蒼の夢 第二部

『蒼の夢2』
 
 プロローグ

 良く晴れた九月の午後の住宅街。
「蒼ちゃん、じゃあねー」
「うん――美佑また来週」
ランドセルを背負った少女二人が道の角で別れた。
どうやら小学校からの帰りのようだった。
「――さて」
蒼と呼ばれた少女が、おもむろに呟く。
別れた少女の姿が消えた事を確認し、さらに、周囲の様子を探るように頭を軽く左右に振り、直後、その場から跳躍。
一気に二階建て民家の屋根に飛び、そこから更に高い五階建てのマンションの屋上まで飛ぶ。
そして、向かう方角を決めて、高さが大体同じな別のマンションの屋上に飛び移った。
そんなジャンプを何度か繰り返して、少し洒落たマンションの屋上に着地して足を止めた。
軽く乱れ髪を整えてから、そのマンションの非常階段に向かい五階を目指す。
五階の通路まで来て、ドアが並ぶ廊下を進み、一つの部屋の前で止まる。
表札は『山内』
インターホンを押して、
「ただいま、達彦」

1章.同期行動

「お前さ、いい加減屋上から帰って来るのやめないか?」
「何か問題?」
夕食時、ダイニングテーブルに向かい合って座る山内達彦(やまうちたつひこ)と山内蒼(やまうちあお)。
二人は体面上は親子という事になっていた。
達彦は三十過ぎの少しだらしないが優しい感じのお父さんという風体。
蒼の方は、反抗期の真っ直中です、という顔の少女。
達彦は少し困った顔で蒼を諭す。
「その内、誰かに見られたらどう言い訳するんだ? 明らかに困るだろ?」
「基本的に見られないようにしている。仮に見られたら記憶を消してしまえばいい」
蒼の返答は、普通ではあり得ない内容だった。
そもそも、屋上から帰還する事自体、まず無い。
「はぁ……お前には本当に社会的常識が欠けているな」
達彦が溜め息を吐く。
「必要ない」
一瞬で切り捨てる。
「いや、必要だろ。それにお前も必要があると思うから、学校では普通にしているんだろ?」
「他人に合わせた方が便利な時もあるだけだ」
「そうかい……はぁ」
もう一度溜め息を吐き、テーブルの上のカップ麺の蓋を開ける。
お湯を入れて大体、三分経ったところだった。
「まだ、二分五十八秒しか経ってない、私の方は二分五十四秒」
「そんな事はどうでもいい」
達彦は箸を手に取りカップの中の麺をかき混ぜてから、一口すすった。
テーブルの上には、カップ麺が二つと麦茶のペットボトルとコップしかない。
親子二人の夕食としては、あまりに簡素だった。
しかし、その事にこの二人から文句が出る事はない。
「はい、三分」
蒼がカップ麺を開けて、同じようにすすり始めた。
数分、無言の食事タイムの後――。
「ごちそうさま」
蒼が空になったカップを置いた。
続いて達彦が無言でカップを置き、空いた手で麦茶の入ったコップを口に運ぶ。
そのコップが口から離れたタイミングで、蒼が口を開く。
「達彦、お風呂は?」
「炊いてある」
「そうか、なら入るから、背中を流してくれ」
「いやさ、思うんだが、お前の年齢的にそれはセーフなのか?」
蒼の外見年齢は第二次性徴前後という感じだ。
「別に、いつもの事だ。バスタオルの準備お願い」
蒼がテーブルから立ち、浴室があるキッチンの方に向かう。
「はぁ、蒼に、普通の女の子を望むのは無理なんだろうな」
三度目の溜め息を吐き、達彦もバスタオルを取りにテーブルから離れた。

同じ頃――。
「じゃ、見張りお願いねー」
街の中心部にあるデパートの内部テナントの一つ、リラックスバブルバスの販売店。
そこに銀髪の少女が全裸で佇んでいた。
歳は十歳程度。
少女の声はフロアに響くが、営業時間の筈なのに誰もこない。
さらに、売り物であるバス設備が完全に起動していた。
普段は販売説明時に試し起動する程度のものだが、今は、バスタブにお湯と泡が満ちて『入れる』状態になっている。
「こんな物まで備えてくれるなんて、ホントに人間って都合の良い生き物ね」
少女がデパートの明るい照明の中、全く恥じる様子もなく浴槽に浸かる。
不自然な事に、販売店の周囲半径五メートルに人影はない。
その少し先では、普通に買い物しているお客がいるのに、少女の近くには店員を含め誰一人近づかない。
「丁度良い湯加減ね、ふぅ……ブクブクブクブク」
一息吐いてから、お湯の中に顔を半分沈める。
大量の泡の中に少女が吐いた息の分の泡が混じる。
「ブクブクブクブク……ぷはっ、お風呂が終わったら地下へ行って、今日は何を食べようかしら」
少女は地下の食料品売り場を想像してニンマリした。
お風呂の後は食事と大体決まっていた。
「うーん、今日は簡単にカレーにしようかな、後はアイスクリームをデザートに」
とても楽しそうな顔で想像を続ける。
少女のいる空間と、デパートの他の部分の空気は明らかに違っていた。
その場だけ、他の全ての人間にとって、完全な意識外にあるという様子だった。

戻って、山内家。
「達彦、もっと右」
「はいはい」
マンションのやや小さめの浴室に達彦と蒼の姿があった。
蒼は背中を達彦に向けていた。
背中にはボディーソープの泡が大量についていた。
「達彦も、大分背中流しが板について来たな」
「そんな事が板についても、何の得もない」
「私が得するぞ」
「あっそ」
「じゃ、そろそろ流して、お湯に浸かるから」
「はいはい」
生返事を繰り返してシャワーのコックを捻り、蒼の背中の泡を流す。
「泡が流れたら、達彦が先に浸かれ、狭いからな」
「はいはい」
泡を流し終えて達彦が浴槽に浸かる。
そして、すぐに蒼が浴槽に足を入れる。
「ちゃんと座れるようにしろ」
「命令の多いお嬢様だな」
達彦が浴槽の中であぐらをかき、その上に蒼が座る。

 
「今日も平和に過ぎたな」
蒼が達彦の胸板に身体を軽く預ける。
「そうだな」
「しかし、私はこんな事をしていて良いんだろうか?」
「ずっと戦っていたんだろ、休息も必要だ。まぁ『この状態』が『良い』とはとても思えないが」
「どういう意味だ?」
蒼が疑問の顔をする。
「現状が倫理的にギリギリって事だ」
「達彦はすぐそれだな、別に関係ない。お前とは血の契約をしている」
「そういう話じゃない、俺はお前と違って常識人だったからな」
「過去形じゃないか」
「そりゃ、仕方ないだろ、非常識の固まりと一緒に暮らしているんだから」
常識を過去に置いて来なければ、現状を受け入れる事が出来ない。
達彦の日常は蒼と出会った一年前の事件によって全く別の物に変化していた。
「……私といるのが嫌なのか?」
達彦の胸板から少しだけ身体を離す。
「それは難しい質問だ」
「なら、嫌なんだな」
達彦には見えない視線を寂しげに揺らす。
「そう結論を急ぐなよ。――そうだな、嫌な率四割、良い率六割で、良い方が勝っているから」
「嫌な率を一割以下にしろ」
即座に言う。
「無茶言うな」
「……私の何が、そんなに迷惑なんだ?」
「非常識で年齢と姿が合ってないところだな」
蒼は姿だけが人間の別の生物だ。
その価値観も寿命も人とは全く違う。
「姿か……別段、人と差があるとは思わないが?」
「ああ、でも、今のお前の姿はお前の実年齢から見てずれているだろ?」
「そんな事か。この姿は、もっとダイレクトにお前から吸収出来れば回復も早い。しかし、お前が拒むから」
自らの姿を確認して言う。
蒼の現在の体型は十歳程度の女児の平均体型だ。
いや、平均より無い胸かも知れない。
とにかく幼い体つきだった。
「ダイレクトって、その発言は犯罪だ」
達彦が蒼の背中から目を逸らす。
「何がだ?」
「全部だ」
「意味が分からない、仮に犯罪だとしても、それは人界での話だ。私達には関係ない」
「ここは完全なる人界だ」
「人なんて、全て切り離して、ただ利用できる立場だ」
言い切る蒼に対して、達彦は額に手を当てた。
「……基本的な価値観が違い過ぎる」
どうやっても埋まらない溝があるのを感じた。
「どうして嘆く? 私達は楽しくやっているだろ?」
離れていた蒼が達彦に再び密着する。
「それはな……」
お湯の中でも感じる蒼の体温。
その体温を大切にしたいとは思っている。
立場上の保護者として、また、もっと違う大事な存在として。
「私の事、嫌いか?」
呟くように聞く。
「……」
思っていても、言葉に出来ない時がある。
「…………」
蒼は返事を待っている様子だった。
「子供は、そんな事気にするな」
誤魔化しで言って、蒼の頭をぽんぽんと撫でる。
「子供じゃない、姿だけだ、お前も今そう言っただろ?」
はぐらかされた事に対して口調を強める。
「いや、多少は幼児化しているぞ」
「そんなつもりはない」
頬を膨らませて否定する。
「……まぁ、そういう事にしておくよ」
突っ込むのは可哀想だと思った。
「分かればいい。それで、ダイレクトに繋がる気はないのか?」
蒼が話を達彦の戻して欲しくない方向に戻す。
「それだけは無理だ。違う意味の全てを捨てて、駄目になろうとは思わない」
「そうか……残念だ。となると、あと二年半くらいはこの姿だな」
「丁度、小学校卒業くらいで良いじゃないか、そのまま中学に入れ」
「行く意味があるのか? 小学校は一応の世間体という物を理解して行っているが、中学くらいなら引きこもりで通してもいいだろ。
クラスに一人はいると聞いたぞ」
蒼が敏感に世間の流れを読んだ発言をする。
「駄目だ。そんないらん知識だけは立派だな、それに小学校楽しいだろ?」
「それは、楽しくない訳ではない」
蒼の視線が少しだけ泳ぐ。
「なら学校には行っておけ、お前に必要な最低レベルの常識は教えてくれるからな」
「全部知っている事だ」
「知っていても、お前は実践してないだろ」
蒼の頭を軽く小突く。
「あらゆる常識を実践する必要がないからだ」
軽く口を尖らせて言う。
「今のその姿で凄い事言うなよ。俺の立場が本気で犯罪だろ」
「そうなのか?」
キョトンとした顔。
基本的に分かっていない証だった。
「今の日本で幼女を囲っているおっさんは、間違いなく逮捕だからな。世間的には親子であり、お前が小学校に行っている必要があるんだよ」
「なら、お前が幼児にでもなれば良い、多分出来ない事はない筈だ」
「ギャグか? 何の解決にもならない事を言うな」
「至って真面目な話だが」
本気でキョトンとした顔をする。
「……まぁ、とにかく小学校で人付き合いとか学んでくれ。というか、お前友達いるんだろ?」
「いる」
「そいつの事好きなんだろ?」
「ああ」
「なら良い事だ。しかし、そいつは、お前のどこが気に入ったんだろうな?」
「格好いい所だと言っていた気がする」
「格好いい、ね、それは当たっているかもな」
蒼の立ち振る舞いは、基本的には狩りをしている狼のように隙がない。
だが、別に乱暴な訳でなく、言うなれば『クール』だった。
「それじゃ、そろそろあがるぞ」
蒼の脇の下に手を入れて持ち上げる。
「やめろ、自分で立てるっ」
ジタバタジタバタ。
「お嬢様はたまには大人しくしていなさい」
蒼を抱えて浴槽から出る。
「あー、離せっ」
「はいはい」
蒼の足を浴室の床に着ける。
「じゃ、俺は先にあがるから、後は一人で洗えよ」
「髪は洗ってくれないのか?」
「『洗え』と命令するのか? お嬢様?」
聞かれ、やや考えた顔をして、
「――いや、いい」
「なら、ちゃんと洗えよ。じゃあな」
達彦は先に浴室から出た。
後ろ手で浴室の扉を閉めて、腰にタオルを巻いて身体を拭く。
そして、キッチンに向かい冷蔵庫から缶ビールを取り出して開ける。
プシュ。
ゴクゴクゴクゴク。
「っ――はぁー、やっぱり、おっさんの定番は最高だな」
一気に半分近くを飲み干して、多少濡れても平気な椅子に腰掛ける。
つくづく平和だと思ってしまう。
仮にまともに嫁を貰って結婚していたら、こんな生活もあり得たかもという気持ちになる。
娘が十歳まで父親と一緒にお風呂に入るというシチュエーションは例外だとしても、今の生活は本当に一般的な家庭という感じだった。
母親がいない事も、離婚率が高い現代なら珍しい事ではない。
「しかし、ずっとこのままでは無いんだろうな」
ビールをテーブルに置く。
達彦と蒼は人間では無い。
荒唐無稽な話だが、人とは別の生き物。
竜と呼称される存在。
竜は、この世界にランダムで発生する魔竜を狩る事を使命としている。
魔竜は人を喰らい強くなる。
強くなった魔竜は竜を襲う。
だから、強くなる前に見つけ出して狩る。
単純な図式だ。
結果として人を魔竜の脅威から守っている事になるが、蒼にその意識はない。
あくまで、副産物として結果でしかないという考え方だった。
そして、人は魔竜も竜の存在も知らない。
それは竜と呼ばれる種族が人の記憶に干渉出来るからだ。
完全な記憶の消去、または書き換え、一時的な勘違いを引き起こす事も可能だ。
そうする事で竜は人と距離をおいて、この世界に存在していた。
いつから竜がいて、そもそも何故竜がいるのか、その答えを蒼は知らない。
達彦はもっと知らない。
「俺は、一体何者なんだろうな……」
達彦自身が、己が人ではないと気付いたのは一年前の事だ。
それまでは純粋に人だと思って生きて来た。
いや、今でも本人に『竜』だという強い自覚はない。
あくまで『人』の方が強い。
しかし、一年前の事を思うと自分が人では無い事を、どうしても否定出来ない。
「それに、蒼との繋がりは確かに感じるからな……」
同族として通じ合う事。
感覚が似ていた。
同じ何かを共有しているとも思えた。
「まっ、考えても答えが出る事じゃないか、とりあえず、この街に落ち着いている訳だし」
竜であると自覚して、何か得があるとは思えなかった。
人の形態をしている以上、人としての生活がある。
その為に、今年の四月にこの街に引っ越し、蒼を小学校に入れた。
その手続きは、全て蒼の記憶を変える力によって行った事だが、それは仕方ない。
「そろそろ、仕事でも探すか……」
達彦の現在の職業は無職だ。
それでも生活出来るのは、蒼の資金力のお陰だった。
蒼の銀行口座には、全くあり得ない額が眠っていた。
どういう方法で集めたお金かは考えたくない。
達彦にも前の仕事での貯金があるにはあるが桁が何桁も違う。
「お嬢様の紐生活って言うのも、身体が鈍るだけだしな」
生活費の全てをまかなっている蒼を『お嬢様』と呼んでしまうのは、自然の流れだった。
達彦は腕をぐるぐると回してから、残りのビールを飲んで立ち上がった。
「たつひこー」
丁度、お風呂場から声がした。
「何だ?」
「もうあがるからドライヤー用意して」
「早いだろ、ちゃんと洗ったのか?」
「問題ない、別に人間みたいに体液が滲んで、絶えず汚れる体じゃないから」
「生々しい言い方をするな、それに、お前が汗をかいているの、普通に見た事あるぞ」
「あれは演出だ、とにかくドライヤーお願いー」
「はいはい」
何が演出なのかと思いながら、達彦はドライヤーを持って蒼の元に向かった。
それは、とても普通な二人の最後の夜だった。

土曜日の朝。
達彦と蒼に特にする事は無かった。
達彦は昨晩、仕事を探す事を決めたが、動くのは月曜からにするつもりだった。
蒼は家では基本的に喰っちゃ寝だ。
それには理由があり、一年前の戦いですり減らした力の回復を待っているからだった。
「あ、そうだ達彦、昨日出た宿題、ランドセルの中に入っているからやっておいて」
クーラーの効いたリビングのソファーに寝転びながらテレビを見つつ蒼が言う。
Tシャツと短パンという完全にごろ寝モードの格好だ。
見ているのは、土曜の朝にやっているアニメ番組だった。
『小さな魔法使いトゥインクル』
小学生から大きなお友達まで幅広い人気がある。
「当然のように言うな、お前の学力なら一秒で終わる内容だろ」
アニメに興味の無い達彦は近くの椅子で、冷えたお茶を飲んでいた。
「達彦こそ口答えか? いつもやってくれているだろ? それに紙に解答を書き記すのに一分以上は掛かる。
そんな無駄な事を私がする必要があるのか?」
「いや、それはお前の宿題だからだろ」
とても当たり前の事の筈だ。
「うるさい奴だな、私は無駄な事はしたくない。だから、宿題は達彦の仕事だ」
蒼の中で当たり前の事を、何度も言わせるな、という空気で言い放つ。
「はぁ……分かったよ。まっ、俺もこの歳で分数の計算とか、漢字の書き取りをやるとは思ってなかったさ」
諦めたと言う様子で腰を上げて、蒼の部屋に向かう。
達彦が宿題の在りかを聞かないのは、達彦が蒼の宿題をするのが日常だからだ。
大体、部屋にあるランドセルの中に入りっぱなし。
蒼は宿題を一回でも自分でやった事はない。
蒼の担任は達彦の字を、蒼の字だと思っているだろう。
達彦は蒼に対して、まるで弱みを握られているように甘い。
実際、弱みという程では無いにせよ、蒼の資金で生活している身の上だ。
文句は言えない立場という物があった。
蒼の部屋に入り、壁に掛かっているランドセルの中を漁る。
宿題と思われるプリントはすぐに見付かった。
と、一緒に入っていた携帯が着信を告げて震えた。
「友達からか? メールか」
携帯を手にして、一旦蒼のところに戻る。
「おい、メールだぞ」
「ん? ああ」
達彦が蒼に携帯を渡す。
蒼はすぐにメールの中身を確認した。
「……うーん」
「何だ? 何か困る事か?」
「いや、遊びに誘われた。急だけど来ないか? という内容だ」
「行けばいいんじゃないか?」
「まぁ、そうだが、初めて行く場所だからな、探査も行ってない」
「どこだよ?」
「ここから二駅離れた場所にあるデパートだ」
「小四の集まりにしては遠くないか?」
二駅先は、いわゆる街で大型の商店やデパートが建ち並んでいた。
自分が親だとしたら、心配する距離と場所だった。
「ああ、その件は、友の内の一人が大学生の姉を同伴しているとの事だ。元々その姉の誘いらしい。メールだから詳しくは分からないが」
「ふーん、なら、別に行ってくればいい。宿題はやっておいてやるし、お前、別にする事ないだろ?」
一応、大人がいるなら大丈夫だろう。
「そうだな、分かった。なら出かける事にする。駅に十時に待ち合わせだから、急がなくては」
そう言って、蒼は携帯で返事を打ちながら自分の部屋に向かった。
十中八九着替えるのだろう。
部屋に入ってすぐに、
「宿題は出しておくぞ」
扉の隙間からプリントが一枚床に置かれた。
「はいはい」
生返事をして、達彦はコップに入れてあったお茶を一口飲んだ。

約十分後。
蒼の部屋の扉が開いた。
「じゃ、行ってくる」
「ああ」
蒼が急いでいる様子で玄関に向かう。
現在九時四十八分、駅までは人の速度で走らないと間に合わない。
「あ、ちょっと待て、屋根の上を飛ぶなよ。道路を走っても間に合う時間だ」
「達彦は、走るのと飛ぶの、どっちが身だしなみが乱れると思う?」
蒼の着替えた服は、涼しげな薄手のブラウスと、控えめにフリルの付いたミニのフレアスカートとオーバーニーソ。
「知るか、とにかく飛ぶの禁止」
飛んだら、どんなに気を付けてもパンツ丸見えの格好だった。
「まぁ、今回は屋上に上がる時間の方が掛かるかも知れないし、達彦の言う事に従う事にする、じゃ、改めて行ってくる」
「ああ、いってらっしゃい」
達彦が見送ると、蒼は玄関で夏向きの白いミュールを履き、ポシェット一つを肩から下げて、特に振り返る事もなく出て行った。
玄関が開いた時に入ってくる外の熱気に、残暑を感じ、
「さて――宿題でもするか」
達彦はリビングに戻り宿題を片づける事にした。

蒼が道を走って駅に着いたのは、九時五十七分だった。
大人が走って十五分の行程を九分で駆けた。
それでも、人目を気にして異常な速度にならない事を踏まえつつ、さらに、そこそこヒールのある靴で減速した結果だ。
駅が見える直前で、さらに速度を落として、普通に駆けて来たシーンを演出しつつ目的の人物を捜した。
と、
「あ、蒼ちゃん、こっち、こっち」
相手が自分を見付けてくれた様子だった。
蒼が気配を探る事をすれば百メートル先からでも、知り得る一個人を特定出来るが、そんな無駄な事は今はしていなかった。
「おはよう、美佑」
蒼にメールをくれた相手だった。
立川美佑(たちかわみゆう)、蒼の友達の一人だ。
少しおっとりした感じの子で、体育が苦手で音楽と家庭科が得意。
家庭科が壊滅的で、体育は当然のように最優秀生徒の蒼とは対照的とも言えた。
性格もサバサバした蒼とは違い、優しく少しお節介な部分があった。
二人に似ている所があるとすれば長い髪くらいだろう。
蒼は外に出る時は大体ツインテールに結び、美佑は後ろに垂らしたまま、サイドに細いリボンを絡めていた。
「おはよう、早かったね。走った?」
「うん」
「ごめんね、暑かったでしょ? 待ち合わせ、もう少し遅くも出来たから」
「特に問題ない、他のみんなも居るし、そうも行かないだろ」
言って、蒼は他のメンバーに挨拶する。
「さくら、悠美香、おはよう」
「おはよう、蒼ちゃん」
「おはよう」
呼ばれた二人が挨拶を返す。
美鏡さくら(みかがみさくら)と崎白悠美香(さきしろゆみか)。
さくらは優等生タイプの子で、容姿も小四にして整っていた。
ふわっとした髪を肩より少し長いくらいに垂らしている。
悠美香はやや蒼に似た感じの子で、キツクないレベルの吊り目で、適度な長さの髪をポニーテールにしていた。
「で、蒼、こっちが私の姉ね」
悠美香が隣に立つ姉を紹介する。
「悠美香の姉の真央(まお)です。よろしくね」
「よろしく」
蒼は簡素に挨拶した。
簡素なのは、別に真央の事が気に入らなかった訳ではなく、ほぼ誰に対してもだ。
「あ、真央ねぇ、蒼の態度は気にしなくていいから、蒼は、いつも無愛想だから」
悠美香が解説する。
「そういうフォローなの?」
真央が少し困った顔をする。
「私は、どんな評価でも大して気にしない」
「だってさ、だから、真央ねぇも気にしない方向で」
「うーん、それでいいの……?」
やや考えている様子だったが、特にその後、言葉は続かなかった。
「で、蒼にこの集まり説明するけど、美佑はどこまでメールしたの?」
「あ、うん、全然詳しい事は伝えてないよ」
「そう、じゃ、えっとね、真央ねぇがこのチケットを貰って来たの」
五枚のチケットを蒼に見せる。
そこには『小さな魔法使いトゥインクル』が決めポーズを取っている絵と『原画展』という文字が書いてあった。
「これは原作版の原画展だな、現在これが開催されていると?」
「うん、そういう事。蒼ちゃんもファンなんでしょ?」
「ファンという程の事はない。ただ、毎週欠かさず見て、原作もチェックするようにしているだけだ」
言い切る。
「蒼ちゃん……それは、もう完全にファンという領域ですよ」
さくらが真面目な顔で言う。
他の三人は突っ込むに突っ込めないという顔をしていた。
「そうか? それで、これからこの原画展に行く訳だな?」
「ええ、ついでに買い物とかも出来るかなって、そんなプランで問題ない?」
「ああ」
「じゃ、話がまとまったところで、行きましょうか?」
真央が年長者として残り四人を先導する。
四人の方は、意味無く捻くれた性格の子はいないらしく真央に従った。
そのまま電車に乗って二駅先を目指す。

「そういえば、今日の放送をみんな観たのか? 時間的に観れなかっただろ?」
蒼が電車の中で小声で聞く。
五人は三人が座り二人が立っていた。
立っているのは蒼と真央だ。
「ああ、大丈夫、真央ねぇの携帯で観たから」
「私は、始まる前に準備しておいて、終わってから急いで間に合ったよ」
「私は録画です」
三者三様の答えが返って来る。
「さくらは録画派か、リアルで観ないと感動が半減しない?」
「携帯の小さな画面で観ても、感動が半減しませんか?」
悠美香の発言にさくらが反論する。
「小さくても高画質だ」
「うちは大画面7.1ch環境ですよ」
「二人とも、そんな事で言い合わないの、電車の中でしょ?」
真央が止めに入る。
「はーい」
「はい、すみません」

二駅という短い距離だ。
電車はすぐに目的の駅に到着した。
「ん、ちょっと待ってくれないか?」
蒼が改札を出ようとする面々を止める。
「なに?」
真央が聞き返す。
「大した事じゃない、トイレに行きたいだけだ。すまないが待っていて欲しい」
「なら、私も……」
美佑が蒼の側に寄る。
「そっ、じゃ、私達は改札を出た所で待っているから」
「ああ、そうして欲しい」
「先に行ったら嫌だよ」
二人が残り三人と別れる。
トイレの案内板を見付けて、そちらに向かう。
「混んでないといいけど……」
「まぁ、大丈夫だろう」
「あ、空いてなかったら、蒼ちゃん先でいいよ」
「そうか? すまない」
トイレを発見して中に入る。
丁度、一室空いた所だった。
「蒼ちゃん、先どうぞ」
「分かった」
蒼は美佑を待たせて先に個室に入った。
家を出る時に急いだせいで、トイレに行き忘れてしまったのが響いていた。
それと、一つ念のために確認しておく必要がある事があった。
蒼はまず用を済ませてから、その確認作業を始めた。

「朝からスイカは、やっぱり無理があったかしら」
少女が一人、デパートのワンフロアをトイレを目指して歩いていた。
縫いぐるみを抱いて、とても変わった格好をしているその少女の事を、誰も気にとめない。
お客も店員も、皆、少女の事を見ていない様子だった。
少女の格好は、和服と洋服を合わせたような物で、上は振り袖だが下はパニエで広がったミニスカートとブーツ。
とても長い銀色の髪には先に緩いウェーブが掛かっていて、目はコバルトブルーだった。
その子がフロア内の階段部分にあるトイレに入る。
トイレの中には誰もいなかった。
「あら、偶然。人払いする必要なくて助かったわ。でも入り口だけは――」
そう言い二秒程目を閉じて、持っていた縫いぐるみを、備え付けのベビーベッドに置いて個室に入る。
「水物はやはりトイレに直結するわね、気を付けないと」
腰掛けて一息吐く。
振り袖が汚れないように膝の上に畳む。
「今日は何して遊ぼうかなー。今日から何かのイベントが始まるみたいだし、ちょっと見て来てもいいかもね」
独り言を言いながら用を足す。
そして、そろそろ流して終わりにしようと思った時――。

「あ――」
蒼は思わず声を出してしまった。
「なに? 蒼ちゃん、何かあった?」
外の美佑に聞こえてしまった。
「いや、何でもない、もう出るから」
そう答えて、着衣を整えて個室を出る。
「美佑、すまないけど、私は出て待っている。――いいか?」
「う、うん。いいけど、なに?」
「ああ、ちょっと電話だ。個人的な」
「そう、じゃ、私、終わったら改札の外のみんなの所にいるね」
「そうしてくれ、多分、美佑が来る頃には、私もみんなの所に居ると思う」
「分かった。じゃ」
美佑が個室に入った。
蒼はすぐにトイレから出て、理解感覚を現状の最大に広げた。
ほぼ同時に蒼が捉えた相手も同じ事をして来た。
「不味いな。竜だ……互いに位置は知れた訳だし、どうする?」
あまり考えている時間は無かった。
理解感覚とは竜が備える探索能力であり、己が捉えた空間に存在する色々な事象を大体、把握する事が出来る力だ。
捉えられる空間の広さは、今の蒼の場合半径百メートル強。
蒼がトイレで行った事はデパートに感覚を飛ばしての内部探査だった。
それなりに人が集まる場所では、蒼の敵である魔竜の発生が無いとは言えない。
ただ魔竜の確率はごく僅かであり、蒼が以前遭遇したのは一年前だった。
そして、たった一年で次に出会う事は希だった。
「これは、魔竜ではない? 人を喰らった痕跡が探知出来ないし、だが、同族であるとしたら、誰だ?」
魔竜は人を喰らう。そして、その時に特徴のある出来事が発生する。
その痕跡が全く無かった。
だとすると、同族である可能性が高くなる。
「……」
蒼は外に出る為に、上階にあるホームに向かう。
ホームからはデパートの外観を見上げる事が出来る。
さっき電車から降りた時に確認済みだ。
必要なら、そこから跳躍してデパートの内部に奇襲を掛ける事も可能な位置取りだった。
「軽く人払いするか」
蒼は軽く目を閉じて、背中から服の中に収まる範囲で小さな突起を生やした。
「――美佑達はどうするか……一旦忘れさせるか……」
階段を登り切り一時の集中。
蒼が再び目を開いた時、蒼の周囲の人間は蒼を知覚出来なくなっていた。
「美佑、すまない。――で、こちらは今のところ動き無し、探り合いか?」
ホームからデパートに視線を向ける。
線路を六つ挟んでその向こうに直ぐデパートが建っている。
駅とは線路の下を地下で繋がっていて、駅ビル構造になっていた。
「突入するとしたら、あの窓か……。内部の構造が分からないのは痛いな」
デパートの側面には窓の多い面と、そうでは無い面がある。
線路に向いている側は、窓の少ない面だ。
一フロアに対して二個程度しか窓がない。
「いや、非常階段の方がいいか?」
全体が細い格子によってガードされた非常階段が、建物の側面に下から上まで伸びていた。
格子を切断して階段から入った方が、その後の行動を取りやすいだろう。
「しかし、一体何者だ……?」
蒼が疑問に思う事は、仮に同族だとしたら出会う確率が高すぎるという事だった。
竜の同族は蒼が知る限り十五、六体しかいない。
はっきり言って魔竜と出会うより、同族と出会う方が難しい。
その上で、同族とは一年前に二人も出会っていた。
数年以内に、これ以上出会う気がしない。
「やはり敵なのか?」
どちらにしても、たった一年の内に再び会うとは思っていなかった。
ただ、何にしても、同じ理解感覚が使える事だけは確かである以上、同系列の力を持つ存在だ。
油断は出来ない。
「竜以外だとしたら……可能性が無いわけではないが……」
呟きつつ記憶を探り、過去のある出来事を思い出す。
竜の力をコピーした存在がこの世には存在する事。
だが、その存在もとても数が少なく日本には一体しかいない。
さらに、その存在と蒼は面識があった。
「別の奴が来ているとしても、まず無いか」
結局、対象を絞りきれない。
「しかし……」
相手はおそらくデパート内から動く気はない。
「こちらから突入するしかないか」
対象の確認の為には、それしかなった。
理解感覚での探り合いで、相手の力の規模は大体予想が付いていた。
今の蒼に出来る戦闘術は、元々の四割のパワーと、腕から生やす事の出来る剣での剣技、それと、空間に存在する特殊な
粒子を少しだけ操る事だ。
それだけの力でも、勝てる相手だと判断した。
「行くか!」
タンっと、ホームを蹴って跳躍する。
早く動かないと、美佑達がデパートに入ってしまう。
飛ぶの禁止も何も無かった。
蒼が蒼の事を忘れさせても、美佑達は元の目的は覚えている。
もし、危険な相手が潜んでいるなら、その目的すら忘れさせる必要があった。
一飛びで線路を横断して、非常階段の格子に迫る。
浮いた空中で、右手の甲から白い石のようなプレートが刃物のように一メートルほど伸び、その刃で格子に斬りつける。
ガシャンッ!!
派手な音を立て格子の一部が崩れ、蒼が入れるくらいの隙間が出来た。
そして、空間中の特殊な粒子を操る力を使い、空中に空気を固めた足場を一瞬だけ作り、そこを蹴って切られた格子の内側に飛び込んだ。
「身体が無駄に軽いな……」
元々のサイズより三割は小さくなった身体で言う。
「とにかく急ごう」
美佑達の娯楽を無駄に奪いたくないという思い。
その事が蒼を動かしていた。
非常階段から十階建てのデパートの五階に突入した。
相手の気配は一つ下の四階にあった。
同じ階にしなかったのは、戦いになった場合、上に位置した方が有利だと判断した為だ。
「接近が分かっている筈なのに動きなしか」
非常階段はデパートの店員の詰め所に繋がっていた。
扉をこじ開けて入ると、すぐに店員と鉢合わせたが、瞬間的に相手の知覚から自分を消した。
記憶に干渉するという事は、対象を記憶する事が出来なくも出来る。
ある物を見た瞬間から記憶出来ないというのは、実質認識出来ないのと同じだ。
詰め所とフロアを仕切る扉は、分厚い防火扉だった。
開けてフロアに出ると、そこは紳士服の売り場の多いフロアだった。
大きなデパートな為、一フロアの面積は三千平方メートルもあった。
「まだ下にいるのか……友好的な相手なのか?」
ともかく、下方に移動する手段を検討する。
閉じ込められるエレベーターは論外として、エスカレーターが三基。
それと、内部階段がフロアの北と南の端に一つずつあった。
四階の相手の位置に一番近い降り口は南の階段だった。
「……」
北から降りて、距離を取りつつ接近するか、それとも、南から降りて相手の上を抑えるか。
相手が全く動かないとなると、上から攻めた方が有利だと思っていても、判断に迷う。
仮に罠なら、どのルートでも何かある可能性がある。
「なら、迷っても意味がないな」
蒼は今いる自分の位置から近い南側の階段を使う事にした。
周囲を警戒しつつ、腕の剣を構え階段までの距離を詰めた。
階段は丁度、無人だった。
そのまま階段を下って行く。

「美佑ちゃん、遅かったけど、何かあったの?」
駅の改札で四人が集合する。
真央が心配げに聞いた。
「う、うん、よく分からないけど、時間掛かっちゃった」
何処か不思議そうに美佑が言う。
「別に無事ならいいんだけどね。それじゃ、行こう」
「あ、うん……」
何か引っ掛かるが、何かは分からない。
美佑はモヤモヤする気分のまま、デパートの地下入り口の方へと歩きだした。

「あー、結局来ちゃうのね、なら、レミ、ミラ、リラ、ちょっと様子を見て来て」
和服のような洋服のような衣装を着た少女が、トイレから出て特に何も無い空間に指示する。
「ん? そう? なら、任せるわね」
まるで誰かと話しているように言葉を発して、少女は縫いぐるみを持って四階のお気に入りの場所に向かおうとする。
「あ、こっちに来られても困るから、この辺りに気配だけ残しておかないと」
二歩進んで立ち止まり、ブーツの底で床をタップを鳴らすように蹴る。
「これでいいかしら? 引っ掛かってくれるといいけど」
少女は少しだけ笑い、お気に入りの場所を目指した。

蒼は階段の途中地点にある踊り場から階下を探る。
相手の居る場所は、殆ど変わらない。階段を降り切って、フロアに少し進んだくらいの場所だ。
その周りには人間の気配も普通にある。
「攻撃の意思はないのか?」
そう思うが、人が居ても関係無いというスタンスの相手の可能性もあり得た。
その場合は相当に危険だ。
美佑達が上がって来る前にデパートを封鎖する必要がある。
「見極めてから動いて間に合うか……」
現在の美佑達の位置を探査する。
デパートに入っておらず、地下の通路にいる様子だった。
「なら――」
まだ、間に合うと判断し、対象を見極めるという道を選択した。
警戒したまま階段を一段ずつ降り、相手との距離を縮めて行く。
「…………」
シュッ!!
その時、蒼のすぐ横を風が通りすぎた。
異質さを感じ反射的に避けたが、棚引いた髪の幾本かが持って行かれた。
「くっ!」
風は真空を伴い、まるで刃物のようだった。
咄嗟に身構え攻撃して来た方向を探るが、何も感知出来ない。
いや、多少、何か動いている気配があるが、気配が小さすぎて追い切れない。
「高等詩編かっ!?」
最初に察知した相手の位置は変わっていない。
それとは別の位置、階段の直ぐ下辺りからの攻撃だ。
しかし、詳しくどこに居るのか理解感覚を使っても特定出来ない。
考えられる可能性は、相手が竜の使う力である『詩』の使い手である事。
しかも、姿を消すクラスの技は、かなりレベルの高い『高等詩』の使用が必要となる。
「戦闘になるなら、先にこの場の封鎖を――」
蒼は美佑達の事を考え、敵がどこにいるか分からない状態で、別の事に意識を集中させた。
蒼の背中の一部が服ごと一気に盛り上がり、そのまま服を突き破り白い物体が出現した。
それは根本を一つにした細長いプレートが何枚も放射線状に広がる構造で、全体として翼のように見えるものだった。
左右に一つずつ出現して片方約二メートル。表面がとても硬くプレート一枚ずつが稼働可能だ。
「みんな忘れてっ!」
記憶操作の力を解放する。
蒼が人の記憶を操作出来る範囲は、理解感覚の限界範囲と同じだ。
その範囲内の人間の記憶から一時『このデパートの存在』を消した。
今、デパートの中にいる人間には効果が薄いが、何かの目的をもってデパートを目指している人間は完全に退ける。
蒼の発した力は、瞬時に百メートル四方に拡散し効果を示した。
が、その事は蒼の防御を一瞬手薄にした。
「!!」
その僅かな間に、前方、後方、上方の三方から大量の真空の刃が蒼に迫った。
知らずに囲まれていたという事だろう。
蒼は背中に広がったプレートを自らの身体を守るよう稼働させた。
プレートは蒼を中心に、隙間の多い三角錐型となり、表層で真空の刃を弾くが、隙間を抜けた分が蒼を切り裂く。
「っぅ!!」
同時に、刃の形に真空を形作っていた力場が消失して、空気が爆ぜる。
爆風と爆音が蒼を包む。
胸を抱いて致命傷を避けたが、腕と脇腹、両足に深い裂傷を複数負う。
背中と顔は、防御に使ったプレートの密集度が高く無傷だったが、他の傷だけで戦闘持続が困難なダメージだった。
傷口から鮮血が吹き出し、ズタズタの服を真っ赤に染めた。
「っ……はぁ、んっ、くぅぅ……」
何とか立っているのがやっとだった。
血がダラダラと流れ続ける。
「……血だけでも……」
呟きと同時に、体表面に小さなプレートが出現した。
薄く伸びて傷を覆って行く。
傷の全てがプレートで覆われ、遠目には全身のあちこちに細かく切った白いガムテープを貼ったような姿になる。
相手からの攻撃は、一旦、止まっていた。
止めを刺す気は無い様子だった。
「んっ」
僅かな気配の変化を感じた。
同時に、何も無かった場所から全長六十センチ程の人形が姿を見せた。
フランス人形をもっと緻密にしたような人形だ。
全部で三体。
蒼を取り囲むように現れる。
「こいつらを、使役している奴が、敵か……」
人形には『竜』の気配はない。
主人の命令を実行しているだけの存在だろう。
「ちっ」
と、階段に人間が接近する気配を感じた。
爆音で集まって来たのだろう。
「何だ、何だっ!?」
「え、あれ」
階段の下から蒼の事を見付ける。
「きゃ、きぁぁぁぁっ!!!!」
血まみれの少女を見た時の普通の反応だった。
「っ……」
力で記憶を操作しようとしたが、その余裕はなかった。
人形達は人間に構わず、蒼に三方から鎖を投げつけた。
鎖は人形の手から直接生え、意のままに動く様子で、蒼の身体をグルグルと拘束して行く。
「くっ、っぅ!!」
蒼は鎖に絡め取られ、縛り上げられた。
抵抗する気力は無かった。
「っ、ぐぅぅ……っ!!」
背中のプレートがギリギリと軋む。
そして、蒼を縛り終えると人形達が動き始めた。
人間達の悲鳴が大きくなる。
自動的に動いているように見える人形、そして、鎖に縛られた血まみれの少女。
騒ぐなという方が無理な状況だった。
人形はズルズルと蒼を引きずりデパートの階段フロアを抜け、売り場フロアへと移動する。
「っ、本体の位置も……」
蒼が感知した本体位置が眼前に迫ったが、そこには誰もいなかった。
フロアにいる人間は、蒼の姿を見て悲鳴を上げる。
大混乱だった。
そして、その混乱がさらに大きくなる要因が、現在この場にはあった。
蒼の力によって、デパートの存在が記憶にない事。
それは、例えば『逃げよう』と思った時、自分が居る場所が何処か分からないという事だ。
また、蒼の様子から警察や救急を呼ぼう思った人間も、一体どこに呼ぶべきなのか分からない。
人々の悲鳴や戸惑いの声が広がって行く。
「くそ、何が目的だ……こんな混乱を引き起こして……」
竜にしろ、魔竜にしろ、騒ぎを大きくして得る利益はない。
だからこそ、記憶を消し場合によっては書き換える事で、人の世界に紛れている。
人形を操り、蒼を拘束する程の力があるなら、今の状態でも簡単に人の記憶を消す事が可能の筈だ。
それをやろうとしない相手に、蒼は理解できない感情を抱いた。

「なにか騒ぎが起きてない?」
「むしろ、それ以前に、この建物は何でしたっけ?」
「ねぇ……帰ろう」
悠美香、さくら、美佑が不安げに目の前の大きな建物の入り口を見る。
その建物の内部から、叫び声が聞こえ、直後、走って逃げ出す者が現れる。
「三人とも私から離れないで、ここは一旦地上に出るから付いて来て」
真央が危険を感じて、悠美香と美佑の二人の手を握る。
「悠美香はさくらちゃんの手を」
「あ、うん」
「走らず、でも足早で、三人とも大丈夫ね?」
三人の顔を交互に見て言う。
「ええ」
「だ、大丈夫です」
「真央ねぇ、早く」
「分かっている、行くよ」
真央が三人を連れていま来た通路を引き返す。
地上への出口は駅の近くまで戻らないとない。
正確には、デパートの地上一階の出口が一番近いが、デパートに異常があるのだから、そちらに行くという選択肢はない。
周りに居た人間の大半が、そう思った様子で駅の方へと一斉に引き返す。
「絶対、手を離さないでっ!」
真央はしっかりと手を握って、出口を目指した。

「愉快ね、もっと騒げば面白いのに」
ロッキングチェアに揺られる銀髪の少女が笑う。
椅子があるのはデパートの四階フロアだ。
そこは、雑貨やパーティグッズなどを扱うテナントが集まっている部分だった。
その一角の輸入雑貨店に椅子はあった。
椅子にはかなり凝った意匠が施されていて、ゆらゆらと揺れる様に気品すら漂わせていた。
椅子は座る少女に対して大きくサイズ的には不釣り合いだったが、少女の雰囲気が、それを感じ無くさせていた。
少女は縫いぐるみを抱いて、蒼と変わらない小柄な身体だが、その姿には言葉に出来ない威圧感すらあり、凝った椅子を我が物とするのに相応しい雰囲気があった。
その少女の目の前で人が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
しかし、少女の姿に気付く者は誰もいなかった。
「あ、メインが来た来た、どんな子かな?」
やや遠くを見て言う少女の顔は、心底楽しそうだ。
「あらー、血まみれ、もっとエレガントに拘束出来なかったの?」
視線の先に向かって呟く。
そこには蒼を縛る三体の人形がいた。
ズルズルと蒼を引き摺り少女に近付く。
そして、その時、少女と蒼の目が初めて合った。

目が合った瞬間。
蒼は奇妙な既視感を覚えた。
前に会った事がある気がする程度の話ではない。


知らない相手だが、明らかに知っている。
しかし思い出せない。
「お前は……誰だ?」
問い掛ける気力くらいは残っていた。
「ねぇ、アンタだれ?」
少女が言葉を発したのは蒼と同時だった。
その目は互いに互いを訝しんでいた。
おそらく、双方同じように感じたのだろう。
「こっちの質問に、答えてもらう」
「私の質問に答えなさい」
また、同じタイミングでの発言。
「なに? お前……」
「アンタこそ一体なによ?」
三度目。
互いに『おかしい』と思う。
「とりあえず、私の方が強いみたいだから、私の質問に先に答えなさい」
今度は少女の方が先に喋った。
実際は、蒼が黙って相手の出方を伺う事にした結果だ。
「そんな義理はない」
「何? その言い方? もっと痛めつけてほしいの? 同族っぽいから手加減したのに」
椅子に座った少女から怒気が溢れる。
短気である事は確かだと思った。
「同族だと思うという事は、お前も竜なんだな?」
「そうよ。アンタもそうでしょ」
「ああ」
初めてまともに会話が通じ合った。
「で、アンタ名前は?」
「真名を尋ねているのか? それなら、お前が先に名乗るべきだろ」
蒼は別に日本生まれではない。
生まれた時に最初に近くに居た竜から、真名を貰っていた。
「はぁ? いちいち生意気言うわね。貴方は力関係では私の下って決定したのよ」
「そういう問題じゃない、礼儀だ」
「ったく、何様よ。私はラクティよ、さぁ、そっちも名乗りなさい」
「私はティリ、ここでの名は蒼だ」
名乗った上で、蒼は戸惑っていた。
世界にいる竜の数は少ない。
だから、面識は無くとも、昔からいる他の竜の名前を把握しているが、ラクティという名を知らなかった。
だが、近年、生まれた竜にしては強すぎる。
「ティリ……聞いた事がないわね」
「なに?」
ラクティの言葉は意外過ぎた。
蒼の存在は三千年前からある。
それだけ長い活動期間を持っている竜を、他の竜が知らないという事が、まずあり得ない。
ラクティが生まれて数年の竜なら、最初に出会った竜が与えた知識に偏りがあった事になる。
「私の活動時間は三千年を超えているのだぞ、何故、知らない?」
疑問をぶつける。
「嘘でしょ? 私も三千年を超えて活動しているわよ。それに、貴方の様子だと、貴方の方も私の事を知らないのね?」
「ああ、しかし、そんな筈は……」
ラクティの主張が正しいなら、互いに三千年間、名すら知らなかった事になる。
仮にほぼ同時期に生まれたとして、その時、蒼とラクティに知識を与えた竜が別々で、その竜が同時期に別の竜が生まれた事に気付かなかったとしたら、生まれた時に、相手の名を教えて貰えないという事にはなる。
しかし、その前提だとしても、その後三千年は長い。
それだけの間、互いの情報を知らない程に、竜の繋がりが薄い訳ではない。
「お前、嘘を言っていないか?」
「貴方こそ」
「私は嘘は吐いていない」
「それは私だって同じよ。でも、もし互いに嘘でないなら、もの凄い偶然に知らない仲のままで、今、もの凄い偶然で出会ったって事?」
「そうなる」
もの凄い偶然なんて信じるつもりは無かったが、現状を説明するには一番簡単な論理だと言えた。
「考えるだけ、バカバカしい話ね。――まぁいいわ、じゃ、もの凄い偶然って事で処理。で、こうして出会った訳だから、貴方は私の下僕になりなさい」
ラクティは、深く考える事を放棄した様子だった。
そんな事はどうでも良いという風に、別の話を蒼に振る。
「どういう話の流れだ」
「負けた側を勝った者が使役する、当然の話の流れよ」
「お前に、私は扱えない」
蒼がラクティを睨む。
確かに負けはしたが、蒼には蒼の自負があった。
本来の力なら負けないという自負だ。
「負けて、どの口がそう言う事を言うの? それとも、喋るくらいに余力を残した私が甘かった?」
ラクティが蒼を睨み返した。
そして、鎖を絡めているドール三体に合図する。
「もっと締め付けて」
「くっ、うっっ!!!」
鎖が肉に食い込み、傷口を覆うプレートを圧迫し、その下の傷にダメージを与える。
「ほら、傷が開いちゃうよ、私の方が強いと認めて下僕になる?」
「だ、誰がっ!」
誰かの下僕になるなんて考えた事もない。
「まだまだ元気ね、じゃ、貴方の意思なんて関係ないわ、強制的に下僕になってもらうから」
「な、何をする気だ!?」
「分かるでしょ? 私の血を飲んで貰うのよ。ついでに傷の回復もしてあげるわ」
「ふ、ふざけるな、誰がお前の血なんて飲むかっ!!」
竜は相手に血を飲ませる事で、相手を下僕にする事が出来る。
血を飲んだ相手を強制的に従わせる事が可能なのだ。
ただし、どの程度支配するかは血を飲ませた相手の意思によってまちまちで、普通にパートナーとしての契約の意味で行われる事もある。
「ふふ、それだけ大口開けていると飲ませ易いわね」
ラクティがクスリと笑って椅子から立ち上がる。
左手の小指を八重歯で噛み、傷を作る。
すぐに血が滲み雫が垂れる。
「抑えていてね」
ドールに命令して、蒼の前に屈み込む。
「さぁ、観念してねー」
「くっ」
蒼は口をへの字に閉じて拒絶した。
しかし、ラクティの右手が頬を挟むように伸びて、万力のような力が籠められた。
「ぐぅぅぅっ」
抵抗するが、頬の上から歯が歯茎から外れるくらいの圧力が掛かり、僅かに口に隙間が出来てしまう。
「さぁ、ここにラクティがティリを下僕とするわ」
開いた口の隙間に、ラクティが血の玉を一つ落とす。
「っぅぅぅぅっ!!」
飲む飲まないの話ではなかった。
口の隙間から、特有の金属味が流れて来るのを感じる。
血が体内に入った段階で下僕化可能のため、もうアウトだった。
その点では、ラクティが沢山ある蒼の傷口に、己の血を擦り込めばいい。
そうしなかったのは、竜として尊厳を完全に踏みにじる気が無いという事だろう。
あくまで口という形が礼儀とされていた。
「はい、繋がった。じゃ、傷を回復してあげるわね」
ラクティが、飲ませた血を触媒にして、触れている蒼に力を送る。
「くっ」
屈辱だったが力が流れて来る事は阻止出来ず、傷が治って行くのを感じた。
体表面に止血用に出していたプレートが消え、その下の傷も無くなっていた。
さらに消耗した力も回復する。
「痛みは消えたでしょ、さぁ、私に忠誠を誓いなさい。血を飲んだのだから、普通に出来るわよね?」
「……く、くぅぅ」
理解は出来ていた。
しかし、感情が否定する。
現状、ラクティからの強制的な支配は、まだ無い。
血を使った実行支配を行うかはラクティ次第だ。
今はまだ『負けたのだから従いなさい』のレベルだとも言える。
仮に、竜が全力で強制支配を行えば、その力のバランスにもよるが下僕とした相手の思考すら奪う事が出来る。
「三千年も存在していて、下僕になった時の礼儀を知らないという事はないわよね?」
ラクティの態度は、蒼の気持ちを一応優先していた。
礼儀に従うなら、実行支配は行わないという示しとも取れた。
「わ、分かった」
蒼は仕方がないと判断した。
ただ、達彦に申し訳が立たないと思ってしまう。
その点にモヤモヤしながらも、どうにも出来ずラクティの申し出を飲んだ。
「そう、分かってくれたのね、じゃ、誓って、さぁ――」
ラクティが勝ち誇った顔で、蒼のアゴをクイっと持ち上げる。
「わ、わたしは……」
声が震えた。
「私は?」
ラクティが面白そうに復唱する。
「貴方、ラクティに、服従を……ち、誓う」
言うしか無かった。
それが竜としての礼儀であり、負けた側にある屈辱だった。
「目が全然誓ってないけど、まぁ、誓いは誓いよね。鎖を解いてあげるわ」
蒼を拘束していた鎖が人形の手の中へと戻った。
「さぁ、立ちなさい、立てるでしょ?」
「……」
蒼は無言のまま立ち上がった。
傷は塞がっていたが、服はボロボロの血まみれだ。
どう取り繕っても、格好が良いとは言えない姿だった。
「まず、背中の吸収器官をしまいなさい、でも器官だけは立派ね。このサイズで詩も使わずに負けるって、何か事情でもあったの?」
「……力を消耗しているだけだ。それに詩は使えない」
器官とは、蒼の背のプレート群の事だ。
プレート群がスルスルと飲み込まれるように背中に消えた。
「竜詩が使えないって、基本存在力まで削る程、消耗しているという事?」
「基本存在力まで削っているのは事実だが、詩が使えないのは私が上手くないだけだ」
「なら、直接攻撃型という事よね。それでさっきの出力って事は、どれだけ消耗しているのよ?」
詩が使えない竜は存在するので、その事は流した。
それより、竜が自らの形に維持している『基本存在意思力』まで削る戦闘を行ったという事に驚いた。
「全ての力が元の半分以下だ、器官で発生するエネルギーの三割も利用出来ていない」
器官は竜の力の元となる、空間に存在する未知の有質量素粒子を集め、エネルギーに変えるジェネレーターだった。
その未知の粒子を便宜上、間粒子と名付けているが、竜はそれがある事が感覚的に分かるだけで、観測はされていない。
器官は普段は体内に『芽』という形で縮小化されているが、大出力が必要になった時に背に生やして、間粒子をかき集める。
器官が大きく密度が高い程、大量の間粒子を集める事が出来る。
集めた間粒子は竜の意思の力によって制御され、空間に多様な影響を及ぼす力に変わる。
それが、蒼が空中に作った足場や、人への記憶操作だった。
また、より効率的に力を扱う方法が『詩』と呼ばれた。
詩、もしくは竜詩編と呼ばれる印の羅列により、力を決まった方向に向ける。
同じ印の羅列なら同じ力が発動する。
詩の構成印に制限はなく、竜個々がそれぞれ多少の汎用性を維持しつつ、後は自分にあった印配列を使っている。
竜の戦闘方法は、その詩を使う詩型と、詩を無視して間粒子を自分の物理攻撃力に結びつける直接攻撃型の二つが主だ。
蒼は完全に後者であり、詩は習得していなかった。
そして、一年前に事件によって、力をコントロールする意思力自体をすり減らした結果、蒼は弱くなっていた。
「現状、私が酷く弱っている事は否定しない」
「ふーん、それ程消耗する敵とやり合ったって事でしょ。どこで、そんなのと会ったのよ?」
「ここから約百五十キロ先だ」
一年前に居た場所を思い出す。
そこで、蒼は現在一緒に暮らしている達彦と出会った。
「待ってよ、それ日本って事よね、海上じゃないのよね?」
「ああ、日本だ」
「全然、私、知らないんだけど」
ラクティが唖然とする。
竜は基本的にはコミュニティを持たない。
しかし、異常に強い敵が現れた時などは、その情報を共有する暗黙の決まりのような物があった。
直接会わなくても、情報をやりとりする仕組みを竜は持っていた。
「ああ、私は知らせてない、もう一人関わった存在がいるが、そちらがどうしたのかも知らない」
「もう一人って?」
「この国での名前は七瀬と名乗っていた、私より強い竜だったから、より古い存在だと思う」
「……思うって、それで済ませたの? 真名の確認もなく?」
「私も名乗らなかったし、向こうは、その内知りたい事は分かると言っていた」
「はぁ……」
思い切り溜め息。
「貴方さ、一般的常識が欠け落ちてない? よっぽどはぐれていたとか?」
「はぐれては居た」
蒼は殆ど全ての時間を一人で過ごして来た竜だった。
「ふーん、まぁいいか、そういう事もあるんでしょ。――で、その敵は倒したの?」
「一体は倒した」
「その言い方だと、もう一体以上居たって事ね? まさかそっちは逃がしたの?」
「いや、今、一緒に暮らしている」
「――は?」
ラクティの目が点になる。
「いま共に暮らしている。形の上では私の下僕という事で」
達彦に蒼は、己の血を飲ませていた。
最初の意図は間違いなく己の下僕とするために。
「ああ、支配下においたって事ね。魔竜を手なずけるなんて、なかなかやるわね」
納得した顔になる。
「いや、竜だ。一応」
「竜って……、何で同族と本気バトルする必要があるのよっ! 自分の存在を削ってまで」
一旦、理解した顔が崩れる。
「話せば長くなる。――それより、ラクティは、現状の騒ぎを放置する気か?」
蒼が冷静に言う。
今、達彦との事を説明するつもりは無かった。
そんな事より、もっと大きな問題があると思った。
「騒ぎ?」
周りを見渡す。
デパート内の喧噪はまだ続いていた。
内部に居た人間の大半が、混乱しながらも外を目指していた。
エスカレーターや階段付近が騒がしい。
外で蒼の記憶操作範囲外に居た人間が、この場所に警察を呼ぶのも時間の問題だろう。
「そうね……貴方が何かして騒ぎが大きくなっている気がするけど、広範囲に記憶操作を行ったでしょ? 何したの?」
「この『場』の記憶を一時的に消しただけだ。範囲内の人間は、この建物が何か分からない。建物の中に居た人間は、自分がどこに居るのか分からなくなった筈だ」
「ふーん。私達の戦いに巻き込まれる人間を減らすため?」
「ああ」
「人間を守るなんて珍しいわね」
「騒ぎを小さくする為だ、それでどうする気だ? おそらく警察が来るぞ」
守る物があった事には触れなかった。
「そうね、ここが閉鎖されても私が困るから、適当にカセットコンロ用ガスボンベの破裂事故って事にして、数日営業停止って感じかしら」
「それでいいのか?」
極力、騒ぎを起こさないようにするのが蒼の中の常識だった。
「別に。じゃ、そういう方向で記憶操作するわね。もう影響範囲から離れている人間の方が多いけど、今残っている人間が『そうだった』と証言すれば、ある程度の矛盾は『そうだった』事になるでしょ」
かなり投げやりに言って、ラクティが着物の前を開き肩と背中を露出する。
その背から器官が一気に伸びる。
サイズは蒼と同じ程度。プレート一枚一枚は蒼より細く丸っこい。
色は蒼の白に対して、淡い桜色だった。
「私のも、なかなか立派でしょ。――えっと、キャンプセットとかは八階に売っていたから、そこで爆発があった事にして、一応現場証拠として、二、三個吹っ飛ばすかな、ちょっと行って来て」
足下に居るドール達に視線を合わせる。
「本当に爆発させるのか? 今、爆発音がしたら、最初の爆発と時間が開きすぎて摺り合わせが難しくなるぞ」
「音の振動をかき消すから無音よ」
「それが出来るなら、私を攻撃した時に、そうすれば騒ぎが少なかった」
「私はある程度騒いでくれた方が、面白いと思ったのよ」
「理解出来ない話だ」
「今は構わないわ、けど、貴方は私の下僕なのだから、この先、主の方針は理解する方向でお願いね」
「……分かった」
考え方が相当違う相手を主にしてしまったと思う。
元々、相当に後悔する話だが、なおさら後悔してしまう。
「じゃ、パッパッとやっちゃうから」
ラクティが瞳を閉じて、効果範囲内の人間の記憶操作を開始する。
同時にドール達の姿が消え八階に向かった。
記憶を消し去るのと、記憶を書き換えるのでは、後者の方が影響が大きい。
当然、使う力の量も、効果が現れるまで集中する時間も長かった。
ラクティの理解感覚の範囲は蒼より大きい。
半径二百メートル内全ての人間の記憶に作用する。
その中には今日デパートに入っていない人間もいるため、全員に八階での爆発事故を目撃した記憶を植え付けるのは無理がある。
その辺はラクティも分かっているつもりで、現在デパートに居る人間とデパートのごく近くに居る人間に絞って記憶操作する。
多少は関係ない人間の記憶も変えてしまうかも知れないが、そこは大雑把だった。
「――うん、まぁ、こんなもんでしょ。みんなが見たと言えば、嘘でも、それが真実になるから」
「私の事を見た人間は?」
「実際にあなたという怪我人が消えてしまえば、目の錯覚だったと思うわよ、そもそも、混乱状態で見たものだし」
「適当だな」
「世の中、適当な方が長生き出来るのよ。――じゃ、次、その血まみれの服、六階に可愛い服置いてあるから、適当に取り替えるわよ」
「まだ、各フロア相当に混乱しているぞ」
「別に、私達は記憶外なんだから、関係ないでしょ」
背中の器官をしまい、着物の前を合わせる。
「さぁ、行くわよ」
ラクティが歩き始めた。
「ああ」
「エスカレーターの方がよさそうね、階段は混乱している感じ」
「エスカレーターだって降りは混乱しているぞ」
「昇りの方を逆送してる人がいなければいいわ」
「いたらどうする?」
「蹴散らすわよ、当然」
それから、二人が六階に到着するまでに、二人の近くで四度悲鳴があがった。

2章.索敵範囲

デパートで爆発事故があったとされる時刻から三十分後。
『はい、そうです。二回程、広範囲の記憶操作がありました』
そのデパートの近くに建つ雑居ビルの屋上で、一人の男が携帯電話で通話していた。
『捜査対象と一致する粒子変成パターンです』
今あった出来事を誰かに報告している様子だった。
『分かりました。到着までには周辺の処理を終えておきます。はい、――では』
通話を切る。
男は屋上から、その場所より高いデパートを見上げてからビルの中へと消えた。
竜を知っている存在は、この世に少なからずいる。
しかし、竜を知るものは竜の事を世界一般に対して隠蔽するのが常だ。
それは竜の力があまりに異質で強力だからである。

時刻同じく、デパートの地上入り口付近。
「あれ、私達……えっと、原画展に来たんだよね、それで騒ぎがあって……アレ?」
悠美香達が疑問顔で通りの人混みの中にいた。
周囲はデパートから出て来た人で溢れていた。
先程、警察が到着し、群衆の整理やデパート内の様子を調べている様子だった。
デパート自体は立ち入り禁止となっていた。
「原画展は諦めた方がよさそうね」
真央が言う。
はぐれないように子供達の手と手を繋いでいた。
「そうですね」
「う、うん」
さくらと美佑が賛同する。
「チケットの期限はまだあるから今日は、その辺りでご飯でも食べて、帰るという形で良い?」
真央の思考の中では、原画展の後は買い物をしてご飯を食べて帰るつもりだった。
子供達四人のお昼代は用意してある。
「……ん?」
自らの頭に浮かんだ四人という人数に、ふいに疑問を感じた。
妹の悠美香、あと、さくらちゃんと美佑ちゃん。
三人の筈だ。
しかし、おかしい……。
「今日、悠美香達って、三人だった?」
変な質問を三人にする。
「なに? 真央ねぇ、ボケた? 三人に決まっているでしょ?」
「三人だと思いますが、何か?」
「そう思うけど……」
悠美香とさくらは流したが、美佑が考え込む。
「美佑ちゃんは、もしかして四人だった気がしている?」
真央が美佑の顔を覗き込む。
「あ、そんな、別にそれは……ただ、私、待ち合わせの時に……」
そこまで思って、何か関係ある気がして携帯メール記録を見る。
「えっと……今朝……」
朝方のメールの発信記録を見ると、そこに蒼の名があった。
「あ、これ」
内容を確認すると、今日の原画展に誘う内容だった。
返信のメールもあった。
行ける、と短く書かれていた。
ただ、そこまで確認しても今日、蒼に会った記憶が無い。
「私……蒼ちゃんにメール出して、誘ったんだけど、その後、どうなったのか、覚えている人いないかな?」
「え、誘ったっけ? とりあえず今日は会ってないわよね?」
悠美香が残り二人に同意を求める。
「ええ、今日は会ってません」
「会ってない」
「……そうかな。何だろう、この気持ち……」
とても大事な事を忘れている気がするが、どうしても思い出せない。
そこで、ふと今電話をする事を思い付く。
それが一番早い。
「私、蒼ちゃんに、ちょっと掛けて見るね」
登録されている番号の一番上に蒼の名前があった。
通話ボタンを押して、コールを待つ。
数秒でコールに入り、その後すぐに蒼と繋がる。
「もしもし、蒼ちゃん」
「美佑、何?」
「今日、朝、私、蒼ちゃんにメールしたよね?」
「ああ」
「それで、今、蒼ちゃんがこっち来てないという事は、蒼ちゃん、断ったんだったっけ?」
返信には『行ける』とあったが、それだと現在一緒に居ない事がおかしい。
「一旦『行ける』と返したが、後で、通話で断った。覚えてないか?」
「うーん、ごめんね……私、どうかしたのかな……?」
蒼の事で、何か忘れるとは自分では信じられなかったが、事実が忘れた事を意味していた。
「別に謝る事じゃない。こっちこそ、急に断ってごめん」
「あ、ううん」
蒼には見えないが頭を横に振る。
「じゃ、切っていい? 少し忙しいから」
「うん、ごめんね、忙しい時に」
「いや、それじゃ――」
蒼の方で通話が切られた。
「……」
切れた携帯を胸の前で握り締める。
何か違うような気がするが、本人に確認した以上、信じるしかない。
むしろ、疑う事はまるで無い筈だった。
「大体、聞こえていたけど、どうだった?」
悠美香が聞く。
「えっと、誘ったのは確かだけど、断ったって」
「なら、それだけの話でしょ? 何か問題でもあるの?」
「ない……と思う」
追求されて答えられる答えは無かった。
「断られた事がはっきりしたなら、私の疑問は解けたかな。――じゃ、少し早いけど、どこかお店に入りましょう」
真央が三人を先導する。
一応、この辺りの食べ物店の位置は頭に入っていた。
「なら、私、スパゲッティがいい」
「悠美香ちゃんは、食べ物の好みが子供ですね」
さくらがサラッと言う。
「そんなのどうでもいいでしょ」
「良くないですよ、私達も付き合うのですから」
「なら、さくらは何を食べたいんだよ」
「私は、そうですね……プッタネスカなどが今日の気分です」
「は? どんな食べ物ですか? それは?」
微妙に丁寧語で聞き返す。
「悠美香、多分、すごくからかわれているわよ」
真央が二人の間に入る。
「あら、真央さんには分かりましたか?」
「一応、それじゃ、イタリアンのお店にしましょう。美佑ちゃんも、それでいい?」
「あ、はい。私は何でも……」
「分かった。なら、こっち、知っているお店があるから」
真央が歩き出して、二人が付いて行く。
「ちょ、ちょっと、何で、話がまとまっている訳? 私にも分かるように説明してよっ」
少し遅れて悠美香が追う。
とても納得出来ないという顔だったが、誰も悠美香に説明しようとはしなかった。

「誰からだったの?」
「友達」
「人間でしょ、人間の友達がいるの?」
ラクティが更衣室の向こうで、やや呆れたような顔をする。
「今は人間として暮らしているから」
蒼は更衣室の内側で答える。
「ふーん。変わっているわね」
「そんなに変わっている意識は無い。――それより、この下着である必要があるのか?」
「なに? 私のコーディネートに文句があるの? ちょっと見せてみなさいよ」
更衣室のカーテンを躊躇いなく引っ張る。
「なっ!?」


いきなり下着姿を晒す事になって、流石に戸惑う。
蒼が着ているのは、白いリボンとフリルが大量に付いた可愛い黒のブラとショーツだった。
「あら、似合うじゃない。折角、綺麗な黒髪だから合わせてみたけど正解ね」
「過剰装飾だと思うが……」
蒼のセンス的には、やりすぎという感じだった。
別に可愛い物が嫌いな訳でも、フリルを否定する訳でもない。
それなりに可愛い服も持っている。
最近買った服は、美佑の趣味の影響を受けたとも言えるが、元々からしてフワリとした感じの服を揃えていた。
それでも、今着ている下着の装飾はやりすぎだと思えた。
「気にしない、気にしない。後は上だけどワンピでいい? それともジャンスカにブラウス? ジャンスカだけでもいいけど」
とても楽しそうに言う。
「――好きにしてくれ」
何を言っても無駄だと思い、ラクティのコーディネートに任せる事にした。
大体の方向性は分かったので、どんな服でも心構えは出来ていた。
「そう、じゃ、水色系のジャンスカを探して来るわ。白だと透けちゃうからね」
言って、売り場の方に駆けて行く。
その売り場に人の姿はない。
ほぼ、全ての人間がデパートから出て行き、後に入って来た警官の大半は事故があったとされる八階に向かったからだ。
他のフロアには二~三人の警備要員がいるだけだ。
その二~三人には蒼達の事を認識出来ていない。
さっき近くには来たが、二人を完全に無視して去って行った。
「はい、これとこれとこれを着てみて」
ラクティが三着の洋服を持って、弾みながら戻って来る。
「楽しそうだな」
「ええ、だって最近とても退屈していたから」
「私は遊び道具か?」
「そうかもね、ほら、とにかく着てみて」
「――分かった」
悪びれる様子なく、相手を遊び道具扱いするラクティには、何を言っても無駄な気がした。
手渡された服を受け取って、カーテンを閉める。

十数分後――。
「じゃ、これで決定、あと二着は包んで持って帰る事にしてね」
「ラクティには、遠慮というものが無いのか?」
「下着と服三着と帽子くらいでケチケチしないものよ」
「――その言い方はおかしい。これはデパートの物だ」
「ここの物は全部私の物よ。じゃ、クルッと回ってみせて」
あらゆる常識を否定する顔で言う。
「……」
蒼は無言のまま、とても無愛想な顔でクルッと回ってみせた。
ライトブルーをベースに、大きなポケットと裾に白いフリルをあしらい、胸元にリボンの付いたフレアのジャンパースカートが、フワリと広がる。
下着のストラップが見えないように肩ひもが広く、そこに細かいフリルが付いていた。
剥き出しの肩の部分にツインを解かれた長い髪がサラリと垂れる。
頭にはコサージュの付いた、ブルーの涼しげな帽子。
「ばっちりね。貴方、質はかなり高いわよ。私の下僕として文句ないわ」
「褒め言葉は素直に受け取ろう」
まっすぐに褒められて悪い気はしない。
肩口に落ちた髪を背中に払って、更衣室から出る。
「それで私はこの先どうしたらいい? 私としては家に帰りたいが、ラクティはそれを許可するか?」
従う事になった以上、自分の意思より相手の意思が上だった。
「そうね……家はどこ? 貴方の下僕って言うのも見てみたいし、近いなら付いて行くわ」
「四キロ未満の距離だ」
「近いじゃない、それなら貴方の家に行くわ。あと、貴方の呼び名だけど、真名とここでの名前、どっちがいいの? 好きな方で呼んであげるわ」
「それなら蒼で」
「分かったわ。じゃ、蒼、屋上に向かうわよ」
「こんな人が一杯いるところで、上を行くのか?」
ラクティの提案は、高い建物の上をジャンプして移動するという事を意味していた。
日頃飛んで移動している事の多い蒼でも、一応は人の目を気にしていた。
いちいち、記憶を消去していたら力がもったいない。
「少しなら歩くけど、三キロ以上あるなら上を行った方が早いでしょ? 竜が人の目を気にするなんて堕ちたものよ」
「……そうかも知れないが、今の私はあまり力の消耗をしたくない」
「それくらい分かっているわよ。記憶操作は私がする。私のドールの中には詩編を散りばめてあるから、
ドールが近くに居れば大した力を使わず記憶改変出来るから」
そう言ってずっと片手に抱いている縫いぐるみを蒼に見せる。
「そうか。――ところで、それは何の縫いぐるみなんだ?」
蒼は今しかないと思って聞いた。
出会った時から、ラクティはその手に縫いぐるみを抱いていたのだが、はっきり言って何を模しているのか分からなかった。
「え、見て分からない? アホロートル、まぁ日本的にはウーパールーパーよ」
「そういう生物がいるのは承知しているが……」
「これはね、私達と同じ竜なの、種族名サラマンダーよ。で、この子の名前もサラマンダー、格好いいでしょ?」
「……そうだな」
蒼は適当に返事をした。
ウーパールーパーのフォルムを格好いいと思うのは、それぞれの判断だろう。
「じゃ、疑問が解けたところで屋上に行くわよ」
「待て、そのサラマンダーは良いとして、他のドールはどうするんだ?」
竜詩によって起動しているのだとしたら、それを扱っている存在が居なくなれば、動かなくなると思えた。
警察が出入りしている今、ドールを発見される可能性もあった。
「残りの子はお留守番よ。この子達にはさっきも言ったけど色々な竜詩を使っているから、私が居なくても五日は起動しているわ」
「それだけの力を注いでいるという事は、切り札ではないのか?」
「置いて行く子達は切り札という程は無いけど、一応、ここがねぐらだからね。ある程度の力は使うわ」
「では、ねぐらを放置して人間に探索されてもいいのか?」
「問題ないわ。ドール達が詩編影響空間を維持するから、私の私物は絶えず隠蔽されているの」
「そうか……だが、もし、他に竜が来たらどうする?」
本来ならあり得ない確率だが、蒼は自分の体験から気になって聞いた。
「まさか、貴方と出会ったのだから、後十年は無いでしょ、そんな事」
「そう思うのか?」
「ええ、何か問題?」
「いや――」
蒼は言葉を切った。
あり得ない確率を心配しても仕方が無い事は分かっていた。
「そっ、なら、非常階段から屋上に向かうわよ。家がある方角は? 南方向だと高い建物が続くから楽だけど」
「残念ながら西方向だ」
「西側なら一応セーフ。北だと飛び越えられない幅の川があるから。じゃ、れっつごーよ」
ピクニックに出かけるようにスキップで非常階段の方に向かう。
少し遅れて蒼はその後に続いた。
歩きながら、達彦にあらかじめ携帯で連絡するか考えてやめた。
とても電話で説明出来る内容では無いと思ったからだ。

山内達彦の竜としての能力は、人間として生きて来た事もあって非常に低い。
一度、力を暴走させた事があるが、制御出来ないから暴走なのであり、その力を使う事は出来ない。
現状、竜としての力と言えば、優れた身体能力と理解感覚だけだった。
理解感覚は、人として生活している時から目覚めていて、達彦は気配にとても敏感だった。
更に使い方を知らないが故に、達彦は最初から目覚めていた理解感覚をOFFにした事が無かった。
絶えず理解感覚を拡げている状態で今まで生きて来ていた。
竜として一応目覚めた今でも、それは変わらない。
蒼から力の無駄遣いだと言われても、五感のように自動的に近い感覚になっていて止める事は出来なかった。
ゆえに、達彦は常に半径二百五十メートルの異常な気配を察する事が出来た。

「帰って来たのか? いや、二人? 何かあったって事か……」
蒼の宿題を終えて、リビングでくつろいでいる時に気配の異常に気付いた。
二つの気配が接近して来ている。
かなりの速度だ。
一つの気配は、よく知っている蒼のものだったが、もう一つの気配は初めて感じるものだった。
「似ている気配だな……なら竜である事は間違いないか、ともかく、また上から帰って来るみたいだな」
気配の位置と速度から考えて、ビルの屋上や高い場所をジャンプして移動しているのだろう。
気配はすぐに達彦の頭の上までやって来て、そのまま非常階段を使って降りて来る。
「まぁ、この動きからして敵では無いだろうな、蒼の友達か、何かか」
くつろぐ事を止めて玄関に向かう。
ドタドタと玄関前で音がする。
その後にやや甲高い声。
そして、玄関の鍵が開く。
「ただいま」
「あー、こいつが蒼の下僕ねー」
甲高い声の主が達彦を見るなり言う。
「蒼の下僕って事は、私の下僕でもある訳だから、さぁ、挨拶しなさいっ」
言い放ち胸を張る。
「……こいつ、殴っていいか?」
達彦は割と真顔で蒼に聞いた。
「駄目だ」
とても困った顔の蒼。
「なに? 蒼は下僕の躾も出来てない訳? まぁいいわ、今のは聞かなかった事にしてあげる。――さぁ、私に跪きなさいっ」
さらに胸を張って言う。
そのまま仰け反りそうな体勢だ。
達彦は自分の額に手を当てた後、その手でラクティの反った胸を、トンっと押した。
「っ、わっ、ちょっ、ちょっとっ!!!」
それは絶妙な突きであり、ラクティは竜の身体能力を持ってしても保てず完全にバランスを崩した。
「キャッ!!」
ズデーンっと玄関に尻餅を付いた。
ミニスカートが捲れて、フリルの付いたピンクの下着を晒す。
「っ――。な、なんて事をするのっ!!! レディーに対してこの扱い、さらに私より格下の癖にっ ゆ、許さないわよっ!!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ。
「まぁ、パンツ隠してから叫べ」
「なっ!!」
さらに真っ赤になって捲れたスカートをサラマンダーを持って無い手で直す。
「――で、この自称レディーは誰だ?」
蒼に問うしかなかった。
「新しく私の主となったラクティだ」
「は?」
「戦いになって、私が負けた結果だ。すでに血の契約をしている」
「それは……冗談抜きに?」
「ああ」
真面目な顔で頷く。
「う、うーん」
考え込んでしまう状況だった。
デパートに向かって、どうして戦いになるのか?
さらに戦い後の割に、蒼は綺麗なデパートの袋を持っている。
何があったのか想像出来ない。
しかし、ただ一点、もし本当に戦いがあったとしたら、今の蒼では負ける確率が高い事だけは予想出来た。
「とにかく、ラクティを上げてやってくれ。玄関では話も出来ない」
蒼が達彦に頼む。
「……分かった。ほら――」
達彦は転んでいるラクティに手を差し伸べた。
パシッ!!
「私を何だと思っているの? 下僕の手なんて借りる筈がないでしょっ」
ラクティは達彦の手を叩いて、スカートの埃を払ってから立ち上がり、
「今度、無礼な真似をしたら、殺すわよっ」
土足のまま玄関から部屋の奥へ向かおうとする。
「ちょっと待て、うちは土足禁止だ」
行こうとしたラクティの肩を達彦が掴む。
「あーー? 今、私『殺す』って言ったわよね? 本気で殺されたいの?」
やや無理して出している感じの低い声、そして睨む。
「お前、全く躾がなってないな、どこのお嬢様だ。人の家に上がるなら、その家のルールを守ってもらう」
言ってラクティの両脇に素早く手を入れて抱え上げる。
「な!?」
ラクティは何が起きたのか分からないという顔をして固まった。
「大人しくしてろ。蒼、こいつの靴を」
「ラクティ、ごめん」
蒼はラクティのブーツを素早く脱がして玄関に並べた。
「ち、ちょっと、ふざけないでよっ!! は、離しなさいっ!! 無礼ものっ!!」
ブーツを脱がされた所でハッとして暴れ出すが、遅かった。
「離してやるよ。ほら」
ゆっくり床に下ろす。
「お、お前っ、今、何をしたっ!?」
「何って、ただ、持ち上げただけだろ?」
「こ、この私をいとも容易く捕まえるなんて……」
親指の爪を噛みながら達彦を凝視する。
その目は懐疑に満ちていた。
「……私より素早く動けるというの? 信じられない……でも……」
ボソボソと呟き、蒼に向き直る。
「蒼、私、聞き間違えたかしら? 貴方がこいつの下僕なんじゃないの? だとしたら、優先順位から貴方との契約は無しって事になるけど」
「――それは説明する。というか、達彦に説明させる。今は質問への答えは待ってくれ」
「それって、私が納得出来る説明になる予定?」
「分からない。私もこんな例は初めてだと思うから」
「そう……何か複雑な事情があるみたいね、分かったわ。――そこの貴方、話を聞きましょうか?」
また達彦に向き直る。
「はいはい」
達彦は適当に返事をしつつ、肌で感じていた。
こいつは蒼と同質だと。
全く人の言う事を聞かず、我が儘で、勘違いしやすく、突っ走って行くタイプだと。

十五分後――。
三人はリビングのソファーに座っていた。
目の前のテーブルには、ラクティ所望のアイスティーが三つ。
「第一段階として理解したわ。つまり貴方達の関係はパートナーって事ね。だとしたら、私の契約は無効ね」
「いや、パートナーというつもりは無い」
蒼がパートナーという言葉をきっぱり否定する。
「話がややこしくなるから、それでいいだろ」
「ややこしくないっ。わ、私は、た、達彦をパートナーとは……そ、その……」
蒼の言葉はしどろもどろになって、消えた。
「蒼、分かったから、貴方は黙っていて。今は話を進めたいの? いい?」
ラクティが蒼をなだめる。
これで、実は三回目だった。
十五分間に話が何度も戻っていた。
「よ、よくないっ、私は――」
「いいから、黙っていろ」
「黙っていなさい」
言いかけた蒼に二人がピシャリと言うと、蒼は流石に黙って頬を膨らませた。
「――で、第二段階だけど、貴方、一体何? 明らかに普通の竜とは違うけど」
ラクティが話を再開する。
「さぁな、それは俺にも分からない。記憶は基本的に人間の物しかない」
「それよね、多分、誰かに改竄されている。別の竜の記憶を弄れるとなると、始まりの竜クラスだけど」
「最初にこの世界に現れた竜達の事か、蒼に聞いた話だと五体居るんだっけ?」
「正確には『居た』よ。今は三体しか残っていない、その残った三体も伝説的な存在。二体は完全に姿を隠しているし、一体は動けないし」
「その動けない一体とは?」
「メリアシスク、最長老よ。この世界に生まれる竜の位置を特定して、そこに竜を派遣している。
世界全ての監視が仕事で、その為の施設から動けないの」
「なら、姿を消している二体の情報は?」
「無いわ。メリアシスクが容認しているから、何かの意味があるのだろうけど」
「となると、俺の記憶が改竄されているというなら、メリアシスクより、残りの二体の方が関係ありそうだな」
「そう考えるのが妥当だろうけど、でも、残りの二体は居ないって話もあるくらいだし、疑問は残る結論ね」
「そうか……」
一旦、頷くしかなかった。
少なくても新たな情報が入った事は達彦にとってプラスだった。
自分が何であるのか、一年前の出来事以来、考え続けていた。
その手掛かりが思わぬ形で得られた。
「……」
そんな達彦を蒼は頬を膨らませつつ黙って見ていた。
蒼には知っている事があった。
しかし、それをいま言うべきでは無いと思っていた。
一年前から、ずっと秘密にしている事だった。
「――にしても、二人そろって知識が全然足りないわよね。これは私が竜について色々とコーチしろって言う事なのかしら?」
「まぁ、多少はお願いしたいところだな」
達彦は竜についてもっと知りたかった。
「別に私は良い」
素っ気なく答える。
「そっ、なら、蒼は排除で、私が達彦に個人授業するわね」
「個人!?」
その言葉に蒼は思わず反応してしまう。
達彦を、どうこう出来るのは、あくまで自分だけの特権だった。
「だ、駄目だっ! 達彦は私が血を飲ませた竜なんだからっ」
「そう。だったら、貴方も一緒に私の授業を受ける?」
「し、仕方ない……ち、ちょっと竜詩を使いたいし……」
二人から目線を逸らして言う。
「まぁ、丁度、私も暇が潰せる感じね。――改めて、よろしく、達彦と蒼」
「ああ、よろしく」
「……よろしく」
蒼は渋々という感じで言った。
話が一段落して、ラクティがアイスティーを口にする。
達彦は、その姿を初めて落ち着いて眺めた。
銀色の髪とブルーの瞳を除けば、蒼と似てない事もない。
外見年齢が近い事もあるが、雰囲気が似ていた。
それに性格も似ている。
そして、蒼に似ているという事は、とても美人であるという事だ。
澄まして紅茶を飲む様子は絵になる。
蒼は身体が子供化して、精神まで子供っぽくなったが、ラクティにはそれがあまりない。
子供らしい面もある様子だが、それ以上に気品があった。
「育ちの差か……?」
ラクティの育ちは知らないが、そんな風に思う。
「――何か言った?」
蒼が微妙に睨むような視線を送って来る。
「いや……平和だなと」
「そ、これが平和なら、私は戦の方が好き」
「お前の気持ちも分かるから、そう膨れるな」
一応のフォロー。
「膨れてなんてない……」
どこから見ても膨れた顔で言う。
「その服、似合っているぞ」
「ラクティのコーディネートだ」
「着こなしているのは、お前だろ」
「…………」
「似合ってるぞ」
重ねて言う。
「……ありがとう」
小さく言って達彦から顔を逸らして、アイスティーに息を吹き込む。
「不作法な姫ね。大変でしょ?」
ラクティが達彦だけに聞こえるように言う。
「一年も暮らしているから、慣れたさ」
「そう――」
ラクティは少し笑って、再びアイスティーを口にした。

『各方面待機完了しました』
『little捕獲作戦開始』
『了解』
達彦達がいるマンションの周辺に、人には聞こえない声での会話が続いていた。
そして――。
『突入』
その聞こえない声と共に、マンションの五階の一室の窓が粉々に砕けた。

「!!」
最初に反応したのは、窓際の蒼だった。
即座に背中に器官を出現させ、腕にプレートの剣を生やす。
「蒼、防御だけに集中して、サラマンダー、突破口を開いてっ!!」
砕けたガラス窓にサラマンダーを投げつける。
ラクティの咄嗟の判断は、とにかく室内では、何も対処出来ないという物だった。
その上で外に出る最短は砕けた窓だった。
敵が迫るとしたら、まさにその窓だが、だからこそ、そこを突破しなければ話にならない。
その時、砕けた窓の外、ベランダ部分にマネキン人形としか形容出来ない物達が、沸くように出現する。
「ベランダに居たの!? サラマンダーっ!!」
投げられたサラマンダーが、その口を開く。
そこから灼熱の炎が巻きあがる。
炎は数体出現したマネキン人形に絡み付き、その熱によって溶かして行く。
不思議な事に近くにあるカーテンには、全く火がつかない。
マネキンしか燃やさない炎だった。
「貴方、ここから飛び降りるくらいは出来るわよねっ!?」
「ああっ」
「じゃ、飛び降りるわよ、蒼も付いて来てっ!!」
「分かったっ」
マネキンの動きが炎で止まっている隙を付いて、三人ベランダから飛び降りる。
マンションの前方は、すぐ道路になっていた。
五階から地面まで約十五メートル。
着地まで二秒足らずの時間に、一つの攻撃が蒼に集中した。
「っ!?」
蒼に迫ったのは小型ミサイルだった。
小型といっても一基で戦車一台は余裕で破壊出来る。
そのミサイルが三基、蒼だけを狙う。
切り落とすとしても一基が限度、燃料からの引火爆発もあり得る。
「くっ!」
前方からの一基だけでも、爆発覚悟で切り落とそうとした時、
「蒼っ!! ――光壁防御っ!!」
ミサイルと蒼の間にラクティの器官が広がった。
そのまま竜詩による防護壁を張る。
薄い光の障壁が器官表面に形成されるのと、ミサイルの直撃は、若干ミサイルの方が早かった。
三基のミサイルが爆発し、蒼とラクティが爆炎と爆風にさらされた。
マンションの窓ガラスの大半が砕け、隣に居た達彦も爆風で地面に叩きつけられるように落ちる。
「ぐっ!!」
ガラスの破片が降り注ぐ中、四つ足で何とか着地し、その場から距離を取り上空を仰ぐ。
爆炎が薄れる中、マンション三階のベランダの壁に二人の姿があった。
爆風によってコンクリートの壁に叩きつけられて、器官が壁に刺さるように埋まり身動き出来ない状態だった。
特にラクティの右の器官は、完全に原型を留めない状態で血を流しながらコンクリートにめり込んでいた。
蒼はラクティと壁の間に挟まれる形になり、器官はコンクリートにめり込んでいたが、器官自体の損傷は大した事が無いように見えた。
二人とも器官以外はほぼ無傷で、防御壁の効果がうかがえたが、動けない状態にはなってしまった。
「……ラクティ」
「なに……?」
「すまない、庇ってもらって」
ラクティの防御が無ければ、ミサイルは蒼に直撃していた。
「無事なら壁を破壊して。それくらい出来るでしょ」
「分かった」
蒼が器官に力を籠める。
射止められている部分の壁全てを内側から砕くつもりで、器官のプレート一枚一枚を動かす。
「くっ……ぐっ!!」
コンクリートの壁がミシミシと音を立てて、少しずつ崩れて行く。
その時、
「おっと、一旦、そこで待ってくれないですか? 待ってくれたら、もう一発撃つのを止めてあげよう」
場に若い男の声が響いた。
着地した達彦のすぐ脇にスーツ姿の男が現れる。
「初めまして、私はベリテッド協会の響鳴師、碕峰修司(さきみねしゅうじ)と言う者。以後お見知りおきを」
三人に聞こえるように大きく通る声で名乗る。
「何の用事だ」
近くに居た達彦が問う。記憶に全くない組織と名前だった。
「貴方には用事はありません、用事があるのは上のお二人です」
達彦を無視して視線を上の二人に合わせる。
「ベリテッド……そう、そういう事ね」
ラクティが理解したという顔で呟く。
「そちらのお嬢さんには分かって頂けた様子ですね」
「ええ。竜を捕まえたがっている組織でしょ? 竜詩の一部を使う事が出来る人間が率いている」
「そうです。そこまでご存じなら、このまま捕まって貰えませんか? その翼では後何発も防げないでしょう?」
「そんな義理はないわ。貴方、人形遣いのようね、かなりの数のドールをミサイル持たせて忍ばせているでしょ?」
「ええ」
「そう、なら同じ人形遣い。しかも、本物として負けたら末代までの恥ね」
「では、恥をかいて貰う事になるでしょう」
「そうは行かないわっ!! サラマンダーっ!!」
掛け声と共に蒼とラクティの羽が刺さる壁が吹き飛ぶ。
三階のベランダに移動していたサラマンダーが爆発を起こしたのだった。
「蒼、間合いを詰めて男を狙ってっ!」
「分かった」
爆風に乗って一気に地上に迫る。
「ちっ、往生際の悪いっ!!」
男が周囲に隠蔽してあるマネキンにミサイル発射を意識下で指示する。
「なにっ!?」
しかし、その意思の伝達が阻害された。
さらに隠してある全てのマネキンが勝手に姿を現し、支えを失ったように道路に崩れミサイルを落とす。
「貴方とドールの間の意思の糸を切らせてもらったわっ!」
ラクティが威圧感を持って宣言する。
が、右の器官からの出血がさらに激しくなっていた。
「ぐっ――」
動揺した男の懐に蒼が飛び込む。
「お前は許さないっ!!」
低い姿勢から右手のプレート剣を男の喉元に一気に突き立てる。
躊躇いの無い動きだった。
「!!!」
そのまま男の首が切断され宙に舞う。
だが、血の一滴も出ない。
首が地に落ちて乾いた音がした。
「本体じゃない!!」
男の身体はマネキン人形だった。
蒼が周囲を探る。
僅かだが、急速に遠ざかる人の気配を感じた。
周囲にマンション内を含めて他の気配はない。
「ハハハハッ、思ったより強いようだね君たちは。ならば出直すまで、少しのお別れだ!」
通る声だけ周囲に響く。
そのまま蒼の理解感覚範囲からも、達彦の理解感覚範囲からも、男の気配は消えた。
「くそ、逃げられたっ!」
蒼が倒れた男のマネキンを蹴り上げる。
横にラクティが立つ。
「いいわ、別に……それより、あいつ、広範囲の人間を退けているし、本気で全弾撃つ気だったみたいね……っ!!」
言ってよろめく。
「大丈夫か!?」
達彦が駆け寄る。
「器官が片方、機能停止ね……。これはしまう事も出来ないかも……。悪いけど、二人、私をデパートまで運んで貰える……もう、立っても……」
片膝を付き、そのまま意識を失う。
「ラクティっ!!」
倒れるラクティを達彦が支える。
背中の器官からの出血は止まる事が無い。さっきまで威圧を保っていた顔は真っ青だった。
「達彦、そのまま支えていて、いま血だけ止めるから」
蒼がラクティの器官に手を添える。
「出来るのか?」
「ラクティの血を貰っているから、双方向での力の受け渡しが可能」
手を当てたまま瞳を閉じて集中し、ラクティの傷に対してプレートを貼り付ける。
血の滴る薄桃色の羽に、蒼の作り出した白いプレートが貼られて行く。
一分ほどで、大量の細かいプレートが貼られ血だけは止まった。
「応急はこれでいいと思う。あと、このマネキンとミサイルを何とかしないと……」
周囲を見渡すと十体以上のマネキンとミサイルランチャが転がっていた。
「マネキンは特殊なものなのか?」
「いや、どうしてだ?」
「だったら、マネキンは放置して、ミサイルの方だけ片付ければ良い。敵のゴミ処理までしてやる義理もないだろ」
「――そうだな。なら、ミサイルは一旦マンションの部屋に置く形にする」
「マンションの損害はどう誤魔化す? 人的被害は無い様子だが全ての部屋のガラスが割れたと言っていいだろ」
ミサイルが爆発した側面のガラスは全階層ほぼ全て割れていた。
室内にも大量のガラスが入って、人が住める状態ではなかった。
三階に至ってはベランダの一部が吹き飛んでいる。
「地面に爆発跡を作って不発弾でも炸裂した事にする、そうすれば自衛隊や警察以外、誰もここに近寄らない。
その状態でも私達だけなら戻ってこれる」
「それくらいしかないか。で、現状の人払いは敵がやったみたいだが、いつまで続くか見当が付くか?」
「分からない。ただ術者が逃げた以上長くは持たないだろ」
「にしても、俺達に気付かれる事なく人払いをするとは相当な奴だな」
達彦の理解感覚は常にオンの筈なのに異常に気付かなかった。
マンションの中に人がいる気配が常にあったのだ。
「広範囲に強力な竜詩を使った様子だ。人の気配を残したまま、実際には人を消している。
今はその偽の気配は消えているが、おそらく、このドール達を使って影響範囲を広げていたんだろう」
「偽の気配が消えているという事は、もう、竜詩が解けているという事か?」
「解け掛かっているが正解だろう。完全に解ければ人が戻って来るだろうから分かる。その時、記憶操作すればいい。
今はまずミサイルの処理だ」
「そうだな」
「達彦は一カ所に集めてくれ、私が部屋に運ぶ」
「分かった」
一旦ラクティを路上に寝かせて、ミサイルの片付けをする。
ラクティの側には無言のサラマンダーが寄り添った。
その瞳は見た目あどけないが心配している様子だった。

ミサイルを達彦の部屋にしまうのに、それ程の時間は掛からなかった。
その後、不発弾の爆破に見せかける為、地面の上で一発ミサイルを爆破して警察を呼んだ。
状況を確認すれば、不発弾の爆発ではない事はすぐに分かるが、それを疑う事が出来ないように、蒼が伝染性の記憶操作を現れた警察に掛けた。
そして、二人はラクティを抱えてデパートに向かった。
ラクティの意識は戻る事なく、ひとまずラクティと出会ったデパートの四階に運び込む。
「ここでいいのか……?」
達彦が輸入雑貨店のテナントを覗く。
「ここにラクティのドールが居るという事は、いいのだろ」
蒼が店内を見渡し、置いてあった大きめのソファーにラクティを寝かせる。
店内にはラクティのドール達が待機していた。
その内、五体が寝かされたラクティの元に集まる。
ラクティと一緒に連れて来たサラマンダーも、主人の傍らに寄り添った。
「治療を始める気だろうか?」
「多分な」
達彦の問いに蒼は頷いた。
集まったドール達がラクティの身体に触れて、そのまま動かなくなる。
「始まった様子だな、力の流れを感じる」
達彦の理解感覚でラクティに注がれる力の気配を感じた。
ドールが自分たちの活動エネルギーをラクティに渡しているのだろう。
「かなり強力なドールだったから、溜めている力の量も多いだろうな」
戦った経験から漏らす。
「そうか、お前は戦ったんだったな」
ラクティとの出会いの話はマンションで聞いていた。
「ああ、強かった。一体作るのに一年は余裕で掛かっているだろうな。しかし、ほんとうに、何体こしらえているのだか……」
店内にはまだ他のドール達がいた。
ざっと数えて十数体。
「見当付かないが、ここにいるだけが全部じゃないだろうな。今だって、別の階層を監視しているドールがいると思うのが順当だ」
「そうだろうな、ここが居場所なら各階のガードくらいは付けるだろうな……しかし、数が居るなら私にも力を受け渡して欲しいくらいだ。今日は広範囲の記憶操作をやりすぎた。今、この場の維持も多少は私がしているし」
現在、デパート内は八階で爆発事故があった事になっている為、各階層、警備員や警察関係者がウロウロしていた。
照明や空調も全て作動している。
デパート内でラクティの存在は最初から隠されているが、蒼や達彦の存在は別に隠す必要があった。
「それは、力の補給が必要なくらいに疲れたという事か?」
「ああ、今の内に頼む」
蒼が達彦に寄りかかる。
「……」
達彦から蒼への力の移動は、蒼が達彦に血を飲ませているため、可能な行為だった。
そして、達彦にはかなりな量の力が眠っている。
本人が使用しない(出来ない)のだから、当然とも言える。
しかし、達彦と蒼の間での力の供給は、一年前の初回時に失敗していた。
詳しい原因は不明だが、達彦の血と蒼の血は変に波長がシンクロしている部分があり、その部分が引っ掛かりとなって、上手く行かないのだ。
シンクロしているのだったら、上手く行きそうなものだが、そうでもなく、二つの同じ波長をぶつけた時、位相が反転してる場合は打ち消し合ってしまう物理事象と同じだと蒼は結論付けた。
その上で、二人の間の力の受け渡し方法を色々と実験した結果――もっとも効率的な方法は、人としてのフォルムで、人として吸収力が高い部分を、液体を触媒にして密着させる方法だった。
「どうした? ケチるのか?」
「まぁ、誰も見てないようなものだし……」
寄り掛かる蒼の肩に手を軽く置いて、少し姿勢を修正してから達彦は屈んだ。
見つめ合う形になり、蒼が真っ直ぐに達彦を見る。
受け渡し方法は、要するにキスする事だった。
簡単に吸収力が高い部分を液体を触媒にして合わせる手段はキスしかない。
「ほら、目を閉じろ」
「いつも思うが、その必要があるのか?」
「儀式の手順だと思え」
「何の儀式だ」
「いいから」
「――分かった」
蒼が渋々目を閉じる。
「……んっ」
達彦も目を閉じて、蒼の唇にキスする。
そのまま蒼の唇を開き舌と舌を絡め合う。
粘膜が擦れる音が響き、唾液が混ざり合う。
吸収率の高い部分の触れ合う率を上げて液体を絡めるとなると、必然的にディープキスになる。
力の受け渡しに掛かる時間は三分から五分程度だが、それだけの時間キスを交わすというのは、恋人同士でも無ければ抵抗のある行為だ。
「ふーん、結構熱いのね?」
目を閉じている二人の横で唐突に声がした。
「なっ!!」
達彦が蒼から飛び退く。
「ん、どうしたの? 続けていていいわよ?」
声の主であるラクティの顔はニヤニヤしていた。
達彦は固まって動けなくなってしまう。
「――お、ラクティ、回復したのか?」
平然と蒼が言う。
「そこそこはね、器官がしまえるくらいには」
ラクティの背に出ていた血まみれで変形した器官は、体内に消えていた。
その背の奥にあるソファーの上では、力を受け渡しきったドール達が横たわっていた。ただ一体、サラマンダーだけは例外の様子でお座りしている。
「ちょっと失敗だったわ。最初から防壁を出しておけば防げたけど、いきなりミサイルは読めなかったから。――で、貴方達は、私が寝ている間にディープキスとか、そんなに発情しているの?」
二人に呆れつつ、それでいて楽しそうな顔をして聞く。
「発情などしていない」
蒼が冷静に否定した。
「じゃ、何なの? 固まっている人?」
達彦に対して聞く。
「こ、これは、別にそういうのじゃない」
達彦が変な汗をかきつつ答えた。
「なら、何なの? 別に照れなくてもいいわよ、二人パートナーなんでしょ?」
「パートナーではないっ!」
急に蒼がムキになって否定する。
「ふぅ、よく分からない人達ね……とにかく、何をしていたのよ? 見た以上気になるでしょ?」
ラクティが困った顔をする。
「ち、力の受け渡しだ」
変な汗と動悸を鎮めながら言う。
「キスで?」
「ああ、俺達の間の力の受け渡し方法は少し特殊なんだ」
「ふーん、それって恋人同士だから特殊って事? まぁ、熱々よね、うんうん」
勝手に納得して頷きを繰り返す。
「違うっ」
強めに否定して、
「一般的な方法だと上手く行かないんだよ」
基本的な力の受け渡し方法は、相手に触れて渡す事を念じればよいだけだ。
竜の力とは意思力と空間中の未知の素粒子(間粒子)の二つだ。
現状、蒼が消耗したのは意思力の方だ。
間粒子の方が不足する事は、器官が使えない状況になるか、間粒子が根本的に空間に無い時などである。
そして、意思力が不足した場合、もっとも簡単な方法は人間から奪う方法だが、竜は、その行為を積極的には行わない。
奪うにしても、大勢から少しずつというのが基本だった。
それは、多量に奪えば人は廃人と化し、さらに人が人である根源構成意思まで喰らえば、その人間は素粒子まで分解され、実質消滅してしまう。
蒼達が敵としている魔竜と呼ばれる存在は、その段階まで人を喰らってしまう。
素粒子まで分解された時に、大量の間粒子も吸収出来るため、魔竜には器官が無いものすら存在していた。
「蒼が素で俺の力を取り込んだ場合、制御不能になって蒼が倒れる」
何度も試した結果の話だった。
「聞いた事ない話ね。実は相性悪いの?」
「いや、逆だ」
蒼が口を挟む。
「非常に力の相性は良い、だが、良すぎて馴染む以上の事になる。私が消える感じだ」
「えーと、要するに、それは高度なのろけ?」
ラクティなりに理解して言う。
ディープキスをしている状況を他人に見られて、相性が良すぎるからと言い訳にならない事を言うのは、のろけでしかない。
「のろけ? 何の話だ?」
蒼が真顔で聞き返す。
「貴方、本気で聞き返している?」
「ああ」
「はぁ……まぁいいわ。やっぱり大変ね、達彦は」
達彦に視線を送る。
「その点を理解してくれたのは嬉しいが、キスの件は真実だ」
「そ、なら、そう言う事にしておくわ。私は大人だから」
「ああ、頼む」
「……一体、何の話なんだ?」
蒼が完全に分かっていない顔で聞く。
「蒼にはまだ早い話さ。――それに、大体、こんな馬鹿な話をしている場合じゃないだろ?」
達彦が軌道修正を行う。
今は突然襲って来た敵の事を考えるべきだろう。
放置出来る問題ではない。
しかも、また来ると言っていた。
「さっきの奴の事?」
「そうだ、アレは何者だ? 君の敵か?」
「あれは、ベリテッド協会の人間よ。ベリテッドはコングロマリットクレイドルの一部署。二人ともクレイドルは知っているでしょ?」
「ああ」
クレイドルと言えば元々は発明特許で大きくなった会社だが、今は世界有数の複合企業だ。
そんな大企業が、襲って来た相手だと言われても達彦にはピンと来なかった。
「けど、なんで」
まるで話が見えない。
「貴方は深くは知らないのね」
「……クレイドル……じゃ、無垢なる物の?」
蒼が達彦とは違った反応をする。
驚いた顔で、達彦の知らない単語を口にする。
「そう、無垢なる物が竜のコピーでもある事は知っているでしょ? で、あいつ等は元の竜本体にも興味を持ったという話、蒼は襲われた事ないの?」
「クレイドルと交戦した事はあるが、ベリテッドというのは初耳だ」
「まぁ、竜に対して本気になったのは割と最近らしいからね。それで新設された機関らしいわ。で、クレイドルとの交戦があるって事は、日本だと彼女絡み?」
ラクティが『彼女』という言葉に含みを持たせる。
「ああ、澄んだ緋玉だ」
「ふーん、やっぱりね。私も彼女絡みでベリテッドを知ったのよ」
「そうか。――ともかく敵がクレイドルならあの竜詩も納得出来る」
「あいつ等はリエグの後継気取りだから、そう呼ばないけどね。素粒子の集め方もコア経由だし、確か間粒子転換法だった筈よ」
「どのみち面倒くさい相手だな。魔竜の方がまだ手っ取り早い」
「そうね……」
二人が神妙な顔で互いに納得する。
達彦は完全に置いてきぼりだった。
「――すまん、全く話が分からないんだが?」
「本当に全然分からなかったの?」
「ああ」
「ラクティ、達彦のこの手の知識は人間と変わらない」
蒼がフォローのつもりで言う。
「ふーん、本当に変わっているわね。じゃ、詳しい説明は大変だから、あらましだけ伝えるわ」
「それでいい」
「クレイドルは、裏では一般的に言うオカルトを研究しているの、それはクレイドルが滅びの国リエグの力を再興したいから。凄く俗世的な例えをすると、アトランティスの復活を企む謎組織という事で理解して」
アトランティスと言えば、前世の記憶を持っている人や古代超文明論者の拠り所だ。
「相当にネタにしか思えない話だな」
胡散臭さに眉をひそめる。
「ええ、ネタよ。私の存在も含めて、人間からすればね」
自嘲気味に呟く。
「で、そのクレイドルが竜を襲う理由は?」
「例えを続けるなら、アトランティスの復活を阻む時の鍵の番人がとても強いから、そのアトランティスの力の源に関係している竜を捕まえて、自分たちの言う事を聞いて欲しいからよ。ちなみに、竜と時の鍵の番人は友好関係という設定ね」
「それでゲームのシナリオでも書いてくれ」
完全に絵空事だった。
人間の常識では、あり得ないとしか言えない。
「信じるか信じないかは貴方次第、説明はしたから。――それに信じなくても、あいつはまた来るわよ」
「多分、そうだろうな」
その現実は理解していた。
相手が本気で蒼達を捕獲したい事だけは確かだろう。
「次でケリを付けるつもりで対策を練らないと。ベリテッドが人間を出して来るなんて、今回は割と本気っぽいし」
「いつもは人間じゃないのか?」
「そうね、大体はオートマタ。人間が来る事は希、それも響鳴師が出てくるのは初めてよ」
「響鳴師って言うのは、竜詩を使う人間って事か?」
大体の想像だった。
「ええ、クレイドルが勝手に作った職業。でも、厳密には竜詩とは違うの、私達の意思の力に対して、クレイドルはコアの力で現象を引き起こしている。響鳴師は体内に持っているコアを失えば力を使えなくなるわ」
「コアね……体内にあるって事は手術でもして埋め込むのか?」
コアという言葉には、どこか非生物的な響きがあった。
「ええ、そうよ。コアは無垢なる物の真核をコピーした物。――と言っても無垢なる物を知らない人には無意味な説明ね。とりあえず人工のエネルギー変換器官だと思って、それを手術で脳に埋め込んでいるの」
「それは……グロい話だな、身体を改造してまで力を求めるとか……」
脳とは達彦には付いて行けない話だった。
「さぁね、私に人間の価値観は分からないから。貴方には人の価値観がある様子だけど、竜は基本的にそんな事を気にしないわ、蒼も気にしないでしょ?」
「そうだな、達彦は人間臭すぎる」
話を振られて答える。
「悪かったな、俺は基本的に人間側のスタンスだ」
「人間ならマンションから飛び降りた段階で死んでいるわよ。どっち付かずは、きっと後悔するわよ」
ラクティの瞳が一瞬細くなる。
年長者としての助言のような雰囲気だった。
「そうかも知れないな……」
どっち付かずなのは分かっていた。
しかし、簡単にどちらかを切り捨てるような事は達彦には出来なかった。
「じゃ、話が逸れたけど――敵への備えを開始するわよ。まず、蒼には詩を教えるから覚えて」
「私が詩を使うのか?」
蒼は竜詩を使わずに生きて来ていた。
しかし、初めから全く使わなかった訳ではない。
使おうとしたが独学では上手く行かなかったから諦めたのだ。
「簡単な物ならすぐ使えるから、防御とか速度アップとか」
「完全な初心者だぞ、私は」
「それは分かっているわ、仮にセンスが無かったとしても、私が教えたら簡単な物なら使えるから。まぁ、任せて」
ラクティが自信たっぷりに言う。
「分かった」
「で、後、達彦だけど、貴方、器官とか攻撃相は出せるのよね?」
「……」
問われて困る。
「まさか出せないの?」
「ああ、ただ、記憶にはないが出した事はあるらしい」
「何よそれ? じゃ、理解感覚を広げてみて、測るから」
「限界までか?」
「ええ、今も出しているでしょ、それを最大まで」
「分かった」
達彦は通常の半径二百五十メートルの探査領域から、限界の四百メートルまで理解感覚を広げてみせた。
「なら、同調させてもらうわ、ゆっくり深呼吸して」
ラクティが瞳を閉じて達彦の片手を握る。
そのまま約一分が経過する。
「……うそっ、こんなに広いの? ここまで広げてこんなに細かく」
驚いたようにラクティが目を開けた。
そして、手を握ったまま、
「貴方、何者!? 器官はどの程度のものだったの!?」
焦った様子で、その手に力を籠める。
「だから、俺に記憶はない、蒼が知っている筈だ」
達彦は、やんわりとラクティの握っている手を解く。
痛いくらいの興奮振りだった。
「あ、ごめんなさい」
手の事を謝ってから、蒼に向き直り、
「どうなの?」
「器官は出たには出たが、おそらく達彦の物ではない」
一年前の苦い記憶がよみがえる。
「じゃ、攻撃相は?」
「……」
攻撃相とは全ての竜が別々に持っている直接攻撃用の変形形態の事だ。
蒼なら手の甲から伸びる白いプレート状の剣が第一形態だ。
竜によっては直接攻撃を捨てているので退化させている事もあるが、それでも持ってはいる。
個々に別々のそれは竜の個体識別の役目も果たしていた。
蒼は達彦の攻撃相を見ている。
そして、その攻撃相を持つ竜が、どういう存在なのかも知っていた。
「なに、知っているなら、勿体ぶらずに教えなさいよ?」
「今は言えない」
「はぁ? 隠すような事なの?」
「そうだ、達彦にも伝えた事はない」
誰にも言えない事だと判断していた。
「そうして隠されると、余計に気になるんだけど?」
「だろうな、けど、言えない」
言わない事に絶対の理由はない。
しかし、言うべきでは無いという気持ちがとても強かった。
「ふーん、そう。まぁいいわ、黙るって事で逆に大体の見当は付いたから」
ラクティが自分の推論に頷くような仕草をする。
「俺の事なのに、俺とは関係無いところで話が進んでいる気がするが?」
ハブられた顔で達彦が言う。
「そうかもね。達彦はとりあえず次の戦闘では何もしなくていいわ」
「お前の『見当』とやらは話してくれないのか?」
「ええ、蒼が隠しているなら、私が話す事じゃないから」
「そうか……」
達彦は蒼を見た。
蒼はバツが悪そうな顔で視線を逸らした。
聞ける事では無いとしみじみ思ってしまう。
「――なら、今日は二人ともここに泊まって」
ラクティが空気を変えるように、手をポンと叩き、
「蒼には、この後みっちり詩を教えてあげるから」
とても嬉しそうな顔をした。
「いや、泊まると言っても、家にあいつのミサイルが置きっぱなしなんだが」
達彦が手を挙げて言う。
そのまま放置は危険過ぎると思った。
鍵は掛けてあるが、部屋に置かれたミサイルの存在を消す記憶操作はしてなかった。
「それって無隠蔽?」
「ああ、それに着替えとかもない」
「そう、なら一旦戻る形ね。そこで隠蔽の記憶操作をして。ああ、あと、蒼、この場の隠蔽解いていいわよ」
「いいのか? かなり消耗しているだろ?」
「平気、この場にはドール以外にも仕掛けがあって、竜詩を埋め込んであるから、貴方達を隠すにしても、私の力は大して使わないわ」
「そうか、なら――」
蒼が周囲に展開していた記憶操作領域を解く。
「こっちに持って来るものがあったら、移動中に考えておいてね。じゃ、さっさと行くわよ」
ラクティが非常階段を目指して歩き出す。
後の二人は、とりあえずラクティの提案に従った。

3章.学習意欲

蒼が家から持って来た物のリスト。
パジャマ、ランドセル、学校の制服と靴、小物ポーチ(歯ブラシ、ヘアーブラシ、その他身だしなみ用品入り)の以上四点。
下着はラクティが用意する事でまとまった。
パジャマもラクティが用意する気満々だったが、蒼に却下された。
蒼のパジャマは達彦からのプレゼントだった。
そして、達彦が持って来た物は――。
着替え一式のみ。
基本的に身一つで移動出来るスタンスが達彦のスタイルだった。

「――で、何でランドセルに制服があるのよ?」
ベッドの上に広げられた、それらを見てラクティが問う。
場所は七階の寝具売り場。
時間は夕刻だった。
「月曜日の朝までここにいる可能性が高いと判断したから」
蒼は自分としては真っ当な答えをする。
「つまり学校に行く気?」
「ああ」
「敵のターゲットは貴方も含まれているのよ?」
「ああ、しかし、マンション住人全てを遠ざけた事から考えて、大勢人がいる学校に来るとは思えない、仮に襲って来るなら学校の人間を遠ざける筈」
「そんな一回だけの事例では判断材料にはならないわ」
「では、ラクティが交戦した時の事例を聞きたい。その時も一般人を遠ざけたのでは?」
「それはそうだけど……」
クレイドルも竜と同じく、自分達の危険な部分を世間に隠している。
人間を巻き込む可能性がある場所で戦闘行為を行う事はまずなかった。
「なら、私の推論は根拠を得ている、問題ない」
「分かったわ、それでいいなら、いいわ。私は忠告したから」
「ああ、問題ない」
蒼が少し誇ったように言う。
「じゃ、荷物も運んだところで時間的に夕食にする? というか、貴方達はちゃんと食事する方?」
竜は人間のように食物を摂取する絶対的な必要性が無い。
基本的には一定以上の知性体の意識を食べて、自らの構成意識を保っている。
また、他の意識を全く摂取しなかったとしても、徐々に自然回復するため、力の消耗を抑えれば、何も食べなくても存在可能だった。
ただ、そう言っても人間社会で生きている竜には料理の味を覚えて『食事』をする存在の方が多かった。
食事によって直接栄養が吸収される事は無いが、精神的に満たされる事によって自然回復力を多少高める効果もあり、全くの無駄という事もなかった。
その事を踏まえてのラクティの確認だった。
「ああ、最近は食べている」
「まぁ、適当だがな、食事はしている」
達彦は元々人として生きていた為、食事をしていた。
しかし、全くこだわりが無く同じ物が毎日続いても文句は無かった。
ある意味、味を覚えなかった竜だった。
「そう、なら、食事の準備をするわ。上のレストランが開いていれば、簡単だったけど、今日は厨房だけ借りて自炊ね」
爆破事件があって最上階フロアのレストラン街が営業している筈もない。
デパート内は、現在、お昼前から続いていた捜査が終わり、警察関係者が撤収して僅かな警備員を残しているだけだった。
全フロア、照明と空調が最低限まで落とされていたが、今、蒼達がいる階層だけはラクティの詩編効果で営業時と同じ状態になっていた。
警備員は、その事に気付く事が出来ないように記憶操作されていた。
「自炊って、料理出来るのか?」
達彦が意外そうな顔をする。
「失礼ね。レディーのたしなみよ」
「レディーね……」
蒼の方を意識せずに見てしまう。
「……なんだ?」
「いや。しかし、ラクティ」
短く切って、ラクティに振る。
「なに?」
「この状態をデパートが休みの度にやっていたのだろ? 謎の電気利用が記録として残る筈だよな?」
天井を見て言う。
煌々と明かりが点いていた。
いま電気メーターは、一フロア分余計に回っているだろう。
「微々たる物よ」
「残るには残るのだろ? 他にもお前がここに住んでいる痕跡は、色々と残るだろ、在庫が突然消えたり、ベッドにシワが出来たりと……全部記憶消去しているのか?」
膨大な力が必要になる筈だった。
「まさか、それは『幽霊が出る』って話に従業員の間でなっているわね」
事も無さ気に言う。
従業員の立場なら、かなり不気味で重大な問題な気もした。
「それでいいのか?」
「何か問題でも?」
「いや、完全に迷惑掛けているだけだろ? 金銭的にも精神的にも」
「精神的には、どうか知らないけど、金銭的には問題ないでしょ? 人がこのデパートで無駄にする物の量を貴方知っている? それに比べたら何でもないわ」
ラクティが言い切る。
「デパートが無駄にする物ね……」
考えて見て、かなりの量だろうと思った。
売れなかった在庫の全てを卸元に返品するとは思えないし、食料品は期限が切れたら即ゴミ行き。
裏方を知らない人間には想像出来ない程のゴミが毎日出ているのだろう。
「人が作っては捨てる物の量はあり得ないわ。私が居着いている分の負担は、人の持っている余裕の中に十分収まる範囲だと思うわよ」
「まぁ……そうかもな」
達彦には、それ以上何か言う気はしなかった。
竜は人とは違う存在であり、考え方が全く違っても当然だった。
デパートに迷惑を掛ける事に良心が痛むが、ラクティは何とも思っていない。
その考え方の差を、いま摺り合わせるのは無駄というよりマイナスの方が多く思えた。
「それじゃ、話を戻して夕食だけど、何かリクエストがあれば、それを作ってあげるわよ。私、そこそこ料理出来るから」
そこそこと言う割に、自信たっぷりな様子で二人に笑顔を向ける。
「俺は何でもいい」
「私もだ」
ラクティの申し出をあっさり断る二人。
「もの凄く傷付く事、言われた気がするんだけど?」
瞬間否定にラクティがしょげた顔をする。
「そう言われても、私は元々食事をしてなかったから」
「俺は三食カロリーメ●トでも平気だ」
「もうっ、何よそれっ、張り合いのないっ、見かけ私よりはるかに人っぽい生活をしているのに、食事適当とか矛盾しているでしょ!」
しょげた顔が赤く膨らみ、大声で怒鳴る。
「そう言われても……なぁ、達彦?」
「ああ」
二人で頷き合う。
「そう、分かったわ、なら、私がちゃんとした料理という物を食べさせてあげる。そうしたら、きっと貴方達の考え方が変わるからっ」
二人を交互に激しく指差す。
気合いが滲み出ていた。
「そこまで気負われても……別に俺達は本当にどうでもいいから」
出来上がった料理に何も感じなかった時の反応が恐ろしかった。
「良くないわっ、二人とも、きっととてもとても貧しい食生活だったのね? 本当に美味しい物を食べた事がないから、そんな口がきけるのよ」
同情するような眼差しの後に、またも二人を指差す。
「……まぁ、好きにしてくれ」
蒼が諦めたという様子で言う。
「そうだな……お前が作るというのは止めないよ」
「よろしい。なら、十階のレストラン街に行くわよっ、さぁ付いて来てっ」
有無を言わせぬ口調でサラマンダーを抱いて歩き出す。
達彦と蒼は顔を見合わせた後『仕方ない』という結論に互いに達し、ラクティの後を追った。

デパートは十階構造で、最上階はレストラン街になっていた。
今日、土曜日は本来なら稼ぎ時であり食材が大量入荷していた。
爆発事件後すぐに閉めた店内には、各食材が殆ど手つかずに眠っていて、各テナントの冷蔵庫を回れば、集められない食材はなかった。
ラクティはそこから数々の食材を集め、最終的に窓際の席が確保されている洋食料理店に移動した。
「じゃ、待ってて」
ラクティが、どこからともなく用意したフリフリのエプロンを付け、振り袖にたすき掛けをして、客席から厨房へ消えた。
窓際の客席には達彦と蒼の二人が残る。
蒼は、ラクティの得意気な背中を見送ってから窓の外の景色に視線を移した。
そして、
「ところで、達彦」
「なんだ?」
達彦も十階からの展望に視線を送り答える。
「宿題はやったか?」
「そんなのランドセルを持って来る段階で聞けよ」
月曜日に学校に行くつもりなら、その時必要になる物だった。
「ああ、それもそうだな、お前を信用して大して確認しなかった」
達彦が宿題を片付けた場合、そのまま蒼のランドセルにしまうのが通常だった。
「で、一応聞くが、入っているのか?」
「入っているよ」
「そうか、ありがとう」
一旦、会話が切れる。
十階からの眺めは、街が少しずつ夜景に変わる時間で、それなりに綺麗な物だった。
熱気が残る九月の空気に夕日の光が歪み、灯り始めた街の明かりをよりキラキラと輝かせていた。
日頃飛び跳ねている蒼からしても、高い所からゆっくり景色を眺めるというのは、悪いものではなかった。
「ところで、達彦」
また、同じ出だし。
「今度はなんだ?」
「この服、どう思う?」
「ん?」
達彦が窓から蒼に視線を移す。
蒼はラクティにコーディネートして貰った服を着ていた。
帽子は脱いでいる。
昼間の戦闘で破損した部分はラクティが詩を使って補修していた。
「まぁ、悪くは無いと思うよ」
全体を見て言った。
「それだけか?」
「澄ましていれば、どこぞのお嬢様っぽいかもな」
「それは貶しているのか?」
「いや、姿だけなら一級品だと言う話だ」
「…………」
蒼の目元がピクっと動いた。
その直後、
「ふんっ!!」
「っ!! な、何するんだっ!?」
蒼が達彦の足を踏みつけた。
それも踵のヒール部分で思い切りだ。
「お前が酷い事を言うからだ、私は、中身も伴っているぞ」
「っぅう……自分で、そんな事を言う奴は中身なんて伴ってない」
痛みに顔を顰めて言い放つ。
「うるさいっ!!」
ツンと蒼がそっぽを向く。
長い髪がフワリと舞いクールな表情を飾る。
確かに外見だけなら、レストランに食事に来たお金持ちのお嬢様という雰囲気だった。
達彦はさしずめ、お嬢様の機嫌を損ねた執事というところだろうか。
「はーい、アミューズ出来たわよー。――って、貴方達、何やっているの?」
そこにラクティがワインボトルとグラス、パンと料理の盛られた小皿を持って戻って来る。
「何でもないっ」
蒼が不機嫌そうに言い放つ。
「何? 何かあったの?」
話にならない様子の蒼は放置で達彦に聞く。
「お嬢様が機嫌を損ねただけだ」
「ふーん、まぁ、喧嘩する程仲が良いって言うし、痴話喧嘩ならどうでもいいわ。――それより、料理よ料理」
二人の前に皿を置く。
ワイングラスと小皿をテーブルに並べる。
小皿からは焼いたチーズの匂いが漂っていた。
「これは?」
「アミューズのマッシュルームのチーズ焼き、チーズはグリュイエールよ」
「って、名前からしてフランス料理か? 本格的だな」
達彦の知識では、フランス料理で前菜の前に出るちょっとした料理をアミューズと言う筈だった。
「そうよ、食前酒は普通にシャンパーニュにしたわ」
「お前、形から入るタイプだろ?」
「様式美よ」
言いながら、慣れた手つきでボトルからグラスにシャンパーニュを注ぐ。
シュワシュワと泡の音が踊った。
「何でもいいが、これ一つでどうするつもりだ?」
蒼がテーブルの上の小皿を見て素直に言う。
足りない――と顔に書いてあった。
食に大したこだわりは無いが、食べる時に量が少ないのは気になった。
「心配しなくてもいいわよ、これは待ち時間を楽しく過ごして貰うための繋ぎだから、お楽しみは後に控えているわ」
「なら、一度に全て持ってくればいい」
「それ、本場の料理店で言ったら、つまみ出されるわよ。とにかく待ってて」
「長く待つ気はないぞ」
「はい、分かっているわよ、せっかちさん」
ヒラリと身を翻して、厨房へと戻って行った。
「む――」
口をへの字にしつつシャンパーニュを飲んで、焼けたチーズの掛かったマッシュルームにフォークを突き刺し、一口で食べてしまう。
モグモグ――。
「取り立てて、どうと言う事はない」
フォークを置いてグラスをまた口に運ぶ。
そんな蒼を正面に見据えつつ、達彦も料理に手を付けた。
「……」
一口食べての感想は蒼と同じだった。
あまり食べた事のない味だとは思ったが、特別、何かを感じる事はなかった。
「とはいえ、ラクティに対しての言い訳くらいは考えておくか」
呟いてシャンパーニュを口にする。
それは、実の所、最高級品だったが、やはり何かを感じる事はなかった。

五分後――。
「前菜のフォアグラテリーヌのブイヨンゼリー寄せよ。ワインは白の甘口が似合うと思って用意したわ」
「また、凄いのが来たな」
達彦が漏らす。
フォアグラが高級品だという認識くらいはあった。
見た目は肌色のコンビーフのような感じだが。
「丁度良いフォアグラがあったから、それとも苦手系?」
「いや、別に嫌いな物はない、好きな物もないがな、それとフォアグラなんて食べた事ない」
「凄く悲しい人生ね……まっ、とにかく食べてみて」
「ああ」
ナイフで切り分けて、フォークで一切れ口に運ぶ。
二枚のフォアグラのテリーヌの間に、ブイヨンスープを固めたゼリーが挟んである。
噛むと口の中でゼリーが弾け、ブイヨンの味とフォアグラの風味がハーモニーを奏でる。
「うーん、脳内で長台詞が出そうになる味だな」
複雑な味だという事は分かった。
「つまり、美味しいの美味しくないの?」
「さぁ、どうだろうな、分からん。――蒼に聞いてくれ」
蒼に振る。
振られた蒼は、ペンケース大のテリーヌを大胆にも半分に切って、その半分を大口で一度に飲み込んでいた。
「また、つまみ出されるような事を……それで、美味しい?」
「…………ゴク。これは結局、肉だな」
飲み込んで、身も蓋もない感想。
「ガチョウの肝臓だからね。って、そんな感想なの?」
思わず真面目に受け答えした後、落胆した顔で言う。
「ああ、それ以外に何か必要か?」
「私は、美味しいか、美味しくないか、を聞いているのっ!」
単語を区切って二択を迫る。
「特に何も感じない」
「ああ、もうっ、味音痴っ! じゃ、次、メインはじゃじゃんと持って来るから、待ってなさいっ」
半分、自棄になったように叫んで厨房に消えた。
銀色の髪の毛が逆立っていた。
「……次は少しは褒めないとマズイな」
残りのフォアグラを口に運びつつ、適当な褒め言葉を達彦は考える事にした。

十五分後――。
「はい、メインは一気に持って来たわよ、エスカルゴのスープ、鴨もも肉のロティ蜂蜜掛け、仔牛フィレステーキのエポワスソース掛けよ、これで文句無いでしょ」


計六皿とまとめて持ってくる。
器用なものだと感心してしまう。
「最初から全部揃うまで持って来なければ早いのに」
蒼がボソッと言う。
「うるさいっ、蒼はマナーを知らなすぎ」
「マナーなんて人の世界での話だ。ラクティは、そういうのを気にしないタイプだと思ったが、違ったのか?」
「時と場合によるわ。私は形から入るタイプだからっ」
達彦を少し睨んで、テーブルの上に料理を並べて行く。
「そうだな、これだけ作った事は凄いと思う」
蒼が一応褒める。
「ああ、手間も掛かってそうだしな」
達彦が同意する。
メインという事で、盛りつけの綺麗さからして目を見張る物があった。
彩りに気をつかい、素材の個性を生かし、ソースの一滴まで掛け方にこだわった出来だった。
料理に興味の無い二人から見ても凄いと思ってしまう。
「これで何も感じてくれないなら、私の負けよ」
「負けも何もないと思うが」
蒼が早速、鴨もも肉のロティにフォークを突き刺して口に運ぶ。
一切れ飲み込むのに三十秒掛からない。
「蒼に、もう、まともな感想は期待しないわ。今の料理また食べたいと思う?」
「同じものが、また目の前にあったらな」
もう一切れ口に運ぶ。
蒼の食べっぷりだけを見れば、今までに不味い料理はなかったと考える事も出来るだろう。
「じゃ、勝利ね」
「どういう理由で、ラクティが勝ったのか、分からない」
「いいのよ。――で、達彦はどう? 美味しい?」
「俺には、まだまともな感想を求めているんだな?」
「貴方の方が期待出来そうだから、さぁ食べてみて」
「ああ」
達彦は仔牛のソテーに手を付けた。
チーズの香りがやや鼻に付いたが、口に入れると、とてもクリーミーな味が肉に絡みつく。
「うーむ、これは……」
味に興味が無い達彦でも、とても凝った味であり、簡単に再現できる物では無いのは分かった。
「どう? 美味しいでしょ?」
ラクティが達彦を覗き込む。
その目は自分で美味しいと信じている目だった。
「多分、これは美味いって、言うんだろうな」
味は理解出来なくても、ラクティの熱意はよく分かった。
その熱意に対しての世辞だった。
それに、また食べたいと思える料理だった。
「そう、そうよね……これで料理の有り難みが分かったでしょ、どんな食生活をしていたか想像が付くけど、明日からは少しは食事に気をつかいなさい」
「それは食事が用意されているならな、自分で作って食べようとまでは思わない」
「ものぐさね」
「何とでも言ってくれ、そう簡単に生活習慣が変わると思うか?」
「まぁ、それは理解するわ。でも、敵が片付くまでは、ここに居てもらうから、その間に躾けてあげる」
達彦の鼻先を指差す。
「いや、それは蒼に言ってくれ、俺はお前に躾けられる程、変な生活はしてない」
「もちろん蒼も躾けるわよ」
蒼に向き直る。
「何だ? 何の話だ?」
蒼は黙々と食べ進めていて、もう三皿の上には大して物が残って居なかった。
「蒼に料理の素晴らしさを教えてあげるという話よ」
「いや、詩を教えてくれる話じゃなかったのか?」
「それはそれ、これはこれよ」
「……そうか、好きにしてくれ」
興味が無いという感じで、また黙々と料理を食べ始める。
あと、数分も経たずに全て食べてしまうペースだ。
「じゃ、私も少し食べてデザート用意するわね」
ラクティが厨房に戻った。
その後、十分ほどでラクティがショコラアイスとワインを持って来て、一応場はお開きになった。
その間にボトルが三本空いたが、誰も酔った様子はなかった。

蒼達のマンションは、夜になっても住人達が帰還する事が出来ずにいた。
あくまで不発弾の爆発という事故があった事になっているため、警察による非常線が張られ、残りの爆弾が無いかマンション周辺の地中を探る作業が行われていた。
また、爆発時に偶然マンション住人の全てが出払っていた事は、不幸中の幸いとされた。
それが、あり得ないくらい不自然な事でも、実際にあり得てしまった場合は大方の人は受け入れてしまう。
そして、事故は夕方のテレビニュースで大きく報道され世間に知れ渡った。
その直後――。
「蒼ちゃん、今どこ? 爆発って、大丈夫!?」
美佑からの電話が蒼の携帯に掛かって来た。
蒼は夕食後、七階の寝具売り場のベッドの上に居た。
ラクティの詩の授業の最中の事だった。
「ああ、問題ない。今はホテルだ」
なるべく落ち着いた口調で居場所を適当に答えた。
蒼はテレビを見ていないのでニュースの事は知らないが、大方、美佑がテレビを見て電話をして来たのだと予想が付いた。
「本当に!? なにか、映像だと凄い事になっているから……」
美佑の声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。
「美佑、落ち着いて、大丈夫だから。丁度、買い物に出ている時で、家族共々、全員無事だ」
「そう……それで、あさって学校は? 来れそう?」
ホッと一息吐いた空気が伝わって来る。
「行けると思う。ホテルに来る時、制服や教科書は家から持ち出したから」
「なら良かった。あ、もし、何か困った事があったら、私のおうちに来ていいからね」
「今は問題ない。心配してくれてありがとう」
「ううん、それで、いつ頃マンションに戻れそうなの? そういう連絡あったの?」
「多分、月曜以降にはなると思う。まだ、詳しい連絡はないけど、ガラスの大半が割れているし、簡単に片付く状況じゃないと思う」
おそらく業者が入って、掃除と割れたガラス交換をする事になるだろう。
「大変そうだね、本当に何か私に出来る事ない?」
「いや、気持ちだけ貰っておく」
「そう、それなら、いいんだけど……じゃ、色々と大変だと思うから、そろそろ切るね」
「すまない、電話、ありがとう」
「あ、うん、それじゃね」
「ああ、じゃ」
通話が切られた。
その途端、隣に居たラクティがすり寄ってきた。
「友達ー?」
面白そうな事を探る顔。
「そうだ」
蒼は少し警戒して憮然と答えた。
「ふーん、昼間の子?」
「ああ」
「ふーーーん」
目を細め、横目で蒼を見る。
「何だ?」
「竜の事を心配する人間がいるなんて、びっくりだと思って」
「相手は私が竜だと知らない」
「だとしても、明らかに異質な存在に惚れる子がいるとはね、面白いとは思うけど危険よね」
「美佑は別に私に惚れている訳では」
「その子がどう思っているかは、貴方には分からないと思うわ。とにかく、程々にしておきなさい。私達は時に人を喰らう存在。最も楽な力の補給源は人間なのよ」
「私は全てを喰らった事はない」
全てを喰らうという事は、人間を消し去るという事だ。
蒼はそこまでの事をした事は無かった。
「全部か少しかなんて、私達の都合でしかないわ。私達は全部を食べる魔竜を狩っているけど、人からすれば、どちらも敵だと言えるわ」
「私は、そうは思わない」
蒼は意図的に人を傷付ける事はしていないつもりだった。
だから、人の敵になる事もないと思っていた。
もちろん、意思力の補給の為に人を食べた事もあったが、回復不能のダメージを与える食べ方をした事は無かった。
「本当に?」
「ああ」
「それは、逆に人を傷付けないという覚悟? 今の貴方の状態を回復させるのには、人を全て食べてしまうのが早道だと分かっていて?」
ラクティが真顔で問う。
「ああ」
蒼は躊躇いなく頷いた。
「そう……」
ラクティは複雑な顔で蒼を見つめた。
現状の蒼は、自らの基本存在意思力を削る所まで消耗している。
それは単に身体が小さくなっているだけではない。
全ての能力の最大値が低下していた。
最大ヒットポイントが100から40まで下がっているようなものだ。
だから、今、普通の回復手段をとっても40までしか回復しない。
この状態で、最大値を回復させるには時間経過か、外部からの多量の意思力の供給が必要となり、その一番簡単な方法が人を全て喰らって行く方法だった。
複数の人間から少しずつというのでは駄目で、一人を丸ごと食べなくてはならなかった。それは最大値の回復には混じり気の無い意識が必要であり、複数を混ぜた場合は、結局、その時の最大値までしか回復しないからだ。
「緊急事態でも考え方は変えないのね?」
念を押すように聞く。
「ああ、その時は達彦に頼む。あいつは私よりエネルギー総量が大きいからな」
今、この場にいない達彦の名を出す。
「そういう考えね。まぁ、それも一つの方法でしょうね。でも、私は基本的に人と親しくなる事には反対よ」
「一つの意見として聞いておく」
「そうして。――じゃ、詩の勉強の続きよ、今日明日で、ある程度覚えて貰わないと困るからね」
「ああ」
二人が一旦会話を打ち切り、本来の目的を再開する。
互いに瞳を閉じて手を取り合う。
呼吸を合わせて意識をリンクさせ、情報を意識下でやり取りする。
その間、相当に無防備になる為、今、ここに居ない達彦がデパートの中を警備で歩いていた。
達彦の理解感覚の広さから言えば、歩き回る必要は全く無いのだが、何故かラクティが達彦を七階から追い払った為だった。

「見られたくないとか、一体何をしているんだか……」
誰もいない一階フロアをぶらぶらと進む。
地上入り口のあるフロアだけあって、流行のブランド服のテナントが並んでいた。
また、一階は周辺の通りに面する壁の大半がガラス張りで、中の照明は落とされる事なく、実質の二十四時間ショーウィンドと化していた。
達彦から通りの歩く人々を見る事が出来た。
しかし、通りから達彦の姿に気付く者はいない。
「無駄な事だな、この時間は帰路に急ぐ奴ばかりだろうに」
照らされている店内に特別な視線を向ける通行人は、ほとんど居なかった。
通りに面した場所には、外側に向けて洋服や靴が並べられているが、今の時間は無意味だった。
ラクティが言っていたデパートの無駄を実感する。
「まぁ、俺には関係ないか」
特別、エコだと騒ぎ立てるような性格ではなかった。
店内を見回り異常が無い事を目視で確認する。
そして、一階から今度は地下にでも行こうかと思った時。
コンコン。
近くで、外壁のガラスを叩く音がした。
「?」
音のした方を見ると、ガラス壁の内側に一つの封筒が置いてあった。
「え?」
思わず自分の目を疑う。
ガラス壁ははめ殺しだ。
それなのに音がした後、ガラスの内側に封筒がある。
ガラスを外側から叩いたのだとしたら、封筒がすり抜けた事になるし、内側から叩いて封筒を置いたのなら、達彦が気付く筈だった。
達彦の感覚では、通行人がガラスを叩いたとしか思えなかった。
となると、ガラスを突き抜けて封書が置かれた事になる。
「!」
すぐにガラス壁に駆け寄り、通行人を観察したが、感覚的にも視覚的にも、特別目立った人物は居なかった。
外に出て探したとしても、相手が名乗り出てでもくれない限り見付ける事は出来ない状況だろう。
「仕方ないか……」
誰が置いたか放置する事にして、封筒を手に取る。
「な……!」
封書には綺麗な文字で『山内様』と宛名が書かれていた。
薄桃色で四隅に花模様をあしらった可愛い封筒だ。
裏側にはシールで封がされていた。
「差し出し人は女か……誰だ?」
ともかく自分宛である事は確かだと思い、封を切り中身を見る。
中には便箋が一枚。

おそらく月曜日に襲撃がありますが、その事は、蒼ちゃん達には伝えないでください。
その上で、事が起きた時、出来れば貴方が近くにいた方が良い筈です。

「何だこれは……?」
内容だけで判断するなら、ある種の行動指示書だった。
「この先、何か起こるのは確かだろうけど……」
その事を知っているのは、達彦達かベリテッド協会側だけだろう。
しかし、ベリテッド協会が達彦にわざわざ情報を伝える意味がない。
もし、全くの第三者からの言葉なら予言めいた話になる。
「うーん」
何にしても意図が分からない手紙だった。
危機があると分かっていて、それを知らせるな、という手紙。
しかも、その上で達彦には、その危機に対して『近くにいた方がいい』という指示がある。
「蒼達に伝えるべきなのか?」
伝えるな、と書いてあっても、何かあると分かっていて、伝えないというのは心情的に出来ない。
だが、手紙が真実とは限らない。
そもそも、敵がいつ襲ってきてもおかしくはない状況だ。
現状、警戒していないメンツは達彦側には居ない。
だとしたら、この手紙の事を話して、蒼達を無駄に混乱させるより、今のままの方が良い気がした。
「不確定な情報は、ない方がマシだからな」
それは、考え方の一つだろう。
手紙の指示に従う形になってしまうが、話さない方が良いと達彦は判断した。
「いや……」
結論を出した後に、別の考えに行き当たる。
「これは不確定だからこそ、俺があいつ等に話さないと思った上での手紙なのか?」
その可能性もある気がしたが、そうであったとしても結論は変わらない。
相手の真意は、どこまで行っても想像でしかないのだ。
「まっ、考えるだけ無駄だな」
答えの出ない事を考えるのを止める。
達彦は手紙をポケットにしまって、地下を見回るために階段に向かった。

七階寝具売り場。
「ラクティっ、ちょっと、どこを……っ!」
「こうした方が伝えやすいでしょ?」
「ぁ、や、やめろっ、あっ、んっ、ああっ!!」
蒼がベッドの上で上擦った声を漏らす。
対するラクティの声は、甘くしっとりとしていた。
「ほら、大人しくして……リラックスよ」
「んっ、だ、だめだ……ぁ、こんなの……っ」
二人の形態的少女は、ベッドの上で裸で抱き合っていた。
ラクティが蒼の耳たぶや頬をペロペロと舐める。
「蒼、ちゅ、ぺろ……ぺろ、ん、私を感じて……」
「感じる意味が、ち、違う……詩の伝授だろ……」
「違わないわ……ちゃんと、伝えているでしょ……ちゅ」
言いながら、その手を蒼の下腹部に這わす。
「なっ、ラ、ラクティ……っ!」
「あら、まだ早かったかしら?」
手が下腹部から胸へと滑り、蒼の乳首を指の腹で撫でる。

「んんっ!!」
蒼が硬く目を閉じ、身を逸らす。
「ふふ、敏感ね……さぁ、もっと、感じて……」
乳首を撫で回しながら、もう片方の手が再び下腹部に滑る――。
「っ……!」
蒼は全身の力が抜けてしまっていて、抵抗する事が出来ない。
色々と心の中で覚悟を決める。
その時――
「おい、何やっているんだ?」
野太い声が場に響いた。
「!! キャァァァァァァァァァァァっ!!!! 変態っ!!! 何で、ここに居るのよっ!!!! 刃よ、風となって切り裂けっ!!」
ラクティが、手元にいたサラマンダーで胸を隠しつつ絶叫した。
そして、達彦に向かって真空の刃を飛ばす。
「ちょっ!!」
達彦は咄嗟にその場に伏せて、迫る刃をかわした。
攻撃が適当だったので、何とか避ける事が出来た。
達彦の背後で、ベッドサイドスタンドの支柱が切断され、崩れ落ちた。
「さっさと出て行きなさいっ!!!」
ラクティがなおも刃を飛ばす。
達彦の背後で、ガシャン、ドシャンと、派手な音が繰り返される。
「落ち着けっ!! 修復不可能なくらい壊しているぞっ!!」
達彦の叫びがむなしく響く。
「ラクティっ!!」
その時、蒼が脱力から回復してラクティに飛び掛かり、そのままベッドに押し付ける。
「あ、蒼っ!? 何よっ、どっちの味方っ!?」
すぐに二人、もみ合いとなる。
裸の形態的少女がもみ合う様は、あらゆる意味で壮絶だった。
柔らかい部分が、凹んだり盛り上がったりする。
「蒼、何とか押さえ込め、俺は別の階に行っているから、その間に落ち着かせろっ」
達彦は言い残し、二人の様子を見ないようにしながらトンズラした。
味方に殺されたのでは合う話じゃない。
ひとまず、六階に逃げて十五分程待ってから七階に戻った。
耳を澄ました感じでは、落ち着いている様子だった。
「おーい、もう平気かー!」
二人から見えない位置で大声を出す。
「ああ、落ち着いた、服も着ているー!」
「分かったー」
安全を確認してから二人の元に戻る。
そして、改めて周囲の様子を見て冷や汗が流れる。
ラクティが攻撃した方向に並んでいる背の高い物体は、全て高さ五十センチくらいのところで切断され、床に転がっていた。
さらに、その奥の壁には無数の割れ目が走り、表層の大理石が砕けてしまっていた。
「お前ちょっとやりすぎだろ、これは?」
ベッドの上でむくれているラクティに非難の視線を送る。
蒼はその後ろでヤレヤレという顔をしていた。
「いきなり戻って来るから悪いのよ、折角良い所だったのにっ」
ラクティが言い放って、頬を風船のように膨らませる。
「自分で直しておけよ」
「嫌よ、台風でも来た事にするわ」
「どう考えても無理がある記憶改変はするな、とにかく元通りに直せ、出来る筈だろ?」
デパートの一階層に局地的台風が通り抜けたという記憶の改竄は、流石に無理がある。
もっとも、出来ない事はない。
ただ単に、その事が異様に目立ってしまう事態を引き起こすだけだ。
「むぅぅ、じゃ、その分の力を頂戴、そうしたらやるから」
達彦に向かって『頂戴』と手を差し出す。
「俺のは、お前でも普通には喰えないと思うぞ」
「それは構わないわ、普通じゃない方法で貰うから」
色っぽく言って、艶めかしい視線を達彦に向ける。
その途端、
「まてっ、そんなの駄目だっ!」
蒼がラクティを後ろから押し倒して覆い被さる。
「どうして駄目なの? 別にパートナーという訳じゃないのでしょ?」
ベッドに沈み込みながらも余裕の口調で問う。
「そっ、それは……」
たじろぐ。
「じゃ、二人の共有財産という事で問題ないわよね」
「あるっ!」
「あら、独り占めする気? 戦闘に使えないなら、正直エネルギータンクでしょ」
「……凄い言われようだな」
達彦本人を前にして、ラクティの言い方はストレートだった。
多少凹む。
「そ、そういう話じゃないっ、どうしてもって言うなら、私の力を使え」
「貴方の使ったら、貴方が凄く困るでしょ」
蒼は力の最大値が下がっている為、そもそも多量に蓄える事が出来ない。
その僅かな蓄えを使うのは、後々、非常に困る事になるのが目に見えた。
「ああ。だから、その後、達彦から私が貰うから」
「なにその効率の悪い話、結局、達彦の力を使う事には変わらないじゃない」
達彦→蒼→ラクティと力が移動するだけだ。
結果的には、ラクティが直接達彦から貰うのと何ら変わらない。
むしろ、受け渡し時のロスを考えると直接の方が効率が良い。
「いいのっ! 私から力を取って、今すぐ」
覆い被さった体勢でラクティに体重を掛けて言う。
密着していれば、血を飲んだ相手との力のやり取りは容易だった。
「分かったわよ……仕方ないわね……」
ラクティが目を閉じて蒼から力を貰った。
大した量では無い、やり取りは瞬間的だ。
「はい、確かにいただきました。――よいしょ」
蒼から離れて、ベッドの上から降りる。
「一個一個キッチリ直してくるから、貴方達は、勝手にディープキスでも何でもしてなさいっ」
乱暴に言い放ち、サラマンダーを抱いて達彦達から離れた。
達彦はその背中を見送りつつ、
「少し言い過ぎたか?」
やや反省してしまう。
ラクティの背中は、イライラしている気配が滲み出ていた。
「そうか? 当然の事だろ、それより達彦に怪我は無いのか?」
「あったら、普通に怒っているよ」
「ならいい。――あと、さっきは助かった」
「何が?」
「いや……ただ、その……ありがとう……」
蒼が少し照れた様子で言う。
達彦には何の事か分からなかった。
「だから、どういう意味だ?」
「いい、別に分からなくても、こちらの話だ。――それより、力の補給を頼む」
納得したように頷いてから、事も無げに続けた。
「あ、ああ、そうだな」
補給は必要な事だった。
ラクティの発言の後、気持ち的にやりにくいが、ラクティが戻って来たらもっとやりにくい。
今やってしまう必要があった。
達彦は蒼の横に腰掛けた。
ベッドが二人の重み分、沈む。
「目を閉じるのだったな」
蒼が達彦の方を向き自ら目を閉じた。
「じゃ、行くぞ」
顔にソッと手を当てて、位置を合わせてからキスする。
一日に二回も力の受け渡しをするのは、ほとんど無かった事だった。
「んっ……」
蒼の方が口を開き、舌を伸ばして来る。
それに応えて舌を絡めて、互いに相手の口腔を貪る。
同時に力の受け渡しが行われ、蒼の力が回復して行く。
「ちゅ……んふ……ぷぁ……ありがとう、回復した」
満ちた所で蒼が口を離した。
エネルギーの受け渡し以外に意味の無い筈のキス。
しかし、本当にそれ以外の意味がないのか?
達彦はほんの少し考えて――。
「いや」
浮かんで来た自らの考えを否定して、蒼の顔から手を離してベッドから立ち上がった。
「どうした?」
「ラクティへのフォローもいるだろ」
とりあえず思った事を言った。
蒼の事を今考えるのを止めた結果、次に気になるのはラクティの事だった。
流石に放置しているのは気まずい。
「フォローか……必要無い気もするが、達彦が言うなら」
「ああ、ちょっと様子を見て来るよ」
「分かった」
達彦はラクティが歩いて行った方に歩き出した。
基本的に破壊の跡は一直線だが、何発かは変則的に飛んだらしく、所々、脇道に逸れているラインがあった。
その一カ所の先にラクティを見付けて、声を掛ける。
「おーい、進んでいるか?」
そのまま歩み寄る。
「何よ、イチャイチャしていたんじゃないの?」
ペタンと床に座り、ツンとした口調で言い放つ。
周辺の物体の破損が直っている所をみると、作業は進んでいるのだろう。
「別にエロい事をしていた訳じゃない。力の受け渡しならもう済んだ」
「そっ、私の方はまだまだよ。対象を指定せず、このフロア全体の修復を意識して詩を使えば楽だけど、消耗が大きすぎるから、こうして一個ずつ直さないとならないし――」
半分に切れた安眠枕を手に取り、切断面を合わせ、中材がこぼれるのを無視して、瞳を閉じる。
口元が僅かに動いた後、こぼれた中材が消え去り、切断面が接合された。
「はい、出来上がり。まだ二百点くらいはある感じねー」
自嘲気味に言い周りを見渡す。
達彦も釣られて周りを見ると、大物では二段ベッドが崩れ落ちていたり、小物では目覚まし時計がすっぱりと切り分けられていた。
そんな感じの破壊物が、計二百個。
「一個一分としても、二百分か……」
色々のロスを踏まえて実質は三百分以上掛かっても不思議はない。
「終わる頃には夜中だな」
「きっと、早朝にはなっているわよ。本当に全部、直させる気?」
非難の目を達彦に向ける。
「じゃ、台風が来た事にするつもりか?」
「それ、自分で言ったけど、仮にそうした場合、局所的な突風の原因はプラズマだ――とか言う人まで現れたりして、ここに住めなくなりそうだからね」
「だったら少しずつ直すしかないだろ?」
「本当にそうしろって言うの? 今、もっと力を使えるなら、簡単だって言ったでしょ?」
「ああ」
「『ああ』じゃないわよ……ねぇ? 言いたい事は分かるでしょ?」
ラクティが急に艶めかしい声で達彦の足にすり寄る。
「待て」
一歩下がりラクティと距離を取る。
「待たないと言ったら? 貴方を少し足止めしてキスするくらいなら簡単にできるけど?」
半目の瞳でゆっくりと指先を唇に当てる。
「本気か?」
「当然、だって、早朝までとか現実的じゃないでしょ?」
座った姿勢のまま達彦ににじり寄る。
手が触れる直前で、達彦はさらに一歩下がった。
「逃げるの?」
「お前とキスする理由がない」
「理由は力の受け渡し、それに、蒼とならキスする理由があるの? 蒼とだって力の受け渡しの為にやっているのでしょ?」
「そ、それは……」
本当に力の受け渡しだけなら、キスなんて大した事では無いと考える事も出来る。
「じゃ、問題ないわよね」
ラクティが立ち上がり銀髪を揺らながら達彦に迫り、その手を伸ばす。
しなやかで細い指が達彦のアゴのラインに触れた。
「い、いや、駄目だ。目に見えて大きく壊れている物だけ後一時間で直して、後は全体処理すればいい、その分の力は蒼から貰ってくれ」
咄嗟に身を退く。
ラクティとキスをする事は、確実に蒼が嫌がる事をする事になる。
それは出来ない。
「そっ、分かったわ」
ラクティは、あっさりと伸ばしていた手を引っ込め、
「そんなに蒼が大事なら素直になった方がいいわよ、じゃないと私が取っちゃうからね」
達彦からぱっと離れ、クルッと一回転してしゃがみ込む。
「サラマンダー、大きく壊れている物の目星を付けて来て、私は少し休んでいるから」
しゃがんだ視線の先――足下に待機していた縫いぐるみのサラマンダーに命じる。
するとトコトコとサラマンダーが歩き出して、フロアに置かれた商品の影に消えた。
「これで良いんでしょ?」
「ああ」
「で、話は変わるけど、貴方達どこまで行っているの?」
近くにあったベッドに乱暴に腰を下ろしながら聞く。
ドスっとベッドが軋んだ。
「どういう意味だ?」
念のために聞く。
達彦が思っている通りの内容なら、随分、不躾な質問だった。
「は? その意味が分からない子供じゃないでしょ?」
呆れた目で達彦を見る。
「どうして、お前に答える必要がある」
思った通りの不躾な質問だったと断定する。
「参考までによ、だって、成り行きで蒼に血を飲ませているし、私も無関係って訳にはいかない立場でしょ?」
足をバタバタさせながら言う。
「契約は無かった事になったんだろ?」
「それはね、でも、貴方達がちゃんとパートナーをしてないなら、私が蒼を奪ってもいいわけでしょ?」
「……その理屈はありなのか?」
「ありでしょ、離婚して別の誰かと結婚。人間と同じよ」
「ストレートな言い方だな」
蒼と離婚という状況を考えると、その前に結婚しているとは言えない気がした。
結婚というより、今は父と娘の関係だった。
「それで、どうなの? はっきり答えて欲しいのだけど?」
ラクティが目を細めた。
本気だという意思表示だ。
達彦は息を飲んだ。
事実を暴露する事と隠す事。
どの道、勘ぐられるのは見えている気がした。
「したか、してないか、なら――。した」
覚悟して事実を言った。
「ほんとに!? わっ、ロリコンっ! 変態っ! 鬼畜っ!!」
ラクティの表情が固まる。
その後、あからさまに視線を逸らし横目で蔑む。
その目は『近寄るな』と言っていた。
「誤解するな、あれでも一年前は一応成人女性サイズだったんだ」
形式上高校生だったが、蒼に年齢は元々意味がない。
一年前、蒼は十分に性交可能な身体を持っていた。
「ふーん、じゃ、一年もセックスしてないセックスレス夫婦という事ね」
酷い事を言う。
「その言い方、間違ってはいないが……何とかならないか?」
「事実でしょ?」
「それはそうだが、仮に今の蒼とやっていたら変態扱いだろ」
「当然よ、まさか、やったの?」
また蔑む視線で達彦を見る。
「出来る訳ないだろ、そんなに俺を変態にしたいか?」
「あっそ、つまらない」
「俺が変態の方が面白いと?」
「そうね……話として、その方が面白いけど。現実、仮にやっていたら、今ここで殺しているかも」
ニコッと笑って言う。
「洒落にならんな」
「まぁ、仮の話はどうでもいいわ」
軽く瞳を閉じて、話は終わったというようにベッドから立ち上がる。
「とりあえず、質問に答えてくれてありがとう」
瞳を開き微笑する。
「いや」
「私は壊した物を直して来るわ、そろそろサラマンダーが調べ終わる頃だし、貴方は蒼に絵本でも読んであげたら」
「そんな歳じゃないだろ」
「そう? 読んであげたら喜ぶかも知れないわよ。あと、寝るなら貴方は六階の家具売り場に行ってね、ソファーがゴロゴロしているから。朝までに七階に入って来たら、今度こそ胴体を真っ二つにするから」
「気を付けるよ」
「じゃ、一時間後に蒼の所に戻るから」
「分かった」
達彦が了解すると、ラクティはフロアの奥へと歩いて行った。
「……俺は、確かフォローに来た筈だよな」
今の会話でラクティの機嫌が良くなったのかは謎だった。
ただ、作業が減る提案をしたのだから、何もしなかったよりはマシだろうと思い、蒼の所に戻った。

『丸一日は掛かるかと』
至って普通の住宅街。
夜、その一角で碕峰修司が携帯で電話をしていた。
『ええ、相手の回復を待つ事になりますが、万全を期すためにも』
電話の相手の声は聞こえない。
『はい、ところで、お声がいつもと違う様子ですが、お風邪でも?』
どうやら、修司より偉い相手への電話の様子だった。
『そうですか。では、また連絡を、はい』
通話を終える。
携帯をしまい、特別な事は何もない風に住宅街を歩き出す。
そこは、蒼達のマンションからほど近い場所だった。

翌日曜日の朝。
デパートはまだ営業中止の処置をとっていた。
再開は安全を確認して月曜からという事に決まった。
フロア内部には、昨晩から警備員とお掃除ロボット以外には誰も来なかった。

「へー、これは面白いな」
達彦が通り過ぎて行ったお掃除ロボットを見送って言う。
単なる一メートル四方の箱だが、障害物を自動で避けて床を掃除して行く。
床掃除しか出来ないが、ロボットが通った後は割ときっちり床が綺麗になっていた。
「基本的には、開店前に起動しているわよ。今日は開店はしないけど、動かしてはいるのでしょ」
ラクティが答える。
二人は五階にある喫茶店にいた。
外壁の一部が外に張り出しテラス構造になっていて、ちょっとしたオープンカフェとなっている。
二人の居る位置には、空が見え風が吹いて朝の日差しが当たっていた。
フロアとはガラスで仕切られていて、そのガラスの向こうでお掃除ロボットが動いていた。
「最近の技術は凄いな」
「そうね、人間が自動装置をここまで発達させるとは、ちょっと思って無かったわ」
「その内もっと精巧なロボットも作るだろうな」
朝の喫茶店で二人は朝食を取っていた。
メニューは凝ったものではなく、サンドイッチにアイスコーヒーだ。
お客は当然誰もいない。
二人以外には蒼の姿も無かった。
蒼は八階に少しだけ売っている家電コーナーに、アニメを見に行っていた。
デパートの家電コーナーは、最近は量販店に押されて申し訳程度に数点が売っているだけだが、テレビはあった。
「蒼は、いつもアニメとかを見ているの?」
二人は大体食べ終えていて食後の会話を続けていた。
「そうだな、最初はそうでも無かったが、学校に行くようになって変わったかな」
「ふーん、話を合わせたりするのに必要なのかしらね?」
「かもな」
自分が小学生だった時を思い出すと、テレビの話題を抑えておく必要性はあるだろうと思えた。
「それで、今日貴方はどうするの? 私達は詩の勉強だけど」
「そうだな……正直暇だな」
「じゃ、また警備をお願いできる? 貴方の理解感覚範囲が一番広いのだから、六階にマッサージ椅子があるから、それにでも座って」
「一日中マッサージ椅子はなぁ」
それはそれで厳しいものがある気がした。
眠ってしまっても良いなら、まだよいが、起きて周囲を警戒している必要があるなら、逆に辛いかも知れない。
「それなら屋上でゴルフでもしたら? 打ちっぱなしコーナーがあった筈よ」
「まぁ、その方が健康的だな、今ならタダだし」
「ゴルフに集中して警戒を怠らないでね。あと、念のため私達の感覚範囲からは出ないでいて」
「ああ、分かった」
頷いて、
「――ところで一つ聞きたいのだが」
「なに?」
「俺にも詩が使える可能性は無いのか?」
気になっていた事を聞いた。
達彦には『詩』がどういうものかすら分からないが、一応『竜』なら使える可能性があるのではないかと思った。
「そうね、間粒子を意識出来ないと難しいわ。もちろん、取り込めないと駄目だし」
「器官が出せないと駄目って事か?」
「基本的にはね。溜めている分があれば、出さなくても使う事は出来るけれど」
「溜めか――、お前が使う時にも出してない時があるよな?」
「ええ、私は割と溜め込んでいるから。ただ、器官を出さないと大出力は無理ね」
「ふむ」
「じゃあ、詩の定義を軽く教えておくわ。その内、役立てて」
コーヒーを一口飲んでから続ける。
「詩は、別に何でもいいの。どんな言葉でも詩にはなる。ただ、一つの現象を引き起こすフレーズは『これ』と自分の中で決める必要はあるわ。その上で、覚えやすいように言語を統一して体系化するのが一般的ね」
「それは普通に詩を書くのと一緒か? 詩を書くのには制限は無いからな」
「同じよ。例えば――日本語で『水よ凍れ』で、水が凍るようにする事も出来るわ。でも、短い言葉であればある程コントロールは難しくなる。『水よ凍れ』では、空気中の水だって凍ってしまうかも知れないしね」
タクトを振るように指先をクルクルと回転させながら言う。
「対象の範囲指定が曖昧って事か?」
「今の例ではそうね。ただ曖昧でも、その曖昧な部分を自分の意識で補えば、目的物だけ凍らせる事が出来るわ、それがコントロールという事ね。また、決めた言葉に近い言葉でも同一イメージが浮かぶなら、発動可能よ」
「なら、実際は意識力の方が重要で詩は発動のきっかけでしか無いという事か?」
「そうとも言えるわ、要は日常とは違う言葉で『力を発動させる事』をイメージすればいいの」
「割と適当だな」
「ええ。でも、その柔軟性が無いと詩は使い難いわよ。きっちり『前方三十五センチ先にある液体の集合を凍らせて』とかでは実用的ではないでしょ? 最低、効果範囲くらいは意思下で補えないと」
「確かにそうだな」
頷いてコーヒーを口にする。
「ちなみに、私の場合は凍らせるなら――グラッセ」
クルクルと回していた指を達彦が飲んでいるコーヒーに向けた。
「!! なっ、お前っ!」
その瞬間、達彦が飲んでいたコーヒーが完全に凍結した。
もう少しで唇を巻き込んで凍るところだった。
「どう? 綺麗に凍ったでしょ? 効果範囲を指定しなくても意思下で制御したの。今はフランス語で言ってみたけど日本語でも平気よ。あと、人語じゃない体系もあるから、私はかなり詩編を持っている方ね」
「その人語じゃないって言うのは?」
「高等竜語、今の貴方の耳では聞こえないかも――」
ラクティが唇を僅かに動かした。
その途端、凍っていたコーヒーが元の液体に戻る。
「今、何か言ったのか?」
達彦の耳には、ほんの少しの呟きが聞こえたような気がしただけだった。
「やっぱり聞こえないのね。人の身体である事の方が強いと無理」
「どういう意味だ?」
「竜は人の意識に同調するために人型なだけ、貴方にはその実感はないと思うけどね」
「どういう意味だ?」
「私達にはきまった形はないの、魔竜は無定型でしょ? 私達は人と関わっているから、人型をしているだけ」
ラクティが空を見つめて呟く。
その視線は、とても遠くを見ていた。
「俺には、まるで分からないな……」
「その内分かるわよ、きっと」
視線を戻し、残っていたアイスコーヒーを全て飲んで立ち上がる。
「私は蒼の所に行くけど、貴方は屋上?」
「そうだな」
「分かったわ。なら、お昼に戻って来て、美味しい料理作るから」
「覚えていたらな」
「だーめ、絶対戻って来る事、分かった?」
何故か腰に手を当てて言う。
「はいはい」
「よろしい、じゃあね」
ラクティがフロアの方に戻って行った。
それを見送って、アイスコーヒーを飲んでから、
「俺も屋上に行くか」
達彦もフロアに戻った。
そして、流石に止まっているエスカレーターを歩いて登ろうとした時。
「!!」
フロア全体に異様な気配が満ちた。
下から突き上げられるような揺れの後、床のあちこちから白いマネキンが生えるように出現する。
その数は百以上。
友好的な相手だとは、死んでも思えない。
「ちっ」
蒼とラクティの気配が上階にあるのを感知して、エスカレーターを駆け上がる。
達彦が動くと、マネキン達がエスカレーターに殺到した。
六階に上がると、そこもマネキンの海だった。
「不味いなっ」
振り向くと、数十段下に駆け上がって来るマネキン達が見えた。
正面からもマネキンが迫る。この様子だと七階からもマネキン達が降りて来ているだろう。
逃げ場は完全に無かった。
「くそっ!」
達彦は振り返り、段差を飛び降りた。
その勢いで登って来ていたマネキン群を踏みつぶす。
マネキン自体の強度は大して無く、達彦の体重の乗った一撃で一体の頭が割れて砕ける。
すると、そのまま首から下が消えて行き煙となって四散する。
「脆いが、数が半端ないっ!」
段差に着地して、別のマネキンの胸を蹴り飛ばす。
後ろに反り返って倒れ、そのまま次々と将棋倒しになって行く。
「よしっ」
仰向けに倒れたマネキン達を踏んで五階に戻る。
エスカレーター前は、完全にマネキンに取り囲まれていた。
突破するとして、どうするかを一瞬だけ考える。
本当なら上に向かいたいが、達彦がやったように狭い段差での上からの攻撃は、避けようがない。上に行くのは死ぬようなものだ。
だとしたら、外に逃げるのが妥当だろう。
蒼達も外に逃げる可能性が高い気がした。
「なら――」
先程居た喫茶店を目指して、マネキンの包囲にタックルを掛けようとする。
しかし――
「なっ!!」
周りのマネキン達が一斉に手に刀を出現させた。
そして、刃を突きに構えて達彦に突進して来る。
何十本もの刃物が達彦を貫こうとした時。
「弾けなさいっ!!」
ラクティの声が響き、刀を構えたマネキン達が数体、爆発と共に弾けて四散した。
刀も一緒に消え去る。
「達彦、さっきのお店まで走って、外にっ!」
ラクティがエスカレーターを滑るように降りて来た。
背に器官が広がっている。
「ラクティ、蒼はっ!?」
「サラマンダーがフォローしているわ、多分、屋上から飛び降りるから」
「分かったっ!!」
達彦は爆発してマネキンが消えたスペースから包囲を抜けて、喫茶店を目指した。
その前を別のマネキンが素早く塞ぎ、手に刀を出現させる。
「ちっ!」
「任せて」
ラクティが聞き取れない呟きを漏らすと、マネキンの胸辺りに小さな人形が出現して張り付き、その途端に爆発する。
「ここは私のテリトリーだからね、仕込みは大量にあるわ」
さらに立ち塞がろうとしたマネキンの胸に、次々と人形が出現して爆ぜる。
マネキンは、その爆発で大体が上半身が吹き飛び、そのまま四散してしまう。
「今のうちに走るわよっ!」
「ああっ」
テラスのある喫茶店まで走り抜け、そこから柵を跳び越え、外に飛び降りる。
デパートは裏が線路で正面は大通りに面していた。
その大通り側に落下する。
通りには人が溢れていた、そのまま落下すれば衝突は確実だった。
「達彦は電話ボックスの上に、誘導するからっ!!」
ラクティが着地ポイントを即座に見極め、達彦の周りに強い風の流れを作る。
「分かった」
風を感じて、少し離れた電話ボックスの上に落ちるように身を任せる。
ダンッっ!!!
激しい衝撃音と共に電話ボックスの上に着地。
見渡してラクティの位置を確認すると、近くの街灯の上に器用に着地していた。
着地と同時に、周囲の人間が騒ぎ出す。
「うるさいっ!!」
ラクティが背の器官を瞬時に拡げて、記憶操作を全力で行う。
器官が淡く光る。
周辺に居た人間の顔が一瞬呆けたものに変わり、その後、騒ぎが一気に冷める。
「達彦、蒼はっ!? 位置を感知してっ!」
「ああ」
八階より上にいる蒼の位置に意識を集中する。
気配はまだデパートにあった。
位置は高さからして屋上。
抱いているサラマンダーの気配も、達彦には感じる事が出来た。
「まだ屋上にいる、サラマンダーも一緒だっ」
「分かったわ」
二人で上を見上げる。
五階のテラスがまず目に入る。
そこにマネキンの姿は無かった。
外までは追って来ないつもりなのかも知れない。
そして、屋上。
晴れた空の中、やや逆光気味にデパートが建つ。
その逆光の中、白い器官が宙を舞った。
「蒼っ!!」
「足場を作っておくから、そのまま落ちてっ!!!!」
ラクティが信じられないくらいの大声で叫び。
遠目に蒼が頷いた。
落下に六秒弱。
蒼がラクティが作った空中の足場に着地する。
路面から高さ三メートル程の位置だ。
その足場に、ラクティと達彦も飛び乗る。
「二人とも、良かった」
達彦とラクティの様子を見て、蒼が安堵する。
「ああ、蒼、怪我は無いか?」
「サラマンダーは無事?」
「私も、この子も問題ない、それより敵は追って来ないのか?」
「デパートの中の気配は、今、一気に減っている。外に出てくる様子はない」
達彦が言う。
ラクティと蒼も理解感覚に集中して、その様子を確かめた。
「中にいる私達を狙うためだけの存在のようね……それにしても、やられたわ。私のテリトリー内で、多量召喚なんて」
悔しそうに言う。
「とりあえず、話は後だ。一旦、ここから離れよう、俺達のマンションくらいしかないが」
「そうね……蒼、貴方、テレビ見ていたなら、マンションがどうなっているか、分からない? まだ、自衛隊とかいるの?」
「さぁ、速報は入らなかった」
「じゃ、行って確認するしかないな」
「ええ」
「分かった」
足場を蹴って、背の低いビルの屋上まで飛び、そこから、もう少し高いビルまで飛ぶ。
後は、ビルの屋上を飛び渡って、達彦達はその場から離れた。

達彦達のマンションは、一応の安全宣言が出されていたが、住民の避難は続いていた。
その間に、業者が全ての部屋の割れたガラスの交換作業や清掃などを行っていた。
達彦達の部屋は、記憶操作により存在していない事になっていたので、誰も入っていなかったが、それは同時にグチャグチャのままという事だった。
マンションに到着した達彦達は、まず部屋の片付けを始めた。
それが終わる頃にはお昼になり、インスタントしかない食糧事情にラクティがキレつつ昼食を終え、何とか一段落付いたのは午後二時前だった。

「で――この対戦車ミサイル十基はどうするの?」
ラクティがアイスティーを片手に、もう片手で頬を押さえながら言う。
不味いと散々ごねたインスタントだが、しっかり飲んではいる。
「廃品回収に出して、大混乱させてみるか」
「それは……多分、対テロ特別部隊が出動するわよ?」
「なら無駄撃ちするか」
「達彦、真面目に考えている? 山奥でも国内じゃバレてしまうと思うけど?」
「昨日、台風処理を提案したのは誰だ?」
「それは、それよ。大体何で拾って来たのよ。放置していれば向こうが片付けた筈よ」
「それは……俺が決めた訳じゃないぞ」
言って蒼を見遣る。
「――向こうが片づけるとしても、それまでの間、ミサイルが路上にあるのが危険だと判断したからだ」
蒼が憮然と答える。
仮にミサイルの存在を認識出来ないようにしても、道路に散らばったミサイルが落ちている事には変わらない。
ベリテッド側が回収に来るまでの間に、車が踏んだりしたら大事だ。
「理解は出来る理由ね。周辺住人の安全とかを考えた場合はね。でも、それで私達が困ったら意味がないでしょ?」
ラクティの意見は、竜としての立場的には当然のものだった。
人を第一に尊重する理由はなかった。
「特別、困ってはいない。火薬だけ抜いて金属部分は力で解体すればいい」
「それが妥当だけど、解体担当は誰なのよ?」
言った瞬間、残り二人がラクティを指差した。
「はぁー、それは出来るのは私だけでしょうね。でも、割とクタクタなの。昨日デパートの商品を直して、朝、襲撃されて、さっきこの部屋を綺麗にしたのは、全部、私よ」
思い切り溜め息を吐く。
「エネルギーの供給は行われている筈だ」
蒼が真顔で言う。
「燃料があれば良いという物ではないでしょ?」
精神疲労も考慮して欲しいという顔だった。
「どちらにしても解体が妥当だと判断する。この手の制御出来ない爆発火器は使い道が限定されすぎる」
蒼が尚も真顔で言う。
「意外に鬼ね。分かったわよっ、要するに玉抜いて解体すればいいんでしょっ、はいはい、やりますよっ!」
自棄気味に喚いて、部屋の隅に置かれたミサイル群に向き合う。
兵器の知識は無いが、どこが爆発する部分かくらいは分かった。
その部分を詩を使って分解して取り外して行く。
気が立っている分、相当荒い作業だった。
「……」
達彦は爆発しないか、冷や冷やしながらその様子を見守った。
しかし、ラクティの詩の扱いは完璧で、荒い作業でも特に問題なくミサイルは無効化されて行った。
十分弱で爆発しない物に変わり、その後、三分で大きな金属の固まりが出来上がる。
「これは窓から爆発跡に捨てるから、地下から出てきた事にすれば、勝手に片付けてくれるでしょうし」
言うや否や窓から約二百キロの金属体を投げ捨てる。
ドスンとかなりの音がして、危険テープに囲まれた爆発跡にそれが落下した。
見た目はとても適当に捨てたように見えたが、ラクティはちゃんと人がいない事を確認しつつ、金属物体が地下から出て来た事に記憶操作も行っていた。
「爆発成分は分解して混ぜておいたから、まぁ、無害よ」
素晴らしい手際だった。
「おー」
達彦と蒼は思わずパチパチと拍手してしまう。
「――さて、やっと今日の本題に移れるわね。私は蒼に詩を教えるから、達彦は買い物にでも行って来て」
「何の買い物だ? お前のパンツとかか?」
緊急にデパートから避難したので、ラクティは着の身着のままの状況だ。
「殺すわよっ!」
足下にあったクッションを蹴り飛ばして、達彦に命中させる。
「そんなの蒼のを借りるわよ。夕食の材料よ、材料っ、リストは書いてあげるから、それを買って来なさいっ」
「りょ、了解」
殺されたら困るので頷いておく。
「じゃ、まずリストね。はい、書く物っ」
「はいはい」
メモ用紙と鉛筆を手渡す。
ラクティがさらさらと材料を書き込んで、達彦に渡す。
「ワインは、多分そこらのお店には無いと思うけど、あったらお願い。間違っても五百円ワインとか買って来ないように」
メモに書かれたワインの名前は、正直、全く知らない銘柄だった。
「という事は、無かったら要らない訳ではないんだな?」
「最悪2005年のボルドーもので、そういえば、酒屋なら適当な品を出して来るから」
「分かった」
「買い物から戻ってくるまでは、深いリンクはしないで待っているから、早く戻って来なさいよ」
「分かったよ、なら、行ってくる、蒼、ラクティのおもりは頼んだぞ」
「了解した」
「おもりされる側は私じゃないわよっ! さっさと行って来なさいっ!」
もう一つあったクッションを蹴り飛ばして達彦に命中させた。
達彦はラクティの所行は無視して、財布と鍵をポケットに入れて買い物に出かけた。

『誰の指示だ?』
少し怒った様子で、碕峰修司が電話をしていた。
達彦達が居たデパート前の通り、デパートを見上げている。
『本部だと? ――分かった。こちらで確認する』
通話を終える。
「こちらの準備はまだ掛かるというのに、誰がこんな凝った仕掛けを……」
呟き、登録してある番号を探り、また通話を開始した。

「ただいま」
達彦が重い荷物を持って帰還する。
ラクティが示した材料を全て揃えた結果、調味料などのボトル物もかなりあったため、そこそこの量になっていた。
「お帰り」
蒼が玄関まで出迎えに出た。
「凄い荷物だな」
「ああ、おそらく、この先使われる事は無いだろうと思われる調味料の類が大量だ」
「そんな事もないわよ? この先は、例えどうなっても、私が偶に料理を作りに来てあげるから」
ラクティが蒼の後ろから顔を出した。
「凄くどうでも良い話だな」
「どうでも良くないわよ。それでワインはあった?」
「酒屋にはあったが、お前、十万もするワインが飲めるかっ」
「あら、シャトー・オー・ブリオン・○ージュが売っているなんて洒落た店ね。で、買って来なかったという事よね? 何を勧められたの?」
「いきなり五千円クラスまで落ちたが、これを勧められた」
答えて、紙袋を開けて中身をラクティに渡す。
「ふーん、シャトー・デ・ゼ○ンスの2005年ね、まあ、こんな物でしょ」
「なんか、こう、お前がワインの銘柄を口にして洒落た風に振る舞うのを見ていると、何とも言えない負けた気持ちになるんだが」
「気のせいよ。残りの食材は冷蔵庫に入れておいて、調味料はキッチンの棚にお願い」
「全く、ここは誰の家だ」
達彦はぶつぶつ言いながら玄関から上がり、ラクティの指示に従った。
「なら、私達は蒼の部屋で良い事するから、覗いたら駄目よっ!」
達彦がちゃんと材料をしまうのを確認してから、ラクティは蒼を連れて、蒼の部屋に入り扉を閉めた。
「まぁ、あいつ等の裸を見ても仕方ないし、夜までゲームでもするか」
テレビの前に陣取りゲームを始めた。

その日の山内家の食卓は、山内家始まって以来の豪華さだった。
ラクティのうんちくを聞き流せば、料理のレベルは最高クラスで、食べたのが達彦と蒼で無ければ、絶賛を惜しまなかった事だろう。
しかし、食べたのは達彦と蒼。
結果的に、食後ラクティはむくれていた。

「貴方達、本当は味覚ないんじゃない?」
「甘いと辛いくらいは分かるぞ」
蒼が呟く。
「典型的な貧乏舌ね。まぁ、いいわ、これから徐々に鍛えてあげる」
「余計なお世話だ」
達彦が言い放つ。
「いいのよ、これは私の趣味、趣味に口出しされる覚えはないわ」
「お、凄い論理だ」
少し感心してしまう。
「とにかく、覚悟していなさい」
言って、ワインを一気に煽る。
「――はぁっ。じゃ、今朝の反省と明日の話でもするわよ」
ブドウ臭い息を吐いてから、急に真面目な口調になる。
「唐突だな」
「私の中では、今が最良のタイミングなの」
「はいはい。で、今朝の話って?」
一応、達彦は聞く体勢を作った。
「あの大量召喚は、デパート全体に仕掛けを作らないと無理な筈なのに、私が全く気付く事が出来なかったの。正直、これ以上の失態は無いわ」
「お前のテリトリーだった筈だよな?」
「ええ。で、向こうに残っているドール達に調べさせたの。遠隔操作出来るギリギリの距離だけど、大体の事は分かったわ、朝、動いていた掃除ロボットがあったの、覚えている?」
「ああ」
技術の進歩を感心した物体だ。
「あの機械に細工がしてあった様子なの、床を掃除するついでに召喚の詩編を床に埋め込んでいたみたい。それで、全フロア一斉大量召喚を可能にしたの」
「それは気付かないな」
掃除ロボットが稼働しているところを見てから、マネキンの大量出現まで三十分も無かった。
「本当なら、ロボットに仕込みがある段階で私が気付く筈だけど。その部分の隠蔽は完璧だったわ。それに、霧を固めた実体がないドールと言っても、あれだけ 大量に呼び出すには、私でも半日は空っぽになるくらいの力を消耗する。でも、その割に、私達へのダメージは少ない作戦なの」
「何でそんな効率の悪い事をしたのか、分からないと?」
「そう」
ラクティが疑問顔で頷く。
確かに、考えてみると達彦達が受けたダメージは、実質無いに等しい。
ラクティの帰る所が無くなったが、永遠と召喚され続けるとは思えないので、それは、そのうちに解決する話だ。
直ぐさま、こちらに大ダメージという作戦でも無いのに、相手の消耗はかなりのものだと言う。
そんな事をする理由があるのか全く理解出来なかった。
「考えられるとすれば、私達がデパートにいると、困る何らかの理由があるって事かしらね」
「デパートのオーナーは相当困っていただろうな、記憶に無いとしても、実害として」
「そんなのはどうでもいい事よ。私が住んであげているの。――ともかく言いたい事は、敵の狙いが読めないという事。だから、次に何が起きるか予想出来ないから、注意しておかないとならないわ」
「ラクティに言われるまでもない、私は絶えず注意している」
蒼が鋭い目つきで言う。
「念のための話よ。それで、明日だけど二人はどうするつもり?」
「私は学校に行く、制服とランドセルが失われたのが痛いが、夏服はスペアがあるし、ランドセルの中身は何とかする」
「ランドセルの中身って事は、俺がやった宿題は無駄になったって事か……」
微妙に悲しい。
「あれは、別に失われてはいないわよ、ドールが保管しているから。でも、いま取りに行くのは自殺行為ね。召喚の詩編の効果はまだ発動しているから」
「そんな事まで分かるのか?」
理解感覚を超えた範囲の事まで分かるというのは、達彦には驚きだった。
「私とドールは繋がっているから、ある程度はね。距離が離れているから相当、大雑把だけど」
「その状態で、明日デパートが開いて平気なのか?」
もし、マネキンが大量召喚されたらパニックどころの話ではない。
「それは平気よ、私達が出て行った後、マネキン達は消えて行ったでしょ? 基本的に『竜』に対してしか反応しないみたいだから、人間が入って来ても無反応よ」
「なら、安心だな」
「別にどうでも良いけどね。まぁ、あの場所で大きな騒ぎが起こるのは、住んでいる立場としては困るから、丁度良いとは思うけど」
「何にしてもランドセルは回収可能と言うことだな、助かる。一時なら教科書を借りるくらいは出来るからな」
「蒼は、本当に学校に行くつもりなの?」
ラクティが呆れ顔になる。
「当然だ、そう約束している。さっきも美佑からメールが来たし」
「今、何が起こるか分からないから注意していて、って話をしたと思うけど?」
「ああ、注意して学校に行く」
「――そう」
諦めたような顔になり、
「なら、私も付いて行くわ」
「――なに?」
思わず聞き返した。
「だから、私も学校に行くわ、蒼一人じゃ不安過ぎる」
「本気か?」
「ええ」
「いや、待てよ。お前さ自分の姿分かっているのか?」
達彦が突っ込む。
「年齢は良いとしても、銀髪碧眼だぞ、どうみても外人だろ。それが日本の日本人学校にいきなり転入はまずない」
あるとしたら留学生くらいだが、小学校でそういう話はあまり聞かない。
「そうね、でも、適当に設定作るから、流石に『最初から居た』という記憶改変は無理があるから、ハーフって事にでもするわ」
「ハーフって、誰の子供になる気だ?」
悪い予感がした。
「貴方よ」
ラクティが達彦を指差す。
「他に適当な第三者を探している暇無いし、保護者なしでの小学校転入は無理があるでしょ?」
「待て待て待て待て、俺は設定上、蒼のお父さんだぞ。蒼はどうみても日本人だ。何で外人の子がもう一人いるんだよっ」
「腹違いって事にしたら?」
強烈な事をサラっと言う。
「いきなりバツ二かよ」
蒼の母親とは離婚した設定になっている。
その上でさらに外人の妻と離婚した設定を追加するという話になってしまう。
「別に別れてなくても、妻だけ単身で海外で働いているとか、そういうのでもありよ」
「それだと日本人の奥さんと離縁して外人と結婚した上に、その相手は子を残して海外に行っているという、相当特殊な設定になるよな?」
日本という国で、その特殊な設定は噂の種になる事は間違いなかった。
「なら、しがらみ無くバツ二という事で。大丈夫よ、私と蒼は割と顔似ているし」
ラクティが蒼と並んでシレッと言う。
確かに、似ているのは似ていた。黙っていれば上品な口元は特に同じだ。
髪の色と目の色がまるで違う事を除けば、姉妹といえない事もない。
「ありなのか……それで」
半ば諦め気味に呟いた。
やる気になっているラクティを止めるのは正直無理だと思った。
「ありよ。偽装書類を本物だと思わせる記憶操作だけで転入は可能でしょ。以前から手続きしていた事にすれば、明日からすぐ学校に行っても問題ないしね」
「……以前からという事は」
蒼が考える顔をする。
「すでに制服が届いている状態での転入という形が普通だろ? 私の時はいきなりだったから、少しの間、学校が用意したサイズの合わない物を着ていたが」
「そういう事になるのかも知れないわね。なら、私服で行って記憶操作で誤魔化すか、当日学校で備品を手に入れてサイズを合わせてしまうか、そんな感じね」
「私の制服を詩でコピーしたりは出来ないのか?」
「詩について、その辺の説明がまだだったわね、修復と破壊は出来ても、創造はもの凄く難しいの、特に複雑な造形物はまず無理」
「どんな論理で? 割と複雑な物の修復も行えるだろ」
「簡単に言うと、修復は元の形を覚えている部品があるから可能なの。部品が完全消失している状態での修復は、創造と同じく、とても難しいわ」
「そういうものなのか……」
出来ないと言われたら、今は納得するしかなかった。
確かに考えてみれば、服が破れた時も、デパートでの商品破壊も、さらに家の修復も、元のパーツが残っていた。
「じゃ、私が明日、学校に行くという事で、保護者として達彦も付いて来なさいよ」
ラクティが話をまとめる。
「校長とかに凄い目で見られそうな気がするな……」
外人の妻までいたとは最近の若い者は……という目だ。
「私は気にしないわ。――なら今日は、もうお風呂に入って休みましょう」
「そうだな、達彦、焚いて来てくれ」
「また、俺か」
そう言いつつも、達彦は立ち上がってお風呂場に向かった。
ここ一年で、こき使われるのに慣れて来ている自分がいた。
「結局、お嬢様が二人に増えたというオチなのか……?」
執事としての苦労が倍になる覚悟を、達彦はその時したのだった。

4章.意思選択

月曜の朝、達彦は二人の形態的少女を伴って、徒歩二十分の所にある私立小学校に向かっていた。
一人はその学校の制服を着ているが、もう一人は、どう見ても学校に行くスタイルとは思えない衣装を着込んでいた。
「蒼用に持って帰った服があって助かったわ、サイズ、ほぼ同じだし」
くるりと回って言う。
全身真っ白のフリルに覆われた半袖ワンピースだ。
白のタイツを履いているので、靴以外は完全に白一色。
銀髪と合わせて、本当にお人形のような姿だった。
「お前さ……メチャメチャ目立つとか、考えいるか?」
「目立って悪いの? どうせ着いたら制服に着替える事になるのでしょ? だったら、とりあえずインパクトよ」
「どんな『とりあえず』だ」
達彦とラクティが会話を続ける横で、
「――ふむ」
蒼は携帯を眺めて歩いていた。
美佑とのやり取りだった。
「教科書ありがとう――送信」
打ち込んだメールを口に出す。
現在手元にない教科書類を授業中に見せてもらう話を、承諾してもらった。
不発弾のごたごたで家に忘れたまま取りに帰れないという設定にした。
実際、マンション住人の正式な帰還が始まるのは今日の夕方からだった。
――ピロリン
すぐに返信がある。
「『ううん、全然平気だよ』――そうか、じゃ――今日はきっと驚く事があるよ――送信」
ラクティの事を含めてメールを送信した。
一応、ラクティと姉妹という設定で行く以上、美佑にあらかじめ伝えていないのは友達として不自然だと思ったからだ。
――ピロリン
「『なにかなぁ? 今は聞いたらダメな事?』――ああ、ダメだ、楽しみは学校で、それじゃ――送信」
区切りのメールを送って携帯を、ランドセルの代わりの手提げにしまう。
顔を上げて辺りに注意を払うと、そろそろ同じ学校の生徒の密度が上がる位置に来ていた。
「蒼」
達彦からの問い掛け。
「なに?」
「俺とラクティは職員室に寄って教室に行くから、ラクティが同じクラスになるようにするってさ」
「分かった。なら、私は先に教室に行っている」
「そうしてくれ」
「蒼ー、私が来るってクラスの子達には秘密にしておいてね、こういうのはサプライズだから」
「サプライズは英語なんだな」
冷静に突っ込む。
「それはどうでもいいの、とにかく黙っていてね」
「分かった」
すでに一人には伝えた後だが、それくらい構わないだろうと思った。
それから、しばらく歩いて達彦達は小学校に到着して、それぞれ別れた。

蒼が教室に着いて五分程で、美佑がやって来た。
「蒼ちゃん、おはよう、大変だったね」
「ああ、おはよう」
美佑の席は蒼の隣だった。
「制服は持ち出せたんだ?」
「まぁ、着替えとか、その辺は何とか大丈夫だった」
「なら、まだ良かったよね。暑いから着替えとか無いと大変だし」
「そうだな」
竜は、その気になれば生理現象の全てをストップ出来る。
ただ、今の蒼はその気になっていないので、暑いと着替えが欲しいのは事実だった。
「あっ、二人ともおはよう」
そこに、悠美香が入り口から挨拶する。
そのまま自分の席にランドセルを置いて、蒼の席の横に立つ。
「おはよう、悠美香ちゃん」
「おはよう、悠美香」
「うん。蒼、大変だったね」
「ああ、別に大した事じゃないから問題ない」
大変と言えば不発弾の事しかない。
「やっぱり蒼はクールだね、全然、動じた様子がないし」
「そうだよねぇ、悠美香ちゃんもそう思う? 私も」
二人して、蒼が平常でいる事を褒める。
「あれくらい……三百年前の欧州に比べたら……」
ボソッと呟く。
「なに? 何か言った?」
「いや、こちらの話だ」
「そっ。――で、爆発した後に一回は戻ったんでしょ? どうだったの?」
「単に敷地内に爆発跡があるだけだ」
「蒼ー。感想がクールすぎ、もっとこう、何か無いの? 木っ端みじんに何か壊れたとか」
悠美香が肩を落として言う。
「木っ端みじんか……ああ、窓ガラスは大半が粉々に砕けていたな」
「それ、大丈夫だったの?」
美佑が心配そうに言う。
「別に問題ない、南側の窓のある部屋に入れなかっただけだ」
昨日、家に戻った時の状況を嘘の無い範囲で答える。
「それって、今、修繕中なの?」
「多分な……業者が勝手に入る許可を全ての住人から取ったらしい」
マンションの管理会社の対応は、住人である達彦には伝わっていた。
ただ、達彦達が自室に戻っている事を誰も知らないだけだ。
「ふーん。復旧はいつ頃なの?」
「今日の夕方らしい」
「なら、丁度学校が終わったくらいになるかもね」
「そうだな」
実際、いつ復旧しても、蒼にはどうでもよかった。
仕掛けた側にいる身として、みんなを騙している事が、少しだけ心にチクチクした。
軽く視線を二人から逸らすと、
「おはよう御座います、みなさま」
丁度、さくらが教室に入って来る。
「おはよう、さくらちゃん」
「おはよう」
二人が挨拶する。
「おはよう、さくら」
蒼は『また嘘を吐くのか』と思ってしまい、少しトーンの落ちた挨拶をした。
「爆発、大変だったでしょ? 蒼ちゃん、疲れたりはしませんか?」
さくらもランドセルを置いて、すぐに蒼の所に来た。
「いや、平気だ」
気持ちを切り替えて答える。
「そうですか? 少し元気が無いように感じたので」
「大丈夫だよ、蒼は、いわゆる剛胆だから」
悠美香が蒼の肩を叩いて言う。
「悠美香ちゃん、それは女の子に対しては、少し失礼な言い方ですよ?」
「そうなのか?」
「別に問題ない」
「蒼ちゃん、悠美香ちゃんを甘やかさないでください。嫌だと思ったら、指摘した方がいいですよ」
「嫌だとは思わない。そもそも、私はたおやかではないし」
「そうですか、なら良いのですが。――それで、事故はどうだったのですか?」
「今、二人に話していた。大した問題はない、今日中には戻れるみたいだ」
「なら良かったです。ところで、先程、職員室の前で小耳に挟んだのですが、転校生が来るらしいですよ」
さくらが少しだけ得意気な口調で言う。
自分が最初の情報提供者だと信じている顔だ。
「へー、普通、新学期開始に合わせるよね? 遅れたって事は遠くからの子?」
「あら、意外に鋭いですね。少し驚いてしまうのですが外国の方らしいです」
「わー、凄い、外人さんって事だよね」
美佑が大袈裟に驚く。
「……」
蒼としては自分のネタを取られてしまった形だった。
とは言っても、蒼が美佑に言った驚く事と、転校生の話は美佑の中では繋がっていない様子だった。
「蒼ちゃんは、驚かないのですね?」
「いや、そういう事もあるだろう」
適当に答える。
ここで、全てをばらしてしまっては、ラクティに悪かった。
漏れてしまった事は仕方ないとしてもだ。
「無いだろ、普通。相当、珍しいと思うけど?」
「ええ、付属の中学なら交換留学がありますが、こちらに外国の方が転入となると初めての事だと思います」
「だよね。でも、どうして外国人学校に行かないで、うちなのかな? 実は単に外国生まれの日本人だったりして」
「それは期待外れで嫌だなぁ、私は、綺麗な子が転入して来たら良いと思う」
「どうでしょうね。職員室は随分とざわめいていましたよ。多分、中にいらっしゃったのだと思います」
「……」
その様子を想像すると、とても可哀相な事に達彦がなっている図が浮かんだ。
「でもでも、学年によるよね。六年とかだと私達全然関係ないし」
「そうですね。願わくは四年に」
「うん、四年に来てくれたら、違うクラスでも様子を見に行けるから」
「……」
盛り上がる三人に対して、無口な蒼。
滅多にない感情だが、本当は喋りたくてウズウズしていた。
「あっ、そろそろ、ホームルームが始まりますね。――では席に戻ります」
さくらが教室の壁に掛かる時計を見て言う。
丁度その時、予鈴が鳴る。
「私も戻るね」
悠美香も席に戻った。
「蒼ちゃんは、転校生、気にならないの?」
二人が戻った後、美佑が聞く。
「今はノーコメントだ」
喋りたいが喋れない以上、必要以上の会話は避けたかった。
「今は?」
「きっと、すぐに分かる」
蒼は美佑から視線を外し、少しだけ理解感覚を拡げて、ラクティの位置を探った。
もう、間近に来ていた。
「んー、変な蒼ちゃん」
そんな蒼を見て、美佑は呟いた。

「説明は分かりましたか? ラクティさん」
「ええ」
「でしたら、私が呼んだら入って来てください」
「分かりました」
蒼達の教室の前の廊下で、ラクティと蒼達の担任の女教師が立ち止まる。
ラクティは制服に着替えて、長い銀髪を普段の蒼と同じくツインに結んでいた。
スッと背筋を伸ばして落ち着いた表情をしている様は、そこらのタレントを完全に超える綺麗さと可愛さを備えていた。
担任が教室の扉を開けて中に入った。
廊下まではっきり聞こえる――起立、礼、おはようごさいます、着席――の声の後、転校生が来る事が告げられる。
教室がざわめきに満ちる。
「では、入って来てください」
担任の合図が聞こえた。
「はい」
柔らかなトーンで返事をして、扉を開けて中に入った。
全員視線がラクティに集まる。
そして、ほぼ全員が息を飲んだ。
その後、
『ちょっと……凄くない……?』
『じ、次元が違う』
ヒソヒソ声が響く。
そんな様子を気にとめる事なく、ラクティは教壇の担任の横に立った。
「はじめまして、ラクティ・ラ・キアラ・山内-オーディアールと言います。フランスから両親の都合で、こちらに転入となりました。日本は初めてなので慣れない事で失敗とか、してしまうかも知れませんが、よろしくお願い致します」
微笑んだ後、スカートの裾を摘んでお辞儀する。
当然だが完全な日本語で、とても小四とは思えない落ち着き方だった。


先に緩いウェーブの掛かったツインの銀髪がサラサラと揺れた。
フワッと甘い香りが漂う。
「皆さんラクティさんが困った事があれば色々と教えてあげるように。それと、今の自己紹介で気付いた人も多いと思いますが、このクラスの山内蒼さんとは姉妹の関係です。では、席は、蒼さんの左隣を」
「はい」
ラクティが蒼の左隣に座る。
その場所が何故か空いている事は、仕込み済みの結果だった。
右隣は美佑が座っている。
「おい、キャラが違わないか?」
蒼が思わず小声で突っ込んだ。
「そう? 普段通りよ」
しれっとした顔で言う。
「…………」
あくまで猫を被る気なのだろう。
そう思うと、何も言うことは無かった。
「ねぇ、蒼ちゃん、これが驚く事だったの?」
右から美佑が聞いて来る。
「あ、ああ」
蒼すら、違う意味で驚いてしまった。
「休み時間に紹介してね」
「ああ」
ホームルームの後は、そのまま一時限目の授業だった。
「……休み時間が思いやられる」
相当な不安を抱えて、蒼は授業の準備をした。
教科書は美佑から借りるので、一応持って来たノートと筆記具を出すだけだが。

「さて、俺はどうするかな……」
ラクティの転入手続きを終え職員室から出た所で、達彦は思う。
一昨日の警告の手紙の事がずっと気になっていた。
実際、警告より一日早くデパートが襲撃されたが、それで全てが終わったとは思えない。
デパートでの事は、ラクティが分析したように意図が不明なのだ。
本番の攻撃が、この先ある事は予測出来た。
手紙が告げた事が、本番の攻撃日だとしたら、今日はとても危険な日だという事だった。
「ここで警戒するにしても、居る所がないな……」
学校という所は、部外者がゆっくりする所が無い施設だ。
大学なら違うが、小学校ではなおさらだった。
近くに付属の大学があるにはあるが敷地は違っていた。
「トイレに潜伏とかは、完全に変質者だし……」
とりあえずフラフラと廊下を進む。
各教室は授業が始まり、静かなものだった。
「うーん、屋上にでも行ってみるか」
人気の無い場所となると、限られていた。
階段を昇り屋上を目指す。
小学校くらいだと屋上への扉には、保安上ほぼ鍵が掛かっているが、鍵を捻り壊す事くらいは、達彦の力でも出来た。
扉の前まで昇って来る。
小さな踊り場があって、そこに扉があった。
「なんか、思い出すな……」
蒼と初めて出会ったのは、学校の屋上だった。
扉には予想通り鍵が掛かっていた。
仕方ないので、力を入れて中の引っ掛かりを捻切って開ける。
「あとでラクティに修理でも頼んでおくか」
開いた扉の先にコンクリートの屋上の床が広がる。
そこに背から真っ赤な器官を生やした竜がいた。
「な、なに!?」
達彦の理解感覚では屋上は誰もいない場所だった。
「来ましたね、――では、後は運命のままに」
器官側が達彦に向いているので顔は分からない。
ただ、たおやかな女性の声だった。服装もスカートを穿いていた。
「これは試練だと思ってください」
真っ赤な器官が大きく広がる。
どこか機械的で複雑な構造の器官で、大きさも蒼の倍以上あった。
器官サイズと形が竜の力を決める事から考えると、明らかに並の存在ではない。
「お前は誰だっ!? 何の事を言っているっ!?」
叫ぶ。
「今はお知らせ出来ません。――それでは」
真っ赤な器官が半透明に変わり発光する。
同時に周囲の光景が灰色に変わる。
空も建物も遠くの景色も全てが、灰色一色に変化した。
その中で赤透明に光る器官がさらに目立ち、そして消失した。
「なっ!?」
本当に一瞬の事だった。
屋上に居た筈の存在は、瞬間的にかき消えていた。
「ちっ、とにかく、何か始まるのは間違いないなっ!」
達彦は状況確認の為に理解感覚を最大に広げた。
しかし、その感覚は半径百五十メートル以上先に伸びず、断ち切られる。
「これは……」
その半径百五十メートル内を詳しく探査する。
すると、学校を中心に綺麗に球体閉鎖空間が出来上がっていた。
百五十メートル以上先が存在しないのである。
地下と上空にも境界が存在して、それ以上先に意識を飛ばす事が出来なかった。
「この範囲の人間を全員巻き込むつもりか!?」
ざっと意識しただけでも五百人は人間がいた。
その中で異質な気配は、今のところ蒼とラクティしかない。
敵だと断定出来る気配は存在しなかった。
「速攻で仕掛けてはこないのか? なら――」
まず、二人と合流する必要があると判断した。
蒼とラクティは、とても近くに居た。
同じクラスにいるという事だろう。
二人を意識すると、すぐにラクティの記憶操作の波動が感知出来た。
百五十メートル範囲内の人間の記憶を強力に書き換えて行く。
どんな内容の書き換えかまでは分からないが、この状態でパニックが起きないようにするのは、相当に無理な書き換えがいる。
ラクティの消耗が気になった。
「一階の教室だな、なら――」
達彦は屋上のフェンスを跳び越え、そのまま校庭に落下した。
そこから走り、すぐに蒼達の教室の前に到着する。
「達彦っ!!」
蒼が器官を背から出して、窓から飛び出して来る。
「やってくれるわねっ!!」
ラクティが同じく器官を出して続いた。
その手に何故かサラマンダーを持っている。
「二人とも、この状況をどう思う?」
校庭に立って周囲を見渡す。
完全に灰色に塗り潰された異様な空間だが、相変わらず敵の存在は感知出来ない。
「私達がいる学校を中心している特殊空間という事は、何かの罠にはまったと考えるべきかしら? これは確実にこの後私達が不利になるわよ」
ラクティが冷静に状況を判断する。
「そうだな」
達彦はさっき会った竜の事を告げるか迷った。
「ところで、お前達、俺たち以外の竜を感知したか?」
軽く確かめる。
もし、知らないようなら告げない方が良い気がした。
「いいえ」
「いや」
「そうか」
「どうして、そんな事を聞くの?」
「これだけ大規模な力の発動を人間が出来るのかと、思ってな」
適当に誤魔化す。
「術者が複数いるか、仕込みがあれば可能よ」
「じゃ、仕込みを破壊すればこの状態を変えられるって事か?」
「理屈ではね。何かあるかも知れないから空間の端まで行ってみる? この空間から出られるかも確かめる必要があるし」
「そうだな」
「ああ」
閉鎖空間の端は校舎を中心に南側は校庭の端を円形に走っていた。
北側は、学校外の道路を巻き込んでいるが、そこに人の気配はない。
三人は校庭の端に向かった。
「ここが境界ね」
見た目には何もない。
ただ、全てが灰色になっているだけだ。
「石でも投げてみるか」
達彦が適当に石を拾って、境界と思われる場所に投げた。
ブニっと空気に石がめり込む。そして、多少の反発があり下に落ちる。
空気がスポンジのような弾力を持って周りを取り囲んでいる感じだった。
「これは下手に触れない方がよさそうね」
「その方が無難だ」
蒼が言う。
触れて竜だけがダメージを受ける仕掛けがあっても困る。
簡単には出られないという事が分かれば良かった。
「うーん、特に目立つ仕掛けも無いみたいね」
ラクティが数メートル範囲を見て回って言う。
「ああ」
達彦的に仕掛けが簡単に見付かるとは思っていなかった。
仮に仕掛けがあるとしても、簡単に壊せないようにするだろう。
しかし、何も無いのでは、何も出来ないという事でもあった。
「さて、どうする?」
「考えなくても、きっと敵が何か仕掛けてくるわよ。閉じ込めるだけって事はないと思うし」
ラクティがジタバタしても仕方ないという風に言う。
「なら、先に聞いておく、学校の人間に掛けた記憶操作はどういう物だ? まるで騒ぎが起きない所をみると相当な物だろ?」
「私が許可した物以外を認識しない記憶操作をしているわ。現在進行中よ」
「それは、どう考えても消耗が激しいだろ?」
「なら、貴方が代わる? この状態でパニックが起きてウロチョロされる方が迷惑よ」
ラクティが睨むような視線を向ける。
考え無しの事を言わないでと、目が言っていた。
「うっ、そうだな、すまん。今は頑張ってくれ」
自分の浅い考えを詫びる。
「言われなくても維持するわよ」
「私が代わられたら良かったのだがな……」
「蒼が気にする事ではないわ。あっ、背中の破れ直しておいてあげる」
ラクティが蒼の背中に手を回す。
器官の出現で破れていた制服があっさり直り、制服から器官が生えているように見える形になる。
ラクティの背中の部分は、達彦が見た時には直っていた。
「女の子は、どんな時でも身だしなみが大切よ」
そう言って、蒼に笑いかけた時。
ラクティのお腹部分の制服が横に裂けた。
薄くお腹の皮膚表面も切れて血が滲む。
「えっ!?」
咄嗟に身構えるが、攻撃して来た相手の気配も攻撃ポイントも全く分からない。
すぐに残りの二人にも攻撃が届く。
「くっ」
達彦の右腕に浅い切り傷が走った。
何か来ると察していても、当たる瞬間まで全くの気配がない。
当たってから身を捻り、傷が深くならないようにするのが精一杯だった。
「これはっ」
蒼も同じく避けきれず、ニーソごと右太股が浅く切れた。
血が滲むが、すぐにプレートを出して止血した。先に切られたラクティもお腹にプレートを出して貼り付けた。
間を置かずに、次の一撃が三人を襲う。
「卑怯な攻撃ねっ!」
ラクティが攻撃して来ている相手を罵る。
避けようと思っても、攻撃の発生ポイントが身体に近い位置らしく、ほぼ為す術無く切られてしまう。
新たな傷が三人に一カ所ずつ付いた。
「これは、俺がキツイな」
達彦は二撃目で背中を切られた。
十五センチ程の傷からすぐに血が滲む。
止血を簡単に出来ない達彦が一番ヤバイ状態になる。
浅い傷でも何カ所も傷付けば命に関わる。
「二人で庇うから、ひとまず校舎に入って。――走るわよっ!」
校舎に入れば、少なくても壁を背に出来るという判断だ。
それに建物内なら、仮に誰かが狙いを付けている攻撃なら、攻撃に変化が出るだろうし、相手の位置を見極めやすい。
「ああっ」
「分かった」
ラクティの合図で三人同時に駆け出す。
蒼とラクティの二人で達彦を挟む。
走っている最中に三撃目が三人に命中する。
「くうっ!」
狙いは正確だった。達彦は足を攻撃され、走っているが故に避けきれず深い傷が出来る。
「止まらず走ってっ!」
「分かってる」
傷は痛んだが、それを無視して昇降口から校舎に転がり込む。
そのまま下駄箱の影に身を潜める。
「……」
下駄箱に背を預けて、数秒動かず攻撃の持続を確かめる。
「…………大丈夫そうかしら?」
「どうだろうな」
「この間に達彦に治療をっ」
蒼がラクティを急かす。
達彦の傷からは血が流れ続けていた。
特に足に負った最後の一撃の傷が深い。
「そうね……貴方の力の波動は蒼経由で分かっているから、少し手を繋いで」
「ああ」
ラクティと手を繋ぐ。
すると即座に身体全体をラクティの気配が駆け巡るのを感じた。
同時に傷が素早く塞がった。
「終わり――でも、そう何度も出来ないから、貴方はもっと障害物がある場所……例えば、用具室とかに隠れていて」
「お前達は?」
「当然、敵を探すわ」
「とにかく敵を見付けないと話にならない」
ラクティと蒼が言い切る。
「しかし、完全に隠れているぞ、俺の感覚でも何も分からない」
達彦は攻撃されている時から、理解感覚を全開にしていたが、敵の位置も攻撃の発動タイミングもまるで分からなかった。
敵のあらゆる気配が完全に消えていた。
「この空間自体にそういう細工があるのでしょ、元々、隠れて行動するタイプのせこい敵みたいだし」
灰色に変わった世界を見渡して、憎々しげに言い放つ。
と――。
「そう言われる事には慣れていますよ、お三方」
碕峰修司の声が昇降口に響いた。
しかし、当然のように姿も気配も無い。
「隠れたままの登場なんてマナー違反よっ」
「これが作戦ですから。ところで、その出来損ないの竜を庇うのですね、ではその点を利用させて頂きます」
声と同時に、
「くっ!!」
達彦の両太股が裂けた。
空気の流れで何か物体が接近して攻撃して来ている事は分かった。
しかし、どこからどういう角度で攻撃されているのか分からないのでは、避けようがない。
「達彦っ!」
蒼が背の器官を広げて、その中に達彦を隠す。
「大丈夫だ、自分を庇えっ!」
達彦が叫ぶ。
器官を背中側に回した場合、蒼本体に何の防御も無くなる。
「ええ、まさにその通りですよっ」
すぐに次の攻撃が放たれた。
「っ!!」
蒼の右腕と左足に裂傷が発生する。
すぐに傷を覆う形でプレートを発生させるが、あくまで止血しか出来ない。
プレートの硬さは背中の器官程はなく、同じ所に攻撃があればプレートごと切られてしまうだろう。
「さぁ、どうしますか? 素直に捕まってくれますか? 分かっていると思いますが今は手加減していますよ? もっと致命的な部分を狙う事も出来ますから」
修司の声には余裕が溢れていた。
絶対的な自信があるという様子だ。
「なら、さっさとやりなさいよ、こんな卑怯な真似しか出来ない臆病者っ!」
ラクティが蒼を庇う位置に器官を広げて言う。
「庇い合いですか?」
「ラクティっ、私はいいっ」
「貴方を庇う訳じゃないわ。すぐに私の前に出て貴方の剣を構えなさい、私が達彦をガードしておくから」
「何をする気だ?」
意味の分からない指示だった。
「いいからっ!」
ラクティの強い口調に押されて、達彦を庇うのをラクティに任せ、蒼は腕に白いプレート状の剣を出して前に出た。
「何をする気ですか? 何をしても無駄ですよっ」
即座に次の攻撃が発生する。
「蒼っ、右下に斬りつけてっ!」
合わせてラクティの指示。
「!!」
ラクティを信じて、指示された位置を高速で剣で薙ぐ。
ギンッ!!
激しい金属音が響き、何も無かった場所からリング状の金属辺が切断された形で出現して床に転がった。
リングの直径は二十センチ程で、外周がカミソリのように薄くなっていた。
「円月輪か」
達彦の知識の中での近い武器はそれだった。
「なっ!」
修司が息を飲んだのが伝わる。
「あら? 動揺かしら?」
ラクティが優位を示すようにやりと笑う。
制服のお腹が破れた部分も、いつの間にかに直していた。
「偶然だっ!」
再び攻撃が発生する。
「正面真っ直ぐっ」
「分かった!」
蒼は指示通りに剣を振り下ろした。
再び金属音が響き、床に切断された円月輪が転がった。
「攻撃は見切ったわよ」
「察したという事ですか、だが、これならっ」
「だからっ?」
修司を煽るように言う。次の攻撃はすぐに来た。
ラクティは、攻撃に狙いが定まっている事から、攻撃に対して修司の意思が関与していると読んだ。
だとすれば、武器を遠隔操作している可能性が高い。
元々、人形を使う相手だと考えると、そう判断するのが順当だとも言えた。
ならば、ラクティは自らドールを使う時の事を考えた。
使用者がドールや武器を使う瞬間、武器と使用者の繋がりが出来る。
その繋がりは気配とは違い、同じ人形遣いだから分かる物と意識の繋がりだった。
それを糸――とラクティは呼んでいた。
「そう来るのね」
その糸が今度は五つ同時に使われた。
口頭での指示では間に合わないと思い、血を飲ませた繋がりを使い、蒼の身体に触れて瞬時に意識を伝える。
『左上方防御、剣で右下から正面に切り上げてっ』
「よしっ!!」
伝えられた通りに蒼は動く、剣に二回の手応えを感じ、左に広げた器官で三つの攻撃を弾いた。
二つの円月輪が床に転がる。
「一度に使えるのはたった五つかしら? 大した事ない能力ね」
ラクティが見積もる蒼の身体能力なら、器官で弾ける分も含めて三十個程度は捌けると見込んでいた。
「もう勝ったつもりですか? 派手な戦闘は貴方達の為に避けたかったのですが仕方ありませんね」
修司が告げた。
ラクティは相手の糸の感覚に全神経を向けた。
修司が派手な攻撃を仕掛けてくるのを待っていたのだ。
円月輪に繋がっている糸は細いが、派手な攻撃をしようとすれば糸の数が増えるか、糸が太くなる。
それは、どちらにしても、その糸の元を探り易くなるという事だった。
『蒼、大きな攻撃が来ると思うけど、詩を使って防御して、出来る?』
『ああ』
『なら、お願い、但し高さ二メートル以上には展開しないで』
『分かった』
蒼との意思の疎通を済ませ、攻撃の瞬間を待つ。
「さぁ、これで終わりですっ」
修司が攻撃を発した。
『蒼っ!』
「光壁防御展開っ!」
器官表層に光る障壁を張り巡らす。
「起動っ、サラマンダー・ランス・クー!」
同時にラクティが持っていたサラマンダーを宙に放り上げた。
器官が薄桃色に光る。
サラマンダーは高く浮いた途端に、元々の物理容量を無視して長さ三メートルはある馬上槍へと変形した。
鍔に緻密な模様が彫られた優美な槍だ。
その槍がスパークを纏い、蒼が張った防御壁の上から神速で放たれる。
直後、
「!!」
蒼の防御壁に幾筋もの太刀筋が走り、光壁面に火花が散る。
修司が使う見えないドールによる直接攻撃だった。
ラクティの感じた数は全十体。
それらが一気に蒼達に斬りかかって来ていた。
防御壁で一撃は弾いたが、無限に弾ける訳ではない。
二撃目が振り下ろされようとした時、
「あがっ?!!!」
修司の呻きが響き、見えないドール達の動きが止まる。
糸を探っていたラクティには、ドールに繋がっていた糸が切れたのが感じられた。
「当たったようね……っ」
ラクティが呟く。
その途端によろめいて片膝をつく。
「ラクティ!?」
後ろで庇って貰っていた達彦が、横に屈み顔を覗き込む。
「少し、消耗しただけよ」
ラクティの顔色は青くなっていた。
「あそこ、槍が宙に浮いて血が……」
蒼が昇降口から通じる廊下の方を指差す。
宙に浮いたランスに血が滴っていた。
「……サラマンダー、戻って」
ラクティの声に合わせてランスが、元の縫いぐるみのサラマンダーの姿になり、今まで見せた事の無い素早さで、ラクティの元に戻る。
付いていた筈の血は綺麗に無くなっていた。
「くっ……やりますね……糸をたどったという事ですか? 大きな攻撃をさせる為に私を煽って」
修司が苦しげな声で言う。
依然、姿を消しているが『いる』と思われる場所の下には、血溜まりが出来はじめていた。
「だとしたら? 全ての糸が切れてしまったようだけど? どうするつもり?」
「……貴方達を捕獲する目的に、変化はありませんよ」
「そう」
ラクティは修司の姿が消えたままの事が気になっていた。
糸が切れるくらい集中出来ていない筈なのに、姿が見えないというのは、修司やドールを消す事に修司の力は使われていないと思って間違いない。
姿を消す作用は確実に特殊空間による物だろう。その上で空間の維持に必要な筈の力が、どのような形に補充されているのか、それが謎だった。
元々、一人の人間の力で維持出来る規模ではないとは思っていたが、全く関係が無いという可能性が強まった。
「ところで、何故、この空間を作り出したか……分かりますか?」
「コソコソ隠れるためでしょ?」
相手の問いに合わせて、念のための探りを入れる。
「それも一つはあります。ですが、もう一つの方が重要なのですよ、まぁ、分からずに終わる方が良いのですが」
喋りながら、床に溜まった血の跡が消えて行く。
「逃げる気?」
「いえ、戦略的一時撤退です。それでは、またしばらく後に――」
血が完全に消えた。
周囲に糸がある感じもない。
「本当に逃げるとはね。っ……ぁ、はぁ、はぁ……」
ラクティの青い顔が、さらに青くなり息も荒くなる。
「おい、大丈夫か?」
達彦がラクティの肩に触れて言う。
「場の維持が辛いだけよ……」
「なら、一旦、私が代わる」
「蒼に出来るの?」
「景色を気にせず授業時間がずっと続いていると思う記憶操作をする。少しの間なら、それで誤魔化せる」
要は教室から生徒が出てこなければ、大体の事は何とか出来た。
運良く校庭で体育の授業は行われていない。
授業が続いていると思わせれば、小一時間くらいは生徒を教室に閉じ込める事が可能だろう。
「分かったわ……じゃ、お願い……」
ラクティが弱々しく漏らすと薄い桃色の器官が背中に飲み込まれて行った。
「ともかく休んだ方がいい、保健室にでも。――ほら、おぶってやるから」
達彦がラクティの前に出て背中を示す。
「平気よ……」
片膝を付いた姿勢から立ち上がろうとする。
が、途端によろめき、
「ラクティっ」
蒼に支えられる。
ラクティの顔は本当に真っ青だった。
「ほら、無理するな」
自らの背中をぽんぽんと叩いてアピールする。
「…………」
ラクティは無言で、達彦の背中に身を預けた。
「よし、蒼、保健室はどっちだ?」
しっかりとラクティを背負ってから立ち上がる。
「こっち、すぐそこ」

学校の保健室が一階にない例は、まず無い。
その例に漏れず保健室は一階の昇降口のすぐ近くにあった。
保健室に着き、まず、保険の先生に『用事がある』という記憶操作をして、保健室から出て貰って、その後ラクティをベッドに寝かせた。
「別に大した事はないわ、広範囲に記憶操作しながら、大出力で攻撃したから疲れただけ、要するに息切れよ息切れ」
手を振ってみせるが、顔色は優れないままだった。
「今はとにかく休め、敵も一旦退いているしな」
「私の予想では援軍を呼ぶと思うわ……手応えから言って、腹に風穴が開いている筈だから、コア持ちでも、すぐに何とかしないと死ぬだろうし」
「まて、風穴が開いても助かる相手なのか?」
普通即死の筈だった。
「奴らのコアは心臓の代わりにもなって、首だけでも一時間程度なら生存出来る身体になるの」
「どんな技術だ……」
人の常識としては考えられない話だった。
「リエグと呼ばれた過去の国の技術よ。でも、本来のコアの力は、それ単独でも生命と同等クラス。真コアなら、コアだけになっても、そこから全身再生が出来る程のものだから」
「恐ろしい話だな」
ベリテッドの母胎――クレイドルが、リエグという国の力の欲している話は、前に聞いた。
生命すら作れる力なら、それを欲しいという大きな存在が居ても当然な気がした。
「まぁ、話が逸れたわ、援軍が来る前にこちらも立て直さないと、――とにかく、記憶操作を持続しながらの戦いでは分が悪すぎるから、何とかしないと」
「そうだな……」
「学校の敷地から出ず、尚かつ、私達と景色の変化を無視するようにするだけなら、持続させなくても、下校時刻までは引っ張れると思うが」
蒼が思案顔で言う。
「そうね、これ以上この空間に変化が無いなら、持続は切って、一度の記憶操作で誤魔化せない事もないかも知れないわね」
ラクティが持続型にしたのは、閉鎖空間が予期せぬ変化をした時に対応出来ないと思ったからだった。
ただ、敵の出方を見る限り、空間自体の大きな変化は無い気がした。
「どの道、持続は切らないと、持たない」
「分かったわ、なら、景色と私達を気にしないように操作して、そうね……体育館に立ち入り禁止にするのはどう? 校庭に出るなというのは無理があるけど、体育館なら工事中とか色々あるし、その上で、体育館で敵を迎え撃つ」
「それはいいアイデアだな」
ラクティの案に達彦は感心する。
頭の回転が、おそらく三人の中では一番速かった。
「いいと思う、それで行こう。リミットは下校時刻までだ」
蒼が時計を見ると、午前九時半過ぎだった。
まだ下校時間までたっぷりあるが、
「ただ、先生方には、お昼まで長引くようなら、出前を取らせたり、外食に行ったりするのを止めないとね」
ラクティが言う。
「それは問題ない。私でも出来る範囲の事だ」
蒼が自分の胸に手を当てて言う。
「なら、記憶操作の話はこれで解決。敵は体育館に誘い込むとして、どうやって確実に位置を特定するかね」
「ラクティは、どうしてさっき特定出来たんだ?」
蒼には全く分からなかった。
「ドールを操っている力の流れをたぐっただけ、もっとも、大きな攻撃をしてくれないと、流れが細すぎて駄目だったけど」
「気配とは違う、何かがあると?」
気配を追ったのでは、自分の感覚をどんなに研ぎ澄ましても、敵の位置を察する事が出来なかった。
「そうね、人形遣いなら分かるのだけど……人形や操る道具に糸を付けて、それを経由して動かしていると思って、その糸に気配はないけど、糸として存在している感じがあるの、変な言い方だけど、感じ方だから伝えにくいわ」
「何となくは分かる」
無機物に気配はない。
だから、糸に気配はないが、そこにある力の流れに何かを感じるという事なのだろう。
「どのみち、私しか分からないから、あまり意味がない話よ。それより、多分この空間を壊した方が早いわ」
「何か方法を思い付いたのか?」
「ええ、この空間の維持にさっきの奴は、おそらく関係していないわ。私的には維持に使われている力は、すでに溜めてある物を使っていると判断するわ」
「なぜ?」
「蒼はこの規模の特殊空間を維持するのに、何人いると思う?」
「十人程度」
「それだけの人員を割いて、中に突っ込んで来るのがたった一人というのは変よ。だとしたら、仲間がいても少数。そして、空間の維持には関わっていないと見るわ。少数で維持出来るものではないからね」
「だから、溜め込んである力で自動発動という事か?」
「ええ、多分、この空間のすぐ外側に何かを仕掛けてあるのだと思うわ。おそらく人に埋め込めなかった劣化コアを」
「それなら納得だ」
「まっ、素直に納得って事もないけど」
ラクティが小声で呟く。
「何だ?」
「何でもないわ、今は関係ない話だから。それで、外の仕掛けだけど『ある』と仮定した上で今後の行動を決めていい?」
「ああ」
「問題ない」
達彦と蒼が同意する。
実際、ラクティが考えている以上の事を、考え付く事が出来なかったので、同意は当然だった。
「同意ありがとう。じゃまず結論から言うと、私は戦力外になるわ。蒼には私のガードを全力でして欲しい、後、達彦には逃げ回っているか、隠れていて欲しい。向こうは気配とか分からないから」
「分かった。その状態でラクティが何かをするという事だな」
「ええ、私は人形遣いよ。外から何らかの使役物体を使って仕掛けを壊してみるわ」
「そんな事が出来るのか?」
蒼には完全に閉鎖されている空間だという認識だった。
空間出現後すぐに試したが、携帯も圏外になっていた。
「無理ではないわ。少し考えてみて、今、不思議な事が一つない? この部屋、エアコンが動いているし、明かりもついているでしょ? 色はないけど」
「そういえば」
言われるまで、他の異常に気を取られて気付かなかった。
エアコンや明かりが点くという事は、電気が来ているという事だ。
「この空間、電波すら弾いているけど、最初から物理的に繋がっている物は切ってないのよ、多分、水道も出るわ」
「そうだとして、何の役に?」
「簡単よ、私の意識をそれらに伝わらせて外に出すの。金属の線とか管なら意識を流すのは容易よ。で、外で何か適当に動く物を使役して仕掛けを壊すわ」
「それは、凄い集中が必要な事だろ?」
「ええ、詩は使えないし、動けないし、器官で簡単な防御はするけど、半無防備なようなものよ。だから、その間、蒼に守りをお願いしたいの」
「それは出来るとは思うが、自信は無いぞ。その状態では、私に敵の攻撃の位置を伝える事も出来なくなるのだろ?」
そんな余裕があるとは思えなかった。
「そうね。でも、相手が対策を取る前なら、少しだけ姿を捉える方法がある気がするの」
「どんな方法だ?」
「答えは光よ。何故、この空間内の色が消えたと思う? 色は物質が反射する光の波長なの。黄色の波長を反射しやすい物質が黄色に見えるだけ、つまり、この 空間は、光の波長を都合良く吸収と反射をして、全てを灰色にしているの、その力で姿の方は消しているのだと思うわ」
「……お前、頭いいな」
達彦は素直に関心してしまった。
昔、物理で習った事がある内容だったが、そんなものはすっかり忘れいた。
「褒められる程の事じゃないわ、色が消えた段階でハインド系の攻撃かも、と思っていたのに対策が取れなかったし。――それで対策だけど、一波長だけの強力な光を当てれば、敵がいる場所に何か異常が見られると思うわ」
嫌味がなく謙遜する。
「そこを攻撃すれば良い訳だな?」
「ええ、お願い蒼。体育館なら暗幕もあるから、上手く他の光も遮断出来ると思うし、おそらく可能よ」
「分かった、作戦は了解した」
「じゃ、準備よ。体育館はどっち?」
ラクティがベッドが上体を起こす。
「もういいのか?」
達彦が聞く。
「良くなくても時間ないでしょ? 敵がいつ戻ってくるか分からないのだし」
顔色は幾分元に戻っていたが、まだ苦しそうではあった。
「――そうだな」
まだ寝ていろとは言えなかった。
今はラクティに頼るしかない。
達彦は悪いと思う。
そして、何も出来ない自分がとても不甲斐なく思えた。
「そんな顔しないで、いま動けるのが私だというだけよ」
小声で言って微笑み、ラクティがベッドから出る。
「蒼、体育館に案内して。――達彦も来て、体育倉庫あたりに隠れると良いと思うわ」
「分かった、こっちだ」
二人が保健室から出る。
「……せめて、足手まといは避けないとな」
ラクティの好意に甘える訳では無かったが、実質、甘えるしかない状況であり、すぐに二人を追った。

体育館に着いた三人は、まず全てのカーテンを閉めた。
学芸会などを想定して暗幕カーテンが完備されていたので、閉めた後は真っ暗に近い状態になる。
その後、天井のライトに詩編で細工をしてから点灯した。
そして最後に、コンセントから銅線を引っ張りだして、そこから電線を経由して、
外に意識が伝わるかを試した。

「――うん、これなら何とかなりそう。適当に使役出来そうな物体を見付けてみるわ」
ラクティが絶縁処理をしたコードの端を持って瞳を閉じて言う。
「頼む、出来れば早めに」
蒼が真剣な顔で言う。
「頑張ってはみるわ、防御は任せたわよ」
「ああ」
「俺は隠れているだけでいいのか?」
手持ち無沙汰な達彦だった。
「そうなるわね、一応、この子を預けておくわ」
サラマンダーを、ぽいっと投げて達彦に寄越す。
「その子を持って念じれば私に伝わるから、何かあったら言って、携帯を受けている暇ないし」
「分かった」
抱き留めたサラマンダーを見遣る。
つぶらな瞳がクルッと達彦を見た。
基本的に動かないし、ラクティが命じた時以外は完全に縫いぐるみをやっているが、瞳には間違いなく知性が宿っている光があった。
「大事にしないと酷いからね。――じゃ、早めに隠れておいて」
「ああ」
達彦は体育館内の倉庫部分に向かった。
「――さて、蒼、最終確認よ。おそらく最初の一撃は突然だから開始全力防御で、その後ライトを切り替えて対応して」
「――分かった」
答えて蒼は器官を広げた。
「敵を倒せるようなら私を無視して倒して、私も器官を出しているから最低限の防御力はあるし」
「ああ」
「なら作戦開始。集中するわね」
ラクティが片膝を付いて瞳を閉じる。
その器官が淡く桜色に光る。
「了解、こちらも始める――光壁防御展開」
器官に光る障壁を張り巡らせ、自分とラクティを守るように広げる。
手の甲からプレート剣も出して周囲を警戒する。
修司はその内にこの場所に目星を付けるだろう。気配を読む事が出来ないとは言え、こちらが学校から出られない以上、他の場所に居なければ絞り込みは容易だ。
体育館の扉は全て閉めたので、扉が開けば誰が侵入した事が分かるが、修司本人が扉を開けて攻めて来る可能性は低いだろう。
それは位置が特定されるだけの愚策でしかない。
「……どこから来る」
防御壁を展開して数分過ぎた頃。
『――こちらに居ましたか? 探しましたよ』
体育館の放送スピーカーから修司の声がした。
「近付いて来ない策か……」
予想の範疇だった。
何らかの方法で体育館を監視して、本人は放送室にでも居るのだろう。
『こちらとしては別にどこにいても関係ありません、降伏の意思があれば、そこから出てきてください、一分待ちます』
「つまり、外に何者か待機しているという事だな」
体育館の一階にあり、出入り口は二つある。
大きくは正面の入り口、もう一つは舞台側の裏手にある非常口だ。
非常口からはすぐ外に出られる構造で、正面の入り口は教室がある棟と屋根のある渡り廊下で繋がっている。
「しかし……」
一つ気になる事があった、それは声の主が修司だと言う事だ。
腹に風穴が空いて、別の人間にバトンタッチする可能性も考えたが、未だに指揮をとっている。
コアの力で持たせているにしても、声に弱っている様子はない。
「謎だが、どのみち今は」
何か引っ掛かるが、今は迫り来る敵への対処の方が先だった。
臨戦態勢を取ったまま一分が経過する。
『ふむ、降伏は無しという事ですか? では、手加減はいたしません』
スピーカーからの声。
直後。
正面の扉が開き、明らかに異常な空気の流れ体育館に巻き起こった。
そして、蒼の防御壁の表層で激しい爆発が発生した。
「くっ!!」
爆発の衝撃の全てを防御壁で吸収出来ず、器官に圧力が加わる。
巨大な砂袋で殴れたような重い一撃だった。
足を踏ん張り踏み留まる。
自分と背後のラクティをガードするように器官を広く開いているため、器官のプレートとプレートの間は、かなり空いている。
その部分を光壁で補っているが、防御面積を優先する分、全体の防御力は落ちていた。
実質、蒼の体力で防御するような策だった。
『一発で倒れる筈も無いでしょうから、次々行きます』
スピーカーからの声。
口調からして、完全にこちらの様子が見えている訳ではない感じだった。
だとしたら、ドールによる半自動判断攻撃というところだろう。
入り口が開いたのと同時に館内に散らばったと思って間違いない。
「そろそろか」
蒼は意識下で天井のライトの詩編を発動させる。
灰色の空間の中、天井のライトの全てが緑一色の光に切り替わった。
光の波長を吸収する空間の作用によって、館内全体の色味に変化は無いが、その中に数カ所、緑色の人型が浮かび上がった。
「成功だなっ!」
蒼は床を蹴って、一番近くに居た人型に斬り掛かった。
人型は避ける事なく真っ二つに切断された。
まだ、姿を晒したと気付いていない様子だった。
「行けるっ!」
修司に情報が伝わるまでの数秒が勝負だ。
まず、もっとも近くに居た右側のドールの足下に駆け、その勢いで横薙ぎにする。 そして、振り返るタイミングで、一瞬だけ剣を仕舞い、床を両手で弾いてやや後方上方に飛ぶ。
二メートルほど飛んで再び出した剣を、直下に居るドールに振り下ろす。
着地と同時に左に飛び、回し蹴りで別の一体の首を狙い、床に吹っ飛ばし、起き上がる前に頭を一突きする。
さらにバク転しながら身体を捻り、背後の一体に迫り、回転の勢いに剣を乗せて斬り裂いた。
数秒で五体が片付く。
灰色の人型は残り五体。
『なっ――策を講じた様子ですね。しかし』
状況が修司に伝わった様子だった。
そのタイムラグは約五秒。
「致命的だな」
ドール達が一斉に蒼に向けて攻撃を開始する。
人型の動きから判断して、対戦車ミサイルを構えたように見えた。
最初の爆発もそれだろう。
ミサイルが躊躇いなく五基発射される。
「いけるっ」
ミサイルは前方から三基、後方から二基。
蒼は前方から迫るミサイルに迷わず突っ込む。
「防壁展開っ!」
叫びながら、狙い正確に一つを切り落とす。起爆するが、その寸前にミサイル全体を球体の防御壁で包み込む。
爆発はその防御壁の内で収まる。
残り四基。
すぐ正面に迫った別のミサイルを正眼で切り裂く、二つに分かれた本体が蒼の左右に分かれ、起爆する。
「防壁展開っ」
爆発が広がる寸前に防御壁で押さえ込む。
残り三基は斬る間の無い間合い。
蒼は床を蹴って、飛び上がった。
前からのミサイル一基と、後ろから迫っていたミサイル二基が、蒼が退いた空間で鉢合わせる。
激しい爆発が起こる前に、
「防壁展開っ」
三基を防御壁で包み込み、その中で爆発させる。
そして、その防御壁を足場に空中で飛び、前方三体のドールに迫る。
「はっ!」
一体を着地と同時に真っ二つにして、その右に居た二体を連続で横薙ぎする。
そのまま後方にジャンプ、着地して低姿勢ダッシュ――残り二体のドールを次々と斬り裂いてしまう。
「――終了」
息を吐き、プレート剣を一振りする。
五秒後――。
『全滅してしまいましたか……』
「隠れてないで、出てきたら?」
聞こえているか分からないが、言ってみる。
『次の手は、あまり使いたくなかったのですが、仕方ありませんね』
「……」
まだ何か仕掛けるつもりらしい。
蒼は周囲を警戒した。
開け放たれた入り口の側で、人型がチラっと動く。
しかし、それだけで襲って来る様子はなく消えてしまう。
「この場から離れた……?」
入り口まで走り、周囲を確かめる。
渡り廊下側の照明はあらかじめ消してある。
体育館から漏れる明かりによって照られる灰色の光景の中に緑の影はない。
「まさか!? ――光壁防御展開」
場を包囲していた相手が逃げ出すパターンは、概ね一つしかない。
器官に防御壁を展開し、急いで達彦の元に駆ける。
「達彦、そこからすぐに出ろっ!」
倉庫に向かって叫ぶ。
「何かあったのか!?」
「いいから早くしろっ!」
怒鳴ってラクティの側に向かう。
「ラクティ、一旦中止だ。ここから今すぐ出るぞ」
「――待って、もう少しだから」
目を閉じているラクティが、そのまま答える。
「そんな場合じゃないっ」
ラクティの手を取り、無理矢理その場から離そうとする。
「駄目よっ、離して、蒼っ!」
「ラクティっ!!」
「おい、何なんだ!?」
そこに達彦がやってくる。
「もうっ、達彦こっちっ!!」
蒼が達彦の腕を掴んで引き寄せる。
「な、なんだ!?」
焦る達彦を無視して、達彦を抱き締め、自分と前方のラクティを囲むように器官を広げた。
その瞬間、強烈な爆音と衝撃波が体育館を包んだ。
「!!!」
器官に凄まじいインパクトを感じた。
吹き飛ばされそうになるが踏ん張る。
プレートの隙間から見える光景が一瞬で粉塵で曇った。
直後、もう一度爆音。
グググググっと不気味な音が館内に響き、また爆発。
器官に硬い物が何個もぶつかる。
「崩れるっ!」
崩壊は避けられないと思った。二人を守る体勢のまま姿勢を低くする。
壁がメキメキと音を立てて崩れ、支えを失った天井が一気に崩落する。
梁の鉄骨、屋根板、照明、そういった物全てが崩れた壁と一緒に蒼にのし掛かる。
耳をつんざく轟音と地震と変わらない揺れ。
「くっぁっ!!!」
器官に支えきれない重み掛かり、詩編防壁ごとプレートがひしゃげる。
「蒼っ!!」
蒼の胸で達彦が叫ぶが、声が聞こえる状況ではなかった。
蒼の姿勢が崩れ、落下物と一緒に押し潰される。
当然、達彦とラクティも蒼の器官の下で崩落に巻き込まれた。
灰色の世界に灰色の粉塵と体育館の建材が降り注ぐ。
体育館はたった数秒で瓦礫の山と化した。

「――え!?」
校舎に響く爆発音とガラスを叩く衝撃波。
美佑は驚いてハッとした。
「な、なに!?」
クラス全体がざわめく。
地響きが教室を揺らす。
誰かが窓の外を指差した。
「た、体育館が!!」
「え――」
窓の外、体育館の方を見て絶句した。
あった筈の建物が完全に崩れ去っていた。
「何があったの……?」
おそらく何かの爆発で吹き飛んだのは分かった。
爆発といえば昨日の蒼のマンションの事を思い出す。
「え? 蒼ちゃん……?」
隣の席に座っていた筈の蒼の姿が無い事に気付く。
さらに、周囲の光景に色が付いていない事にも……。
「え、え? な、なに……一体……」
状況が把握出来ず混乱する。
「美佑、蒼は? それに景色がっ!?」
悠美香が駆け寄って来る。
「悠美香ちゃん、わ、分からないよっ、な、何が起きているのっ?」
「そんなの私にも分からない、と、とにかくおかしいよっ!」
「二人とも、落ち着いてくださいっ」
さくらが二人の側に来て言う。
クラス内に徐々に異常に気付く人間の数が増えて行く。
完全にパニック寸前だった。
蒼が施した記憶操作は、景色以外にあり得ないくらいの異常があれば薄まり、その後、もう一度操作しなければ掻き消えてしまう可能性があった。
一度異常を認識した脳が、忘れさせられていた別の異常にも気付いてしまうのだ。
その状況が蒼達のクラスだけでなく学校全体で起こっていた。
「みなさん、落ち着いてくださいっ、落ち着いて、先生の言うことを聞くように」
教師が震える声で言う。
説得力は無かった。
携帯を片手に他の教師と連絡を取る。
しばらく後、教室の放送スピーカーが鳴る。
『生徒の皆さん、落ち着いてください。とにかく、安全が確認されるまで教室から出ず、担任の先生の指示に従ってください』
それは初老の女性教頭の声だった。
声だけは平静を保っているように感じられるのは、歳の重みか。
『先生方は、そのまま教室に待機して生徒の安全を確保してください。状況が分かり次第、携帯の方に連絡する形とします。――以上です』
放送が終わる。
おそらく調査の為に何人かが体育館に向かうのだろう。
「い、一体、どうなるのかなぁ……」
美佑は胸の前でギュウと手を握り、不安に怯えた。

「作戦Dを使用する事になるとは……」
瓦礫の山を目にして修司が呟く。
その姿は、未だ他人には見えていないが、腹部に空いた筈の穴は無くなっていた。
「この中から探すのは大変ですね」
言いながらも、新たなドールに糸を繋ぎ、瓦礫内部の探索を始める。
「作業の間、人間達は眠ってもらいましょう」
予め仕込んでおいた間粒子転換法を発動させる。
学校内、全てのスピーカーから不思議な音が流れる。
体育館に向かって来ていた教師達の耳にも、その音が届く。
すると、すぐによろめき、そのまま床に倒れ込んでしまう。
音を聞いた全ての人間が、瞬時に眠りに落ちた。
「これで邪魔をされる事もない、外の処理は別部隊に任せるとして」
糸の先――ドール達が探る瓦礫の中に意識を飛ばす。
竜は存在しているだけで間粒子を消費している。
その時、周りの粒子の波動に一定の癖を残す。
その為、竜の存在は生きていれば、その癖を探査する事で特定出来た。
但し、竜が何もしていない時は、相当に近付かないと難しい。
埋まっている蒼達を探すために、癖の付いた間粒子を探す。
例えるならドールによるガイガーカウンタのような物だ。
「ん、ここか、――掘れ」
強い反応を感じて、その場を掘り進む。
瓦礫を何個も退けて行くと、その下に蒼の白い器官が見えた。
へし折れて血が流れているが、死んでいる様子はない。
「まぁ、竜がこの程度で死ぬはずもないですが」
「――ええ、そうね」
蒼の身体が下から押されるように持ち上がる。
「瓦礫、退かしてくれて、ありがとう」
瓦礫と蒼の隙間からラクティが現れた。
背の器官はしまわれている。
蒼の身体を優しい手つきで退けてから、埃を払いつつ立ち上がる。
ラクティは無傷だが、蒼は気絶している様子だった。
「近くにいるのは分かるわ、会話に応じて貰えるかしら?」
修司に対しての呼び掛け。
「ええ、構いませんよ」
修司は答えた。
この状況でラクティが攻撃に転じられる余裕は無いと判断したからだ。
「随分、派手な事をしてくれたけど、どうやって隠蔽するつもり?」
「欠陥構造物だった事にでもしますよ」
「それでも無理があるわよ。そうまでして、私達を捕獲したい理由は?」
「知っていると思いますよ? リエグの技術の解明の為です」
「嘘ね、竜とリエグに接点はあるけど、技術面での竜の干渉率は低いわ。それは居ないより居た方がいいだろうけど、それだけの理由で、急にここまで大掛かりな作戦を実施する筈がない」
「ふむ、なかなか鋭いですね。その点については、我々と一緒に来ていただければ分かります」
修司は相手には見えていない顔でニヤリと笑った。
「つまり、私達『竜』を欲する理由が別にあるって事ね。――それだけ分かれば充分よ」
「どういう意味ですか?」
「貴方を消しても、これで問題が無くなったという事よ」
「ハッ、面白い冗談です」
現状、二体の竜の片方を戦闘不能にしているのだ。
太い糸を使わなければ、位置を特定される可能性もない。
ジワジワとラクティを消耗させれば、こちらの勝ちだった。
「サラマンダー」
ラクティの声で、瓦礫から縫いぐるみが器用に出て来る。
「開始して、一気にやってしまうから」
縫いぐるみがコクンと頷く。
「さてと――」
瞬時にラクティの背に器官が広がる。
「何をするつもりですか?」
修司は自分の周りにドールを集め臨戦態勢を作った。
「――私の怒りを凍らせ、全てを貫く槍となれ、世界の真実を暴いた時、その槍が敵を撃ち滅ぼす」
ラクティは答えず朗々と唄う。
澄んだ声、しかし澄み切り過ぎて、氷のような冷たさをはらむ。
「真実よ我が眼前に――」
世界に色が戻った。
同時にラクティの器官が半透明化して薄桃色に光る。


「な、なに!?」
修司の姿も可視状態となる。
「狙いは、貴方――」
ラクティの手が流れるように修司を指し示す。
修司の四方に、いきなり五十近い数の氷で出来た槍が出現し、超高速で修司を狙い撃つ。
「っ!!」
修司は身構え周りに居たドール達を楯に使うが、槍はドールを簡単に貫き全ての槍が修司に命中した。
「凍結」
修司の身体が刺さった氷の槍ごと瞬間的に凍って行く。
「崩れて」
凍った部分から亀裂が入り、まるでガラスの小物が割れるように修司の身体は砕け散った。
破片の中に赤い宝石が一つ混じる。
それ以外のあらゆる人体のパーツは、完全に跡形残らず砂のようになって、瓦礫の上に積もった。
「完了。――全く面倒な事をしてくれて、閉鎖を解除するには、まだ少し掛かるじゃない」
ラクティはクルッと振り返り、寝かせた蒼を見た。

「ん――」
蒼は空気の流れを感じて目を覚ました。
「!? 敵はっ!」
すぐに状況を思い出して、俯せに横たわっている体勢から飛び起きようとするが、
「くっ、つうっっ!」
全身に痛みが走り、精々、顔を横にするのがやっとだった。
背中の器官はしまえる状況ではなく、棒菓子の束をまとめて折ったようになっていた。
「気が付いた? 起きるの待っていたの、達彦から力を貰って、それを私が活性化させて治すから」
ラクティが、その顔を覗き込む。
「え――敵は、どうなったんだ?」
「景色を見て気付かない? まだ閉鎖は解除してないけど」
「色が……」
周りの景色の色が戻っていた。
ラクティの作戦が成功したという事だろう。
さらに、敵も倒してしまった後の様子だ。
「――達彦、出番よ」
「あ、ああ」
ラクティの横に達彦が立つ。
「達彦……無事だったのか……」
「まぁ、お前のお陰で」
「いや。なら、良かった」
安堵する。
「――じゃ、キスするぞ」
達彦が顔を近付けて来る。
「う、うん」
蒼は自然に瞳を閉じた。
達彦の唇が自分の唇に触れた。
すぐに口を開き達彦の舌への愛撫を受け入れる。
「……んっ……」
身体が温かくなる。
エネルギーの充填行為なのだから、温かくなっても不自然な事はない。
だが、それとは別の……。
「――ん、これくらいだろう」
蒼が自分の気持ちについて思考していると、達彦がキスを終えた。
とりあえず、身体に損傷を負った事で失った力が回復するのを感じた。
「ここからは私の番ね」
ラクティが蒼の手を握る。
直ぐに傷の修復が始まる。
折れた器官が真っ直ぐに伸び、全身の細かい傷が塞がる。
ついでに、服の損傷と汚れも綺麗に直る。
「はい、終わり。手近に備蓄タンクがあって良かったわね」
「俺は石油か何かか?」
「似たようなものでしょ。――じゃ、私はちょっと閉鎖を解くから、蒼達は一応周囲を警戒しておいて」
達彦の突っ込みを無視して、サラマンダーを抱えて行こうとする。
閉鎖空間の端に向かう様子だった。
「この場の記憶操作とかはどうなっている? これだけの事になっているなら、解けている筈だ?」
蒼は気になった事を聞いた。
体育館が崩れる程の異常を認識しない程、強く操作した覚えは無かった。
「それは、敵が何とかしたみたい、いま騒ぎが起きてないでしょ」
答えて、ラクティは二人の近くから離れた。
二人がいる体育館跡から、空間の端までは三十メートル程だ。
「敵がか……」
蒼が瓦礫の上から、器官をしまいつつ身を起こす。
「もう平気なのか?」
「ああ、問題ない。――エネルギーありがとう」
「いや、俺の方こそ、庇ってもらって済まなかった」
「大した事じゃない、私はお前に保護義務があるからな」
「それ、普通逆だろ?」
「強い方が弱い方を守るだけの話だ」
「そうか――」
達彦が少しだけ寂しそうな顔をした。
だが直ぐに、
「まっ、精々、大切に守って貰いますか」
茶化すように言う。
「義務だと言っただろ、やれる範囲ではやる」
「任せるよ」
「ああ、任せられた。――では、私は辺りを警戒する。達彦は適当に休んでいてくれ」
瓦礫の山から跳躍して地面に降りる。
達彦がそれに続いた。
「分かった、その辺にいるよ」
「ああ、じゃ」
蒼は達彦から離れて校舎の方に向かった。
中の人間達が、どうなっているのか気になったからだ。
「気配的には、眠っているのか?」
一階の教室の窓から中の様子を伺う。
生徒達は、大体が机に突っ伏す形で眠っていた。
「ん、大丈夫そうだな」
その場で、目を閉じて校舎全体の気配を探る。
特に移動している気配は存在しなかった。
美佑達も無事である。
現状、誰も目覚めていないという事だろう。
「なら、ラクティの側で見張るか」
地面を蹴って、空間の端にいるラクティの所に向かった。

 *

達彦は体育館跡から離れて、昇降口の段差に座って校庭を眺めていた。
視界の端にラクティと蒼がいた。
「……」
一人、思う事があった。
閉鎖空間が出来た時に見た竜の事である。
その竜が言っていた試練が、もう終わったのか、それ以前に一体誰だったのか……。
「警戒はしておくべきだろうな」
閉鎖空間内のあらゆる気配に注意を払う。
問題は特別無い。
目視出来る範囲の問題も無い。
蒼がラクティの側に行って、何か話している様子だった。
「ラクティが居てくれて、ホント助かったよな……」
ラクティが閉鎖空間を解き放てば事が終わる。
どれだけ掛かるかは不明だが、ラクティの口調から想定して、丸一日も掛かったりはしないだろう。
「それまでの間、集中するか」
校内の気配に意識を集中させる。
動いている気配は一つもない。
しかし、一つの異変に気付く。
「ん?」
それは、ごく小さい異変。
気配一つ一つから、僅かずつ気配が漏れだしているのだ。
雫が一滴一滴垂れるように気配が漏れている。
「どういう事だ?」
漏れた気配は、ほんの僅かで注意していなければ気付かないレベル。
その漏れた気配が移動していた。
滴った水が溜まり、低い方に流れるような感じだ。
「……これは」
気配の流れ行く先は体育館跡だった。
「マズイっ!! 蒼っ!!! ラクティっ!!!」
大声で呼び掛ける。
声が届かない距離ではない。
「なにーっ?」
蒼の返事。
「体育館だっ、まだ何かあるぞっ!!!」
「分かったっ!!」
蒼がすぐに器官と手の甲から剣を出して体育館跡の方に駆けた。
達彦も同時に駆け出す。
即座に体育館跡まで戻り、周りを見渡す。
気配の集まるポイントには、一見、ただの瓦礫の山しかない。
「達彦、どうしたっ!?」
蒼が一歩遅れてやって来る。
「この場所に空間内の人間から少しずつ漏れ出した気配が集まって来ている」
「何かが力を集めているという事か?」
「そうなるだろうな」
「つまり、まだ、あいつが生きていると……?」
「ああ」
ラクティから聞いた話では、修司は完全凍結後に砕けたと聞いた。
そこから再生するとしたら……。
「コアか……」
思い付く事は一つだけだった。
「いや、クレイドルの技術で作ったコアで、コアからの再生が出来る筈なんて」
蒼は可能性を否定する。
昔、リエグで作られた本物と言われるコアなら、コアからの再生も可能だ。
しかし、クレイドルが作り出したコアでは、そこまでの事は出来ない。
だからこそ、クレイドルは真のリエグの技術が欲しいのだ。
「理屈はいい。力が集まっている事は事実だ、何とかしないと、今、ラクティは?」
達彦が言う。
「再び集中体勢に入っている、今は動けない」
「そうか、なら蒼がその辺りを攻撃してくれ、放置は出来ない」
達彦が瓦礫の一カ所を指差す。
「分かった」
達彦が指した部分の瓦礫に剣を突き立てる。
何とかするべきなのは確かだった。
先端を三十センチ程度差し込んで、
「燃体集合――リミット」
呟き、剣を抜いて場から離れる。
「達彦、もう少し離れろ、二秒くらいで吹っ飛ぶ」
「ああ」
二人で瓦礫から離れた直後、剣を突き立てた部分を中心に爆発が起きる。
直径五メートル程度の規模で、瓦礫の上部が吹き飛ぶ軽めの爆発だ。
「なにか潜んでいたなら、ダメージは行った筈だ」
「今、気配を探ってみている……」
爆発によって、集められていた気配は四散していた。
問題は解決したのかと思った時、ある一点に急速に気配が集まる。
「な、なにっ!?」
「これは!?」
爆発で大体平らになった瓦礫の上に、赤い宝石が浮かぶ。
その宝石を中心に四散した気配が再び集まり、人型が実体化して行く。
数秒の内に全身が出来上がり、服まで作られて、その場に修司が出現した。
「鋭い人がいるようですね? お陰で不意打ちとは行かなくなりました」
修司が瓦礫の上に立つ。
「そんな、どうやって再生を!?」
蒼の声は驚きで震えていた。
「気付きませんか、この空間を使ったのですよ。何のために大勢の人間を巻き込んだと思っていますか? 力を別けてもらう為です」
「人を喰ったのか……!?」
「ええ、あなた方と同じように」
口を歪めた醜い笑いをする。
「違うっ!!」
地を蹴って修司に斬り掛かる。
修司は蒼の攻撃を避けようとしなかった。
蒼の斬撃が修司を縦に真っ二つにする。
しかし、
一切の血も流れる事なく、斬られた部分が瞬時に接合されて行く。
「なっ!?」
「無駄ですよ」
修司の傷の再生速度はあり得ないものだった。
蒼の剣が抜けきらない内に傷が合わさり、蒼の剣が修司の身体から抜けなくなる。
力任せに引き抜こうとするが、実質、腕を捕まれた隙は大きかった。
「取ってあげますよ」
修司の声の後、蒼の右腕が肩の下の部分で円月輪によって切断された。
いつの間にかに、修司の周りに複数の円月輪が浮いていた。
「うっ!!!」
腕を抜こうとしていた力が行き場を失い、蒼は血飛沫を上げながら派手に尻餅を付いた。
左手で右腕の切断面を押さえ、止血プレートの形成をするが、腕一本の損傷ダメージは小さくは無い。
「出来れば、ここまではしたくなかったのですがね……」
自らの身体に残る蒼の手をプレート剣ごと抜き去り、その場に投げ捨てた。
身体が傷付く事に何のダメージも受けていない様子だった。
「再生されたこの身体は、完全に元の生身とは違います。まだ、戦うつもりがありますか?」
「当然だっ!」
右腕の付け根を押さえて立ち上がる。
痛みは相当だったが、傷は一カ所だ。足回りに支障はない。
「そうですか、では――」
修司が腕を指揮者のように振った。
「蒼っ! ラクティの方だっ!」
達彦が叫んだ時には、もう遅かった。
三十メートルほど先にいるラクティに対してドール達が斬り掛かっていた。
「蒼、ラクティのところまで退くぞっ!」
「分かった」
バックステップでジャンプして、三十メートルの距離を縮める。
「まとまってくれた方が、こちらとしても攻撃しやすい」
修司は余裕の構えで歩みを進め三人に近付く。
「ラクティっ!」
「蒼、ちゃんと防御しておきなさいよね」
ラクティが周囲のドールを蹴散らしながら言う。
一体一体に小さな氷の槍を突き刺し、そこから凍結させて砕く。
修司に使った詩編の簡易版のような攻撃だった。
「そんな場合じゃないっ」
「分かっているわよ、ただ、痛かったから文句を言っただけ」
ラクティの薄桃色の器官の表面に太刀傷による溝が付いていた。
「とにかく、この空間の解除を急いでくれ、あいつは、この空間と閉じ込めた人間を使って回復している」
蒼が状況を説明する。
「それって、人を魔竜のように食べているという事?」
「ああ」
「ふーん、それで最初の風穴も塞がっていたのね。でも、貴方一人で私をガードし切れるの? 腕、今すぐは戻せないわよ」
喋りながら、全てのドールを片付ける。
「やってみる」
腕の出血は止血完了した。
左手の甲からプレート剣を出す。
蒼は基本的には右利きだが、左で戦えない事もない。
状況によっては二刀流も使う。
その様子を見て、
「貴方には悪いけど無理ね、達彦もガードするのよ」
ラクティが言い放つ。
「無理って事は」
「いいえ、下がってっ」
強めに言い、蒼と達彦を自分の背中側に回した。
「――相手も本気っぽいし」
そして、ゆっくりと迫る修司を睨む。
「ええ、流石にここまでやられると、本気を出さない訳にも行きません」
修司が不気味に笑う。
「死ななきゃ本気を出さないとか、マゾ? 虐めて欲しいの?」
「死ぬとは思っていませんでしたから」
「そう、私を相手に殺されないと思っていた事が、私への侮辱ね」
睨む目を細くする。
「貴方の能力を低く見ていた事は、こちらの不手際です」
「なら、不手際のまま、もう一度死になさい。――氷槍形成」
空中に数十本の氷槍が浮く。
「好きに撃ち出してください」
修司に焦った様子はない。
「どれ程の再生力か試してあげるわっ、――貫けっ!」
全ての氷槍が修司の身体に突き刺さる。
修司は一切避けずに、その攻撃を受け止めた。
刺さった部分から修司の身体が凍り始める。
「さて――」
その事を意に介さないように呟き、瞳を閉じる。
すると、凍り付いた部分が見る見る溶けて元に戻って行く。
さらに、周囲に浮いた複数の円月輪がラクティを狙って飛来する。
「氷槍追尾っ!」
新たに氷の槍が生まれ、全てが円月輪と衝突して弾ける。
空中で氷の塊が出来て地に落ちた。
その中には砕けた円月輪の破片が入っていた。
「まだまだ行くわよ、――粒子運動値低下」
ラクティが呟くと、修司の身体の溶けたと思った部分が再び凍る。
「ふむ――」
修司が少しだけ閉じた瞼に力を籠めた。
すぐに凍り付いた部分が元に戻る。
一進一退だった。
「まだ頑張るのね」
ラクティが力を強めようとする。
しかし、
「いや、まてっ、ラクティっ!」
達彦が止める。
「何よ!?」
「あいつが身体を回復する度に、学校内の人間の気配が薄れて行っている。このままじゃ、全員消えるぞ」
「でしょうね、でも全員消えてくれたら、あいつの回復も出来なくなるわよ」
何の躊躇いも無く言い放つ。
「本気か?」
「当然よ、邪魔しないでっ! ――粒子運動値低下」
修司の身体の一部が再び凍り付く。
直後に学校内の人間の気配が薄くなる。
最初の気配総量からみた場合、五分の四程度になってしまっていた。
「このまま凍って砕けなさいっ!」
意識下で力を強める。
それに対抗する修司が、学校内から気配を集めて行く。
「ラクティっ!!」
蒼がラクティの前に立って、剣を突き付ける。
「貴方も止める気?」
とても面倒くさそうな目で蒼を見る。
「学校内の人間を見殺しにする気か?」
蒼の目は真剣だった。
「それは向こうに言って」
修司の方を見遣る。
「仲違いですか? 少しなら待ちますよ」
余裕の姿勢を見せる。
蒼が修司に向き直り、
「お前は、学校の人間を全て殺す気か?」
詰問する。
「迷う所ですね、あなた方次第とも言えますが、流石に全員を殺すのは後処理が大変というマイナス面もありますし」
「なら、どうする気だ?」
「そうですね、一人か二人なら消えてもらっても問題ないので、その形に、ひとまず切り替えましょう。全員から吸い続けて皆が病院送りより、一人に絞ってその方に死んで貰う方が処理が楽ですから」
「そんな結論か……」
蒼が押し黙る。
百人単位の原因不明衰弱と、一人や二人の原因不明の行方知れず。
情報を操作するとしたら、一人や二人を消す方が簡単だろう。
「割とまともな事を言うわね。なら、犠牲が少ない内に再生出来ないくらいに凍らせるのが、こちらとしては妥当な線ね」
ラクティが割ってはいる。
「後半は同意出来ませんが、大勢の人間の処理に困るのは、互いに事実でしょう? 私達も無駄な処理はしたくない」
「ええ」
二人の意見が一部とはいえ一致した。
「……」
そのやり取りを見ていて、達彦は自分の立ち位置が分からなくなった。
ラクティの発言は、竜の純粋な立ち位置からすれば当然の事だった。
元々、人を巻き込まないようにしているのは、自分達の存在を知られたくないだけ。
死人が出ないようにしているのも、人が死ぬと誤魔化しの処理が大変なだけ。
魔竜が人を喰らうのを止めるのも、魔竜が強くなった場合、脅威になるからだ。
人間の為に何かするという論理は、どこにもない。
結果として、人間の為になっている事象があるだけだ。
「では、その最初の一人を選別したいと思います」
「勝手に」
「分かりました。選別自体は私の意識下で出来る事ですから、もう、攻撃を開始しても構いませんよ」
「そう、分かったわ」
何事もないような会話で、一人の人間の死亡がほぼ確定してしまう。
ラクティが動きの止まった蒼より前に出て、瞳を閉じる。
「凍てつけっ!!」
力を強める。
「貴方の力が尽きるまでの下らないゲームですね」
修司の身体が凍り始め、すぐに修司の回復源対象となった人物の気配が激減して行く。
たった一人から力を吸っているのだから、消耗が激しいのは当然だ。
三十秒も持てば良い方だろう。
「これはっ!!」
達彦が顔を強ばらせる。
蒼も同じように驚愕し、
「ラクティっ!!!」
いきなりラクティの器官の片方に斬り掛かった。
「なっ!!」
器官が片方、根本付近から斬り落とされた。
出力の半分を一気に失い粒子のコントロールに失敗する。
指先が凍り付き、霜が二の腕まで這い上がる。
「ちっ! サラマンダー緊急制御っ!! 蒼っ、何をするのっ!!!?」
暴走しかかった力の制御をサラマンダーに回して、蒼を怒鳴りつける。
ラクティの足下に居たサラマンダーが、直立して眼前の修司を睨んだ。
修司が凍る早さに変化は無く、ラクティの腕の霜が消える。
「サラマンダーも止めてっ、さもないと斬るっ!!」
蒼が左の手の剣を構えサラマンダーを攻撃対象に入れる。
「正気っ!??」
ラクティが割って入る。
「止める気は無いと判断するっ!!」
蒼が一瞬も待てないという様子で、ラクティの制止をかわし、その足下に居るサラマンダーに低い姿勢から攻撃を繰り出す。
「だめっ!!!!!!!!!」
悲鳴のようなラクティの声。
プレート剣の先端がサラマンダーを捉える寸前、ラクティの残った器官が強く発光した。
「く――っ!!!」
次の瞬間、蒼の動きが完全に止まる。
低い体勢のまま、投げられた置物のように前に突っ伏す。
「っ、はぁ、はぁ……血による強制制御を使わせてもらったわ、先に手を出したのは、蒼なのだから、当然の対応よ……」
ラクティが呟く。
急に息切れして、油汗があり得ない量噴き出していた。
「ふ、ふざけるなっ、サラマンダーを止めろっ!! 止めてくれっ!!」
蒼が突っ伏した姿勢のまま喘ぐように叫ぶ。
目には涙が滲んでいた。
「ふざけているのはどっちよっ、黙っていてっ!」
サラマンダーを抱え上げて、修司に向き直る。
「凍らせて続けて、サラマンダー」
「なにか揉めているようですが、制御が変わらないのは流石ですよ」
修司が少しだけ苦しげな顔で言う。
一見、凍る事を止めるのに全ての力を使っているようにみえた。
そして、修司の喰らう一人目の気配が完全に消えた。
「っ……ぁ……ああああっ!!」
蒼の目が見開かれる。
「ちっ」
達彦が舌打ちする。
消えた気配の人物を達彦は知っていた。
もう一度確認するが、消え去った気配と似た気配はない。
間違いなく知っている気配が消えていた。
「み、美佑……くうぅぅぅっ!!!」
嗚咽と共に名を呼び、蒼が吠える。
消えた気配は美佑のものだった。
「達彦、確認にっ!! まだ、消えてないかも知れないっ!!」
動けない蒼が叫ぶ。
体内のラクティの血が、蒼の動きをほぼ止めていた。
「分かった」
達彦が校舎に走る。
修司の手出しは無かった。
その余裕は無いのだろう。
校舎に入り、気配の消えた教室を目指す。
「残っていてくれっ!」
気配を喰われた存在は基本的には消え去る。
魔竜が人を喰らった場合は『残念』が残るが、今回の場合は、どうなるのか推測出来なかった。
ただ、物理的に喰われた訳では無いので、まだ、肉体と意識が、その場に残っている可能性が高かった。
教室に突入する。
机に上半身を預けて眠る生徒群の中で、文字通り姿が薄れている女の子――美佑がいた。
「まずいっ!」
達彦は美佑を抱き上げた。
竜の概念では肉体を空間に止めているのは意識の力だ。
その意識の総量を気配として感じる事が出来る。
それが、ゼロに限りなく近かった。
少ない意識では、肉体の構成を止めておけず、身体が四散してしまう。
そうなれば残った意識の方も消える。
「一か八かか!」
達彦は自分の左小指の腹を噛み切った。
滲む血を美佑の口に含ませる。
竜の血なら、肉体の固定が可能かも知れない。
たとえ、一時だったとしても、今すぐ消えてしまうよりはマシだと判断した。
血を含んだ後、美佑の身体の薄れが元に戻り始める。
「行けるかっ!」
復活は無理だとしても、少しでも止まってくれる事を願う。
達彦の腕の中で美佑の身体が、何とか透けない程度まで戻る。
気配の流失もない。
「……良かった」
何とか消える寸前で止める事が出来た。
と――。
教室内の別の気配が一気に減り始める。
「ちっ!! あいつ狙ってやがるっ!!」
今度は悠美香だった。
明らかに蒼の交友関係を調べた上で、意図的に吸収対象を選んでいた。
「どうする!!? どうすればいいっ!!」
美佑を抱えたまま、悠美香の前に移動する。
ドンドンと減って行く気配を前にして、達彦は何も出来なかった。

「くっ……!!!!」
突っ伏した姿勢で、蒼は悠美香の気配が削られて行くのに気付いた。
怒りで全身が沸騰しそうだった。
眼前でラクティの凍結を防ぐ修司は、明らかに蒼の関係者を狙っていた。
このまま行けば次はさくらだろう。
「ふ、ふざけるなっ!! 動けっ!! 動けっ!! 私の身体っ!!!」
動かない拳を気持ちの中で握り締める。
動く奥歯を砕けるくらいに食い縛る。
体内のラクティの血が熱い。
「ぐぐぅぅ……っ!!!!」
自分の身体の支配権を握られているのが分かった。
その力の強さから、半器官とはいえラクティの全力だろう。
現在の蒼の総量と比べると格が違う量だった。
修司に対する力は全てサラマンダーが出している様子だ。
ラクティの全力に対抗するのは、理屈では完璧に無理だった。
「だからって――っ!!!」
理屈を曲げなくてはならない時もある。
「くっ、悠美香っ、さくらっ! 美佑っ!!!」
そして、今、理屈を曲げる理由もある。
悠美香の気配は刻々と減って行く。
諦められる筈がない。
「動けっ!! 動けっ!!! 動けっ!!!!」
半ば呪詛のように声を絞る。
ラクティの血が沸騰しているように熱い。
「動けぇぇっ!!!!!」
血の汗が本当に滲むのではないかという程に力む。
身体のあらゆる筋肉が蒼の意思に答えるために震えた。
「くぅぅぅぅぅっ!!!!」
意識下で握っていた左手の指が微かに動いた。
五本の指が徐々に握り締められて行く。
「くぬぅぅぅぅっ!!!!!!!」
有らん限りの気合いを込める。
奥歯がピシっと音を立てた。
こめかみにヘビがのたくったような血管が浮かぶ。
自分の血とラクティの血とのせめぎ合い。
目の前が白くなる。
何がなんだか分からなくなった時、左手が拳を作るところまで動く。
蒼は声にならない悲鳴を上げた。
「――!!!」
その瞬間、蒼の顔から表情が消え、背中の器官に変化が起きた。
蒼く半透明に輝き、プレート一枚一枚が付け根から分離する。
全てのプレートが宙に浮く形になり、大きさも一回り以上肥大する。
そのプレート群が、統制の取れた素早い動きで修司を捉えた。
「なにっ!?」
その蒼の変化に気付き、修司は一人に絞っていた力の吸収を多数に切り替えて、糸を繋げていた円月輪の全てを蒼に向けた。
咄嗟に危険だと本能的に悟った動きだった。
「遅いっ!!!」
蒼が立ち上がって叫ぶ。
同時に左手のプレート剣をしまっていた。
「あ、蒼っ!?」
ラクティは自分の支配力が、完全に無効化されている事に衝撃を受けた。
それどころか、蒼は自身の中にあるラクティの血を使って、ラクティ当人の動きを制御し始めていた。
「そ、そんな、出来る筈が……っ!!」
身体の制御が奪われて、片膝を付く。
「――切り裂けっ!!!」
分離したプレート群が修司に迫る。
そのプレート群に円月輪が空中で衝突する。
数十の円月輪が紙のように斬り裂かれた。
「!!!」
プレートの動きは、そこに円月輪があった事すら感じられないスムーズなもので、そのまま修司に直撃する。
「ぐっ、まだだっ!!」
何十枚ものプレートが身体中に突き刺さる。
修司は身体の再生力を限界まで高める。
一部凍っていた部分も含めて、刺さったプレートを無視して身体の再生が始まる。
「無駄だっ!!」
プレートがその場でドリルのように回転する。
「ぐはっ!!」
刺さった部分から、その部位がえぐり取られる。
修司の手足は、その動きで吹き飛び、胴体もグチャグチャに砕けた。
「殺してやるっ!!」
一本だけ、どこにも刺さってないプレートが残った頭を狙い、突き刺さる。
脳天から砕けた胴体までプレートが突き抜け、そこで爆発が起こる。
修司の頭が粉々に吹き飛んだ。
その破片の中に赤い宝石がある事も見逃さない。
爆風に乗って飛ぶその宝石を蒼は高速で追い、残った左手でキャッチした。
「終わり」
呟いた瞬間、左手が刺々しい鋼のガントレットのような物に変わり、その宝石を握り潰した。
開くとガントレットは元の手へと戻り、砕けた宝石が砂となって地に落ちた。
そして、表情の消えた顔で動きの止まったラクティに向き直る。
「…………っ!」
ラクティは、その視線を受け止めるしかなかった。
蒼の目は不思議と何も映していない。
闇の夜の湖面のような静かさだ。
そして、その静けさの中に背筋が凍るような冷たさが宿っていた。
「止めてと、言った筈、どうして攻撃を続けた?」
抑揚の無い、そして、恐ろしく温度の低い言葉の羅列。
プレートが蒼の四方に整然と浮遊する。

「あの場で、攻撃を止められる筈が……」
「なら、美佑が死ぬ事は? 気付かない筈がない」
「それは……気付いていたわよ、でも、そんな事に構っていられないでしょ」
「『そんな事?』」
「そうよ、私達は竜よ、人間を守る必要なんて、どこにもないわっ」
「分かった」
「そう、なら――」
ラクティは蒼に自分の理屈が通じたと思った。
竜なら当たり前の理屈だ。
「私は、お前を許さないっ!!」
分離したプレートの全てがラクティに対して向く。
「蒼っ!!? サラマンダー、絶対防御っ!!!」
声に合わせて足下にいたサラマンダーが一瞬で変形した。
動けないラクティを中心に半透明のドーム壁となる。
「無駄っ!!」
蒼のプレート群が空を飛び交い、四方からドームに突き立つ。
先端がドーム表層にめり込み、金属を削るような高い音が場に響く。
「サラマンダー耐えてっ、私が動けるようになるまでっ!!」
ラクティは、自分の血を利用して蒼が行っている逆制御を何とか遮断しようとする。
全て自分の血なのだから出来ない事は無い筈だったが、逆流して来る蒼の力の方が凄まじかった。
「あがくなっ!!!」
蒼が叫び、分離プレートに力を送る。
プレートが高周波振動を発し、耳をつんざくような音と共に、ドーム内にプレートの先が侵入する。
「くっ、サラマンダー、戻ってっ!!」
ラクティの声に合わせて、ドームが消失する。
代わりに傷だらけのサラマンダーが地面に落ちた。
障害が消えプレートがラクティを捉える。
「!!!」
貫かれると覚悟した時。
動かない身体に横から強い衝撃を感じた。
そのまま地面の上を転がる。
プレート群は大半がラクティが居た筈の地面に突き刺さった。
そして、何枚かが、
「大丈夫か……っ、ぐふっ!!!!」
「達彦っ!!」
ラクティの体側面に体当たりした達彦の背中に、深々と突き刺さっていた。
達彦が思い切り血を吐く。
プレートの先は達彦の胸から飛び出ていた。位置的に肺を貫いているだろう。
「――じゃまされた」
蒼がその様を見てゆっくりと呟いた。
「蒼っ!! いい加減、正気に戻りなさいっ!! 達彦は、貴方の想い人でしょっ!!」
ラクティが地面に転がったまま叫ぶ。
身体の自由は未だ戻らない。
「……」
蒼は何も答えず、分離プレートの制御を行う。
地面に刺さったプレートが抜け、達彦の身体を貫いたプレートも抜け、血を纏い宙に浮いた。
「あっ、馬鹿っ!!!」
「あがっ!!!」
背中に刺さったプレートが抜けた途端に、傷口から血が噴き出す。
さらに、むせるように血を吐き地面に突っ伏す。
「なんて事をするのっ!!!? 今、抜いたら死ぬのにっ!!!」
達彦の様子を完全には確認出来ないが、プレートが抜けたショックで気絶した様子だった。
いくら竜といえど、止血が出来ないままでは、あと少しの時間で手遅れとなるだろう。
「――お前を、ゆるさない」
蒼は無表情な顔で呪文のように呟き、プレートの狙いをラクティに定めた。
達彦の様子を完全に無視していた。
「蒼っ!!! 蒼っ!!!! 蒼っ!!!!!」
必死に名を呼ぶが、蒼の顔に表情は戻らない。
怒りに我を忘れ暴走していた。
「消えて」
無情な蒼の声。
プレートが四方からラクティに降り注ぐ。
動けない身体ではかわす事は出来ない。
「光壁展開っ!!」
詩で半透明の防御障壁を張るが、
ギンっ!!
障壁はプレートがぶつかった瞬間に光の屑となって砕け散る。
ほんの僅かに、プレートの進行速度を緩めたにしか過ぎなかった。
「っ!!」
プレートがラクティの身体を貫く。

 ――寸前。
「――え」
全てのプレートの動きが止まった。
服にはプレートの先が当たっている。
皮膚も少しくらいは切れている部分があるだろう。
しかし、それ以上にプレートは動かなかった。
その様は、まるで剣の檻に閉じ込められたような状況だが、元々、身体が動かないラクティからすれば充分に助かったといえた。
「――誰?」
蒼がゆっくりと問う。
第三者がいる気配が、突然、場にあった。
蒼が見遣る空間が歪む。
「久しぶりですね」
真紅の器官を広げた若い女性の竜が現れる。
事務的なツーピースのスーツを着て二十前後に見える。
栗色のショートヘアーで、整った顔に薄いメークが乗っていた。
「知らない」
「以前とは別の姿をとっていますから、前に会った時は村井七瀬を名乗っていました」
「七瀬?」
思考がまともではない蒼には、名を聞いてすぐに思い付く相手は居なかった。
「思い出してください。一年前に会った七瀬です」
「一年前? ……ああ、お前か、お前も邪魔する為に来たのか?」
「この竜を殺す邪魔をするという点では、イエスです」
ラクティを指して言う。
「なら、敵だ」
「いえ、貴方がこの竜を殺したいのは、友達を殺されたからでしょ? 友達を助ける方法をお教えしますから、殺すのをやめてください」
「なんだと?」
「今の状態まで覚醒した貴方なら可能です。この子を貴方の眷属へと変える事が――」
声に合わせて地面から一メートル程の高さに美佑が出現する。
横たわる姿勢でプカプカと浮いて、息はしていない。
単に肉体と僅かな意識の残滓が存在しているだけの状態だ。
「美佑……」
「やり方は貴方の身体が覚えている筈です。さぁ、この子を貴方の眷属に、それで貴方の最初の覚醒が完全になります」
「……やり方? 覚えている?」
身体が覚えていると言われて、思う事はなかった。
しかし、身体の記憶だというなら、頭で考えて分かる事ではない。
宙に浮く美佑に近付く。
「私が知っている?」
「ええ、この子を眷属にしたいと願うのです」
「…………」
何か記憶がある気がした。
手順は最初に器官の分離プレートを――。
ラクティに迫ったまま止まっていたプレートの一枚が動いて、蒼の手元に来る。
そのプレートを一気に美佑の胸に突き立てる。
プレートがズブズブと突き刺さるが、背から貫通する事はなく、美佑の体内に消えて行く。
「同調、基本存在力を回復、意識変成」
口が勝手に動いた。
すぐに美佑の身体に気配が戻る。
胸が上下を始め、うっすらと目が開く。
「あれ……私、寝ちゃっていたの? え? 蒼ちゃん?」
「みゆう……っ……ぁ……」
蒼が名を呟き、言葉を続けようとした時、その身体がいきなり崩れた。
気を失っていた。
「負荷限界ね」
七瀬が蒼の身体を支える。
そして、
「美佑ちゃん、気持ちを楽にして、頭の中に全く新しい知識が入り込んでいる筈、それを意識してください」
「え、貴方は? 私は、ど、どうなって……?」
「私は蒼ちゃんの知り合いです。とにかく意識を探ってみてください」
「えっと……」
美佑が難しい顔をする。
その後、急に驚いた顔になる。
「こ、これ、私は……蒼ちゃんの……」
「理解出来ましたか?」
「はい……少し分からない事もあるけど、だいたい……」
「そう、なら蒼ちゃんをお願いします、すぐに目を覚ますと思いますから」
「え、蒼ちゃん、右手がっ……!」
「パーツは残っていますから問題ありませんよ。そういう事も、知識として頭の中にあると思います」
言って、浮いている美佑の身体を起こして地面に立たせる。
その美佑に蒼を預けて、未だ四方をプレートに囲まれたままのラクティの元に行く。
「貴方とは、はじめましてですね」
「そうね。それで、このプレートの動きを止めているのは、当然、貴方よね?」
「そうですよ。消去は蒼ちゃんにしか出来ないので、蒼ちゃんが気付くまでは我慢してください。プレート自体は、まだ貴方を攻撃しようとしているので、これ以上は私の力では何ともしようがなくて」
「解説ありがとう。それと助けてくれた事にも、お礼を言っておくわ」
「いえ、この状況を仕組んだのは私ですから、この程度の事はしておくべきだと思いまして」
七瀬が何気なく言った事は『黒幕は私だ』という事だ。
「そう、敵に協力者がいるとは思っていたけど、竜だったとはね。ベリテッド側に付いたと言う事?」
ラクティに特別驚いた様子は無い。
ある程度は予想していたという顔だ。
「いいえ。利用させて頂いただけです。敵が滅びて良い存在なら貴方達も本気を出すと思ったので」
「どういう事?」
「それは長い話になりますので、先に達彦さんを治療して来ます」
ラクティの質問を保留して、近くに倒れる達彦の前に移動する。
達彦の呼吸は止まっていた。
身体から流れでた血で、地面がジットリと湿っている。
殆ど死んでいるが、竜の生命力で何とか生きている状態だった。
「無茶をして。――ラン-プ-ットア-ラスリ-ムエグア、扉よ開いて」
人語とは違う竜語の発音。
聞こえたラクティですら一部聞き取れなかった。
達彦のすぐ上の空間に亀裂が走り、そこから白い煙のような物が、達彦に流れ落ちる。
「少しくらいなら構わないでしょう。元々、貴方のものですしね」
白い煙は数秒で消え、空間の亀裂も閉じた。
すると、達彦の傷がフィルムの逆回しのように癒えて行く。
地面に広がった血の跡も無くなって行った。
「――さて、では、貴方との話の続きですね」
ラクティに向き直る。
「ちょっと待って、今、もの凄く古い竜語を使ったわよね? 貴方、何者?」
七瀬の発した言葉は、ラクティすら知らない大昔に使われていた竜語だった。
竜の言葉も人の言葉と同じく、時代と共に一部が失われて、失われた部分を新たな言葉で補っていた。
「みんなに秘密にするのでしたら、教えてあげますよ」
「秘密にするわよ」
「ありがとう。私の真名はエスリート、始まりの竜の一人よ」
「そう、やっぱりそんなオチね」
最初に世界に現れた竜は五体、その内、現在三体が存在していると言われている。
その内の一体の名がエスリートだった。
「あまり驚かないのですね?」
「だって、そこの達彦は――」
ラクティが言い掛けた言葉を、
「駄目ですよ、それを簡単に口にしては、本人にはまだ秘密の事ですから」
「隠している理由があるの?」
「ええ」
七瀬が強く頷く。
「ふーん……それで何が目的なのよ?」
「今回の事は、蒼ちゃんの能力の上昇と眷属を作ってもらう事です」
「なら、眷属に美佑を意図的に選んだの? 美佑を通して私達の動きを予測していたのでしょ?」
ラクティには疑問があった。
達彦の自宅の襲撃といい、学校に張られた罠といい、タイミングが良すぎた。
何か、こちらの動きを調べる方法がある気がしていた。
「なるべく親しい方でないと蒼ちゃんが能力を覚醒させない恐れがあったので、その点で美佑ちゃんを選び、彼女を通して貴方達の行動予定を掴みました。蒼ちゃんが美佑ちゃんに送ったメールで」
美佑には聞こえないように声をひそめて言う。
「盗聴? いえ、盗視ね」
「そのようなものです。もちろん、美佑ちゃんは気付いていませんが」
「――で、美佑を蒼の眷属にして、何の得が貴方にあるの?」
「それは秘密です。ただ、今回の事で蒼ちゃんの力は強くなりました。それがヒントです」
口元に指先を当てて言う。
「……」
相手の雰囲気的に、秘密だと言われたら、問いただしても無駄だろう。
今回の事をラクティなりにまとめると、蒼をピンチに追い込んで新たな力の目覚めを誘ったという事だった。
ただ、その事にどれだけの意味があるのかは全く分からなかった。
「まぁ、いいわ。なら別の事を聞くけど、貴方の口調だと、どう考えても今回で全て終わりという事はない感じだけど、それについては?」
「そうですね……そのうちにまたお会いする事になる、という感じだと思います」
「次もこんな回りくどい事をするの? ベリテッドを使ったり」
「何とも言えません。ベリテッドが貴方達を捕まえようとしている事に私の意思は関していません、今回はその動きを途中から利用させて貰っただけです」
「途中でね……」
どこで作戦を乗っ取ったのかは分からないが、少なくても床掃除ロボットを使って作られた召喚詩編は、簡単に組み上げる事が出来るものではなかった。
「では、私はそろそろ消えますね。多分、蒼ちゃんの記憶が混乱していると思うので目覚めたらフォローしてあげてください」
「そうだとしたら、このプレート群マズイんじゃないの? 蒼の意識が戻った途端に串刺しは嫌よ」
ラクティの身体はまだ動かない。
逆に少しでも動いたとしたら、蒼のプレートの切っ先に当たる。
四方から剣を無数に突き立てられているのと同じ状況だった。
「問題ないですよ、プレートへのブレーキは残るように詩編を残します。それから、この空間も壊して出て行きますね」
「じゃ、ついでに聞くわ、この空間の創造は貴方の力? それともベリテッドサイド?」
「ベリテッド側です。貴方は外側で仕掛けを弄っていたのだから、分かるでしょう?」
「そうね、純粋な竜詩の羅列では無かったわ」
物体に詩を込める場合、意識で発動詩編をねじ込んで行く。
その時に使用者の癖が残る。
竜が使った詩編なら竜の癖が出る。
竜から見て、人が組み込んだ詩編は、かなり異質な癖が残る。
「ただ、完全に異質でも無かったけどね」
今回の空間形成の詩編は、どちらとも付かない癖が存在していた。
「その点は知り得ません。ただ、ベリテッドは、また独自に貴方達を襲うと思います。用心してください」
「それは適当にあしらうわ」
「そうですか、その戦いでの勝利を祈っています」
一旦、言葉を区切り、
「それでは、また。秘密、守ってくださいね」
一礼した後、七瀬の姿が空間に溶けて、そのまま消え去った。
同時に閉鎖空間が消滅し、外の気配を感じる事が出来るようになる。
「何だか、凄く面倒な事に巻き込まれたようね……」
ラクティは深い溜め息を吐いた。
差し当たっては、体育館崩壊の理由を考える必要があった。
蒼や達彦には全く期待出来ない。
「まっ、しばらく付き合うしかないわね」
何となくの覚悟を決めて、蒼が目を覚ますのを待った。
それから、約五分後に蒼が目覚め、さらに十五分後に達彦が目を覚ましたのだった。

エピローグ

「……」
疲れ切った目で、達彦は自室の椅子に腰掛けていた。
その目は本当に憔悴していたが『何故?』という疑問だけは力一杯に浮かべていた。
「なによ、その顔? 何か不満でもあるわけ?」
ラクティが達彦の前を横切る。
「いや、姦しいなぁと」
女三人姦し。
その状況が達彦の目の前にあった。
「あ、あの、すみません、私は、帰った方がいいですよね」
美佑が恐縮して言う。
「だめ、極力一緒に居てもらう。むしろ、ラクティが、ここにいる事の方が疑問」
蒼が美佑の手を引っ張る。
「アンタ達三人じゃ不安だからでしょ? 少なくても美佑がちゃんと力を使えるようになるまでは、監督義務があるわ」
「いや、それは俺の台詞だろ、社会的には……」
「達彦は一番ヨワヨワなんだから、黙っていて」
ラクティが達彦を指差す。
「はいはい」
達彦は黙って座っているしかない。
体育館が崩壊してから五日後。
土曜日の午前中。
蒼、ラクティ、美佑の三人が揃ってごちゃごちゃしていた。
今週、三人は山内家に放課後集まって美佑への竜知識のレクチャーを続けていた。
昨日の夕方からは泊まり込みだ。
蒼の眷属になった美佑は、小さめな器官が出せるくらいに、人間では無くなってしまった。
器官が出せるという事は、竜詩も使えるという事であり、攻撃相を形成出来る可能性もあった。
眷属化した時に、最低限の知識の移動は行われていたが、元々、蒼の知識の移動だという事を踏まえると、ラクティからすれば不安が大きかった。
その為、ラクティの講義がずっと続いていた。
「大体、蒼は物を知らなすぎ、それなのに眷属化能力とか……。もうっ、持っている力が矛盾しているわ」
イライラした様子でラクティが蒼に言い放つ。
「そんな力を有している自覚は無かったのだから、私に言う文句じゃない」
「あ、えっと……私、基本は、もう分かったから、後は自力で」
二人の間に美佑が入る。
「まだまだ足りないわよ。攻撃スタイルを直接攻撃メインで行くか、詩メインで行くか決めてないでしょ?」
「それは、基本的に私は蒼ちゃんのサポートを……だから、防御系の詩を使えるようになって」
「防御するにも、攻めよ、攻撃が最大の防御の時もあるから。蒼の血が入っているなら、攻撃相は近い物になる筈だし」
ラクティが美佑に詰め寄る。
美佑はおろおろしてしまう。
「ラクティ、一度にそんなには無理だ」
今度は蒼が、ラクティと美佑の間に割って入る。
「…………」
無言で見ている達彦としては、一体いつまで続くのだろうと思うやり取りが繰り返されていた。
「ああ、もうっ! なら、二人で自習していなさいっ! 私は買い物に行くわ」
ラクティが投げ出す。
義務だと言っていたのは、一分前だったか?
「ほらっ、達彦準備してっ!」
「何故、俺?」
いきなり振られて焦る。
「私が買い物に行くと言ったら、荷物持ちが当然いるでしょっ、そんな事も分からないのっ!?」
「ふざけるなっ」
「なに? 口答えするの? どうなっても良いって事ね?」
ラクティが楽しい拷問を考える顔をする。
そんな顔があるのか、という疑問は、今のラクティの顔を見たら、一発で氷解する事だろう。
「……で、何を買うんだ?」
荷物持ちになる事を承諾する。
力で勝てない以上、命は惜しい。
「食材よ。さっ、行くわよ、お金持って付いて来てっ」
ラクティが先に玄関に向かう。
「はいはい。――蒼、留守番よろしく」
「うん」
蒼が頷いて、達彦は財布を持って先に出たラクティの後を追った。
ラクティは本人的には常識人なので、近場の買い物の時などは、いきなり屋上に直行するような事はせずエレベーターに向かい、地上に出る。
達彦が後を追いかけると、ラクティはエレベーターの前に立っていた。
「遅いわよ」
ラクティは『下』のボタンを連打していた。
「そんなにイライラするなよ」
「悪い?」
「いや、周りが迷惑だろ」
一応の表面上の年長者として言う。
「……それくらい、分かっているわよ」
連打する手が止まる。
エレベーターは、二階まで上がって来たところだった。
「まぁ、肩の力を抜けよ、事件の後ずっと気を張っているだろ」
「……」
エレベーターの扉を見たまま、ややうつむく。
「そう言えば、サラマンダーの怪我は治ったのか?」
蒼の部屋のベッドの上には、包帯の巻かれたサラマンダーが寝かされていた。
「あの子は、もう平気よ」
「そうか、良かったな」
「――ねぇ、貴方はどうして、私を助けたの?」
サラマンダーが倒れた直後、駄目かと思った時、ラクティは達彦に助けられた。
「あの状態で、助けない奴なんていないだろ」
「嘘、貴方は蒼の味方をするという選択肢もあった筈」
「それは……」
「別にはっきりした答えは期待してないわ」
達彦の言葉が続かないのをみて言う。
その時、エレベーターがチンと音を立てて到着する。
おもむろに、ラクティが扉から振り返り、背後に居た達彦の腕を引いた。
達彦は上体を引かれる形になり、やや前につんのめるような体勢になった。
「お礼だけは言っておくわ、ありがとう。――チュ」
ラクティの唇が達彦のものと瞬間重なった。
瑞々しく柔らかく温かい囀りのようなキス。
そして、すぐに後ろにジャンプして、エレベーターの中に入り、即座に扉を閉める。
「な――」
達彦が反応しようとした時には、扉は閉まりエレベーターは四階に移動開始していた。

「…………しちゃった」
降下するエレベーターの中で、ラクティは自分の唇を指で撫でた。
「どうしようこれから……蒼と喧嘩になるのかな、まぁ、でも、あいつなら黙っているか」
達彦なら喋らないという半ば確信があった。
「それに、今はそれどころじゃないし」
ベリテッドの事、エスリートの事、色々と懸案が沢山あった。
「肩の力を抜け……か。抜いていられる程の余裕が、この先あるといいけどね」
唇に当てていた指を離して、少しだけ笑う。
エレベーターが一階に着く。
「――さて、ともかく食べないと始まらないわよね。今日は何を作ろうかなぁ」
一階のロビーに出て、背伸びをする。
達彦が降りて来たら、問答無用で引っ張り回そうと思うラクティだった。

蒼の夢2 完

 第二部完結おまけ

金曜日、山内家バスルーム。
そこに響く黄色い声。
「蒼、このシャンプー、アンタの? 何よ、この子供臭いキャラクター商品は?」
洗い場に座るラクティが、浴槽に浸かる蒼に問う。
長い髪を洗い終えた後、流している時だった。
「以前に気付かなかったのか?」
「こんな下らないもの、目に入らなかったわよ」
壁が凹んで棚になっている部分に、人型のシャンプーボトルがあった。
「これは『小さな魔法使いトゥインクル』のキャラクターボトルだ」
「わー、蒼ちゃん、買えたの? 凄いレアものだよね」
蒼の横に浸かる美佑が目を輝かせる。今日から土日お泊まりの予定でやって来ていた。
「うむ、達彦に並ばせた」
無い胸を張って言う。
「ふーん、達彦にねぇ……」
急に不機嫌そうな顔になる。
「貴方、大人が、こういうのを買うの恥ずかしいとか思わないの?」
「どういう意味だ?」
「こんなの子供しか欲しがらないでしょ」
「いいや、充分、大人も欲しがる物だ。――そうだろ、美佑?」
「あ、それは……多分、そ、そういう人もいるとは思うよ」
目を泳がせて答える。
答えにくい質問を振られたという顔だ。
「美佑を味方に付けるのは卑怯よ。貴方の眷属が、貴方に不利な事を言う筈ないでしょ?」
蒼の顔をビシッと指差す。
自分の正当性を主張していた。
「美佑の意思は美佑の意思だ。私が強要しているような事を言うな」
蒼が浴槽から立ち上がって、ラクティを見下ろす。
「そうは言ってないでしょ? ただ、根本で貴方に逆らう訳がないって話よ」
ラクティも負けじと立ち上がる。
「あ、二人とも……私、別にそんなつもりで、言ったんじゃ……」
美佑がおろおろと言う。
「貴方は黙っていて」
「美佑、分かっている、悪いのはラクティだ」
「はぃ? 私が悪い? 何がよ?」
「全部だ」
「はぁ? 何? 喧嘩売っている訳?」
ラクティの目つきが一気に鋭くなった。
「随分と短気だな」
小馬鹿にするような視線をラクティに向ける。
「あら? 言うわね。じゃ、今、私と喧嘩する気がないと?」
「時と場合による」
「今がどうなのか聞いているのよ?」
「そうだな、ラクティが頭を下げるなら、その気はない」
「――そう」
一呼吸置いてから、
「分かったわ」
全てが凍り付くような低い声を出す。
「理解してくれたなら、謝ってくれるという事だな?」
「そうね、ここは大人の余裕で謝ってあげるわ、貴方と子供の喧嘩をしている場合じゃないでしょうし」
不自然に穏やかな口調で言い、身体に掛かる濡れた髪を腕で払う。
「それで謝ったつもりか?」
「ええ、何か問題でも?」
平然とした顔で言う。
「っ――分かった」
ここで下手な事を言えば、自分が子供だと認めている事になる。
ラクティに上手く切り替えされた。
しかし、何も言わないのは自分が負けたのと同じ事になる。
無意識に握った拳がプルプルと震えた。
「あ、蒼ちゃん、ここは、落ち着いて」
美佑がその手を握る。
「そうだな……私は、勝ちに拘る子供ではないからな」
ラクティに対抗するように髪をかき上げて言う。
「あら、そう。なら、素直に勝ちを譲ってもらうわよ」
ラクティが、おもむろに浴槽に足を入れる。
三人が入るには無理があるサイズの浴槽だ。
それを踏まえた上で、美佑の横の隙間に入り込む。
「ラクティ、キツイだろ?」
蒼、美佑、ラクティという位置取りだ。
「そうね、敗者が出て行けば?」
勝者の笑みを浮かべて言う。
「…………」
蒼の顔がピクっと引きつった。
「蒼ちゃん……わ、私が出るから」
美佑が素早く上がろうとする。
「その必要はない」
「あら、私と一緒は嫌?」
その肩を蒼とラクティの二人が押し付ける。
「あ、あのぅ……」
「ここで、一つはっきりさせておく。ここは私の家だ」
「貴方、さっき勝ちを譲ってくれたでしょ?」
「あの勝負はもう終わりだ。今は別の話だ」
「割とケチね」
「そっちこそ、一度の勝ちで偉そうに」
「勝者の権利を主張しているだけよ」
美佑の頭の上で火花が飛ぶ。
「えっと、あ、あのぅ……わ、私、普通に、そろそろ出ようかと……」
顔を赤くして言う。少しのぼせそうなのだ。
「いいから」
「貴方が遠慮する事ではないわ」
「え、遠慮とか……そういう、話じゃ……」
「仕方ない、ここは平和的な勝負で決めよう」
「いいわよ。ジャンケンでもする」
「問題ない。――行くぞ」
「ええ」
二人のジャンケンが開始される。
しかし、まともなジャンケンではない。
動体視力を限界まで高めて手の動きを読み合う。
勝ちに行くために、相手に勝てる手を出せば、相手はそれに勝てる手を作る。
最後に手を組み替えた方が勝つ。
だが、それは実質の後出しであり反則だ。
そして、勝負の結果。
ラクティがグー、蒼がチョキとなる。
「今の、後出しだっ」
「そう? 目の錯覚でしょ?」
「卑怯者がっ」
「そんな事言えるの? 貴方だってギリギリまでこっちの手を見ていたでしょ?」
「ラクティだって同じだろ」
「否定はしないわ、でも、後出しと言えるタイミングではなかったわ」
「ぁ……ぁの……」
二人のジャンケンに使用しなかった手は、未だ美佑の肩を押さえていた。
「いや、確実に後出しだっ!」
「何の証拠があるのよっ!」
思わずその手に力が入る。
「ぇっ……!!」
美佑の肩が沈み込む。
二人の力で浴槽に頭まで沈んでしまった。
眷属として肉体が強化されていなれば、肩が砕けていたレベルの力だ。
「美佑っ!!」
「ちょっと!!」
二人、慌てて美佑を引き上げる。
元々のぼせ気味だった状態でずっと浸かっていた事もあり、美佑の顔はゆだっていた。
「ラクティっ、そっちをっ!!」
「馬鹿、足を上げたら駄目でしょっ!!」
急いで浴室から担ぎ出す。
「ぁ……へ、へ、いき、だから……」
美佑が弱々しい声で言う。
浴室前の洗面所兼脱衣所の床に寝かせる。
「美佑、無理しなくていいから」
「運動値低下――、はい、これ、冷やした濡れタオル」
ラクティが素早く手近にあったタオルを濡らして冷やす。
「何かあったのかっ!!」
そこに達彦が駆け込んで来る。
「!! あっち行ってっ!!!」
その姿を見て、ラクティが立ち上がり着替えの入ったカゴを反射的に投げつけた。
「わっ!!」
達彦は直撃は避けるが、女の子三人の着替えを頭から被る形になった。
結果、とても正視出来ない様子と変わる。
「きゃぁぁぁぁっ!!! 変態っ!!!」
その姿を見てラクティが錯乱する。
「な、何だっ!!?」
頭から被った衣類は、達彦の視界を塞いでいた。
眼前を確かめる為に、顔に掛かった一枚を手に取ると……。
「!!」
凝ったレースのショーツだった。
「わ、わ、私のっ!!!」
ラクティの顔が真っ赤になり、ピタリと動きが止まる。
「ラクティ、落ち着け、今は美佑の方がっ」
蒼が制止するが、
「ゆ、ゆるさないっ!! ――刃よ、風となって切り裂けっ!!」
ラクティの周りに気流が発生して髪が逆立つ。
「なっ!!」
直後、達彦を狙って真空の刃が放たれる。
「防壁展開っ!!」
蒼が達彦を守る形で光壁を展開して、刃を弾く。
「ラクティっ!!」
そして、ラクティの両足を掴んで、そのままラクティの身体のバランスを崩す。
「なによっ!」
ラクティは床に顔からつんのめる直前で手を付いて難を逃れる。
「とにかく落ち着け!!」
蒼がラクティの身体を上から押さえ込んだ。
「うるさいっ!」
ラクティが必死に蒼を引き剥がす。
「……」
達彦は、裸の少女による取っ組み合いをなるべく見ないようにして、状況を把握する。
どうやら、美佑がのぼせた様子だった。
バスタオルを手に取り、なるべく少女達を見ないようにしながら美佑の側に行き、声を掛ける。
「大丈夫か?」
「は、はい……すみません」
「いや、とりあえず、これ」
バスタオルを横たわる美佑に掛ける。
「あ、ありがとうございます」
「起きあがれるなら、避難したいんだが」
すぐ横では、低レベルな肉弾戦が繰り広げられていた。
「……あ、な、なんとか、でも、少し、まってください」
美佑は上体を起こしてバスタオルを身体に巻いた。
「よし。じゃ、ちょっと我慢してくれ」
達彦は美佑を抱え上げた。
「え――」
そのまま素早く脱衣所から避難する。
「よし、避難完了」
美佑をリビングのソファーに寝かせる。
「ぁ、は、はい……」
「冷たい物でも飲むか?」
「え、は、はい……」
「分かった」
達彦がキッチンの冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取って来る。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
美佑がまだ赤い顔で、それを受け取った。
「顔、結構赤いな」
達彦が美佑の顔を覗き込む。
「へ、平気です」
美佑が焦った様子で顔を逸らす。
「そうか」
その事を達彦は気にした様子なく、向かいのリビングに腰掛ける。
「――飲みながら話せるか?」
「は、はい」

起きあがり、キャップを開けて一口。
「ところで、あの事件の後、学校はどうなんだ? 君の友達とか?」
達彦は、美佑の他にもう一人気配を吸われた悠美香の事が気になっていた。
「それは、お二人がみんなの記憶を弄ったので、体育館の事は、ガス管破裂後の爆発という事になりました」
「クラスの友達は? 確か、悠美香ちゃん」
「悠美香ちゃんは、もう少し遅かったら、私と同じ形でしか助けられなかったみたいだったのですが、あの後、ラクティさんが力を回復させて、何とかなりました」
「そうか……」
安心する。
「はい、特別、問題はないです」
「君は、今の状況になって、嫌だとは思わないのかい?」
巻き込まれて、人を捨てる事になった事。
軽い出来事とは思えなかった。
「えっと、それは……む、難しい質問です」
「難しいか……」
「はい、いきなりだったから、戸惑いはしました。でも……蒼ちゃんの眷属なら」
「そんなに、蒼の事を信じているのか?」
「……」
コクリと頷き、
「身体の中に、蒼ちゃんの一部があるのが分かるんです。――正直、こうなる前、蒼ちゃんとの間に、少しだけ壁がある気がしていたのが、今は無くなって。――それだけで嬉しいです」
「そうか、君は優しい子だな」
「い、いえ」
飲んでいたボトルで顔を隠す。
「まぁ、これからも蒼の事をよろしく頼むよ」
「は、はい。――あっ、そういえば、お二人、放っておいて平気なのですか?」
気付いて言う。
脱衣所の方からは、まだドタバタと音が聞こえていた。
「そうだな、正直、止めに入ると死ぬからな、でも、肉弾戦までもつれれば、その内疲れてやめるから」
「は、はぁ」
「あいつ等は、あれでスキンシップなんだよ。似た者同士って奴だ」
「そんなものですか?」
「ああ、きっと、寝る頃には仲良く抱き合って寝ているぞ」
達彦は言い切った。
「そ、それは……」
ドキドキする話だった。
「――まぁ、後五分もすれば静かになるさ」
それでも静かにならない場合は、捨て身で止めに行く覚悟はあった。
一応の保護者としての立場がある。
この所、双子の姉妹を躾けている気分にもなる。
苦労が二倍に増えた気もしたが、それ程、嫌でもなかった。
「……何とかなるか」
「はい?」
「いや、独り言だ」
達彦はソファーに深く腰掛けて、脱衣所の喧噪が落ち着くのを待った。

おまけ完