同じだ。
詰め所とフロアを仕切る扉は、分厚い防火扉だった。
開けてフロアに出ると、そこは紳士服の売り場の多いフロアだった。
大きなデパートな為、一フロアの面積は三千平方メートルもあった。
「まだ下にいるのか……友好的な相手なのか?」
ともかく、下方に移動する手段を検討する。
閉じ込められるエレベーターは論外として、エスカレーターが三基。
それと、内部階段がフロアの北と南の端に一つずつあった。
四階の相手の位置に一番近い降り口は南の階段だった。
「……」
北から降りて、距離を取りつつ接近するか、それとも、南から降りて相手の上を抑えるか。
相手が全く動かないとなると、上から攻めた方が有利だと思っていても、判断に迷う。
仮に罠なら、どのルートでも何かある可能性がある。
「なら、迷っても意味がないな」
蒼は今いる自分の位置から近い南側の階段を使う事にした。
周囲を警戒しつつ、腕の剣を構え階段までの距離を詰めた。
階段は丁度、無人だった。
そのまま階段を下って行く。 |