蒼の夢 第一部

『蒼の夢1』
 プロローグ

 暗い闇の中を漂う夢。
もう、ずっとそんな夢しか見ていない。
その夢を見るが当たり前になってしまうくらい、同じ夢を見続けていた。
夢には普通は変化があるという事を既に忘れていた。
夢とは暗い闇を漂う事。
それが現実。
どうして、そんな夢しかみないのかは考えなかった。
その事に何の不都合も無かったから。

◆1

質素な部屋だった。
コンクリート打ちつけの壁、流行りのインテリアの一つも無く、デカイ机とくたびれた大型ソファー、有線電話と幾つかの紙切れ。
あとは起動限界ギリギリのPCが一つ、小さくファンの音を立て机の上で電気を喰らっている。
そんな部屋の中に息を吸って吐く存在がいた。
部屋の主――山内達彦(やまうちたつひこ)だ。
「……」
彼はPCのモニターを睨んでいた。
そこには彼宛メールが表示されている。
そのメールを最初に開いたのは、今から数時間前。
達彦は改めてメールの内容を確認していた。
内容は彼への仕事依頼だった。
彼の仕事は個人の興信所経営。
助手の一人もいない個人業だった。
そんな彼に調査の依頼がある場合は、彼の所まで尋ねて来るのが大抵のパターンだった。
メールでの依頼を受け付けていない事はなかったが、今回のメールは内部関係者の連絡用メールアドレスに届いたものだった。
しかし、そのメールの差出人の名前は記憶になかった。
単純に考えれば怪しいメールだったが、差出人のアドレスが非常に公共性のあるものだったため、達彦はそのメールを開いた。
メールには丁寧な秋の季節の挨拶と依頼したい仕事の内容が書かれていた。
『本校で起きている生徒連続失踪を調べて欲しい』
差出人は学校関係者と名乗る個人で、学校名は誰もが知る有名私立高校。
達彦は資料を検索して、学校の学長や事務長の名前を調べたが、その名前とメールの名前は別だった。
イタズラという可能性も否定は出来ないと思った。
だが、それは最後の一文が無ければの話だった。
『すでに前金として金壱百萬を、貴殿の口座に振り込まさせて戴きました』
本当に入金されているなら、どんな場合でも無視は出来なくなってしまう。
達彦はメールを見てからすぐに銀行に向かい入金を確認した。
そして、今、銀行から帰って来て、再びメールを読んでいるという状況だった。
「全く……俺にどうしろと」
メールには前金を返す方法は一切書かれていなかった。
仕事を受ける場合についてだけ、その時は直接学校に赴いて欲しいと書かれていた。
それは、このまま前金だけ貰って無視しても構わないとも取れる内容だった。
ただ、それはあまりに気持ちが悪い。
何にせよ、相手に会ってその真意を確認する必要があった。
呼び出し先は学校だった。それは、相手に悪意があったとしても、無茶がしにくい場所という事だ。
達彦はひとまずメールに従う事にした。
メールに書かれた指定日は明日だった。
幸い、明日の予定は空いていたが、相手はその事を見越して日程を指定して来ている気すらした。
考えれば考える程に怪しいメールだったが、行くと決めた以上、達彦は覚悟を決めた。

翌日、山内達彦が指定の場所に立った時、辺りには誰の姿もなかった。
依頼者が指定した場所は某有名私立高校の正門前。
待ち合わせの時間はメールには書かれていなかった。
仕方がないので、達彦は常識的な範囲で訪問時間を考え、昼過ぎという時間を選び、その場所に立った。
「……」
生徒達は午後の授業を受けているのだろう。
沢山の気配が校門から見える校舎の方に集中していた。
校門から一歩入り、どこに向かうかを考える。
依頼者がいない以上、中に入って探す必要があった。
まずは事務所で聞くべきだろうと思い、校舎の方に向かって歩き始めた。
その時、
「こんにちは、山内さんですね」
突然、脇から声を掛けられた。
「!! ――き、君は?」
達彦は動転した。
声を掛けられるまで、その場所に誰かいる事を感じていなかった。
そして、声の主を見てもう一度驚く。
そこにいたのは、私服を着た中学生くらいの綺麗な女の子だった。
丸めの愛らしい顔に薄くリップを塗っている。
「はい、初めまして、私は村井七瀬(むらいななせ)と申します。用件については全て私が承ります」
「よ、用件という事は……私を知っている訳ですか?」
達彦は含み持たせて聞いた。
部外者だったら、仕事の事は話は出来ない。
その上で、もし仕事絡みとなれば、気持ちを切り替えなくてならない。
「ええ、存じています。想像していたよりお若いですね。三十二才には見えません。――今日、山内さんをここにお呼びしたのは、この学校で起きている事件を調査してもらう為です。これで問題ありませんか?」
柔らかな口調で、それでいてきびきびと七瀬が言う。
「は、はい」
達彦はそのしっかりとしたもの言いにたじろいだ。
中学生のような子にお使いをさせる理由が分からなかったが、七瀬ならば特に問題が無いように思えた。
「ではこちらへ、室内で詳しい事をお話します」
七瀬が校舎へと歩き出した。
「はい」
達彦は彼女に従って校舎の中へと入った。

校舎の中は静かだった。
予想通り授業中で廊下を歩く人影はまるでない。
七瀬は達彦を先導する形で進み、一つの扉の前で立ち止まった。
「こちらです」
部屋名のプレートに茶道室と書かれた部屋だった。
「ここで?」
こういう時、応接室や学長室というのなら理解出来たが、茶道室は意外だった。
「ええ、どうぞ」
七瀬が靴を脱ぎ、扉の奥にあった下駄箱にしまう。
達彦も戸惑いつつ、それに従った。
中は普通の畳の部屋だった。誰の姿もない。
大きめの座卓が一つおかれていて、そこに座布団が用意されていた。
「山内さんは、そちらに」
そう言って七瀬は座卓を挟んで反対側に移動した。
「すみません」
達彦は座布団の上に座った。
「お茶の席ではありませんから、座卓を用意しました。お茶も普通のものを」
七瀬の横にはポットと盆に載った茶碗それとお茶請けの菓子が、いつの間にかに揃っていた。
「どうぞ」
七瀬がお茶を注いで達彦に差し出す。
「――ありがとう御座います」
達彦はお茶を受け取り、飲む事なくテーブルの上に置いた。
そして、一呼吸おいた後、七瀬が切り出す。
「では早速ですが、本題に入ってよろしいですか?」
「え? 貴方が話を?」
子供に任せて依頼人は出てこないつもりなのかと思った。
「ええ、全て一任させていますから、それとも私では問題ですか?」
「問題というより……貴方のような方に一任するというのは、こういう場合、少し引っ掛かるのですが?」
「あ、それは」
七瀬が分かったという顔をする。
「どうやら私に対して誤解があるようですね。こう見えても、私はここの一教師です」
「え……」
達彦は驚く。
見た目には完全に十代前半にしかみえない、確かに落ち着きはあるが、それでも子供にしか見えない事は変わらなかった。
しかし、七瀬が冗談を言っているようには見えなかった。
実際は幾つなのか推測する、教師である以上は、短大出だとしても二十才にはなっている事になる。
そう思って見ても、やはりそんな年齢だとは思えなかった。
「保護者の方も初めは驚きます」
年齢を探る達彦に向かって、七瀬が微笑んで言う。
「あ、いえ、失礼しました」
達彦は非礼を詫びつつ、ひとまず年齢について考えるの止めた。
今は仕事の話をする時だった。
「別に構いません、いつもの事ですから。――それで、それはともかく、話の方を初めてよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いします」
「では、お話します。山内さんに依頼したいのは、現在この学校で起きている連続失踪事件についての調査です。事件は四日程前に発覚して、今日までに五名の生徒が自宅に帰らず行方が分かりません」
「四日で五名ですか」
「はい」
七瀬は頷いた。
五人という数が多いのか、少ないのかは微妙なところだった。
学校の質にもよるが、今の時代三~四人の家出が重なっても珍しくはない。
友達同士でのプチ家出という事もあり得た。
「その五人の繋がりは?」
まずそこを確認する。
「ありません、学年クラス性別ともにバラバラです。また、最近、特に素行が荒れていたという報告も受けていません」
「では、警察の方に家出人捜索願いは?」
「いえ、まだ家族の方に差し控えてもらっています。その辺りは校名に対しての想いなどを、汲んで戴ければと思います」
「ええ、それは理解しています」
私立は学校の名前に傷が付く事を嫌う。
それは良く分かる事だった。
「では事が表沙汰になる前に、こちらで調べて解決すれば良いという事ですね?」
達彦は相手の言いたい事を汲み取って言った。
「掻い摘んで言えば、そういう事です」
七瀬の返事は随分と裏表の無いものだった。
達彦的にはその方が好感が持てた。
「そうですか、状況は大体、分かりました」
「依頼は引き受けて戴けますか?」
「その前に二、三確認をよろしいですか?」
まだ、依頼を受けると決めるには気になる事があった。
「はい」
「誘拐という線も考えられますが、その線が浮上した場合は?」
「その場合は警察にお任せする事になります。しかし、今のところ脅迫に類するものはありません」
「分かりました。では次に秘密裏にとなると期間が限られます。何時まで家出人届けを出さないつもりですか?」
「一週間程度です。ただ、父母の方も自分の子供の不名誉になるという事で、届けを出す事を遅らせています。状況次第では多少の延長はきくでしょう」
「そうですか、では最後に報酬についてです」
達彦は一度言葉を切り、
「――前金の額が、少々多い気がしますが?」
真剣な表情で言った。
額の多さイコール事の危険性だと考えるのが妥当な気がした。
「額に付いては不足が無い金額というつもりです。事の進展の関わらず、お引き受け戴けるのであれば全額お納めください。事件が無事解決した場合は、前金の五倍を用意しています」
七瀬は淡々と答えた。
その内容は、要するに受けると答えて事が解決しなくても、百万はもらえてしまうという事だった。
豪華過ぎる報酬だった。
あり得ないと言えば、あり得ない。
何も疑念を抱くなという方が無理だった。
「……」
「何か不都合でも?」
黙った達彦に七瀬が問い掛ける。
その口調は達彦が感じている疑いを見透かすようなものだった。
「いえ、額については分かりました」
達彦はすぐに答えた。
「そうですか、ではお引き受け戴けますか?」
受けるか受けないか。
依頼には、明らかに怪しい部分が含まれている気がした。
しかし、依頼主が達彦に依頼を受けて欲しいと思っているのは確実だった。
誰でも良いなら、わざわざ、達彦自身の事を調べる必要もない。
何故、自分なのか?
それに裏があるなら、それを探るのも仕事だと思った。
「分かりました。引き受けましょう」
何にせよ断れない仕事だと思った。このまま断ると後味が悪すぎた。
「ありがとう御座います。――では、これがこちらの方でまとめた失踪した生徒の詳細データと全校生徒の簡単なデータです。あと学校内での貴殿の権限もまとめてあります」
七瀬がどこからと無くCDケースを取り出す。
「はい、確かに」
達彦はそれを受け取った。
「それから、山内さんの捜査がしやすいように、表向きはゲスト講師という事で生徒に話を通す予定です。そうすれば校内を自由に行動出来ますから、何か得意の分野などありますか? 一講義くらいはカモフラージュのためにやってもらう事になる可能性もあるので」
「ゲスト講師ですか……PCのインストラクターとかでは駄目でしょうか?」
正直、講師という柄では無いと思った。
PCの扱いを教えに来た部外者という形でも不都合は無い気がした。
「いえ、多少、問題があります。捜査のために毎日学校にいらっしゃるのだとすると、その肩書きでは不自然かと」
「それは確かに」
毎日学校に捜査に来る必要があるのかは、まだ何とも言えなかったが一応頷いた。
「あと、今回の調査は内部の者にも秘密で行っています。その為、半端な肩書きでは行動を教職員から咎められた時に困ります」
「それは、内部の人間も疑っているという事ですか?」
感じていた疑念が多少強くなる。
「疑っていないとは言えませんが、当校に限って、そんな事は無いと思っています」
「そうですか、では、先生方の中では今回の失踪はどういう扱いになっているのですか?」
「家出だという方々と事件だという方々が半々というところです。ただ私立ですから、学校の面子は全員気にしています」
「……という事は、先生方の中で事件に関わっている人間がいるとしたら、学校の面子を傷付けたいと思っている人とも言えますね」
「ええ。ただ、先程も申したように当校に関してそれは無いかと、ただ念のための処置です」
「まぁ、そうでしょうね」
学校の面子に傷付けるだけなら、もっと別な方法がいくらでもある。
それに自分が在籍している学校の評価を、台無しにする理由も普通はない。
「分かりました、ひとまず話を戻します。ゲスト講師の件ですが、そう言う事なら、それで構いません。何を教えるかは理系でお願いします」
達彦は話をまとめて言った。
「はい。では、こちらで決めておきます」
「お願いします」
「では、捜査の進展については私に報告してください。携帯及び校内の内線番号とメール先はCDの方に入っています。それから、今日この後、校内を案内する予定ですが、問題ありませんか?」
「ええ」
「そうですか、では、校内では同僚という立場でお願いします。こちらもそう接しますので」
「分かりました。多少、話し方を崩すとかで構いませんか?」
「そうですね、そうしてください。あとそれから、この部屋は自由に使ってください。校内でもっとも人気が無い場所なので、何かと都合が良いと思います」
「それは部活など使う予定もないと?」
「ええ、ここは旧茶道室ですから。普段は使われていません」
「それなら了解です。使わせて戴きます」
「鍵はこれです。あと、部屋の中に必要な物は揃えておきました。寝具も念のためありますが、泊まる時は私に連絡をください。警備とトラブルになるので」
七瀬が鍵を達彦に渡した。
「まぁ、泊まる事は無いとは思いますが、その時は連絡します」
達彦はそれを受け取りポケットにしまった。
「お願いします。――それでは校内の案内に移ってよろしいですか?」
「ええ」
「それなら、私に着いて来てください。途中で職員室に寄って待機している先生方への挨拶を挟みます」
「分かりました」
七瀬が立ち上がり、達彦もそれに続いた。
茶道室を出て校内の案内が始まる。
案内自体は特に問題なく進み、途中で寄った職員室での挨拶も特別な事はなかった。
職員室を出た直後チャイムが鳴り、授業終了を告げた。
その途端に廊下に制服を着た生徒が溢れる。
「今日、このあと授業は?」
何も無いのなら、手始めの捜査しようかと達彦は考えていた。
少しだけ気になる事があった。
「はい、もう一時限あります」
「そうですか、なら――」
達彦がそう言いかけた時、
「村井先生、こんにちは」
一人の女生徒が、七瀬に声を掛けて来た。
「あら、夏本さん、どうかした?」
七瀬が笑顔で迎える。どうやら親しい生徒の様子だった。
夏本と呼ばれた彼女は、セミロングの髪に控えめにリボンを付け、一見真面目そうに見える子だった。
「あの、見知らぬ方と歩いていたから……ぁ」
その子が言い達彦と目が合う。
「……」
その瞬間、その子の視線が固まる。
「何か?」
「――あ、い、いえ、それで、えっと……」
硬直が解け、一転してしどろもどろになる。
達彦には何が何だか、いまいち分からない。
「この人は、今度ゲスト講師として来てもらった山内さんよ」
七瀬が夏本に達彦を紹介する。
「山内です。よろしく」
達彦は七瀬に繋げた。
「あ、はい、私は夏本真由(なつもとまゆ)と言います」
途端に真由は恐縮したように頭を下げた。
達彦に出会った途端に行動がおどおどしているようにみえた。
何か怖がらせてしまったのだろうかと、達彦は思った。
服装などに関しては、一応、小綺麗にはして来たつもりだが、それ以外は変わりようが無い。目つきが悪いと人から言われる方だった。
真由は達彦の方をチラチラ見た後、不意に顔を上げた。
「あの、そ、それで山内先生はいつから授業を? に、二年は教えますか?」
とても緊張したもの言い。
「ああ、それは――」
達彦は七瀬を見た。
適当な事は答えられない、ここは七瀬に任せた方が良いと思った。
「山内先生は明日からの予定よ。授業はそうね……ちょっと予定表をみてみないと」
七瀬が受ける。
「そうですか……それじゃ、あの、失礼しますね」
真由は一瞬考えたような顔を作り、小走りに二人から遠ざかって行った。
「……」
達彦は釈然としない。
「今の生徒、私の事が怖かったのでしょうか?」
七瀬に聞く。
「いえ、それは無いとは思います……多分、山内さんが格好良かったからだと」
少し笑って七瀬が言う。
「――は?」
「格好いい男性を前にして緊張したという所です。今の学生は、みんなそんな感じですよ。他の生徒からも、そう言う目で見られる可能性があるので、一応、注意しておいてくださいね」
「はぁ……」
そんなものなのだろうか、と頷く事しか出来なかった。
「じゃ、もう大体、案内は終わりましたが、さっき言いかけた事は?」
「え……いや、この後、授業が始まったら、ちょっと一人で校内を歩いてもいいですか?」
「構いませんが、もう調査ですか?」
「まぁ、そんなところです。あと、今日はそのまま帰るつもりなので、明日はどういう形にしますか? そちらから指定があれば?」
「どんな形でも構いません。来て戴けるなら他の先生方へも話を通しておくので、私が居なくても校内を自由に動けます。もちろん外部調査でも構いません」
「そうですか、なら一応、朝にこちら伺います。無理なら連絡を入れるという形でよろしいですか?」
「ええ、それでお願いします」
「分かりました」
達彦が答えると、丁度、授業開始を知らせるチャイムが鳴った。
「では、今日はここで」
「はい、それでは、調査の方お願いします」
「はい」
達彦は七瀬に頭を下げて別れた。
気になった事を探るには、一人になった方が都合が良かった。
外からでは分からなかったが、校内を案内されている時、何となくおかしな空気が漂っている感じがした。
達彦は周りのものの気配を探る力があった。
それは特別大袈裟な能力ではないが、人が近付いて来た場合などに敏感に反応出来るので、探偵業には役立つ能力だった。
その勘のようなものが、校内の空気の異常を告げていた。
空気に殺気が混じっているというか、真剣勝負している武道家が放つような気配が、残り香のように校内にあった。
学校という空間で、感じられるものでは無い気がした。
その気配を誰が残したものなら、発生させた本人がいるはずだった。
達彦はそれを探った。
しばらく歩いて目星を付ける。
「……上か」
それは、どうやら屋上に続く階段だった。
その先に行くに連れ、気配が強くなる。
先の案内では屋上には行っていない。
達彦は注意して階段を昇る事にした。
「……」
一歩、また一歩と段を上がるにつれて、気配が強くなる。
何者かが屋上にいるのは確実だった。
そして、屋上へ出る扉を前にする。
扉は閉じていた。鍵が閉まっているかは、取っ手を回してみるまでは分からない。
「……」
ゆっくりと取っ手を回した。
鍵は掛かっていなかった。
小さく金属が軋む音がして回った。
扉が開いて行き、秋風が吹き込む。
同時に屋上にいる誰かの気配もより強くなった。
その気配に動きは無い。
何が起きても対応出来るように、相手の気配に集中して扉を開け放つ。


「――!」
屋上の光景が目に映る。
遮る物の何も無い、ただ真っ平らな屋上。
その端にあるフェンス付近に一人の女生徒がいた。
女生徒までの距離は達彦のいる扉から十メートルほどだ。
殺気にも似た気配は、その女生徒が出していた。
長い真っ直ぐな黒髪を風にそよがせ、厳しい視線を達彦の方に向けている。
ほっそりとした身体付きで背が高く、全体的に磨き上げられているというイメージがあった。
「……」
達彦は覚悟を決めて屋上に一歩踏み出た。
その位置で立ち止まる。
相手がただ者では無い事は容易に伺い知れた。
「――オマエはなに? 見た事がない」
女生徒がどこか辿々しく、それでいて良く通る声で言った。
『オマエは誰』なら分かるが、女生徒は『なに』と言った。
「どういう意味だ?」
丁寧語を使う余裕はなかった。
「違うのが来た」
女生徒が呟く。
「何を言ってる?」
「ただ、オマエ、役にはたった――」
そう女生徒が言った直後、急に彼女の気配がより攻撃的なものに変化した。
達彦は咄嗟に身構え、女生徒の動きに集中したが、その瞬間、自分の周りに猛々しい気配が三つ同時に発生して集中を乱される。
三つの気配は突如として現れ、前触れはまるでなかった。
「くそっ!!」
三つの気配の位置を読み、それぞれから一番離れた位置へと反射的に身体を動かす。
そこに突然女生徒の気配が現れた。
「邪魔っ!!」
女生徒が叫ぶ。
彼女は、ほんの一瞬で達彦との距離を縮めていた。
そして、何時の間にかに右手に握っていた剣のような物で、達彦の脇――何もない空間を切り裂いた。
「はっ!!」
ズシュ!!
鈍い音がして、空間から何かが出現し崩れ落ちる。
それは、霧のような液体のような黒く動く物体だった。
大きさは六十センチ程度で、形状は球体に近い。
何なのかまるで分からない。
「あと、二体っ!!」
女生徒がコンクリートを蹴って跳躍する。
達彦の背をそのまま越えて、彼の後ろの空間に剣のような物を突き立てた。
また鈍い音が響き黒い物体が転がる。
「逃がさないっ!」
着地したと同時に、屋上の端のフェンスまで横飛びする。
その動きは目で捉えられないくらいに早い。
そして、フェンスごと何を切り裂いた。
ガシャンッ!!
フェンスの一部が斜めに切断され、その下に黒い物体が転がった。
そこで女生徒の動きが止まる。
三体を切り捨てるのに、十秒掛かっていない。
達彦はその様子をただ見ている事しか出来なかった。
「……」
と、血が自分の腕から流れている事に気付く。
見ると二の腕の一部が浅く切れていた。
女生徒の初撃を喰らったのだろう。
血がポタリと屋上のコンクリートの床の上に垂れる。
その血の先に女生徒に切られた黒い物体が転がっていた。
それは、達彦が知るあらゆる既知の物体と違う異物質としか思えなかった。
ただ、それは生物であるような気がした。
「それは、残念」
達彦に向かって唐突に女生徒が呟く。
「……は?」
達彦はかなり間抜けな声で聞き返した。
彼女の言葉に何の脈絡も無かったからだ。
今、この状況で出てくる言葉とは思えなかった。
「そのまま意味。オマエ、こいつらのイイ標的」
「――何を言っているんだ?」
女生徒の言う事は、さっきから殆ど良く分からない。
そして、さっきの動きは、ともすれば、人間とは思えない動きでもあった。
彼女が手にしている物に目が行く、それは何かの骨のような白色で細長いプレートだった。剣とも形容出来るが刃は無いように見えた。細部まで注意して見ると表面全体に細かい筋が走り、幾何学模様を描いていた。
「……」
女生徒は達彦を一見して、右手に持ったプレートを軽く横に薙いだ。
すると、それは溶けるように女生徒の腕の中に飲み込まれてしまう。
「!」
あり得ない光景だった。しかし現実としてプレートは消えていた。
手品にしては、腕に飲み込まれて行くシーンがハッキリと見えた。
「――帰る」
女生徒がおもむろに言い、出口の前にいる達彦の方に向かって歩いて来る。
「――」
達彦はその場から動けなかった。
驚きで身体が固まっていた。
「邪魔」
女生徒が達彦の身体を押した。
「っ!」
それは何気ない動作だったが、達彦は押し飛ばされて尻餅を付いた。
立ち上がろうとした時には、すでに女生徒の出口から去っていた。
すぐに追い掛けて階段を降るが、下の廊下には誰の姿も無かった。
気配も立ち消えていた。
「……」
達彦は一瞬思考して屋上に引き返した。
追ってもおそらく見付からないだろうし、ここの生徒なら調べれば分かる事だった。
それより今は、屋上に残った黒い物体の方を先に調べるべきだと思った。
屋上に戻ると、黒い物体は急速に収縮を初めていて、今にも消えそうだった。
何か調べるとしたら手遅れという雰囲気だ。
そして、黒い物体は何の音も立てずに小さくなって行き、あっさりと消えた。
後には染み一つ残らなかった。
「……」
まともな物質とは、とても思えない。
常識的な範囲で考えられる事件ではなかった。
達彦は女生徒が切ったフェンスに近付き、その切り口をみた。
針金を組まれて作られたフェンスは、全く歪む事なく綺麗に針金を切断されいた。
それは、女生徒が持っていたプレートのような剣の切れ味が、異様に良いという事になる。
自分の手の傷もかみそりで切った様な傷だった。
しかし、プレートを凝視した時、刃は無いように見えた。
「……」
大量の疑問が沸き上がる。
一体、彼女は誰で何と戦っていたのか……。
少なくとも、この学校で何かが起きている事だけは確かだった。
その事が、依頼された事件と関係があるのかは今のところ不明だが、全く無関係である確率は低いと思った。
「……」
達彦はひとまず事務所に帰る事を考えた。
ここにいても、これ以上の動きは無いと思ったからだ。
さっきの女生徒がこの学校の生徒なら、七瀬から貰ったCDにデータがあるはずだった。
それを調べるのが先決だろう。
達彦は屋上を後にした。

◆2

学校から事務所までは徒歩で通える距離だった。
ただ、近いと言えるかは微妙な距離だ。
達彦が早足で歩いて三十分程掛かる。
その距離を達彦は歩いて帰った。急いで帰りたいところだったが、さっきの女生徒は達彦が狙われていると言っていた。
だとすると、その相手を見極める意味でも、あえて歩いて帰るべきだと思った。
乗り物を使った場合、遭遇率は減るだろうし、最悪他人を巻き込んでしまう。
なるべく人通りの少ない道を早足で歩き、途中、自販機で缶コーヒーを買いつつ進む。
しかし、事務所が近づいても何も不審な事は起こらない。
もしかしたら、学校以外では関係ない事なのかも知れないと思った。 そして、何事も無いまま事務所に着く。
達彦の事務所は、繁華街の外れにある五階建ての雑居ビルの三階だった。
立地が悪く達彦が借りている階以外にはテナントが入っていない。
それでも、取り壊すには費用が掛かると放置されているビルだった。
一度、一階に移動しないかと不動産屋に言われたが、達彦はそれを断った。
一階は正面がガラス張りになっていて、外から丸見えだからだ。
あまりじろじろと見られながら仕事をするのは、達彦の好みでは無かった。
一応起動しているエレベーターを使い三階に到着する。
すると狭く短い廊下があり、その先に少しだけ豪華な感じのする備え付けの扉があった。
その扉の先が達彦の居住空間兼事務所だった。
キーを差し込みに中に入る。
入ってすぐは、トイレと水場、それから少しの生活必需品の棚、あと脇にユニットバスの空間があった。
そして、もう一つ扉があり、そこを開けると達彦の仕事場だ。
十畳と広く簡素な飾り気の無い空間。
達彦は壁際に置かれた机にそのまま向かいPCを立ち上げ、貰ったCDをトレイに入れる。
データは学生名簿(写真付き)と、失踪した学生の細かい資料だった。
達彦は失踪した生徒のデータはひとまず横に置き、学生名簿を見て行く事にした。
さっきの女生徒がいないかを調べるためだ。
全生徒中、女子が三百余名。
一人ずつ顔を見て識別して行く。
女生徒が見せた厳しい視線は印象的だった。
長いストレートの黒髪と引き締まった身体。
容姿的に他生徒と見分けるのは容易だった。
探し初めて数分後、二年の生徒の中に目的の女生徒の姿があった。
『香月蒼(こうづきあお)二年四組』
と、名簿には書かれていた。
写真の中の彼女の顔は、整ったお面のようでありながら、決してお面ではない存在感を放っていた。
生徒名簿には名前とクラス以外には大した情報は載っていなかった。
それ以上の情報が無いのなら、写真を眺めていても仕方がない。
達彦は失踪した生徒のデータの方を開いた。
消えた五人のデータを順に見て行く。
名前、生年月日、住所、クラス、成績、失踪前の状況など一通りのデータが羅列されていた。
それらを見比べるが、特に分かり易い共通点は無いように見えた。
また失踪した生徒が、失踪時に大きな荷物など家出が連想される物を持っていたかは不明。
資料だけでは、いまいち掴みかねる事件だった。
普通こういった失踪事件の場合、失踪者の交友関係を調べるのがセオリーだったが、今回の場合、そういう捜査は無意味に思えた。
どうしても、さっきあった事が今回の事件と関係無いとは思えない。
それは達彦の勘だった。
まず最初に蒼という少女の事を調べるべきだと思った。
それで駄目だった時に、失踪者の交友関係を調べても遅くは無い。
それに、蒼が切り捨てた存在は明らかに危険な物体だった。
そういった物があの学校を徘徊しているとしたら、そもそも無視出来ない。
しかし、達彦の中で、さっき屋上で見た事は夢だったのでは無いかと思う部分もあった。
黒い物体が発生してからの事があまりに非現実的だった。
そう言った超常的現象を完全否定する思考の持ち主では無かったが、それでも疑ってしまう。
「……この傷か」
二の腕に付いた浅い切り傷に目をやる。
それは蒼に斬られた傷で、さっきの事が事実だと示す証のようなものだった。
「……」
達彦は買ってきた缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
校内での権限などが書かれた文章を横目で見つつ、蒼の事を回想する。
一体、何者なのか?
学生とは思えない気配を放ち、さらに気配を消す方法まで知っている。
そして、腕にしまわれたプレート状の剣。
普通の生徒では無い事は明らかだったが、その普通ではない度合いが、かなり激しい気がした。
「……」
達彦はコーヒーを飲み終えると、PCを落として席を立った。
そろそろ夕食の時間だった。
気分転換を兼ねて、食事休憩という感じだ。
そのままお金だけ持って事務所から出る。
彼は食事のほぼ全てを外食ですませていた。
事務所に冷蔵庫などは無い。
来客用のティーセットと少しの菓子があるだけだ。
食事として食べるような物は基本的に全く無い空間だった。
それは達彦の食生活へのこだわりの無さから来ていた。
達彦は昔から食べ物を美味しいと思った事がなかった。ただ、栄養源として必要だから摂取してるだけ――そんな風に感じていた。
故に食べ物に対する欲は著しく低い。
一応、健康面を意識して三食は摂るようにしてはいたが、仕事に没頭すると丸一日何も食べないで作業する事すらあった。
そんな彼は外食と言っても別に豪華な食事を頼む事はなく、ファミレスの同じディナーメニューを食べ続けるような状態だった。
こだわりが無いから飽きる事もなかった。
「……さて」
外に出て行く店を決める。
飽きはこないと言っても、ずっと同じ店というのは、店員の目もあるので避けていた。
今日は駅近くのラーメン屋に向かう事にした。
既に日の暮れた道を歩む。
繁華街に入ってしばらく行くと、村井七瀬の背中を見掛けた。
小さい後ろ姿からして、見間違えという事はないだろう。
無視するのもおかしいと思い、
「こんばんは」
達彦は声を掛けた。
「――え? あ、山内さん、こんばんは。先に帰ったのではなかったのですか?」
達彦が学校からの帰りだと思った様子だった。
「いえ、一度帰った後、夕食を食べに出て来ました」
「そうですか、そういえば確か事務所は近所でしたよね?」
七瀬が学校内より多少砕けた話し方をする。
「ええ、それで先生はいま帰りですか?」
「はい。あと、別に先生なんて呼ばなくても構いませんよ。村井で」
「分かりました」
「それで山内さんは夕食はどこで? 良ければご一緒しませんか?」
七瀬が至って普通に言う。
「一緒にですか?」
達彦は少し戸惑った。そんな事を提案されるとは考えていなかった。
「形だけとは言え同僚になった訳ですから歓迎会です。駄目でしょうか?」
七瀬が達彦の顔を伺うようにして言う。
「いや、そういう事なら」
随分と気安いような気もしたが、断る理由は特に無かった。
七瀬が笑顔で受ける。
「そうですか、では、どこに行きましょうか?」
「私はどこでも、そちらの都合で決めてください」
「行こうとしていたお店があったのでは?」
「いえ、気にしないでください、どこでも良かったので」
ただのラーメン屋というのは、歓迎会という言葉といくらなんでも雰囲気が違い過ぎた。
「分かりました。では、普通に小料理屋で良いですか? 居酒屋風の」
「ええ、構いません」
店が決まると、二人は七瀬が先導する形で繁華街の小料理屋に入った。
一応座敷があるタイプだが、値段はそんなに張らない。
ちょっとした話などをするには丁度良い感じの店だ。
店に入ると、七瀬は店員と顔見知りのようだった。
実際、七瀬の背丈の場合、店員と顔見知りで無ければ一目で追い出されていてもおかしくないだけに、行きつけの店を選んだのだろう。
少し待った後こぢんまりした座敷に上がり、一通り注文すると、まず先に飲み物が来る。
達彦はビールで、七瀬はグレープフルーツのサワーだ。
七瀬がコップを片手に乾杯の体勢を作る。
「一応乾杯しますね。何かお題目はありますか?」
「事件の解決という事でお願いします」
ひとまず、それ以外に思い付かなかった。
「そうですね、では、事件解決を祈って、乾杯っ」
七瀬が少し子供っぽく言う。
嬉しそうにコップとコップをぶつけ合う。
言葉と姿がとてもマッチしていた。
「乾杯」
達彦は応えつつ苦笑した。
「ん?」
「いや、学校とは印象が違うなと思って」
「そうですか? 学校では仕事の話だったので事務口調でしたけど」
「多少固い印象でした」
「そんな風に見えましたか? けど、そんなに固くは無いですよ」
「そうみたいですね」
案外、柔らかい人なのかも知れないと達彦は思い直した。
「じゃ飲みましょう、事件解決もありますけど、それ以前に歓迎会ですから」
二人の間で酒宴が始まる。
少しして、達彦は七瀬のお酒の勢いに驚いた。
まさにガブ飲みというペースでお酒を飲んで行く。
達彦も上戸だったが、自分と比べても信じられないペースだった。
次第に七瀬の顔が真っ赤になって来る。
「あの、大丈夫ですか? そんなに飲んで? もうやめた方が良いのでは?」
止めずにはいられない勢いだった。
「へ、へいきですょ~」
明らかに呂律が回っていない。
七瀬はぐでんぐでんに酔っていた。
「ちょっと平気じゃないですよ――もう出ますよ」
達彦は店を出る事にした。
ここにいたら、いつまでも飲み続けている勢いだった。
「え~まだ飲む~」
ごねる七瀬を無視して店員を呼び勘定を済ませる。
「もう帰るのですか? まだ早いですぅ~ まだ飲みます~」
「無茶言わないでください、これ以上は危険です」
七瀬の酔いはかなり激しい様子だった。
達彦は店を出るために、七瀬を立たせる事にする。
「ひとまず立てますか?」
七瀬に手を貸す。
「立てますよぅ~」
七瀬はそう言って立ち上がるが、足元はふらついていた。
「掴まってください。ほら」
達彦が小さい七瀬に肩を貸すのは体格差的に厳しい。
そこで自分の脇腹の位置で支えるようにして、七瀬の肩を抱いて立ち上がらせた。
そのまま七瀬の荷物も持って出口に向かい店を出た。
店員の『ありがとう御座いました』の声に見送られる。
達彦は外の通りに出てタクシーを拾う事にした。
「じゃ、タクシー拾います」
「ううん、私、車酔うから」
七瀬が止める。
「じゃ、家はどこですか? 電車なら付き添います」
「……むぅ」
七瀬が達彦を睨む。
「何ですか?」
「どうして、帰そうとするんですかぁ? 私、山内さんの家に行きたいなぁ~」
座った目で達彦を見据える。
人の家に行きたがる酒癖なのだろうか?
「いえ、送ります」
達彦はキッパリ止めて、ここは車酔いをするとは言ってもタクシーを拾うべきだと思い、通りに向かって進もうとした。
「駄目っ」
すると、七瀬が抱き付いて達彦を止めた。
「む、村井さんっ」
達彦は少し身を屈めて、七瀬を離そうする。
その時、ふいに七瀬が達彦に顔を近付け、
「ちゅ……んっ、んんっ」
達彦の唇にキスをした。
「んふ、んっ……んん、ちゅ、んっ」
かなり積極的なキスで達彦の口を割って舌を入れてくる。
「!……」
達彦は焦ったが、目立って取り乱す事はなかった。
酒癖の一つとしてキスをするというのは聞く話だった。
自分を落ち着かせて、ゆっくりと七瀬を離す。
「村井さん、しっかりしてください」
「うー、七瀬って呼んでください。ねぇ、私、山内さんの家で休みたいなぁ~」
七瀬が口を尖らせて言う。
この様子だと、酔いが醒めるまでは放っておけないと思った。
手段として、無理矢理タクシーに乗せる事は出来るが、それはそれで不安があった。
だとしたら酔いが醒めるまで事務所で休んで貰っても、この際仕方がないと達彦は思った。
「――分かりました。少しだけなら、うちで休んでいって良いですよ」
「わぁ、ありがとう、それじゃ行こうぉ~」
七瀬が晴れやかな顔で達彦にピッタリくっつく。
達彦はそんな七瀬を支えながら事務所へと歩き出した。
そして、事務所が近付くに連れて、七瀬の頭が歩きながら船をこぎ始める。
「マズイな……」
そう思った時には七瀬の身体から力が抜けていた。
達彦はすぐに支えて、七瀬の様子を見た。
「……すぅ、すぅ」
七瀬は完全に眠ってしまっていた。
「仕方ないか」
七瀬を胸の前に抱え上げる。
小柄なので軽々だった。
その後、数分で事務所に到着する。
七瀬を三階の扉の前で一度降ろして、壁に寄りかからせる。
「すー、すー」
七瀬に起きる気配はまるでなかった。
先に扉を開け放ち、また七瀬を抱っこして部屋のソファーの上まで運ぶ。
七瀬はソファーの上で安心したような顔になり、足を抱えて丸くなった。

部屋の電気は点けずにいるべきだろう思い、達彦はそのまま机の椅子に座った。
「……」
一息付く。
外の街の光で部屋の中は真っ暗ではない。
夕方より少し暗い程度だった。
ソファーで寝ている七瀬の表情も伺えた。
安らかな寝顔だった。
特に音のしない部屋で、七瀬の小さな寝息がやけにはっきり聞こえた。
このままだと朝まで起きないだろう。
どうするべきか――。
七瀬が家族と暮らしているなら、連絡先を調べて連絡するべきだと思ったが、そう言った立ち入った事は何も知らない。
実際、今は起きるまでそっとしておくしかなかった。
ただし、三時間程経って起きなかった時は無理にでも起こす事に決めた。
その時間なら電車がまだあるし、流石に朝まで泊めてしまうと、昨日と同じ服で出勤させる事になってしまうからだ。
達彦の事務所には女性が身支度に使う物が何もない。
七瀬も化粧や髪形が崩れたまま学校に行きたくはないだろう。
達彦は、ひとまず三時間が過ぎるのを待つ事にした。

時が過ぎるのを待つ間、達彦はPCを立ち上げwebサイトを見るなりして時間を潰した。
七瀬に起きる気配はまるで無い。
相変わらず安らかな寝顔を晒していた。
達彦自身、女性を苦手とはしていなかったが、無防備に寝ている女性が同じ部屋にいるという事を意識し始めると、多少緊張した。
子供に見えると言っても、七瀬の顔は可愛かった。
逆に子供過ぎる所が、マズイ想像をしてしまいそうだった。
丁度、見ていたニュースサイトに幼児ポルノがどうこうという記事が載っていた。
………………。
「――駄目だっ」
達彦は頭を振って思考を切り替えた。
目の前で寝ている七瀬相手に、それは想像でもマズ過ぎた。
達彦は仕事柄、ただ待つ事には慣れていた。
思考を止めるためにPCの電源を落とし、ただ時間が過ぎるのを無心で待つ事にした。
………………。
そして、無心のまま三時間が経過した。
達彦は携帯の時計で時間を確認して、七瀬の元に移動した。
起こすのが忍びなくなるような寝顔だったが、心を決めた。
「……村井さん、起きてください」
達彦は七瀬の身体を揺すった。
「……ん……すー、すー」
しかし、七瀬に起きる気配はない。
仕方がないので手段を変え、今度は七瀬の鼻を摘んだ。
「……んっ、んんっ……ぷはっ、はぁ、はぁ」
摘んで三十秒もすると七瀬の息が苦しそうになり、そして――
「はぁ、っ!」
飛び起きた。
「――目が覚めましたか?」
「……え、わ、私……あ、ここは?」
七瀬の口調は比較的しらふ近い感じだった。
「ここは私の事務所です。まだ酔いは残ってますか?」
「あ……はい、少し……あ、はぁ、ぁっ……」
七瀬が色っぽい吐息をもらす。
「眠っていたところすみません。ここで朝を迎える訳にもいかないと思って起こしました」
「……いえ、私の方こそ、すみません、でも、まだ、少しふらふらして、って、あ……さっき、わ、私……」
七瀬の顔がお酒のせいだけではなく赤くなる。
キスをした事を思いだした様子だった。
「アレは忘れます。それより交通手段は電車ですか?」
達彦はさらりと答え話をそらした。
さっきの事に触れて欲しくは無いだろう。
それくらいは気を使った。
「え、ええ、今、何時ですか?」
七瀬は達彦の気遣いに気付いた様子で、そう答えた。
「十一時前です。まだ終電までに余裕はあります」
「そうですか……それなら、すぐ帰ります」
「分かりました、駅まで送ります。その先は、平気じゃないなら付き添いますが」
本当にふらふらの状態なら、家まで送り届けるべきだろうと思った。
「そこまでして戴かなくても駅までで大丈夫です。――その、すみませんでした」
七瀬が申し訳なさそうに言う。
「いえ、ただ飲み過ぎは良くないですよ」
「はい。でも、今日の事よく憶えていなくて、そんなに飲みましたか?」
「……まぁ、それなりに」
嘘は言えなかった。
「すみません、ただ、普段こんなに酔う事は少ないです」
「そうですか――じゃ、立てますか?」
達彦が手を差し伸べた。
「はい」
七瀬がその手を取って立ち上がる。
少し足元がふらついていたが、大丈夫な範囲だと思えた。
達彦は七瀬を支えながら事務所を出て駅に向かった。
七瀬の足取りは歩いている内にかなり回復した。
そして、駅前に到着した頃には、一人で立てる状態になっていた。
「あの、本当に色々とすみませんでした。今日の事は近い内にお詫びします」
七瀬が深く頭を下げる。
「別に気にしていませんよ」
「いえ、お詫びさせてください」
真剣な目で達彦の事を見る。
「それでそちらの気が済むなら……」
「はい。――それでは、また明日という事で失礼します」
「ええ、では」
達彦が答え、七瀬が駅の構内に消えて行った。
どこの駅に帰るのか少し気になったが、それは詮索しない事にした。
「……」
駅前にいても用事は無いので、達彦は事務所に踵を返した。

翌日。
達彦はソファーで目を覚まし、シャワーを浴びて早い時間に学校へ向かった。
ひとまず、蒼を捜す事を考えていた。
事件と蒼が関係しているのかを見極める必要があった。
七時過ぎに登校して職員室に向かい、蒼のクラスの名簿に目を通す。
そういった物を見る権限は七瀬が保証してくれていた。
ちなみに、その七瀬はまだ来ていなかった。
会うと昨日の事があるので、達彦としては良かったと言えなくも無かった。
名簿には蒼の住所と電話番号が乗っていた。
それを控えて、すぐに蒼のクラスに向かう。
「……」
その途中で、達彦は蒼がクラスにいない事に気付いた。
彼女のクラスがある方向に、蒼の気配が無かったからだ。
それでも一応蒼のクラスを覗くと、
「あ、おはよう御座います、先生どうかしたんですか?」
声を掛けられた。
昨日、廊下で会った夏本真由だった。
「いや、ちょっと教室の確認とかを」
適当に誤魔化す。
「そうですか、何か分からない事があれば聞いてください」
真由が言う。
そう言うのなら、蒼の所在を聞いてみるのも悪くないと思った。
同じクラスなら何か知っているかも知れない。
「なら、少し聞くけど、このクラスに香月さんっている?」

「は、はい、いますけど」
真由の顔が一瞬曇った。
おそらく煙たがられている生徒なのだろうと思った。
昨日の蒼の様子から、それは簡単に想像出来た。
「今、来ているか分かる?」
「どうして香月さんを?」
「いや、昨日知り合って少し話をしたから」
話しても問題の無い範囲で理由を言う。
「そうですか、香月さんなら、多分外にいると思います。いつも大体そうですから」
真由が少し面白く無さそうに言う。
「そう、分かった、ありがとう」
達彦は礼を言って教室から去った。
真由が何か言いたそうだったが、構っていられなかった。
今はとにかく蒼を見付ける事が優先だった。
校舎の外に出て蒼を捜す。
学校の敷地は割と広い、外というだけでは少し捜すのに時間が掛かってしまいそうだった。
達彦が気配を感じられる範囲は、気配が散りやすい屋外では三十メートルがやっとだった。
校庭では運動部が朝練をしていたので、校舎の裏辺りから捜す。
人のいそうな場所にはいないと直感で思ったからだ。
校舎の裏を見て回るが蒼の姿はなかった。
他に人が少なそうな場所と言えば体育館の裏だった。
達彦はその方向に向かって歩き出した。
その時――。
「!!」
異様かつ強い気配を一瞬だけ校舎の中で感じた。
少なくても、達彦が知っているあらゆる気配と異なる完全な異物の気配だった。
考えられる可能性は多くは無い。
ほぼ、昨日の黒い物体だろう。
手近にあった非常口から校舎内に駆け戻る。
気配を感じた場所に行くと、そこは真っ直ぐな廊下だった。
しかし、視界には誰の姿もない。
「……いや」
僅かだが何かの気配を感じた。
本当に見落としてしまいそうなくらい小さな気配。
達彦は注意深くその気配に向かって接近した。
見た目は何も無い、廊下の一点だ。
「!」
その気配まで後一歩と迫った時、いきなり床のすぐ上に黒い物体が出現した。
フワフワと浮いている。
「昨日のヤツか!」
達彦は直ぐさま後ろに飛び退いた。
昨日と同じ物だとすれば著しく危険だった。
黒い物体は達彦の動きに触発されたかのように、彼に飛び掛かった。
しかし、動きは思ったよりも遅く、達彦はその一撃を難なくかわした。
黒い物体はすぐに向きを変え、再び達彦に襲い掛かる。
その動きは充分対応出来る速さだった。
達彦は向かってくる黒い物体を、ボールのように蹴り上げた。
「はっ!」
蹴りは命中する。
砂の山を蹴ったような不思議な手応えだった。
あまり効いたという気がしない。
蹴られた黒い物体は一端後ろに飛ばされたが、すぐにまた達彦に向かって突進して来る。
単純な動きを繰り返しているように思えた。
ただ突進してくるだけの攻撃しかして来ない。
もし、効果的な攻撃方法が無いなら、よけ続けて逃げるという選択肢が浮かぶ。
ただ、逃げても追ってくるのは確実だった。
生徒がいる校内を逃げ回る訳にもいかない。
何か有効な手段が無いかを模索する。
「……」
と、廊下の端に掃除用具入れを見付けた。
中にモップの一本でもあれば、何も無いよりは、有効な手段だろうと思った。
達彦は素早く用具入れに向かって走った。
黒い物体も達彦を追うが、達彦の方が早い。
達彦は用具入れの中から、予想通りにあったモップを取りだし、迫って来た黒い物体を思い切りぶちのめした。
バンッ!!
モップがへし折れるが、その柄が黒い物体の内部に深くめり込み、今度は固い手応えがあった。
黒い物体はモップから逃れるように後ろに飛び、達彦からやや離れて宙に停止した。
攻め方を考えてるように見えた。
そうだとすると、全く知能が無い相手では無い事になる。
少なくとも、一端距離を保つだけの知能はある。
こうなると、迂闊に動いた方が負ける可能性があった。
達彦は黒い物体の出方を伺う事にした。
ビュ!!
「なっ!!」
その時、唐突に達彦と黒い物体の間を風が駆ける。
何かが全く反応出来ないスピードで目の前を過ぎったのだった。
その何かは突き抜ける事なく、達彦の少し先で止まる。
「――オマエ、何してる?」
達彦に対するものと思われる呼び掛け。
その声に合わせて、黒い物体が音も無く四散した。
「……蒼」
そこにいたのは蒼だった。
手に昨日見たプレート状の剣を持っている。
「質問に答えろ、何してる?」
「何って……君も感じたのだろ?」
達彦はあえて『も』と言った。
「ああ。けど、オマエが先に見付けるとは……」
「その言い方は何か知っているんだな? なら、話してくれないか?」
「それは、こちらの台詞だ。オマエはどうしてここにいる? エサになるためでは無いだろ?」
「この学校で起きている事件を解決して欲しいと頼まれた。君は事件を知っているのか?」
「人の騒ぎに興味はない。私は敵を追っている」
「それは『知っている』という事だな?」
「知ってる」
蒼が短く告げた。
「そうか、なら俺に協力してくれないか? 君が加害者側だとは思えない。何か知っているなら教えて欲しい」
達彦は思い切ってそう言った。
ここで、蒼という手掛かりを失うのは、下手すると事件が解決出来なくなる事を意味していた。
駄目だと言われたとしても、何か少しでも情報を聞き出したかった。
「……」
蒼は遠くを見るような目で達彦を睨んだ。
「血は感じる、けど違う。オマエはなに?」
達彦には意味が分からない事を言う。
「――何を言っているんだ?」
「同族なら、私の方が力が上だ。私の下僕になれ」
「下僕? 何が言いたい?」
明らかに無礼なもの言いだったが、腹が立つ以前に意味が分から無い。世界が違う会話をしているようだった。
「本当に何も知らない存在がいるとは……」
蒼がやや驚いた顔をする。
「だから何が言いたい?」
達彦は少し苛立った。
その気持ちを抑えつつ、蒼が自分に関係ある事を言っているような気がした。
だとしたら、尚更情報を得たい。
「力を貸すのはオマエの方、知りたいなら、教えない事もない」
蒼は素っ気なく言った。
「君に協力しろというなら、協力してもいい。だから教えてくれ、まず、今の黒い塊はなんだ?」
「それは昨日も答えた。『残念』だ。今さっき発生したばかりの、まだ弱いヤツだ」
蒼が『残念』だけ、やや発音を変えて言った。
「それは『残念』という物だという事か?」
「ああ」
「なら『今さっき』とは?」
少し悪い予感がした。
「――その質問は待て、人が来る。ひとまず場所を変える」
蒼が達彦を制して廊下は端を見遣る。
そこに人影は無かったが、達彦にも人の気配が近づくのが分かった。
そう言えば、さっき意識していなかったがHRの予鈴が鳴った気もした。
「じゃ、行くぞ」
そう言って、プレート状の剣を手の中にしまう。
ハッキリと手の肉と融合して、そのまま消えて行く。
「――」
思わず達彦の動きが止まってしまう。
直視すると、その非現実度に目眩すら憶えた。
「早くしろ、置いていくぞ」
蒼が非常口を開けて言う。
「……あ、ああ」
達彦は何とか我に返り、蒼を追った。
外に出た蒼は校門の方に歩いて行く。
「学校から出るのか?」
蒼に追いすがって聞く。
人気の無い場所を探すのに学校から出る必要までは無い気がした。
「いや、昇降口に戻るだけだ。そこから階段で上に行って、人のいない場所を探す」
「だったら丁度いい場所がある」
「どこだ?」
「茶道室。俺が単独で使える」
「……そんな部屋知らない」
「使われていないと聞いたからな」
「――そうか、分かった。ならそこへ」
「ああ」

達彦達は茶道室に入り念のために鍵を掛けた。
授業が始まっている時間だが、蒼はとくに気にしている様子は無かった。
茶道室を見渡して部屋の中心に佇む。
「……ここ、凄く静かだ」
「そうだな、教室から離れているから、生徒の声が伝わってこないし」
「確かに」
「――それじゃ、話してくれないか?」
達彦は畳に座って蒼を促した。
「いや、その前に、聞きたい」
蒼が達彦の方を向き、畳の上に体育座りする。
「オマエ、本当に何も知らないのか?」
スカートの中が達彦に見える座り方だったが、どちらも大して気にしていない様子だった。
「その質問の意味すら分からない」
達彦は答えた。
蒼が自分の事について何か知っている様子なのは分かったが、蒼が何を知っていて、また、何を知りたいのかは見当もつかなかった。
「そうか……分かった。なら、簡単に結論を言う。オマエは人じゃない」
「……は?」
蒼の言った一言は達彦を硬直させた。
普通に聞いたら笑ってしまうところだが、笑えない雰囲気が蒼にあった。
蒼はとても真剣な顔で続けた。
「私達は、人とは別の生き物だ。それを今まで認識しないで、生きていた事が、信じられない」
「……嘘を言っている訳じゃないよな?」
「ああ」
蒼が即答する。
「じゃ、聞くが、俺が人間じゃないとしたら、何なんだ?」
「人は……この国の言葉だと私達の事を『竜』と呼んだ。ただ、どうして、そう呼ぶのかは、私の知識にない」
蒼が少しつっかえながら言う。
出会った時から思っていたが、蒼の喋り方はどこかたどたどしい。
もしかして日本語を喋るのに慣れていないのかも知れないと思った。
日本名を持っていて、日本の高校の二年生だが、あり得ない事ではない。
まして、違う生き物だというのなら……。
「……」
竜という言葉から連想されるのは、トカゲのでっかいのだった。
達彦は自分がトカゲだとは到底思えなかったし、目の前の蒼がトカゲにも見えない。
「……君が普通とは違うのは分かる、けど、竜って、君はその言葉が指す生き物を知っているのか? 日本語に慣れてないみたいだけど」
「知ってる。確かに、今の私の姿とは相違している。日本語が下手なのは、まだここに来て三日しか経ってないからだ。人の言葉の発音差は、能力を使っても処理しきれない。慣れないと」
「三日っ!? それはないだろ? 名簿とかクラスの子の反応だって」
最低三ヶ月は経っているという反応だった気がした。
少なくとも三日前に来た人間に対する反応では無かった。
「オマエ、本当に何も知らない。竜なら人の記憶に入り込める。あり得ないモノを作り出す事が出来る」
「じゃ、この学校に三日前に来て、あたかも前から居たように偽装しているというのか?」
人の常識ではあり得ない事だった。
完全に超常の力だった。
「ああ、私は目的があって世界を点々としている。だから、何処に行っても、そこにいて不自然ではないように、前から私がそこにいたかのように、記憶に干渉している」
「メチャクチャだな……そんな話を信じろと?」
荒唐無稽過ぎる話だった。
何の証拠も無く信じられる話ではない。
全くの作り話だと言われた方が、まだ信じられた。
「話を信じさせる事なら出来る」
蒼が意味深な事を言う。
自称、記憶に干渉する力を持つ能力者が言うと、一気に怪しさが増す。
「……洗脳とかいうなら、遠慮する」
達彦は引き気味に言った。
「そういうのは同族にはやりにくい。それにやった事がない。今まで同族にあったのは、二回しかないから」
「……じゃ、どうするつもりだ?」
「私の血を飲め。そうしたら、オマエの血が目覚める、必然的に全てを悟る」
「血……?」
「そう、一滴で良い」
「君の血を飲めと?」
「そう」
蒼は躊躇いなく言う。
飲む事は自体は、一滴なら舐めるだけだろう。
しかし、その行為に抵抗を感じた。
他人の血を飲むという事には、何か禍々しさがあった。
「飲めば、ハッキリする。ただ、その後、人の生活は送れないかも知れない。どうする?」
蒼が淡々と言う。
その言葉から血を飲んでしまった場合、劇的な変化がある可能性も予測出来た。
「……」
迷わずにはいられない選択だった。
もし、蒼に不思議な力があるなら血を飲む事で、それが証明されるのだろう。
逆にただの嘘だとするなら、血を飲んでも何も起きない。
飲むと言っても、ただの一滴だ。
難しい事は何もない。
「分かった――飲もう」
達彦は覚悟を決めた。
飲まない事には、状況が進展しないと思った。
「なら――」
蒼が自分の左手の小指を口に含んだ。
そして小さく噛んで口から出す。
すぐに指先から血が滲み出した。
「舐めて」
指をスゥーと達彦の前に出す。
密室で少女の血を飲む。
そこにはオカルトめいた空気があった。
普通なら胡散臭いと思ってしまうような状況だったが、今の達彦は緊張していた。
蒼の指先に血が滲んで行き、やがて垂れる直前くらいに溜まる。
達彦は蒼の前に移動して、片膝を付く姿勢で、その指先を舐めた。
「……」
普通の血の味だった。
鉄っぽく、生っぽい味。
「……!!」
しかし、そんな風に感じたのは一瞬だった。
達彦の胸が突然苦しくなる。
「くぅっ!!!」
心臓が締め付けられるような痛みに襲われる。
「――はじまった」
蒼が呟く。
その呟きは達彦の耳には入らなかった。
とにかく、死ぬ程の苦しさだった。
痛みで呼吸すらままならない。
「ぁぁぁ……ぐっっ!」
胸を掴み、畳の上をのたうち回る。
次第に視界が暗くなり何も見えなくなる。
同時に意識も薄れて行く。
何も考えられなくなった時。
「ぐぁぁっ!!!!!」
達彦の中で『何か』が弾けた。
痛みが止み、今度は全身が熱くなる。
「!!」
突然視界が戻る。
真っ赤に染まった世界が目に映った。
あらゆる物が赤く染まっていた。
その中に通常と同じ色の蒼が居た。
蒼を見た途端、達彦の思考は一つの事に埋め尽くされた。

コイツヲクラウ

野獣のように天井まで跳躍し、そこに逆さまに張り付く。
達彦の目はただ蒼だけを捉えていた。
「制御も出来ないのか」
蒼は哀れみの視線を達彦に向けた。
「グゥゥゥッ!」
達彦は蒼を理性の無い野獣の瞳で見返した。
そして、蒼に向かって天井を蹴って落下する。
「グォォォ!!!」
「制動」
達彦が吠えた瞬間、蒼が一言だけ呟いた。
すると、達彦の身体が飛び掛かる姿勢のまま硬直して、蒼の手前に落下した。
まるで彫刻のように畳の上に転がる。
完全に動きを封じ込められた様子だった。
「ここまで劣っているとは、思わなかった」
蒼が床に転がる達彦の前にしゃがんだ。
そのまま達彦の顔に自分の顔を近づけ、その口にキスをする。
「ちゅ、んっ、ちゅう……んんっ……ちゅう」
達彦の口元だけが僅かに緩み、蒼のキスを受け入れる。
蒼は達彦の口の中の物を吸い出すように、深く長いキスを続けた。
「んっ、ちゅう、ちゅぷ……ちゅ」
それは与えた血の量を調整する行為だった。
徐々に達彦の目に理性が戻る。
「んふ、ぷはっ……こんなものだろう」
唇を離すと、達彦の目が閉じられた。
意識を失った様子だった。
蒼はその身体を仰向きに転がらせて、その身体を足で小突く。
「目を覚ませ」
数回の突きで、達彦の目が開いた。
「あ……は、はぁ、はぁ……はぁっ」
達彦は目を覚ましてすぐに、異常な息苦しさに襲われた。
前後不覚に陥っており、状況がまるで分からなかった。
「そのまま聞け。少し強すぎた。でも、感覚は覚醒したはずだ」
蒼が涼しい声で呟く。
「はぁ、はぁ、な……何の事だ?」
達彦は何とか身体を起こして蒼を見た。
蒼が言った言葉の意味が理解出来なかった。
「一体……何が起きたんだ?」
血を飲んで急に苦しくなった後の記憶が無かった。
おそらく気を失った事は何となく分かる。
そして、目覚めてみると全力で走った後のような息苦しさに苛まれている自分がいた。
「起きた事を気にする必要はない。とにかく意識しろ。空間が認識出来るはずだ」
「意識って言われても……」
何の事だと思った時。
達彦は変化に気付いた。
自分の中に五感とは別の感覚が芽生えていていた。
「……!」
声を失う。
自分の周りの空間を見えていない部分まで認識出来る。
そんな感覚だった。
世界と自分を隔ていた壁が急に無くなったように、世界の見え方がガラリと変わった。
学校全体の様子が手に取るように脳内に流れ込む。
どこに人が何人いるか、その人間がどういう風に動いているか、そんな事まで分かる。
「こ、これは……一体」
達彦は新たな感覚から与えられる情報量の多さに戸惑った。
「人じゃなくなったという事だ。人の感覚を詳しく知らないが、随分窮屈なものだと聞いた。竜はそんな事ない」
「自分が世界に漂っているみたいだ」
捉えた空間情報の海に浮かぶ、一つの船という感じだった。
「オマエがどう感じているかは知らない。ただ、感じ方は調整出来る。慣れないなら絞れ」
「どうやって?」
「それは匂いをどうやって嗅ぐか、という質問と同じだ。自分で気付け」
「……」
蒼の答えは素っ気なかった。
感じ方を弱めるという以上、その感覚を意識しないようにするしかないのではないかと思った。
すると、徐々に感覚の制御の仕方が分かってくる。
数分、無言で集中して、自分が混乱しない程度まで感覚を絞る事が出来た。
「……どうだ、分かったか?」
蒼が達彦の様子を見て聞く。
「あ、ああ、これは凄い……」
「今、感覚を絞ったのだろうが、逆に広げる事も出来る」
「広げても、情報を処理しきれない」
「理解空間は能力に応じて広げられる。オマエでは、多分、この学校全体で限度だ。強い竜なら、この星一個を丸ごと観れる」
「そ、そこまで……じゃ、君は?」
「私は、はぐれた存在だ。だから、精々この街全体くらい」
蒼は微妙にばつが悪そうに言った。
「はぐれた竜って? じゃ、それは俺もそうなのか?」
達彦は今まで人として暮らしてきた。
自分が竜だという認識はまるでなかった。
そして、異常な感覚を身につけた今でも、自分が竜という存在だとは信じ切れなかった。
「覚醒して尚、自分の事が分からないのか?」
蒼が逆に聞き返す。
「そう言われても、感覚以外は何も変わっていない」
「……それはあり得ない」
「そんなに特殊な事なのか?」
「ああ、オマエが何か、私にも分からない。竜の血を持ってはいるのだろうが、詳しく調べる事は出来なくはないが、したくない」
「どんな方法だ?」
「交尾だ」
蒼が何の躊躇いもなく言う。
「……す、すまない、無神経だった」
まさか、そんな事だとは思わなかった。
達彦は素直に詫びた。
「謝る事じゃない、別にオマエが強いならいい。けど、役にも立たない強さの竜と交尾しても意味がない」
それは男性としての魅力がまるでないような言い方だった。
「そこまで言われると……ややショックだな」
「なぜだ? 事実を言っただけ」
蒼はまるで分からないという顔で言った。
「……分かった……それはいい」
蒼に人の心情は理解出来ないようだった。
違う生き物だというなら、仕方ないと思えた。
「分かったならいい。――それで、話を戻す。事件の事だったな?」
「ああ、事件の事を何か知っているのだろ? 教えてくれ」
達彦は気持ちを切り替えた。
「事件については、私が調べているが、それに協力するというなら、私の下僕になれ、そうしたら教えやる」
「下僕……」
何とも卑屈な響きだった。
「それは君にとって意味のある事なのか?」
「ああ、竜が二人で協力する時は、より力の強い竜が、もう一方を下僕にするのが普通だ」
蒼は言い切った。という事は、それが竜の価値観として譲れない事なのだろう。
「下僕という事は、君に対して従属義務や支払いがあるって事か?」
言葉的にそう言う意味だと思った。
「ああ、食事の提供だ」
「食事ね」
一瞬、随分楽なものだと思ったが、竜の食事が人間と同じとは思えないところもあった。
「一応聞くけど、君はどんな物を食べるんだ?」
「意思ある存在の命だ」
蒼がさらりと言う。
「な――!」
達彦は自分の耳を疑った。
意思ある存在とは、つまり人間の事ではないのだろうか……。
「ど、どういう事だ?」
「そのままオマエの命を食べるという意味だ」
蒼が涼しい顔で言う。
達彦は言葉に詰まった。
そんな契約は到底出来ない。
「そんなに驚く事か? 人間だって他の生き物を殺して食べるだろ?」
「それはそうだが、喰われて死ぬのはゴメンだ」
「いや、別に死にはしない。私が命を食べても普通なら少し疲れる程度。ただ、無作為に食べてしまえば人は念を残し『残念』となる。竜が竜を食べた場合は、食べた方がもう一方を吸収する」
「ちょっと待って、という事は、あの黒いヤツは、君の一族の仕業って事か?」
蒼は黒い物体を『残念』と呼んでいた。
「違う。竜は無作為に食べる事は普通しない」
蒼は少し怒った顔をして言った。
「なら、あの黒い物体は誰が生み出したんだ?」
「その事を、私の下僕になるなら教えると言っている」
「そういう話か……なら、分かった。それで、俺が下僕になるとして、君に喰われて本当に死なないのか? 今、相手が竜の時は、吸収すると言っただろ?」
「私にオマエを吸収して一体化するつもりは無い。食べる量は抑える。食べてた意識は放っておけば随時回復する。特に大きな問題は無い」
「それなら理解は出来るが……」
達彦は下僕になる事を考えた。
要するに時々、自分の精神力を相手に渡すという事だろう。
その程度で蒼の協力が得られるなら、確かに大きな問題は無い気がした。
「いや」
ふいに、大きな疑問が脳裏を過ぎった。
「一つ疑問がある」
「何だ?」
「俺が竜だとしたら、意識なんてものを喰った経験がない」
それは単なる事実だったが、蒼の言葉に嘘が無いとすると、矛盾する事実だった。
達彦はこれまで普通の食事をする事で生きて来た。
それ以外に何かを食べた記憶は無いし、意識を食べたいと思った事も無い。
「竜は意識以外の食べ物でも生きていけるのか?」
達彦の問いに蒼は驚いた顔をした。
「そんな竜はいない。意識の補給は必須だ。もし、無意識で食べていたとするなら、オマエは危険な存在という事になる」
「そう言われてもな……」
無意識の事の自覚なんてあるはずが無い。
危険と言われても、自分としてはどうしたら良いか分からなかった。
「何か自覚は無いのか?」
「無い」
「そうか、現状のオマエを見ていると、危険な感じはしないが……」
「なら、俺が竜というのが間違いなんじゃ?」
「いや、私の血で能力が目覚めた以上、竜と無関係とは思えない。何かあるのだろう……」
蒼が考え込む。
そして、
「オマエが何であるかを見定める必要があるな」
数秒考えた後に言う。
「どうする気だ?」
嫌な予感がした。
「オマエを強制的に私の支配下に加えて様子をみる。拒否するなら殺す」
蒼は言い切った。
否定を許さない絶対的な口調だった。
「随分と無茶を言うな……」
「一応、オマエの生存を優先している、問題は無い」
「それは俺が殺されて当たり前の存在だと言う事か?」
「ああ、オマエの言ってる事が事実なら。ただ、それが分からないから様子をみる」
蒼は何処までも本気の様子だった。
「拒否したら、本当に、殺すのか?」
達彦はゆっくりとした口調で確認した。
「ああ」
ただ一言頷く。
その瞬間、蒼の中で殺気が発生した事を、達彦はハッキリと感じ取った。
今すぐにでも殺すという事が嫌でも分かった。
達彦は生唾を飲み込んだ。
「本気なんだな……?」
「そうだ、分かっているなら、死にたくはないだろ?」
「返事は今、即答でか?」
「ああ、断るなら直ぐさま殺す」
「分かった」
もし時間が延びたところで何も変わらない気もした。
生き残りたいなら、断る選択肢は実質ない。
蒼が本気なのはすでに疑いようがなかった。
「分かった。君の下僕にでも何でもなる。その代わり事件の解決に協力してくれ」
達彦は覚悟を決めて言った。
「了解した」
蒼から殺気が消える。
「ただ、事件はこっちがオマエを使って解決する立場だ」
と、付け加える。
「ああ、それでも構わない、事件さえ解決するならな。――で、下僕になったら一生下僕なのか?」
「そんな事をする気はない。オマエが危険では無いと判断出来れば、事件解決と同時に去っていい。竜は基本的に他の竜に干渉しない」
「そうか、なら何も問題ない。それで、俺は下僕になると言うだけでいいのか? 何か特別な事はしないのか?」
口約束では弱すぎる気がした。
「竜を下僕化する場合、血を飲ませて、その血で制御する。だが、オマエに余り多くの血は与えられない。だから、単にオマエが抵抗せずに私に食べられる事が条件だ」
「血を多く与えられないって?」
「オマエは私の血を飲んで暴れた」
「俺が暴れたって、あの時の記憶が無いんだが……?」
「ああ、暴れた。その時、私の血でオマエを制御した。私の血がオマエの身体中にある内は、オマエの行動を簡単な範囲で制御可能だ。もし何かあった場合は、その力を使う」
「制御って……そう言うのは俺が血を飲む前に言うべきものだろ?」
実質、血を飲んだ時点で下僕になっていたようなものだった。
達彦は騙されたような気持ちになる。
「あの程度、量の内じゃない。それに覚醒を促すための不可抗力だ」
「だとしても今、俺を制御出来るのだろ?」
「その気になれば可能だが、非常事態以外に使う気は無い」
「それを信じろと?」
「当然だ」
蒼の言い切りは傲慢だったが、逆に嘘が無い潔癖さがあった。
「……分かった、それでいい。契約しよう」
達彦は納得した。どのみち、断っても殺されるのでは選択肢はなかったし、蒼を信じて良いとも思えた。
「了解だ。契約を承認する」
「ああ」
契約が成立する。
「――で、要するに君が俺を喰う時、抵抗しなければいいんだな?」
「そうだ」
「分かった。――なら、事件について話してくれ」
随分と回り道をしたが、やっと本題に入れると思った。
「話すのは良いが、オマエが理解出来ないかも知れない、その上で、話す」
「まぁ、理解が及ばない話になるのは予測済みだ。別に構わない」
「そうか、なら話す。事件を起こしているのは、魔竜だ。魔竜は竜が敵とする存在だ。人も竜も喰らい、放置すれば力を蓄え、やがてこの星全ての命を喰らってしまう。単純に滅びを呼ぶためだけにあるような存在だ」
「……かなり強そうな存在に聞こえるが?」
「最初は弱い。だから見付け次第消滅させる。それが私達の仕事だ」
「他の竜も魔竜を消すために活躍しているのか?」
「ああ」
「なら、なぜ協力し合わない」
協力した方が、個別で戦うより普通は戦力になるだろう。
「竜の基本理念の問題だ。魔竜が何らかの要因で強力化した時は、共同で戦う事もある。ある種、今回もそうだ」
「俺と協力する事か?」
「ああ、今回の魔竜は知恵がある。滅多に発生にしない型だ。だから、私一人では辛い。もう七人は喰われた、それが行方不明の生徒達だ」
「七人? 五人じゃなくてか?」
達彦への捜索依頼は五人だった。
という事は、昨日からもう二人も消えたという事なのだろうかと思った。
「昨日までは五人だった。さっき、オマエが出て来た辺り、あそこで あの時一人喰われた。もう一人は昨晩だ。さっきのはオマエも気配を感じたのだろ?」
「さっきって、気配を感じて俺が駆け付けるまで一分も無かったぞっ、相手はそんなふざけたヤツなのか!?」
蒼の話が事実なら、相当に無茶な相手だった。
一分弱の時間で対象を食べ逃走する事が出来る相手を何とかしようというのは、実質不可能な事だと思った。
「ああ、今回の魔竜の能力は高い、だから、私も困っている」
「そんな相手と戦う時、俺がいて何の役に立つ。実際、君より能力が低いのだろ? 足手まといじゃないのか?」
「囮になって貰う。オマエが餌なら網に掛かる可能性は高い」
「なぜだ?」
「オマエの竜の血を、魔竜は欲する。これだけの勢いで人を食うヤツなら、能力が低い竜であるオマエは格好の標的だ」
「そういう事か」
分かりやい理由だった。
「じゃ、出会った時に君が気配を出していたのは」
「ああ、『残念』か魔竜を引き寄せるはずだった。けど、オマエが釣れたという事だ」
初めて会った時に『いい標的』だと言われた意味をやっと理解した。
「じゃ、俺はいつでも魔竜の的という事だな」
「そうなる。ただ、いま、魔竜の行動範囲はこの学校の周辺だけだ。学校から離れれば問題ない」
「問題無いって言われてもな」
実質、蒼の庇護に入る以外に、選択肢は無かったのかも知れないと達彦は思った。
自分一人の力を考えた時、とても『残念』や魔竜に対抗出来るとは思えない。
蒼がいなかったとしたら、何も知らないまま魔竜に喰われていた可能性が濃厚だっただろう。
「話を戻す、ひとまずオマエを囮として使う。それでいいな?」
「ああ」
頷くしかなかった。
「よし」
「で、俺は適当にプラプラしていればいいのか?」
「それで良いが、実は、それより前にする事がある」
「なんだ?」
「『残念』の処理だ。さっきの入れて六体は処理した、残りは一体だ」
「『残念』って、あの黒いヤツか、アレは要するに被害者の残りカスなのだろ? 放置していると害があるのか?」
「オマエ、自分が襲われた事を忘れたのか?」
蒼が呆れた顔で言う。
「忘れた訳じゃない。俺が言いたいのは、俺以外の相手を襲うのかという事だ」
「ああ、『残念』は人を襲う、そして放置すれば魔竜に成長する。それを放置は出来ない」
「……厄介な存在って事か」
「だから、まず優先して狩る必要がある。魔竜より見付けやすいし、弱いからな」
「分かった、それで、俺は残り一体の探索の役に立つのか? 囮というなら、今も囮だろうけど」
「オマエに『残念』か魔竜が食いつけば早いが、オマエにも理解空間で『残念』を探して欲しい。人以外の存在を感知すれば、それが『残念』だ。魔竜の方は意識を食べる時以外は、自分の気配を隠している」
「感覚が人の時、俺は『残念』を知覚出来なかったが?」
何の気配も無い場所から、突然、『残念』が産まれたようにしか思えなかった。
「『残念』は物体として固定されていない。人を補食する時だけ物体化する。だから、物体の気配としては感知出来ない。ただ、竜の知覚なら、空間に固定されていない時に見付けだせる。その上で向こうを力で物体化させて、攻撃する」
「……という事は、屋上で出会ったヤツとさっきの『残念』は、俺を喰うために実体化したところを、君が処理したという事か?」
「そうなる。実体化させる手間が省けた事は、一応、礼を言っておく」
「いや、別に意図してやった訳じゃない。――それで一応確認するが、魔竜に喰われた人間の身体はどうなる? 『残念』という形になって生身が完全消滅するなら、事件としては殺人にはならなくなってしまうからな。単なる行方不明事件という事になる」
死亡が確認出来ない場合、どこまで行っても行方不明のままだ。
「それは先にも言った、命を全て食べられた身体は、その存在を留めておけず『残念』になる。生身は残らない」
「そうか、分かった」
依頼された事件を、きっちりとは解決出来ない事が決定した。
「ところで聞くが、竜と魔竜は元は同種なのか? 話を聞く限り共通点が多すぎる」
当然のようにその結論に行き着く。二つは似ていた。
「知らない。私にそこまでの知識はない」
「知らないと言っても、普通に考えて無関係ではないだろう?」
「ああ」
蒼は無愛想に頷く。
その様子から、本当に知らないような気もしたし、知っていても答えないだろうという気がした。
「……そうか、まぁ、大体分かった。この先、気になった事があったらその都度質問するけど、いいか?」
「別に構わない。その代わり私はオマエを利用する」
「了解。それでこの後どうする? 俺は仕事の依頼仲介人と会おうと思っているが」
分かり易い解決が出来ない旨を伝える必要があった。
「放課後、待ち合わせよう。授業時間に魔竜が動いた事はいまのところない。単に余りに人が密集していて、目標を絞れないだけだと思うが……現れないのなら、どうにも出来ない」
「『残念』の方は?」
「あれは意識が群れている空間には、存在出来ない。だから、魔竜と同じ事だ」
「そうか、なら、放課後、この場所でいいか?」
「ああ、この場所は、私も自由に使わせてもらうぞ」
「それは構わない。ただ、俺以外の人がいる時は遠慮してくれ」
「ああ、問題ない」
「じゃ、一端解散だ」
「無いとは思うが、襲われたら私を呼べ、校内にいるなら、オマエの感覚で私を知覚すれば私の方が気付く」
「分かった」
そして、二人は茶道室を後にした。

◆3

達彦は一時間目が終わった後、職員室に向かった。
そして、七瀬の顔を探す。
居なければ呼び出して貰うつもりだった。
すると、室内にいた七瀬と目が合う。
「あ、こんにちは、何か?」
職員室内という事もあり、七瀬が普通に挨拶する。
「ええ、少し」
外に出て欲しいという意味で達彦が言う。
「あ、はい、じゃ――」
達彦の意図はすぐに伝わった様子で、七瀬が立ち上がった。
そのまま二人で職員室の外に出る。
「――事件に関係する事なんですが、軽く報告が」
達彦は小声で切り出した。
「はい。でもその前に、昨日はすみませんでした」
七瀬が軽く頭を下げた。
「いえ、気にしていませんから。――それで報告の方ですが聞いてもらえますか?」
昨日の事など、今の達彦にとっては完全にどうでも良い事になっていた。
「それは構いませんが、ここですぐ済むよう事なのですか?」
「ええ、簡単です。――例の件については諦めてください。詳しくは後で報告します」
ハッキリと変わらない事実を述べた。
人知の及ぶ話では無い以上、どんな言い訳をしても、生徒が見付からないという結論は変わらないからだ。
「それは死亡という事ですか?」
七瀬が眉をひそめた。
「死亡とはならないでしょう。ただ見付からない事には変わりありません。刑事事件になるのは避けられないかと」
「――そうですか、分かりました。後で詳しく伺います」
七瀬は神妙な面もちで頷いた。
「分かっています、それと、捜査については続行中です。次の行方不明者が出ないように最善を尽くすつもりです」
「え、それは、そこまで依頼したつもりはありませんが」
七瀬が意外だと言う顔をする。
「いえ、危機を防ぐ事が出来るなら、防ごうとするのが当たり前です。それだけの前金も貰っていますから」
それはかなり本心だった。
解決出来る事件なら、自分の手で解決したいという職業意識的なものだ。
当然、それ以外に蒼との約束もある。
「――そうですか、分かりました。では、お任せします」
七瀬はそう言って、頭を下げた。
「はい。ではまた後で」
達彦は七瀬に会釈して、その場を去った。
放課後まで特にする事もなかったので、茶道室に戻って待機していようと思っていると、廊下の先から声を掛けられた。
「先生」
真由だった。
達彦の方に向かって来る。
「香月さんは見付かりましたか?」
「まぁ、一応」
「そうですか――それで、授業の予定とかどうなりました? うちのクラスを教える日はありますか?」
「いや、しばらくは無いと思う」
真実は言えない以上、達彦は曖昧に答えた。
「あ……そうですか」
真由があからさまに残念そうな顔になる。
「私の授業が楽しみなの?」
「……あ、そ、それは、あ、えっと……」
顔を赤くして俯く。
「……」
好意を持ってくれているのは嬉しかったが、おそらく数日で去る身としては対応に困るしかなかった。
「あの、先生、良かったら、今日……お昼休みに昼食を一緒に食べませんか?」
真由が顔を上げて言う。
「まぁ、構わないけど」
お昼くらいならと思う。
「本当ですか?」
顔がパッと輝く。
「ああ。ただ、何にも用意して来てないから、君の誘いがどういうものかにもよる。学食とかでは流石に私が食べにくい」
達彦は出前でも取ろうかと思っていた。
「あ、それは、もし良かったら、私の作ったお弁当を食べて欲しくて、場所は何処か校庭の隅の日当たりの良い場所とか……」
真由が焦りながら言う。
お弁当を用意しているとは、なかなか積極的だった。
そんなに気に入られたのだろうか?
数日で去る身として、好意を受け取るべきか迷う。
「……やっぱり、お弁当とかは恥ずかしいですか?」
答えないでいる達彦に言う。
「いや、いいよ。昼休みになったらこの辺りにいるから」
好意を受ける事にする。
別に噂になったとしても、数日しか居なかった人の事など、その内に忘れ去られてしまうだろうと思った。
「あ、ありがとうございます」
真由が大袈裟に頭を下げる。
「いや。じゃ、またお昼に」
「はい」
真由は嬉しそうに去って行った。
達彦はそのまま茶道室に向かい暇を潰す事にする。
相手が動きだすという夕方までは待機する以外に他はなかった。

四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、特に何事も無いまま昼休みになった。
達彦は真由と待ち合わせた廊下に向かった。
校内を昼休みの喧噪が包んでいた。
蒼によって目覚めさせられた感覚を使うと、学校中の生徒の動きが手に取るように分かる。
ただ、個人を特定するには相手の意識の質を自分が知っている必要があった。
個体差は特定出来るが、それが誰かは予め知っていないと分からない。能力の性質的に当然の事だった。
今、達彦が学校内ではっきり誰と分かるのは、蒼、七瀬、真由の三人だった。
それ以外の人間については、そもそも知らないに等しい。
三人の内、蒼はおそらく位置的に教室内、七瀬は職員室にいた。
そして、真由は達彦のいる方に向かって来ていた。
達彦が待ち合わせの廊下に着き一分もしない内に真由が到着する。
「先生、お待たせしました。――じゃ、外にいきましょう」
真由が弾んだ声で言う。
手にはお弁当が入っていると分かる巾着袋をぶら下げていた。
「あ、ああ」
外に出るために昇降口に向かう。
と、その時。
「あ、山内先生」
達彦の背後から七瀬の声がした。
「え」
達彦は一瞬何事かと思った。
七瀬が近付いていた事に全く気付かなかった。
さっきまで、七瀬は職員室にいたはずだった。
職員室から達彦が今いる場所まで特に離れている訳ではないが、気配を悟る暇が無いくらいに、一瞬で移動出来る距離ではない。
単に気付かなかったという事もあるかも知れないが、その確率は限りなく低い気がした。
それは、達彦が気配を読む事に元々慣れているからだ。
新しく身につけた能力といっても、元からあった自分の能力が極まった物だとも言えた。元より、少しは竜の力が使えていたのかも知れない。
つまり、達彦に気配を悟られずに、彼に近付くというのは、気配が無い存在以外には不可能だと言えた。
「……」
達彦は注意深く七瀬の気配を探った。
しかし、目の前にいる七瀬の気配におかしい所は無い。
だが、七瀬の気配に気付かなかったのは、これで二回目だった。
引っ掛かる物が、どうしても残ってしまう。
「どうかしましたか?」
立ちすくむ達彦に対して、七瀬が何気無い風に言う。
「い、いえ――それより何か?」
答えつつ、さらに七瀬の気配を探る。
その気配は、やはり普通の人間だった。
気配を殺しているという雰囲気も無い。
全ては気のせいなのかも知れないと思えてしまう。
「お昼でも一緒にと思って声を掛けたのですが、昨日の事のお詫びも兼ねて奢ります」
七瀬の喋りはあくまで普通だ。
しかし、どうしても疑ってしまう。
気配が感じられなかった事が、普通とは思えなかった。
達彦が判断に迷っていると、不意にシャツの裾が引っ張られた。
「……先生」
真由が分かり易い顔で達彦の事を見ていた。
その目は『まさか私の方を断らないですよね』と言っていた。
「あ……先約ですか?」
あまりに分かり易いので、七瀬が事情に気付く。
「ええ、まぁ」
「そうですか。では、また今度で構いません」
「すみません」
達彦は軽く頭を下げた。
「いえ、では失礼しますね」
七瀬が達彦達から離れて行く。
行かせて良いのか? と思った。
食事云々の話ではなく、気掛かりを放置して良いのかという事だ。
ここで、もし、事態が動いた場合を想定する。
そうなった時、達彦一人で対処出来るのは、人知の範囲までだ。
七瀬に感じた気掛かりが、今、発生している魔竜の事件に絡むものだった場合、達彦では対処出来ない。
そう考えた達彦は、一度蒼に相談するべきだろう言う結論を出した。
「――先生?」
真由がまたシャツの裾を引く。
今度は、疑問の表情が浮かんでいた。
「ん?」
「村井先生と何かあったんですか?」
「いや、別に。多分、校内施設の説明とかだと思う」
適当な事を言う。
「お詫びとか言っていたと思うのですが?」
「それは大した事じゃない」
「……そうですか、分かりました。それじゃ、行きましょう」
真由が一瞬考える顔して、先に歩き出す。
達彦はそれに続き、そのまま校舎の外に出た。
外は晴れていて風もなく、お弁当を食べるのには好条件だった。
校庭の隅――花壇があり芝生が敷かれているスペースに移動する。
先客は誰もいない様子だった。
「ここでいいですよね?」
真由が花壇の縁を指差す。
椅子として作られた訳ではないが座るのに丁度良い段差があった。
達彦が頷き、二人で腰掛ける。
校庭では数人がボール遊びをしていたが、互いの存在を気にする距離ではなかった。
実質、二人だけの空間が出来る。
「これが先生の分です」
持っていた巾着から薄いブルーのお弁当箱を取り出す。
巾着に入っているもう一つのピンクの弁当箱よりやや大きい。
「ありがとう」
達彦はお弁当を受け取って蓋を開いた。
中にはおかずが綺麗に納められていて、食事に対してこだわりの無い達彦の目にも美味しそうに見えた。
見た目と味が比例しない事もあるが今回の場合それは無いと思えた。
「それじゃ、食べてみてください」
「ああ、いただきます」
弁当箱に付いていた箸を取りだし、おかずの一つミニコロッケを口に運ぶ。
味はそんなに分かる方では無かったが、充分、美味しいと思える味だった。
「――どうですか?」
真由がやや強張った表情で聞く。
「普通に美味しいよ」
「そうですか、良かった」
顔から緊張が消える。
「それじゃ、一杯食べてくださいね」
そう言って、真由は自分の分のお弁当箱を開けた。
「ああ」
二人でお弁当を食べ始める。
達彦は食べながら、この先、真由に対してどういう態度を取るべきかを考える。
どの道、数日で居なくなる以上、真由にそれなりに合わせればよいのかも知れないが、真由の気持ちの度合いが本気に近い場合は、それでは少し可哀相な気がした。
まずは、真由の気持ちの度合いを確かめる必要があった。
その上で本気だというならはっきり断るべきだろう。
「なつ――!」
真由に呼び掛けようとした時、達彦の理解空間内に異常が発生した。
校舎内のあるポイントに『残念』が発生した事を知る。
「せ、先生……?」
真由は不思議そうな顔で達彦を見る。
その視線の先で、達彦は固まっていた。
「――夏本さん、すまない、ちょっと用事を思い出した」
達彦は残っていたお弁当を一気にカッ喰らい、立ち上がる。
「え、えぇ?」
「……っく、美味しかった」
飲み込みながら言う。
「――けど、私に対して本気じゃないなら、もう誘わないで欲しい。それじゃ」
お弁当箱を真由に返し、達彦は校舎の方に駆けた。
残された真由は茫然とするしか無かった。

校舎に駆け戻った達彦は『残念』がいるポイントを絞り込む。
置き去りにした真由の事を可哀相だと思ったが、構っている暇はなかった。
いる場所に目星を付け、そこへ向かって走る。
その最中に蒼の気配を強く捉えた。
蒼も同じ方向に向かっていた。
という事は、当然、気配の異常に気付いたのだろう。
二人が向かう場所は、理科室などの特殊教室が並ぶ校舎の一角。
そこは基本的にあまり人気の無い場所だった。
廊下を走り、その一角に立ち入ると、先を走っている蒼の姿が目に入った。
「蒼っ!」
「理科準備室、中にいるっ」
呼び掛けと答え、短いがそれで充分伝わった。
蒼がそのまま理科準備室の前まで走り、躊躇い無く扉を開け放つ。
達彦はその背後に付けた。
準備室内は、異様な空気が満ちていた。
どす黒く重い。
室内を見通す事が出来るが、それは単なる視覚的な意味しかない。
もっと別の何かが、どす黒い気配を放ち、視覚的に見えない何かとしてそこに存在していた。
気配が分からない人間には、普通の準備室にしか見えない光景が、達彦達には真っ黒に渦巻くブラックホールのように視えた。
「な、なんだ一体……」
「『残念』がエサを喰ってる」
「何!?」
「説明してる暇はないっ、切り裂くっ!!」
言葉に合わせて蒼の手にプレート状の剣が出現する。
そして、感じるどす黒い気配に向かって、剣を上段から一気に振り下ろす。
見た目には、何も無い空間を切り裂いただけだったが、すぐに変化が起こる。
室内の光景が揺らぎ、激しく歪む。
そして視覚を遮る何かがそこに出現する。
それは黒い物体だった。
「……っ」
蒼が小さく舌打ちする。
それは今までに見た黒い物体には違い無かったが、異なる点が幾つかあった。
明らかに人型に近い形をしていて、その身体で一人の女生徒を拘束していた。
女生徒は裸にされ、茫然自失という様子だったが、まだ息はあった。
「あの子を喰っているのか……」
「いや、食べるというより取り込もうとしている」
「……喰うより上の事って話か」
「ああ、たまにいる。姿を手に入れ強力になる『残念』が」
人型の『残念』は、達彦達の事をそんなに気にせず、ひたすらに女生徒に執着しているように見えた。
その形が人型になっている事から、放っておけば取り込みの完了は近いのだろう。
「すぐに処分する」
蒼が再び剣を構える。
と、その瞬間『残念』の人型が揺らぎ、黒い腕の様なものを蒼に向かって高速で伸ばして来た。
「私達を敵だと認識した様子だなっ! オマエは下がってろ!」
蒼は即座に反応して伸びて来た腕を切り落とし、そのまま本体に近づく。
本体がその蒼に対して、次々と腕を伸ばす。
蒼を近付けさせないつもりなのだろう。
圧倒的な数だった。
部屋の中が、黒い手で埋め尽くされる。
「くっ!」
蒼は全てを捌けないと判断して様子で、一端下がった。
「どうするんたっ!? 攻め難いぞ」
戦いにくい相手だと達彦は思った。
しかも、実質、人質が取られている。
「問題ない、力を出して、無理矢理にでも叩き切る」
蒼が物騒な事を言う。
「む、無理矢理って」
その発言からは、女生徒の事は眼中に無いように感じられた。
「まさか、捕まっている生徒を見殺しにするのか?」
達彦的には人の命を無視する事は到底出来ないという考え方だった。
蒼はそんな達彦に答えず、黒い物体に向かって剣を構える。
「……」
その斬撃の線上には女生徒の身体もある。
「おいっ! 待てっ、まだ息があるんだぞ!?」
達彦は蒼の肩を掴んだ。
蒼は間違い無く本気だった。
「邪魔をするなっ!」
蒼は達彦の手を払い退けた。
「今、この状態で、あの女を助けるには私が危険だ。だから、まとめて排除する」
「な――」
達彦は言葉を失った。
蒼は人を切り捨てる事に何の抵抗もない様子だった。
それは、蒼が人の姿をしているが、明らかに人では無い証のような宣言だった。
「とにかく黙っていろ、邪魔するなら、オマエも排除する」
蒼が気迫を込めて達彦に言う。
「……」
達彦は黙るしかなかった。
蒼には蒼の価値観があり、今、敵の相手を出来るのは蒼だけだ。
だとすれば、蒼に従うしかなかった。
「分かったなら、下がってろ」
蒼が言い、その直後、蒼の気配が一気に攻撃的な物へと変わる。
そして、蒼の身体に目に見える変化が起きた。
背中が制服の下で盛り上がり、制服を引きちぎって弾けた。
そこに現れたのは石の翼だった。
磨かれた大理石のような鈍い光沢を放ち、手に持つプレートと同じく幾何学模様が刻まれていた。
全体の形状は鳥の翼ともコウモリの翼とも付かない形で、一種機械的な雰囲気もある。
大きさは片翼一メートル弱。
狭い室内では、少し動きにくいだろうと思う大きさだった。
その羽が、前に広がり黒い手を押し退けるように動く。
「片付けるっ!」
蒼の言葉に合わせて翼が鈍く光り、一瞬だけ半透明化する。
ザシュ!!
同時に手にした剣による一閃。
蒼の剣が『残念』を女生徒もろとも真っ二つにした。
対象は左右に分離して、床に音を立てて転がる。
不思議な事に女生徒の身体から血は一滴も出なかった。
見ると、切断面が肉のそれではなかった。
骨や内臓が見える事は無く、金属のように銀色でツルッとした滑らかな断面だった。
そこに糊をつけて張り合わせれば全く元通りになりそうな気がするくらいに、他の部分を破壊せず完全に真っ二つに分けて切り裂いていた。
「これは……」
達彦が女生徒に近付こうとすると、蒼が達彦の前に立ちふさがる。
「まだ終わってない!」
その声に合わせるように、床に転がった黒い物体が、二つに別れたまま浮き上がる。
再び黒い腕を伸ばして、蒼を狙う。
黒い腕が蒼に触れるより前に、蒼の剣が凄まじい早さで動き、全てを切り捨ててしまう。
そして、腕が無くなった瞬間を狙い本体を斬り付ける。
!!
羽が再び半透明化して、まず別れた一つが斜めに斬り捨てられる。
そして、もう一つを横薙ぎする。
二つに別れた『残念』は、斬られた切り口から形を失って行き、そのまま消え去った。
蒼がその様子を見て剣を腕の中にしまう。
室内が静まった。
「……」
達彦は茫然とその光景を見守るしかなかった。
「――呆けたか?」
背中の翼を出したままの蒼が言う。
「……いや、ただ、殺してしまったなと思っていた……」
その事が何より衝撃だった。
「特に問題は無い、この女に関わっていた人間の記憶を書き換える」
蒼の言い方は、まるで殺人を何とも思っていない言い方だった。
蒼は人ではない。
達彦は、それを嫌という程に思い知った。
「人が来るな」
と、不意に蒼が言う。
「!」
達彦の理解感覚も、近付いてくる人物を捉えた。
もう、二人がいる部屋から数歩の位置だ。
今まで戦いに集中していたため、その人物の接近に気付かなかった。
「何かあったのか!?」
その人物が、開けっ放しの扉の前に立つ。
物音でも聞きつけたのだろう、声と顔が焦っていた。
「っ!」
達彦は最悪だと思った。
室内は何も言い訳出来ない状況だ。
翼を出した存在がいて、その足元には真っ二つにされた裸の生徒が転がっている。
「こ、これは……」
男性教師が顔を青くして硬直する。
当然の反応だろう、卒倒してもおかしくはない。
「お、お前達……い、いったい……」
「……忘れろ」
蒼が答えた。
そして翼がほんの一瞬だけ半透明化する。
「帰れ」
蒼が短く言う。
すると、男性教師は表情を強張らせたまま、何も言わずにその場から立ち去った。
「――いま、何をした?」
「記憶を弄って、行動を制御した。それと、この生徒の事を忘れるように伝染性意識の触媒にした」
「……伝染性意識?」
「忘れる事が移るようにした。今の男が出会う全ての存在に移り、また次々移って行く、一日の内には、この女の事を知っている存在は私達だけになる」
「無茶無茶だな」
「オマエが竜なら驚く事ではないはずだ」
「……気配を知れる能力以外に実感は無いけどな」
「それはオマエの問題だ。これでこの事態は解決した。あるのは、私の空腹だけだ」
蒼が淡々と言う。
「空腹って、今、それを言うという事は、俺を食べるという事か?」
流れ的に、そうとしか思えなかった。
「ああ」
蒼は即答する。
「――分かった。で、どうやって食べるんだ?」
食べられる事は承諾していたが、もしも、頭から囓る(かじる)などいう場合は、決心が鈍ってしまう。
「オマエを食べる前に、この女を食べて処理する、見ていたら分かる」
蒼が床に転がる真っ二つの女生徒を指差す。
「……死体を食べるのか?」
達彦は嫌悪感を憶えた。
眉をひそめて言う。
「死体に見えるのか?」
蒼がまるで当然のように聞き返す。
「なに?」
床に転がる女生徒はどうみても死んでいるように見えた。
確かに血は一滴も流れていないし、切断面されている事を無視すれば生きている時と、何ら変わりは無いように見えたが、身体が二つに分離している事実は変わらない。
「分からないのか? 見るだけでなく、感じてみたらどうだ?」
「……」
達彦は蒼が言うままに女生徒の気配を探った。
「な!」
信じられない事に女生徒には、僅かな気配があった。
残り香のようなものではなく、僅かだが、はっきりと生きている者の気配だった。
「――分かったか? まだ、死んではいない」
「何故こんな事をっ!?」
半殺しだというなら、殺すより酷い。
いくら違う価値観の相手だと言っても許せなかった。
「食べるためだ、どの道、魔竜に喰われて死ぬしかなかった意識を、私が食べる――何も問題はない」
蒼は平然と言い切った。
「――!」
何を言っても無駄だと言う事が、その口調から悟れた。
女生徒は蒼が言うように、どちらにせよ死んでいただろう。
助ける事は出来たかも知れないが、そのリスクを負う必要があったのかを決めるのは蒼だ。
ここで反論しても、価値観の違う意見がぶつかり合うだけで不毛でしかなかった。
理屈としては蒼が正しい。
達彦はそう思い無理矢理納得した。
「何かあるのか?」
蒼が達彦を見据えて言う。
「……いや」
思わず出そうになる反論を飲み込む。
「なら、食べるまで待っていろ、すぐだ」
蒼が女生徒の傍らにしゃがんだ。
そして、女生徒の身体の断面に顔を近付け、口付けする。
蒼の口が断面に触れた途端、女生徒の半身が靄のように薄らいで行き――数秒で消滅、続いて残った半身に同じように口付けし、それもすぐに消滅した。
後には本当に何も残らなかった。
「…………口で、食べるのか?」
食物を口で食べるのは当たり前の事だが、今の蒼の行為は、とても奇妙に見えた。
「他の食べ方もあるが、今はこれが効率的だっただけだ」
「……俺をどうやって食べる気だ?」
「オマエの方から受け渡しが出来ないなら、強制的に吸い取る形になるが……今のオマエでは受け渡しは無理だろうな」
「……」
強制的という言葉に良い印象は持てなかった。
「粒子吸収器官を使ってもいいが……それも手間だ。直接食べる」
そう言って、蒼が自分の背中を見る。
「その翼の事か?」
「質問が多いな」
「――分からない事は気になるだろ」
「これは羽じゃない。背中から出るからそう見えるだけだ。役目は意識への介入、及び空間操作するための触媒器官であり、また、空間構成物質を取り込む器官でもある」
「……その説明で俺が理解出来ると思うか?」
「思っていない。けど、これ以上説明する気は無い、それより、空腹を満たす方が先だ」
「そんなに空腹なのか? いま一人食べたばかりだろ」
「『残念』の食べ残しを処理しただけだ。食べた内には入らない。とにかくオマエを食べる、死にはしないし、文句は言わせない」
「分かった。じゃ好きに喰ってくれ」
達彦は覚悟を決めた。
何をされるか不明のままだったが、死にはしないと思う事で不安を誤魔化した。
「まず、上着を脱げ、胸骨から取り出す。脱いでいる間に私は粒子吸収器官をしまう」
「注射のようなものか?」
「少しだけ切る、痛くはない」
「……そうか、まぁ、任せる」
達彦は上着を脱ぎ始めた。
その間に、蒼が背中の翼のようなものをしまう。
それはテープを逆送りするように背中の中へと消えて行った。
破れた制服はそのままだ。
「脱いだぞ」
上半身裸になる。
「ああ」
蒼が達彦の胸の上に手を当てる。
そして、中心の胸骨の上を指でなぞった。
すると、なぞった部分が縦に裂け、深さ二センチ長さ十センチ程の溝が出来た。
血も出ないし痛くも何ともない。
その断面はさっきと同じく銀色でツルッとした金属のような感じだった。
とても人体を切った裂け目には見えない。
「……」
達彦は自分の胸が裂ける様子を他人事のように見守った。
「少し、クラっとするかも知れない」
蒼が言い、裂け目に顔を近付けキスをする。
「……」
達彦は蒼の唇が触れた事を感じた。
裂け目に舌が入って来る。
「っ!」
その直後、全身の神経に電撃が走ったような衝撃を感じた。
少しクラッとする程度の話ではなかった。
胸から全ての神経を引っこ抜かれているような感じだった。
あと数秒続いたら気絶するかも知れないという所で、蒼の口が離れる。
「……くっ! はぁ、はぁ……ぁ……」
血の気が引いて目の前が暗くなる。
蒼が離れた途端に、胸の痛みは嘘のように無くなったが、今度は身体全体に力が入らなくなった。
倒れるように床にへたり込む。
「ありがとう、満足した」
蒼が達彦の前にしゃがみ込んで言う。
一応、目線を合わせて礼を言っているつもりなのだろうと、達彦は思った。
しかし、達彦には答える余裕はなかった。
「……これは、冗談じゃなくてキツイな……」
弱々しい口調で言う。
見ると蒼が切った胸の傷は既になくなっていたが、とにかく全身が怠かった。
「強制的だからだ。まず、受け渡し方法を憶える所から始めろ」
「それは、君が教えてくれるのか?」
「竜なら覚醒するモノだ。攻撃相も出せない内はどうしようもない」
「……あのプレートのような剣か?」
蒼の言葉から連想されるものはそれしかなかった。
「ああ」
「俺にも出せるのか?」
「竜なら何らかの形で武装化出来る。空間を認識出来る力は目覚めているのだろ?」
「まぁ、それは目覚めているが……」
それ以上の特殊な力に関しては目覚める兆しを何も感じなかった。
「多少、血が少なかったのかも知れない。多かった分、吸い出したからな」
「吸い出した?」
「憶えてないのか……だったら、もう一度吸うか? 危険はあるが、最悪、私が何とかする」
蒼が達彦の前に指を突き出す。
「この指をどうしろと?」
「ああ、血が出るまで噛んで構わないぞ」
その指をズンっと達彦に近付ける。
後一センチで達彦の口の中に入るという距離だ。
「……」
その時、達彦は蒼の変な勢いに呑まれた。
あまり考えもせずに、蒼の指を銜えてしまう。
「……!」
そして、銜えた瞬間、自分は何をしているのだろうと思いハッとする。
すぐに蒼の指を離そうとした。その時――。
「なっ、何してるですか!?」
入り口から聞き覚えのある声が聞こえた。
反射的にその方向を見ると、表情を硬直させている夏本真由の姿があった。
真由がこんな所に来る理由があるとしたら、付けられた可能性だった。
「な、夏本さん、これはっ!」
達彦は蒼の指から口を離して叫んだ。
「先生がそんな人だったなんて思わなかったですっ! だから、香月さんを探していたんですねっ!」
真由は聞く耳を持たずという様子でわめき散らす。
「こんな所で香月さんと会うために私との約束を放り投げるくらいなら、最初から約束なんてしないでくださいっ!!」
真由は扉を叩き締めて駆け出した。足音が遠ざかる。
「夏本さんっ!」
放置する事は出来なかった。達彦はすぐに後を追おうとした。
しかし、
「待てっ、私が行くっ」
蒼が達彦の身体を押し退け、そのまま扉を開け廊下に出た。
「ちょ、ちょっと待てっ!」
達彦が蒼に追いすがって廊下に出る。
「何だ!?」
蒼の制服は背中側が翼が飛び出した時に完全に破れて丸見えだった。
そんな格好で校内を走り回られる訳にはいかない。
「これを着て行け」
達彦は自分が脱いだ上着を蒼に差し出した。
蒼はキョトンとした顔をしたが、すぐに上着を受け取り、
「ありがとう」
そう言って走り出した。
しかし、数メートル走った先で、突然、蒼の身体がガクンとよろけた。
全く前触れの無い不自然なよろけ方だった。
「お、おいっ!」
すぐに達彦が駆け寄ったが、間に合わず、蒼は受け身も何もなく、右肩から床に倒れた。
バンッという、床を叩く音が響く。
「だ、大丈夫かっ!? しっかりしろっ!?」
抱きかかえて様子を伺うが何の反応もない。
蒼は白目を剥いて気絶し、死んだようにぐったりしていた。
その様子から、倒れたショックで気絶したのではなく、気絶してから倒れたのだという事が分かった。
蒼が突然気絶する理由など、まるで見当が付かなかったが、貧血などという人と同じレベルの話では無い気がした。
魔竜絡みの攻撃を受けたという可能性も考えるが、周囲に特に目立つ気配はなかった。
「……」
気持ちを落ち着け、どうするべきか考える。
もし、魔竜の攻撃だとしたら、蒼が戦闘不能になった段階で終わっている。
それなら、それで考える事は無かった。
また、敵の攻撃ではなく、単純に蒼の体調が悪くなったと仮定した場合、医者に見せても無意味な気がした。
逆に人でない事が分かって大騒ぎになる可能性もある。
また、竜特有の体質的な何かだった時は、この先、何が起きるか分からない可能性がある。
それを考えると、安静に休めて人目に付かない場所に移動させるのがベターだと思えた。
「……俺の事務所に匿う(かくまう)か」
学校の茶道室では、魔竜のテリトリーだという事があった。
達彦は自宅に蒼を連れ帰ると決め、すぐに携帯でタクシーを呼んだ。
七瀬や真由の事で気になる事はあったが、今はそれより蒼を優先するべきだと思った。
気絶した蒼をおんぶして、なるべく目立たないように校舎から出た。 そして、やがて来たタクシーに乗って自分の事務所へ向かった。

事務所に到着して、蒼をソファーに寝かせる。
目を覚ます気配はまるでなかった。
達彦は事後連絡だったが七瀬に学校から出た事を電話で伝えた。
電話に出た七瀬は詳しい事情は聞かずに分かってくれた。
七瀬と通話を終え、蒼と向き合う。
気絶している蒼は、顔色などは普通だが、全身が脱力して元気なようには見えなかった。
「さっき肩から倒れたよな……」
達彦は玄関脇の部屋にある生活必需品の棚から、湿布と包帯を取り出して来て、蒼の横にしゃがんだ。
肩の様子を見ようと思った。
全体重を肩で受けたのだ、折れていてもおかしくはない。
「……」
衝撃を与えないように、ゆっくりと蒼の制服を脱がせる。
背中がボロボロの制服は蒼に無理な姿勢を作らせる事なく、割と簡単に脱がす事が出来た。
と、形の良い胸が顕わになる。
背中が破れた時に吊りひもが切れたのか、ブラが下にずり下がっていた。
その胸は形が良いだけではなく、達彦が思っていたより、かなり大きかった。
「――」
一瞬だけ魅入ってしまう。
だが、すぐに気持ちを切り替えて、肩の打ち身をチェックした。
「……これは」
打った左肩が青く痣になっていた。
軽く触って様子を見ると、やや腫れて熱を持っていた。折れてはいない様子だったが、捻挫している可能性があった。
達彦は患部に湿布を貼り包帯を捲いて軽く固定した。
応急処置の知識は職業柄、身に付けたものだった。
処置の最中、蒼は呻きの一つも漏らさなかった。
完全に気を失っている様子だった。
包帯を巻いたあと、ブラも一応、胸の位置に着け直して(切れていた部分は安全ピンで留めた)処置を終えた。
脱がせた制服の上着は破損が多かったので着せなかった。
「……」
一息吐く。
あとは、どうする事も出来ないのが現状だった。
達彦自身に竜の知識があれば何か分かったかも知れないが、今の達彦にはあるのは、理解感覚だけだった。
「……今は見守るしかないのか」
達彦は机の椅子に腰掛けて、蒼が起きるのを待つ事にした。
それしか出来る事が無い以上、仕方が無い。
表面的には、昨日の夜、七瀬が起きるのを待っていたのと同じ状況だった。

◆4

蒼が目を覚ましたのは深夜十二時過ぎだった。
達彦が出前で夕食をすませ、PCで暇を潰しつつ、蒼の事を横目で見ていた時、何の前触れも無くむくりと起き上がった。
と、安全ピンで留めたブラがずり下がる。
「――」
蒼が真っ直ぐに達彦の事を見た。
「気付いたの――」
達彦は声を掛けようとして、途中で止まった。
それは、蒼の胸が見えた事に驚いた訳ではない。
蒼の視線には殺気が宿っていたからだ。
蒼は刺すような視線を達彦に向けたまま口を開いた。
「……オマエ何者だ?」
「――な、なんだいきなり!?」
殺気に気圧されつつも聞いた。
「とぼけるな! ――っ、くっ!!」
蒼は激昂して叫び、その後、胸を押さえて前のめりになる。
「大丈夫か!?」
達彦が慌てて椅子から立ち上がる。
「うるさいっ! 近寄るなっ!!」
蒼が前屈みのまま叫ぶ。
凄まじい怒気を含む言葉だった。
「……一体どうしたんだ? 俺が何かしたのか?」
達彦は蒼の言葉に押されて立ち止まった。
蒼が怒る理由に見当が付かない。
一瞬、胸を見た事かと思うが、そんな事で怒る性格だとは思えなかった。
達彦が戸惑っていると、蒼が苦しげに顔を上げた。
「――白を切るのか?」
打った場所では無く、胸の中央を押さえていた。
まるで動悸がして心臓を押さえているように見えた。
「何の事だ? 君が怒っている理由が分からない」
「本当にか……?」
「ああ」
達彦が答えると、蒼は達彦の事をジッとみた。
数秒後――。
「…………どうやら嘘は言っていないようだな」
蒼から殺気が消える。
「分かってくれて何よりだ」
達彦は安堵の息を漏らした。
「それで、何が怒る原因だったんだ?」
「……」
蒼が達彦を睨む。
怒りそのものは収まっていない様子だった。
「それは俺が原因だと?」
「そうだ」
「言い切られてもな、さっきも言ったが、心当たりは何もないぞ」
「オマエに心当たりがあるなら、もう殺している」
「それ程の事なのか? 一体、俺が何をしたんだ?」
「オマエがした訳じゃない、オマエの命に食中たりした。」
「は?」
達彦的には場違いな言葉を聞いた気がした。
「だから、食中たりだ」
「……食中たりって、お腹が痛くなってトイレに駆け込むあれか?」
「に、人間と一緒にするなっ!」
蒼が顔を真っ赤にして言う。
「竜は人は排泄方法が違う、この姿は単に形状として人を模しているだけだ」
憮然と言い切る。
「それなら、どんな症状なんだ?」
「オマエの命を一度は食べたが消化出来ず、その上で私の命に干渉して来たから吐き出そうとしたが間に合わず、一時的に仮死状態になった」
「仮死って……」
それ程の大事だとは思っていなかった。
「今は、もう平気だ。少し胸がチクチクしているが、直に収まると思う」
「……それなら、まぁ、ひとまず安心だが」
どんな痛みなのか想像出来なかったが、蒼の表情が多少和らいだので落ち着いて来ているという事なのだろう。
「ああ、問題無い。――その上でオマエに要求がある、いいか?」
蒼が改まったもの言いをする。
「何だ? 薬か何か欲しいのか?」
人の薬が効くのか分からなかったが、無いよりはマシかも知れない。
「そんな物は要らない、私と交尾しろ」
「――え?」
達彦は自分の耳を疑った。
「聞こえなかったのか?『私と交尾しろ』と言ったんだ」
「ち、ちょっと待てっ! その事が現状と何か関係があるのか!?」
いくらなんでも無茶な要求だと思った。
あまりに唐突で何の脈絡も無い。
蒼の意図が全く見えなかった。
「関係ある、私はオマエの主人として、オマエを知っておく必要が出来た。だから、交尾してオマエを調べるだけだ」
蒼は口調は事務的で何の躊躇いも無い。
竜の価値観では排泄は恥ずかしい様子でも、交尾は恥ずかしくない様子だった。
だが、達彦は恥ずかしい。
「それはつまり俺とセックスするという事か?」
確認のために聞いた。
「ああ、互いに人の形態をしている以上、そうだ。――何か問題があるのか? 例えば生殖器官に損傷があるとか?」
「その問題は無い」
身体は至って健康だった。
「なら性交可能だと言う事だな?」
「いや、別の問題がある、俺の気持ちの問題だ」
「気持ちの問題? 何だそれは?」
「俺は君の事をそんなに好きじゃない。好きでも無い女性を抱く事は出来ればしたくない」
蒼の事は、達彦の価値観から言って、容姿だけ見るなら、かなり可愛い部類に入る。
しかし、根本的に人間では無いという事と、その価値観と性格に難があった。
明らかに事務的なセックスというのは、達彦の中ではまるで想像出来ないものだった。
「むー」
蒼が難しい顔する。
「好きか嫌いか――そういう物が人にある事は理解する。だが、私達は竜だ。人の心理を持ち込む必要はない」
蒼はあくまで事務的だ。
「そうは言っても俺の気持ちの問題だろ?」
「つまり、私と交尾するのが嫌なのか?」
「端的に言えばそうだ」
「人の感覚が縛るのか……オマエは竜としての自覚は無いのか?」
「理解感覚が目覚めた以外は無い」
「それ自体があり得ない。そもそも、竜として覚醒せずに成体になるまで成長している事が脅威だ。私の血が呼び水になるかと思ったが、そうでも無い、その上、私の命に干渉する、ここまで来て調べない訳にはいかない」
「俺はそんなに変な存在なのか?」
蒼の言い方からすると、達彦は幻の珍獣だった。
しかし、当の達彦にそんな自覚はまるで無い。
「この際、オマエの気持ちは関係ない。これは命令だ。――こっちに来い」
「命令って……」
達彦は酷く困った。
表面的には上半身裸で包帯を巻いた女の子からの誘いだ。
普通なら、なかなかにエロティックな瞬間と言える。
しかし、今の達彦は精神的圧迫を強く感じていた。
やりたくは無いが、実質、断る事は出来ないだろう。達彦が拒否しても、蒼に襲われた場合、蒼を止める事は達彦に出来ないからだ。
そして、蒼は達彦が躊躇い続けるなら、間違いなく襲ってくるだろう。
「……」
達彦はゆっくりと蒼の前に立った。
「分かった」
どのみち拒否出来ないのなら、蒼を受け入れる覚悟をするしか無かった。
しかし、大きな問題が一つあった。
「君と、その……セックスしよう。ただ、出来るかどうかは保証しない」
「ん? どういう意味だ?」
蒼が軽く小首を傾げる。
「要するに、俺の生殖器が、現在性交可能な状態になっていないという事だ」
「それは性的に興奮していないという事か?」
「ああ、君はどうなんだ? 人間形態なんだから、女性としての……その、色々があるだろ?」
見たところ蒼が性的に興奮しているようには全く見えない。
完全に平常という感じだ。
「私の方は問題ない。人としての興奮など、そもそも必要ない、身体の受け入れ準備は出来ている」
「……それは都合が良い事だな」
興奮してないと言い切られて、さらにやる気が削がれた。
「ともかく、オマエの生殖器を使用可能にすれば良いだけだ」
蒼が言う。
その言い方に達彦は不安を感じた。
「……何をする気だ?」
「人の真似をしてみる。一応、知識として知らない事はない」
蒼がソファーから降りて、達彦の前に立つ。
「な、なんだ?」
「楽にしてろ」
蒼が達彦の前にしゃがみ込み、おもむろにズボンのファスナーを降ろした。
「お、おいっ!?」
焦る達彦に蒼は『黙っていろ』とピシャリと言い、下着の中から素早く達彦の男性器を取り出した。
「これを使用可能にすれば良いのだろ?」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待てっ!!」
達彦は慌てて後ずさった。
降ろされていたズボンが足に絡み付く。
「う、うわっ!!」
そのまま体勢を崩して床に尻餅を付いた。
「何を慌てているんだ? 取って喰う訳ではないぞ」
蒼が床の上に倒れた達彦の上にしなだれ掛かる。
「ほ、本気でするのか?」
達彦は逃げようにもズボンが絡まって逃げられなかった。
下半身むき出しで床に倒れている図は何とも情けない。
「今さら聞くな」
「……ちなみに、どうやって俺を本気にさせるつもりだ?」
「人の男は、かしずく女が好きだと聞く、だから『ご主人様』とオマエの事を呼んでやろう」
「……」
蒼がどんな知識を持っているのか、達彦は著しく不安になった。
「何か問題があるのか?」
「君が本気なのが違う意味で分かった気がする……」
どうしてもやるという蒼を、ここまで来て受け入れなのは、蒼に対して失礼だろう。
達彦は肝を据えた。
「なら、始めるぞ、ご主人様」
「その『ご主人様』は必要ない」
「そうなのか?」
「ああ」
正直、言われるたびに笑ってしまいそうだった。
「それと、場所を移動しよう」
達彦はズボンを器用に引きずり上げ、蒼を抱きかかえて立ち上がった。
「――!」
蒼が目を点にする。
「床の上って言うのは味気ない、せめてソファーの上だ」
ソファーの前に移動して蒼を寝かせる。
「……」
蒼は無言で達彦の事を見詰めた。
少し驚いている様子だった。
喋らなければ見取れる程に可愛い。
裸の可愛い女の子が自分を誘っているという状況だけを考えれば、後は何とかなる。
実際、確かに可愛い。
人外という現実を脳内から追い出すには、妄想力の勝負だった。
「……」
ピンク色の妄想をかき立てる。
何となくモヤモヤした気持ちになって来る。
「……早くしないのか?」
蒼がムードの無い催促をする。
「君、黙っていてくれ……と、その前に一つ」
妄想の最中に一つ気になる事が持ち上がった。
蒼が初めての可能性だ。
落ち着き払っている様子から初めてという事はあり得ない気がしたが、落ち着いている理由が人とは異なる可能性が高い以上、真実は分からない。
「君は、その初めてって事は無いよな?」
達彦は思いきって聞いた。
蒼は『何だそんな事か?』という顔をして、
「この身体では無い。ただ意識としては経験している」
と、答えた。
「どういう意味だ?」
「人の身体はある程度まで育ったら作り直して別の身体にする。今のこの身体になってから、そんなに経っていない。だから、この身体に性交の経験はない」
「つまり、転生を繰り返しているようなものなのか?」
達彦は自分なりに解釈した。
「そうだな……その単語の意味から考えると、近いとは言える」
「そうか……」
理屈的には初めてなのか……。
達彦の中での妄想があらぬ方向へ向かう。
少しは頑張れそうな気がして来た。
「この答えで良いのか? 早く始めてくれ」
蒼がまた催促する。
「分かった、始めよう」
達彦は蒼の上に覆い被さった。
そのまま蒼の胸の上に手を置く。
「痛みは、もういいのか?」
「ああ、打った場所も、食中たりの方も気にする事はない」
「そうか、じゃ、遠慮はしない」
胸に置いた手に力を入れる。
蒼の胸は大きく張りがあり、手で揉んだ感触はとても心地の良いものだった。
蒼の胸が達彦の手の中でグニャリと形を変える。
そして胸を揉みしだきながら、蒼の唇にキスをする
蒼は達彦のする事を全く拒まない。
しばらくキスを続けた後、達彦は蒼を抱きしめた。
蒼はとても柔らかく、抱いている感じは普通の女の子としか思えなかった。
肌はとてもきめ細かく、どこを触っても肌触りがいい。
しばらく蒼の身体を触っている内に、達彦の身体は段々と反応して性交可能な状態になって行った。
「……」
達彦は軽く笑った。
裸の女の子を触るという、ただ、それだけの行為で興奮してしまうのは、男のサガかも知れない。
「何がおかしい?」
「いや、何でもない」
「用意が整ったのなら、私はいつでも良いぞ」
蒼の方が達彦の変化に気付いた様子だった。
「ああ、待たせた」
言って、顔に軽くキスをする。
心臓が高鳴り下半身が熱くなる。
嫌いじゃない女の子を抱いている。
達彦はそれだけを思って、目の前の蒼の身体に集中した。
出来るなら、少しでも蒼に気持ちよくなって欲しいと思う。
人ではない蒼には、そういう概念は無いかも知れない。
しかし、それでも人として関係を持つ以上、単なる交わりだけの行為にはしたくなかった。
蒼の性感だと思われる箇所を愛撫しながら、達彦は蒼と一つになった。
蒼は特に派手な反応は見せなかったが、小さく喘ぎを漏らしたような気がした。

一時間後。
達彦はソファーの上で扉の向こうのシャワーの音を聞いていた。
シャワーを使っているのは蒼だった。
ユニットバスに入ってから十五分、そろそろ出てくる頃だろう。
制服は背中が破れて着れないので、着替えは達彦のワイシャツを貸す事にした。
蒼はユニットバスに入る前に、それを持って扉の向こうに消えた。
と、足音がして、部屋の扉が開いた。
そこから、達彦のワイシャツだけを着た蒼が現れる。
「シャワー、ありがとう」
彼女はスカートを履いていなかった。
大切な部分はワイシャツの裾で隠れているが、きわどい格好だった。
うっすらピンク色に染まった太股と、その奥がちらちらと覗く。
「……下は?」
当然の質問をした。制服のスカートは破れてはいなかった。
「下着は付けている。スカートはさっきの性交で汚れた」
蒼があっさりとした答えを返す。
「……」
あまりに露骨な答えに反応に困る。
ただ、そういう事なら仕方ないと思った。
達彦自身は夢中になっていて気付かなかったが、本人が汚れたというのだから、汚れたのだろう。
「……そうか、じゃ、ジーンズならあるけど、履くか?」
微妙な気まずさを誤魔化すように言う。
「ああ、身体が醒めたら履く。オマエはシャワーを使わないのか?」
「そうだな……じゃ、軽く浴びてくる」
「そうしろ」
まるで自分の家のように言う。
達彦はその言葉に苦笑しつつ、ユニットバスに向かった。
そして、五分程で素早く出てくる。
「――やけに早いな?」
蒼が戻って来た達彦に言う。
「まぁ、君を待たせている訳だし」
「……別に気にしてないが?」
蒼はソファーに腰掛け、ワイシャツの裾からスラリとした足が伸びていた。
少し水滴が付いているのが艶めかしい。
「君が気にしてなくても、こういう時、待たせるものじゃないという認識が俺にある」
なるべく蒼の艶めかしさを気にしないように視線を逸らしつつ言う。
「ふーん」
「――で、これからどうする? 明日学校に行くなら、破れた制服を何とかしないといけないだろ」
達彦は壁に寄りかかって聞いた。
「それは別に大した事じゃない、家に帰ればいいだけ。それより、私が調べた結果を聞きたくないのか?」
「結果にもよるさ、ただ、君の態度から悪い結果では無い予測はしているが」
もし、悪い結果なら蒼がシャワーを使ったりする訳は無いと思った。
「結果は、ひとまず危険な存在では無い事が分かっただけだ。オマエの中に魔竜の因子は無い、それは竜が攻撃するべき相手では無い事を意味している」
淡々と蒼が語る。
「――それ以上の事は分からないと?」
「ああ」
「じゃ、俺が竜なのかどうかも、まだ確実では無いという事か?」
「竜ではあるとは思う。一応、竜の因子は感じた」
「それは、どのみち純粋な『人間』では無いという事だな……まぁ、それならそれで受け入れるしかないか」
「ああ、何であっても受け入れるしかない。それがオマエ個人なのだからな」
「まぁ、君から狙われない事が分かっただけ良かったさ」
「狙いはしないが、下僕としては使えない。オマエの力は食べられない事が分かったからな」
「その原因は分からずじまいなのか?」
「ああ」
蒼は短く頷いた。
その様子には悔しさが含まれているような気がした。
「……その、俺とセックスして、本当は何が分かるはずだったんだ?」
「オマエの因子を解析して正体を見極めるつもりだった。分かる事はオマエの竜としての血の歴史だ。けど、よく分からないが阻まれた。意識を読まれたような気すらした」
蒼が微妙に理解出来ない事を言う。
「意識を読まれた? 俺が君の意識を読んだという事か?」
「説明するのは面倒なんだが、竜が性交で子供を作る事は、まず無い。性交はオスの因子を吸収してメスが強くなるために行う。だが、時々、波長が合う竜がい る場合はオスのコピーを宿す事がある。その波長が合う時の雰囲気を予感させるものが、私の意識にオマエが触れるという事だ」
「……」
達彦は蒼が言った事を頭の中で整理する。
竜のオスには生まれたく無い――では無く。
「要するに、俺と波長があったと?」
「…………ああ」
蒼はやや躊躇いつつ答えた。
「ただ、別にコピーは出来てないぞ」
そして、慌ててそう付け加えた。
「……」
達彦はどう反応するべきか困った。
コピーというのは人の解釈なら子供の事だろう。
冗談で流せる話題では無い。
双方に沈黙がする。
「――と、とにかく、下僕としては使えないが、何かの役に立つ可能性はあるから、しばらくはこのままだ、いいな?」
不意に蒼が少し大きな声で言った。
心なしか顔が赤い。
「あ、ああ」
達彦も少し大きな声で頷いた。
そして、
「それで、ちょっと別の話があるんだが、いいか?」
早急に話題を変える必要があった。
そう考えた時、忘れていた事を思い出した。
「何の話だ?」
蒼の方はすぐに気持ちを切り替えた様子で、普通に聞き返してくる。
達彦は安心しつつ続けた。
「学校の中の話というか、七瀬先生を知っているか?」
「七瀬……あの、子供みたいな先生か?」
「ああ」
「それで、それがどうした?」
「彼女から何か感じないか?」
達彦は七瀬に不穏なものを多少感じていた。
「いや、別に何も感じないが……何かあったのか?」
「二回ほど全く気配を感じない事があった」
それを勘違いと思うのは簡単だったが、どうしても引っかかるところがあった。
「気のせいだろう、別に彼女は何ともない、それより――」
蒼が言いかけてやめる。
「それより、何だ?」
「いや、別に何でもない。七瀬という人物に関しては、私は特別、何も無いと思う」
「そうか……それならいいんだが」
蒼が何も感じていないという以上、信じるしかなかった。
達彦は勘違いだと思う事にした。
「ところで、少し長い話をしていいか?」
ふいに蒼が言う。
「改まって、何の話だ?」
「一応、オマエにも竜が何かを話しておこうと思っただけだ。血は引いている様子だし、最低限は知ってもらわないと困る事がある」
「それは聞かないとまずそうだな」
「ああ、長くなる、座ったらどうだ?」
ソファーに座った蒼が自分の隣の空いたスペースを手でぽんぽんと叩く。
「あ、ああ」
達彦はややぎこちなく蒼の隣に座った。
隣に座ると意識にしないと思っていた太股を、つい意識してしまう。
見ないと思っても視線が太股に向かってしまう。
「……」
「――何だ?」
蒼が達彦の視線に気付き怪訝な顔をする。
「い、いや」
達彦は慌てて視線を逸らした。
何をやっているのだろうと思う。
蒼と触れ合った事で、自分の中で蒼を見る目が明らかに変わってしまった気がした。
しかし、今、その事は横に置いておくべき事だった。
意識を蒼の話を聞く状態に整える。
「――じゃ、話すぞ」
「ああ」
達彦は気持ちを切り替えて頷いた。
「竜は今、この世界に十五体程度しかいない。発祥は一万年以上前と聞くが、私は詳しくは知らない。私が生まれたのは三千年くらい前だ。竜の誕生はある日突 然、空間に出現するものと、メスがオスのコピーを作る場合の二タイプあるが、私は前者だ。竜がどうして突然出現するのか知らない。ただ数百年に一度程度し か起きない。そして生まれた竜は
、皆、魔竜を狩っている。――竜とはそんな存在だ」
蒼が一気に語る。
「まるっきり、謎の存在だな」
素直な感想だった。
「ああ、私は特に生まれた時に近く竜がいなかったから、知識が欠落している」
「まぁ、十五体しかいないなら、それも分かるが……そんなに少ないとは思わなかった」
「ああ、竜は互いに協力する事は滅多に無いと話したが、実際、数が少なすぎるのもある。それぞれが別に魔竜を探した方が効率がいい」
「確かに――それで、君は他の竜をどれくらい知っているんだ?」
「話した事があるのは三体だけ。そんなものだろう、それぞれが定住せずに移動しているからな」
「確率で言うなら千年に一度だな」
「ああ――それで、後は竜の力についてだ。竜は体の外部に粒子吸収気管を出して、戦う力を得る。魔竜を相手にする場合、その力が無いと勝てない」
「粒子って何を吸収しているんだ?」
「物と空間の構成に使われていない有質量素粒子と聞いた」
「『聞いた』という事は、別の竜の言葉か?」
「ああ、昔、よくしてくれた竜がいた」
「そうか、しかし『聞いた』という事は、それ以上、君も分かっていないって事か?」
「ああ、別に分からなくても力は使えている。詠み上げる事は出来ないが」
「よむ?」
蒼の『よむ』の発音が、普通の『読む』とは少し違った。
「エネルギーの現れ方を自分の意志によって、意のままに変質させる技がある。それを『詠む』という。私は出来ないが」
「それが出来ると具体的にどうなるんだ?」
「人が魔法というような事が大抵出来る。便利だが、それだけ力を使うらしい」
「まぁ、君が出来ないなら、確率から言って、後千年は見る事は出来ない訳だな」
「そうなるかも知れないな。それで、オマエは本当に感覚以外目覚めていないのか? 武装化すら出来ないようでは粒子吸収器官を出すなんて到底無理だ」
蒼が達彦を見据える。
その目は心配しているようにも見えた。
「……無理なものは無理だ」
達彦の中で変化があったのは感覚だけで、それ以外は全く変わったようには思えなかった。
もしかしたら、自分が気付いていないだけなのかも知れないが、それでも気付けないのでは仕方がなかった。
「まぁ、私が探れなかった事もあるし、何かあるのかも知れないが、とにかく、自分の中の変化を見逃さないようにしてくれ」
「ああ、分かった」
「それじゃ、話は終わった。後いろいろは明日だ」
「明日は魔竜を探すのか? 俺を囮にして?」
「……その作戦は一端中止だ」
「別の策があるのか?」
「ああ、オマエの力は微妙すぎる。『残念』程度は良い、魔竜相手ではオマエの力の異質さに気付くかもしれない。それじゃ意味が無い。」
「なら、俺はどうしたらいい?」
「私からの連絡を待っていてくれたら良い、勝手に動かれると邪魔だ」
「……邪魔ね、了解。確かに俺には戦う力は無いしな」
邪魔とはっきり言われた事は、多少ショックだったが事実である以上、納得するしかなかった。
「すまない」
「いや、その方が戦い易いんだろ?」
「……まぁ、そうだ」
「だったら、当然の結論だ」
「……すまない」
蒼は重ねて謝った。
「じゃ、私は帰る」
そして、直後につなげて言って立ち上がった。
「帰るって、その格好はまずいだろ、それに送るから」
達彦も立ち上がって、
「ちょっと待っててくれ」
隣の部屋に行き、着替えのジーンズパンツを取って戻って来た。
「ひとまず、これを穿いてくれ」
「ん?」
蒼はジーパンを受け取りしばらく眺めていたが、やがて特に躊躇う様子なく足を通した。
「……大きいな」
丈は少し引きずる程度だったが、ウェストはがばがばだった。
「無いよりはましだろ?」
「そうだな。じゃ、シャツと合わせて借りる」
「ああ。――それで、タクシーを呼ぶけど良いか?」
「タクシー? 別に私一人なら、走って帰れる」
「まぁ、君一人ならな。でも、送って行くって言っただろ?」
「付いて来る理由は?」
蒼が素っ気ない事を言う。
「君が納得するような絶対的な理由は無いさ」
達彦は蒼の常識を推し量って答えた。
ここで、送るのが常識と答えても、蒼からすれば意味をなさない言葉だろう。
「なら、どうして付いて来るんだ?」
「付いて行きたいから、あとの理由は無い」
「……別に付いて来るなとは言わないが」
蒼が少し迷ったような顔をして言った。
「じゃOKって事だな。――タクシーを呼ぶから、もう少し待っていてくれ」
達彦は携帯を出してタクシーを手配した。

それから二人はやって来たタクシーに乗って蒼の家に向かった。
蒼の家は、調べた住所からマンションだという事は分かっていたが、着いて驚く。
マンションはマンションだが、超が付く高級マンションだった。
どうやって借りたのか気にはなったが、人の記憶に干渉出来る彼女に、賃貸契約ウンヌンを深く聞く事は野暮な話だった。
「これは、また豪華なところに住んでいるな」
達彦は羨望と皮肉を込めて言った。
「そうか?」
二人はマンション入り口のロビーにいた。
ロビーに入るためには暗証番号が必要なドアが三つあり、深夜なのに起きている警備員がいた。
豪華な家に特別憧れる訳ではないが、何でもかんでも出来る蒼の能力は羨ましかった。
ロビーは実質、何処かの茶店のような構造だった。
ソファーが並びテレビと観葉植物が置いてある――くつろぎの空間だ。
「ここで住みたいくらいだな」
「まぁ、止めはしない、私の部屋は上だ」
「冗談の通じない奴だな。しかし、なんでまた、こんな高い場所を?」
「こういう高い場所の方が、住人同士の干渉が無くて住み易い。お金さえ払っていれば、あとは勝手に問題が解決する」
「まぁ、そうだろうけど」
「じゃ、行くぞ」
蒼が奥にあるエレベーターに向かう。
「ああ」
達彦はそれに続いた。
エレベーターが蒼の部屋の階に到着する。
扉が開いて目の前に広がった光景は、まるでホテルのような構造だった。
広い廊下に下に落ち着いた色のカーペット。角にある豪奢な照明器具。
「……ちなみに、ここ家賃何万だ? いや何十万だ?」
達彦は溜息混じりに聞いた。
「四十万」
蒼が歩きながらサラッと言う。
「……まぁ、普通の人間が住むマンションじゃないな」
「何の事だ? 部屋はここ、入って」
部屋の前に着き、蒼が鍵を開ける。
どこからともなく鍵を出したような気がしたが、いちいち気にしても仕方ない気がした。
「――お邪魔します」
達彦は扉を潜って部屋に入った。
入ってすぐ、普通の玄関ではなかった。
とにかく天井が高く、清々しさすら感じる玄関だった。
そして、次に通された居間はバカかと思うくらいに広かった。
十五畳は軽くある。
どう考えても、一人暮らしの用の空間ではない。
部屋数まで分からないが、全部で三十畳は確実だと思った。
「一応確認するけど、一人暮らしだよな?」
「当然だろ、誰かと暮らしているように見えるのか?」
「部屋が広すぎるだろ……ここまで広い空間が必要なのか?」
「ああ、それは適当なのがここしか無かったからだ」
「……」
思わず言葉を失う。
達彦はお金にこだわる必要が無い生活の気楽さを知った気がした。
それは、とても羨ましく、ある種、想像外の世界だった。
「特に何もないが待っていてくれ、私は着替えてくる」
蒼が扉を開けて別の部屋に移動する。
残された達彦は室内を見渡した。
特に何も無いどころか、何もない部屋だった。
備え付けであろう照明器具がポツンと部屋にあるだけで、後はフローリングの床が十五畳分広がっている。
何かの道場の一室と言われた方がしっくり来るようなスペースだった。
そして、数分後。
「待たせた」
蒼が着替えて戻って来る。
シンプルな白のワンピースを着ていた。
達彦のワイシャツとジーンズは、脱いだ後そのまま掴んで来ましたという感じで、蒼の右手にあった。
「これは返す、ありがとう」
右手を達彦に突き出す。
「ああ」
畳まれて戻ってくるという事は、全く期待してなかったので普通に受け取る。
「――あ、ところで」
達彦はある事を思い出した。
「話はまるで変わるが、俺を食べ損ねたという事は、お腹が空いているんじゃないのか?」
空いているとした場合、何が出来る訳では無かったが、少し気になった。
「ああ、空いてはいるが、一度食中たりした後に食べたくない。少しの間、我慢する」
「我慢出来るものなのか?」
人間の場合、空腹を我慢する事は無理では無いが、かなり大変だ。
「まぁ、多少、力が弱くなるが、数ヶ月は我慢出来る。最悪、この姿を小さくして消耗を押さえる事も出来る」
「弱くなって魔竜との戦いの時、困らないのか?」
「戦闘用の力は器官で作り出す。その力自体をコントロールするのは、私の体力だが、それが衰えるほどじゃない」
「まぁ、なら、いいんだが」
「しかし、どうしてそんな事を聞く? 私の空腹はすでにお前には関係の無い事だろ?」
「単なる興味だ」
特に差し障りの無い答えを返す。
「そうか」
蒼は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上聞こうとはしなかった。
「ああ、ついでにもう一つ聞くが、少し日本語が上手くなってないか?」
蒼の話し方は最初の頃に比べて、随分流暢になっていた。
「それは当然だ。絶えず学習しているし、今日は沢山話したからな」
蒼の答えは達彦と話している間に日本語がレベルアップしたという意味だ。
そもそも日本に来て一日二日で日本語を憶えたと言う相手だった。
言語学習能力においては、人と比べるべきではないのだろう。
「私の話し方が流暢になると、何かあるのか?」
「いや、単に気になっただけだ」
「……気になる事か多い奴だな。まだついであるとか言うのでは無いだろうな?」
「まぁ、色々と気になる事はあるが」
達彦は言葉を切った。
それを聞いたところで、当の蒼がまともに答えてくれるとは思えない質問ばかりだった。
だから、
「今は特に無い」
達彦はそう言った。
「そうか、じゃ、明日の事を確認して別れる事にしよう」
「ああ」
「明日は私は学校にはいるが、オマエとは会わないかも知れない」
「さっき言ったように一人で魔竜を探すのか?」
「そうだ」
「――じゃ、俺は学校のあの部屋にいる。用事が出来たら呼んでくれ」
「そうしてくれ。それだけ伝われば後は良い」
「分かった」
「……それじゃ、もう、帰ってくれ、私は寝る」
蒼が言う。
言い方だけを聞くと、蒼が達彦を嫌いで追い払っているようにも聞こえるが、そういう意味では無い事が達彦には分かった。
「ああ、会えたら、また明日」
達彦は踵を返した。
そして、蒼に見送られて、蒼の部屋から出た。
「……」
蒼が明日、何か大きな事をするのは、何となく予想出来た。
エレベーターで地上階に降り、ひとまず外に出る。
そして、蒼がいる部屋を理解感覚で見当を付ける。
その部屋には灯りがついていた。
「さて、俺はどうするか……」
大人しく留守番している約束だったが、それが出来る自信はまるでなかった。
かといって、蒼の迷惑になる事もしたくはない。
動くか動かないか。
それだけなら、何らかの形でおそらく動いてしまうだろう。
その時の事を考えながら、達彦は帰路についた。

◆5

翌日。
達彦は茶道室にいた。
朝から蒼には出会っていない。
学校に蒼が来ている事は理解感覚で捉えていたが、昨日の約束を守り会う事はしなかった。
学校に来てから、昨日、夏本真由に誤解されたままである事を思い出したが、今更という事もあり、放置する事にした。
どの道、あと数日で去る身である以上、昨日の事ですっきり諦めてくれたらとも思った。
それに今の問題は、魔竜だった。
蒼がいつ魔竜を探しだして仕掛けるのか、達彦はその事に集中していた。
「……今は待つか」
達彦は蒼の位置をずっと追いかけた。

蒼は一人の生徒をずっと理解感覚に捉えて追いかけていた。
その生徒は教室にいて、授業を受けている様子だった。
「……」
蒼自身も授業中だ。
実質、授業は完全に無視して、その生徒の気配を探り続ける。
今のところは変わった感じは何も無い。
だが、必ず何かある事を蒼は確信していた。
軽く仕掛ける事は既に決定だったが、問題はそのタイミングだった。
人が多い場所で仕掛ける事は出来ない。
その上で、出来れば戦い易い場所が良かった。
そんな場所は学校内では限られている。
ターゲットの生徒が、そういった場所に向かう時を蒼はひたすら待っていた。

達彦が理解感覚に変化を捉えたのは、三時間目が終わり四時間目が始まる少し前だった。
蒼があり得ない早さで、体育館に移動したのだった。
体育館内には、授業後の入れ替えのタイミングなのか、たった一人の気配しかなかった。
そして、その気配は達彦の知る気配だった。
「夏本真由」
気配の主が知り合いである以上、静観は出来なかった。
達彦は体育館に向けて駆け出した。
蒼の方が一分以上早く体育館に着くように思えた。
その一分の間に何も起きない事を願って、達彦はひたすら駆けた。

蒼が体育館に着いた時、それは既に始まっていたが、終わってはいなかった。
体育館の中央でターゲットの生徒が半透明に透き通る異形の化け物に捕らえられていた。
化け物の大きさは縦横三メートル。
四肢と思われる短い突起物で床に立ってはいたが、それ以外に形容出来る器官は無く、あえて言うなら巨大なゼリーのような物体だった。
そして、その体内に生徒を内包していた。
「ちっ!」
蒼は腕からプレート状の剣を出すと同時に、背中に翼に似た粒子吸収器官を出現させ、そのまま化け物に斬りかかる。
瞬息一閃。
蒼の剣が化け物の胴体を斬り裂く。
しかし、化け物に怯む様子は全くなく、斬られた傷は瞬時に体の中に溶けるように消えた。
「……くっ」
どうやら、相手は液体のような体で一部を斬っても意味がないタイプのようだった。
蒼は背中の器官に意識を集中した。
エネルギーを取り込み、それを剣に伝えて行く。
どういう仕組みで、そんな事が出来るか本人も知らない。ただ、出来るから使っている力だった。
剣が淡く光る。
その時。
ギューン!
化け物から鳴き声とは言い難い異音が発せられる。
そして、化け物の半透明の身体が光り出す。
螢のような色の緑色の光だ。
「お前も力を取り込んでいる訳か――望むところっ!」
蒼は剣を構え床を蹴った。
化け物も同時に動き、体内から人の腕ほどの太さの触手を幾本も発生させ、蒼に向かって高速で伸ばす。
「邪魔っ!」
触手を斬り捨てようとすると、触手の先端の形が刃のように変化し硬化して、蒼の剣を受け流す。
「小癪なっ!」
蒼は触手の刃を剣で最低限払って道を作り、本体に向かって全速で駆けた。
何本かの触手の刃が蒼の制服を切り裂き、身体を傷付けたが、一切気にしない。
すぐに触手が収縮して蒼を追うが、彼女の方が速い。
本体を間合いに捕らえ、触手を根本から叩き斬りつつ、本体を深く斬りつける。
しかし、二撃目を打ち込む事なく、床を蹴って天井に飛ぶ。
戻って来た触手が的を失い本体にぶつかる。
「まだ浅いか」
蒼は化け物から距離を取って床に着地する。
背中の器官が本当に羽のように見えた。
深く斬りつけたつもりだったが、化け物の傷が埋まって行くのが見えた。
今のまま突入を繰り替えすだけでは、確実に決め手に欠ける。
いつか勝てるかも知れないが、そんな事をすれば自らの傷も馬鹿にならない。
小さな傷とはいえ、多量になれば致命的だ。
「……」
冷静に過去に似たような敵がいなかったか記憶を探る。
目の前の化け物は、おそらく魔竜本体。
魔竜の形状はまちまちだ。
似たようなタイプと戦った記憶は一応あった。
ただ、それはゼリー状の身体だったが四肢を使って攻撃してくるタイプだった。
今回の魔竜の四肢は攻撃には使えそうにない。
その代わり、素早く動く触手で攻撃と防御を行うタイプのように見えた。
実質、初めて戦うタイプの相手という事になる。
思いつく戦法は、触手を全て斬り払って、その隙に本体にダメージを与えるというのが妥当に思えたが、そのためには……。
「っ!?」
考えていた蒼の視線が急に化け物から、体育館の入り口に向けられた。
同時に入り口のドアが開け放たれる。
「大丈夫か!!」
そこから現れたのは達彦だった。
蒼は理解感覚を全て敵に集中させていて、達彦の接近に気付かなかった。
達彦の登場に化け物――魔竜の身体が達彦の方を向く。
「何で来たんだ! 今すぐ帰れっ!」
蒼は叫びつつ、達彦と魔竜の間に移動して達彦を背中に回した。
「放っておけるか!」
達彦が後ろで叫ぶ。
「来るなと言っただろ! 死にたいのか!?」
蒼は後ろを見ずに答える。
「そんなつもりは無いさ、ただ、一人より二人の方がいいだろ?」
「足手まといだっ! 下がってろっ!」
魔竜との距離を見極めつつ、達彦が攻撃されないように注意を払う。 魔竜の方は達彦の進入で何か様子を見ているようにみえた。
「いまなら戻れる。さっさと戻れっ!!」
後ろを見ないまま、重ねて叫ぶ。
「断る、君一人にしたら夏本さんごと殺す気だろ!?」
達彦が言い返す。
「ああ、それが効率的ならそうする」
蒼は迷いなく答えた。
元より、魔竜の体内に取り込まれていて、助け出せるとは考えていなかった。
「まだ彼女の気配は普通の時とそんなに変わっていないだろ」
達彦が背後から言う。
「何とかして助けてやってくれ、それが約束出来るなら、俺は引く」
「うるさい、帰れっ! もう、向こうが来るぞっ!!」
魔竜が幾本もの触手をもたげ、二人の内どちらを狙うか品定めするのように動く。
そして一瞬触手の動きが止まったと思った瞬間、蒼を狙う軌道で一斉に触手が迫る。
「くっ!」
蒼が剣を捌き触手の先の刃を全て横に受け流す。
しかし、剣一本では防御しか出来ない。
受け流す事は出来ても、攻めるには手が足りなかった。
「っ――」
蒼は一瞬、諦めたような顔を作り、
「達彦っ! 何とかしてこいつを攪乱しろ、そうしたら中のヤツを助けてやる!」
達彦に向かって叫んだ。
それしか方法が無かった。
大して強くない下僕を使う事に躊躇いはあったが、使える物は全て使わないと長引く戦いだった。
そうなると、蒼自身が消耗が激しく持たなかった。
そして、中にいる夏本真由は時間が経つ程に助かる確率は減ってしまう。
蒼は達彦の働きに期待しつつ、自らは次の手の準備に備えた。

「よしっ!」
達彦は蒼の後ろから飛び出した。
蒼が真由を助けてくれるというのだから、全力を尽くす必要があった。人が目の前で死ぬというのは、後味の悪さしか残らない。
それが知り合いならなおさらだった。
魔竜は飛び出した達彦に関心を示さない。
達彦は周囲で使えそうな物を探す。
目に付いたのは壁際の消火器だった。
すぐに消火器を壁から外し、使用プラグを引き抜く。
「こっちだっ!!」
魔竜との間合いを見極め、噴射口を構える。
一瞬どこを狙うか迷ったが、蒼に向かって伸ばしている触手の発生ポイントに狙いを付けた。
魔竜が達彦を捕らえた時、達彦はレバーを押し消火剤を噴射させた。
白い消火剤が勢い良く魔竜に噴き掛かる。
魔竜が触手を向ける方向を蒼から達彦に切り替えた。
達彦は迫ってくる触手に消火器を投げつけ、その隙に体育館の奥にある体育倉庫内に移動した。
中には投げ付けられるものが大量にあった。
「これで行くかっ!」
達彦は手近にあったバスケットボールを入れた移動式の籠を引っ張って外に出た。
魔竜は攻撃対象を変えた様子で、体育倉庫に向かって触手を伸ばして来ていた。
「喰らえっ!」
達彦は迫ってくる触手に向かってボールを次々と投げつけた。
効くとは思わなかったが、攪乱にはなるだろうと思った。
魔竜の触手はボールを先端の刃で次々と切り裂く。
バンッ! と音を立ててボールが破裂する。
しかし、そんな音など対して気にする様子なく、魔竜の触手が達彦に迫る。
「くそっ!」
アッと言う間に全てのボールを投げ尽くしてしまう。
そして、触手が高速で達彦に迫る。
「っ!」
達彦は横に跳んで一撃目を何とか交わすが、次の触手は交わせなかった。
触手の先端が達彦の脇腹をかすめる。
服が切れ、皮膚も深さ数センチ切れた。
「ぐっ!!」
痛みで思わず前のめりになる。
その状況を魔竜が見逃すはずが無かった。
複数の触手が彼に迫る、その触手に刃はない。
達彦の全身に絡み付き、身体を拘束した。
それと、同時に触手を収縮させ一気に本体の側に引き寄せる。
「はっ、離せっ! ちくしょうっ!!」
喰う気なのだろうと思った。
だから殺さず、捕らえたのだろう。
全身を締め付けられ、まさに手も足も出ないという状態だった。
「くっ! な、なつもと……」
本体に近付いた事で、その内部に捉えられた真由の様子が良く見えた。
真由は目を瞑った状態で、ほぼ棒立ちの姿勢で魔竜の中にいた。
制服の胸の部分が引き裂かれたように破れ、その下にあったはずのブラも無くなっていた。
ただ、まだ生きている事は確実だった。
達彦の理解感覚は真由の生をはっきりと捕らえていた。
と、
「っ!! ぐぁぁぁぁぅぅ!!」
触手が達彦を強く締め付け始めた。
身体がねじ切られるような衝撃に意識が一気に薄れる。
胸を閉められ中の空気が逃げ、目の前が暗くなる。
「ぁぐっ!! ――っ!!」
「待たせたっ!」
その時、蒼の声が頭上から聞こえ、次の瞬間には達彦は触手に巻かれたまま宙を舞っていた。
何が起きたのか考える間なく、激しい衝撃と共に床に巻き付いた触手ごと落下する。
「ぐっ!!」
それ程高い位置から落ちた訳では無かったが、締め付けられていた身体には堪えた。
「……」
何とか状況を思考する。
どうやら、蒼が触手の根本をブッた斬って、その勢いで斬られた触手が自分ごと吹っ飛び、床に落下したようだった。
もっとマシな助け方は無いのかと思う。
身体に巻き付いたままの切れた触手を引き剥がし、床を這って壁際まで移動する。
身体中が痛かった。
特に息をする度に肋骨が痛んだ。
多分、一、二本折れているだろうという感じがした。
「生きているか」
そんな達彦の前に、声と共に蒼が降って来る。
達彦が何とか見上げると、背中を見せる位置で蒼が立っていた。
「まぁ、何とか……」
達彦が答えると、蒼がチラッと振り返る。
「そうか、まぁ、死ぬな。あと、囮、礼を言う」
そう言う蒼の姿は多少変わっていた。
破れていた服は完全に脱げて、その代わりに身体のあちこちに剣と翼と同質の物質が張り付き、まるでプレート状の鎧を着ているようだった。
また、背中の羽のような器官が半透明に輝き、手に持つ剣も左右二本に増えていた。
「その姿になるための時間稼ぎか……?」
「ああ、ただ、今の私では無理している、空腹だからな、そんなに持たないかも知れない」
「早めに決着を付ける必要があるという事か?」
「そうだ。――オマエはもう下がっていろ」
「分かった」
「こうなるなら、この姿で、最初から臨むべきだったが、目論みが甘かった」
「昨日、俺を喰えていればな……」
「それは仕方ない。ひとまず、片づけてくるっ!」
「ああ、任せた」
蒼が床を蹴って跳躍する。
魔竜が切断された触手を新たに生やして、蒼に向かって伸ばし始めていた。
蒼のジャンプに合わせて、一斉に上に向かって伸びる。
蒼は天井近くまで跳び上がり、そこから魔竜に急降下する。
魔竜が触手の刃を次々と蒼に繰り出すが、蒼の身体を覆うプレートには傷一つ付ける事が出来ない。
蒼は二本の剣を勢い良く上段から振り下ろし、落下の力と合わせて本体を切り裂いた。
「はっ!」
二本の剣が本体の側面を中心まで縦割りにする。
ゼリー状の身体に二筋の裂け目が走り、そこから体液が噴き出す。
身体全体の淡い緑色の発光が激しく瞬いた。
蒼は亀裂にさらに剣を突き立て、そこを押し広げる。
そして、左の剣を腕の中にしまい亀裂に突き入れ、中にいる真由を引きずり出した。
魔竜が激しく体液を噴き出し、触手がのたうち回る。
蒼は出てきた真由を抱えて達彦の元に飛んだ。
「預ける、まだ、アイツは死んでない」
空中を舞い、達彦の前に着地する。
「あれだけ裂けていてか?」
「多分、少しずつ再生する。――見ろ」
蒼に斬られて広げられた傷口から、白い泡のような物が湧いていた。
緑色の発光もまだ続いている。
それはまだ生きているという証だった。
「――凄い生命力だな」
「殺す攻撃はしなかったからな。トドメを刺してくる」
蒼が再び魔竜の元に向かった。
実質、勝敗は見えたと達彦は思った。
蒼から注意を逸らし、預けられた真由を見る。
全身魔竜の体液でベトベトだったが、息はあるようだった。
露出した胸が規則正しく上下していた。
と、その胸の谷間に達彦はおかしなものを見つけた。
何かこぶのようなモノがあった。
それは親指の先くらいで、一センチも盛り上がっていないが、明らかに不自然にこぶだった。
そのこぶが達彦の見ている前で、ピクピクと動いた。
「!!」
こぶが出来ている位置は、蒼が達彦から命を吸い出した位置と、全く同じだった。
予感というより、確信に近い感覚を憶えた。

これはヤバイと。

「あ――っ!!!」
蒼の名を叫ぼうとした時には遅かった。
こぶが中から破裂して、そこから一気に真由の身体が変化した。
全身が胸から溶けて行き液状になる。
それはホラー映画を見ているような最悪な光景だった。
皮膚表面が溶け、肋骨を露出したかと思うと肋骨が溶け、次は肺と心臓と首と頭が溶け、残る下半身が溶けて行く。
溶けた後の液体は、意思を持ったように達彦の顔に迫り口を塞いだ。
そして、達彦の食道に流れ込んで来る。
「ぅっぅぅ!!」
それだけでは無かった。液体は達彦の全身にまとわりつき、毛穴、耳の穴、他の穴という穴から達彦の身体の中に侵入して来た。
そして、アッと言う間に、真由であった液体は全て達彦の身体の中に入ってしまった。
達彦の意識は凄まじい恐怖を感じた直後、途切れた。

蒼はゼリー状の魔竜本体を二本の剣で高速で刻んで行く。
魔竜が触手を伸ばして抵抗するが、その触手ごと切り刻む。
床一面に肉片が飛び散り、体液が水たまりとなっていた。
やがて、まるでミキサーに掛けたかのように、魔竜が粉々になる。
「――」
蒼が片付いたと思った瞬間だった。
「!!」
背後に突然強大な気配が現れた。
あり得ないくらいに強く大きな気配が、何の前触れもなく、いきなり背後に出現していた。
「っ!」
気配を感知した直後、蒼に向けて弾丸のような物が飛来した。
反射的に身を反らすが、左肩に命中し、プレート状の鎧ごと下の生身を突き抜けた。
「くっ!」
持っていた剣を落とす。
そして、痛みを堪えつつ、視覚で背後の存在を確認する。
同時に飛び上がって、多少距離を取る。
「なにっ!!」
そこには、達彦が立ち上がっていた。
その背中には蒼と同じ翼のような器官が生え、顔は死人のように虚ろだった。
状況的に達彦が竜として目覚めた事は理解出来たが、その強力な気配は達彦のものでは無かった。
禍々しく、ただ凶暴な気配だ。
その達彦がおもむろに手を上げ、蒼の方に向ける。
手には筒状の物が握られていた。
蒼が持つ剣と同じ質感の筒だ。
「ちっ!!」
その筒が何であるか蒼は即座に判断した。
筒の先から身を反らし、空中に飛ぶ。
ほぼ同時に筒から何かが発射され、蒼がいた場所を通り抜け行った。 筒は銃と呼んで良い武器だった。
銃を相手に蒼の剣で歩が悪い事は明らかだった。
蒼の自分の戦闘経験からそれは分かっていた。
着地しつつ、なぜ、こんな事態になっているのか瞬間考える。
見ると、達彦に預けたはずの真由の姿が消えていた。
達彦が竜と目覚めてから真由を喰らったような気配はなかった。
状況はむしろ逆に思えた。
助け出した真由は、実は真由ではなく魔竜そのものだったのかも知れない。
それが達彦に作用したのだろう。
「……くっ」
蒼は自分の迂闊さを呪った。
魔竜がそこまでの偽装をするとは思っていなかった。
その魔竜である達彦が再び筒を持った手を上げる。
動きはやや緩慢だ。
それは、まだ何かが完全では無いからのような気がした。
もし、完全になってしまったら、素早く狙いを付けられ、弾丸を避ける事は出来ない。
弾が貫通した左肩が痛む。
血が流れ出し左手を伝う。
気持ちを引き締めれば動くが、それも数分という感じだった。
幸い骨は砕かれていない様子だったが、ずっと無視出来る痛みではなかった。
勝機があるとすれば、達彦の動きが緩慢な内に一気に仕掛け、一撃で決めるしかなかった。
緩慢に持ち上がった筒から、弾丸が発射される。
蒼はその機に一気に動いた。
弾丸を軌道を読んで避け、達彦の元に一気に迫る。
床を蹴り、飛ぶように達彦との距離を縮め、右手に持った剣を前に突き出す。
達彦の心臓を貫くつもりだった。
その瞬間。
「蒼」
達彦の口から言葉が発せられた。
蒼の耳には、やけにはっきりとその言葉が聞こえた。
そして、蒼の動きが一瞬だけ止まった。
止まった事実に、蒼、本人すら戸惑う。
何故、止まってしまったのか、まるで分からなかった。
名を呼ばれたという、ただそれだけの事で、自分は動きを止めてしまった。
それが致命的だという事は、考えるまでも無いはずなのに……。
「!!!」
次の瞬間。
蒼の体が達彦の背後から出現した触手に絡め取られる。
触手は達彦の背中の器官から伸びていた。
「ちっ!」
右手の剣を奪われる。
もがいて脱出を試みるが触手の力は圧倒的だった。
全身をアッと言う間にグルグル巻きにされてしまう。
「あぐっっ!!!」
触手が万力のように蒼を締め上げる。
「っ! 私を、くっ、ど、どうする気だ!?」
蒼は叫んだ。
言葉を発した以上、何か反応があるかも知れないと思ったからだ。
「――オマエヲクラウ」
と、達彦の口が動いた。
しかし、さっき『蒼』と呟いた時の発音とは、全く違う発音だった。
「……多少、知能があるようだな……喰らうなら喰らえ」
捕まった以上、蒼は覚悟を決めた。
全身を拘束されてしまった以上、抗う手段は無かった。
「――クク」
達彦の口から、笑い声が響く。
その顔は無表情で、達彦の意識がそこにあるようには見えなかった。
とすれば、さっきの呟きは何だったのか?
あの一瞬、達彦の意識が、まだあるような気がした。
助けた真由が魔竜だったとして、それが達彦を喰って同化し乗っ取ったのなら、達彦の意識は完全に消える。
それなら、達彦の口から蒼という名を呼ぶ言葉が出る事はあり得ない。
達彦の体の中で一体何が起きているのか、それがまるで分からなかった。
「……」
分からない相手に喰われるというのは、面白くなかったが、ここで魔竜に喰われれば、喰われながら魔竜の能力が分かるかも知れないと思った。
触手が動く。
いよいよ、蒼を喰らおうというのだろう。
「ぐぅぅ」
締め付けが一層強くなる。
背中の翼状の器官がひしゃげ、全身の骨が軋む。
触手の一本が蒼の股間に迫った。
その先端が口のように開き、そこにはびっしりとキバが並んでいた。
下の穴から体内に入り、内部の肉を喰らいながら、吸収するつもりなのだという事がすぐに分かった。
口に付いた触手が、股間を覆うプレートに喰らい付く。
この先、想像を絶する苦しみがあるだろう。
蒼は己の意識を意図的に閉じる事を考えた。
それは竜として自殺と同じ事だったが、敵に蹂躙されるよりはマシだと思った。
そして、思考を止める前、最後に自分がどうして攻撃を止めてしまったのかをもう一度考える。
自分は何を思って攻撃を止めたのか?
自分は達彦の事を――。
「……」
攻撃を止めた時、止めるのが当然というふうに体が動いた。
そんな事は今まで全くなかった。
相手が達彦だったから止まってしまった。
その事に不思議と後悔は無かった。
「……」
後悔していないなら、全て良いような気がした。
触手のキバがプレートを貫く。

タイムリミットだった。

蒼が意識を消し去る。
そのギリギリの瞬間。
「そんなことはやめなさい」
体育館に良く通る声が響いた。
声に意識が向き意識を消すタイミングを逸する。
体育館に誰か来たのだろうか?
しかし、蒼の理解感覚は何も捉えていなかった。
声のした方を視界に納めようとしても、拘束されていて、それは出来なかった。
「仕方がないわね。手伝ってあげるわ」
股間に喰らい付いていた触手が急に動きを止める。
直後、痙攣して蒼から離れる。
「最小なるものよ、我が声と意思の力を持ち、その姿を意のままに変えよ」
声が続く。
それは、何か詩を詠むような響きだった。
「!」
蒼は、その響きに驚く。
自分の記憶が正しいなら、それは……。
「かの者に取り付きし、害悪に作用し、それを引き離せ」
詩が詠み終わる。
同時に達彦に変化が生じる。
背中の粒子吸収器官が唐突にもげて、ドスンと床に落ちた。
さらに激しく咳き込み、口から色の付かない液体を大量に吐き出した。
蒼は触手の拘束が緩まった事を感じて、すぐに触手をどかし拘束から逃れた。
体中痛かったが、何とか自力で立つ事は出来る状態だった。
さっきの詩が聞こえた方を見る。
「――先生、どうして……?」
そこには自分が知るこの学校の教諭、村井七瀬の姿があった。
その七瀬の背中には竜の証である粒子吸収器官が広がっていた。
蒼のより二回りは大きく、形状も複雑だった。
「状況説明はあと。力を直接渡すから、攻撃相を纏って魔竜を始末しなさい」
「力って……!!」
直後、蒼は自分の中に力が流れ込んで来るのを感じた。
流れ込む力は、各部の損傷を癒して行き、立つのがやっとの状態だったのが、すぐにほぼ元通りになる。
弾の貫通した左肩も治ってしまった。
「さぁ、早く」
回復したのを見て、七瀬が言う。
「――分かった」
蒼は戸惑いつつ攻撃相を再び出現させるために集中する。今するべき事は七瀬が言った事の他にはなかった。
曲がっていた背中の器官を伸ばし、粒子を吸収する。
そして、両腕から新たに剣を取り出し握る。
「――それで対象はどちらなんだ?」
蒼は戦闘態勢を整えて聞いた。
達彦はすでに液体を吐くのを止め、棒立ちの状態だった。
その背後でもげた器官が触手を絡ませうごめいていた。
床に広がった液体を回収しようとしているようにも見えた。
この場合、もげた器官を攻撃するべきとも思えたが、蒼には判断出来なかった。
「分離した触手の方が魔竜よ」
七瀬が短く答える。
「分かった」
蒼は狙いを触手に定めた。
翼状の器官から生えた触手は、根本の器官に巻き付き、その姿を変えようとしていた。
器官を骨格にして化け物が肉付けされようとしているかに見えた。
蒼はその物体に向けて、斬りかかった。
同時に物体の肉付け作業が一気に加速した。
蒼の剣が届くより先に、平べったい壁のような化け物――魔竜がそこに現れる。
ピンク色の肉色で大きさは厚さ五十センチ縦横二メートル程。
そして蒼の剣が届いた瞬間、その体表面に固いプレート状の盾のような物を形成して攻撃を受け止める。
同時に身体の中央が変形し、そこから先端が刃になった触手が幾本も飛び出る。
蒼は後ろに飛んで、その触手をかわした。
「まだ戦えるのか」
蒼はもう一度突撃を掛けた。
魔竜は触手を何本も伸ばして蒼の身体を襲う。
「邪魔っ!」
蒼はその触手を避け、時には切り払い、左右にステップを踏みながら相手に接近して、剣先を突き立てる。
瞬時に盾が形成されるが、力で剣を押し込む。
盾が破壊されて、二本の剣が魔竜の内部へと突き刺さった。
手応えは柔らかい。
内部は単なる肉の塊のようだった。
魔竜は深く刺されても大してダメージを受けていない様子で、胴体中央新たな触手を出して蒼を絡め取ろうと動く。
「っ!」
蒼は剣を引き抜き後ろに飛ぶ。
追ってくる触手は全て薙払う。
剣での接近戦で行くなら、非効率的だが、一撃ごとに離脱するヒット&アウェイしか方法が無い気がした。
距離を取り、攻めるタイミングを見極める。
「蒼ちゃん、詩を使わないと厳しいわよ」
七瀬がそんな蒼に対して言う。
「……私は使えない」
詠む方法を学んだ事が無かった。
「そうだったわね……なら、一度だけ貸してあげるわ、剣に意識を集中させなさい、それで分かるから」
七瀬が訳知り顔をしながら言う。
「……」
蒼はどういう事か考える前に、まず剣に意識を集中した。
今は目の前の敵を倒すのが先だ。
それに、蒼には七瀬の言葉は信用出来る気がした。
剣に意識を集中すると、頭の中に七瀬の声が響いた。

――貸し与える力だから、詩はいらないわ、解放は貴方の意思よ、攻撃に集中しなさい。

その言葉の通り、攻撃に対して集中すると、身体の奥が熱くなるのを感じた。
「……これが、力……」
自分の内部から力が炎となって力がせり上がってくる。
そんなイメージだった。
どうすればそれを解放出来るか、蒼は瞬時に悟った。
そして、床を蹴り宙に舞い、両手の剣を振り上げる。
「はぁぁっ!!」
蒼が気合いを入れると、振り上げた剣が白く発光し炎を纏う。
その剣を、真下に魔竜を捉え一気に振り下ろした。
二つの剣先から業火が生まれ、魔竜に向かって飛んで行く。
魔竜は触手を重ね、盾のようにして炎を防ごうとしたが、炎はその触手を簡単に燃やし、魔竜本体を焼き尽くす。
それは圧倒的な火力だったが、体育館の床を燃やす事は全くなく、魔竜だけを燃やして行く。
魔竜は炎の中で暴れたが、どうやっても炎は消える事なく、やがて崩れ去って行った。
炎は崩れて炭化した魔竜の破片まで焼き尽くし、全てが燃えた後、その場所には、元の通りの体育館の床だけが残っていた。
「……すごい」
蒼は思わず漏らした。
ここまで制御された詠む力を見た事が無かった。
「――魔竜は片づいたわね。あとは、あの人ね」
七瀬が言い、達彦に近付く。
達彦はずっと立ち尽くしたままだった。
蒼も達彦の元に駆け寄る。
「気配がない……もう、死んでる」
蒼の感じる範囲で達彦が生きているようには全く見えなかった。
「いえ、この人は特別よ、さっきのだって、魔竜に喰われた訳じゃない、結果的に魔竜を喰っていたのよ」
「どういう事だ?」
七瀬は何か事情を色々と知っている様子だった。
「この人は最初にこの世界にやって来た竜の一人よ。その血が体内に眠っている。さっき、銃のような攻撃相を出したでしょ? それがその証拠」
「それを知っている先生は……?」
答えは想像出来た。
「ええ、私もその最初の一人。貴方には隠していたけど」
「そんな、あり得ない……同じ場所に魔竜を含めて竜が三人も集まるなんて普通じゃない」
七瀬が竜である驚きより竜の密度に驚いた。
一カ所に二体以上の竜が集まるなんて、少なくとも蒼の知る限りでは一度も無かった。
「流れが変わったのよ。今はそれしか答えられないわ」
「流れ?」
「そう、貴方達二人は特別な竜、その二人が出会う事で一つの事が変わる、その様子を実際に見るために私がやって来たの」
「達彦と私が……」
一体、何が変わるというのだろう。
蒼には何の事か全く分からなかった。
「変化はもう始まっているわ。――それより、達彦さんを起こすわよ」
「起こす? 死んでいるのにどうやって?」
「死んではいないわ。私の血でしばらく『止めた』だけ、私でも、あまり長くは止めていられないけど、魔竜の浸食を防ぐのには役に立ったわ」
「血だと? 飲ませたのか? 私も飲ませているんだぞ」
蒼はいらだちを感じた。
既に血を飲んでいる存在に別の竜が血を飲ませるの事は、普通はあり得ない。
血を飲ませた互いの理由が、飲ませた相手をコントロールしようとした時、反発が起きてしまうからだ。
「ええ、飲ませたわ、貴方より先にね。達彦さんと貴方が出会った夜にキスして飲ませておいたの」
「……では、私は人の下僕を取ったのか」
自分の勘違いだったと知って、一気に恥ずかしくなる。
頬が熱くなるのを感じた。
「すまない、気付いていたら、関わらなかった」
「いいえ、私は保険として血を飲ませただけ、別に達彦さんを欲しかった訳ではないわ、達彦さんは貴方のものよ」
「わ、私のもの……」
蒼の頬がまた熱くなる。
「フフ――それじゃ、目覚めさせるわ」
七瀬は笑ってから目を閉じ、達彦の身体に手を当てた。
と、達彦の肉体が揺らぐ。
周りの空間に溶け込むように、その像がぶれて行く。
空間というスクリーンに達彦という二次元映像が投影され、そのスクリーン自体が歪んで見えるという感じだった。
その像の中に達彦以外の何者がぼんやりと映る。
「ここから再構築するけど、どうやら、夏本さんの命も混じっているみたいね。分離して再構成してあげましょう」
七瀬が一度目を開けて言う。
「そんな事が出来るのか? 身体を一つ作りだす訳だろ?」
「生き返らせる訳ではなく器を作るだけなら大した事ではないわ。――じゃ、少し集中するわね」
答えて再び目を閉じる。
七瀬の背中の粒子吸収器官が半透明化して輝く。
蒼は黙って見守った。
やがて、達彦の像に変化が起きる。後ろにあったぼやけた像が、横に分かれ制服を来た夏本真由の姿になる。
そして、達彦と夏本の二つの像は徐々に実像に近付いて行き、やがて完全な肉体となり、床の上に立った。
意識は無い様子だが、安定して床に立っている。
おそらく、七瀬が見えない力で支えているのだろう。
「上手く行ったわ、あとはこのあり様を処理しないと」
七瀬は体育館を見渡した。
床中に蒼が解体した魔竜のゼリー状の欠片が散乱し、斬られた触手も何本も落ちていた。
「こんなの放っておけば、誰かが片づけてくれる。問題が大きくなったら、記憶を消すだけ」
「まぁ、貴方はそれでいいかも知れないけど、もう少しスマートなやり方もあるわ」
七瀬が少し呆れ気味に言い両手を広げる。
「目標認識、分解処理」
彼女の言葉に合わせて魔竜の残りかすが一瞬で弾けて塵となる。
塵はさらに分解され見えなくなり、後には全く何も残らなかった。
「……これが詩を詠む力か」
「ええ、それじゃ、力を使うついでに貴方の服を作ってあげるわ。その姿では帰るのに困るでしょ?」
「別に記憶をいじれば――」
「いいから、攻撃相を解いて」
言いかけた蒼を制止して七瀬が言う。
「――分かった」
蒼は自分の意見が通らないと思い従う事にした。
すぐに全身を覆うプレートと背中の器官を体内にしまって裸になる。
「ありがとう、制服でいいわね」
「ああ」
「――それじゃ、構築」
と、蒼の周りに空気の流れが発生する。
そして、次の瞬間には、その空気が制服となって蒼の身体を覆った。
「――便利だな……ありがとう」
「いいえ。――じゃ、そろそろ私は消えるわね。聞きたい事は色々とあるとは思うけど、近い内に自ずと分かるわ」
「何かまだ起きるという事か?」
「動いてしまったからね。でも、貴方は貴方の意志で行動しなさい」
「分かった」
七瀬の言葉には何故か説得力があった。
「良い返事ね。あと、この事件の処理は私に任せてくれていいから、直ぐに好きにして良いわよ」
「それはありがたいが、一つだけ質問させてくれ、夏本真由はどういう存在なんだ? 私には白か黒か判断出来ない、いつから魔竜に寄生されていたんだ?」
「それは心配いらないわ、夏本さんは白よ、貴方が来た時には魔竜に寄生されていたけど、私は立場的に直接は手を出せなかったから、貴方達に任せたの」
「そうか……」
蒼の感覚では、真由が魔竜に寄生されている事は全く分からなかった。
魔竜だと気付いたのは達彦を食べていた直後の事だった。
その時、蒼は理解感覚を全開にしていた。
その中で真由は蒼の感覚に引っ掛からずに二人の元に来た。
それは、相手が魔竜か竜意外ではあり得ない事だった。
つくづく自分の未熟さを悟る。
「落ち込む事では無いわ。励ましはいらないかも知れないけれど」
「……」
自分の力を鍛えようと蒼は心に誓った。
「――じゃあ、私は夏本さんを保険室に連れて行って消えるわね。達彦さんはその内、目を覚ますから、その後は貴方に任せるわ」
「ああ、分かった。色々ありがとう」
「いいえ、それじゃ、さようなら」
「さよなら」
蒼が別れを告げると、七瀬は真由を抱きかかえて体育館から出ていった。
竜同士の別れは大抵あっさりしている。
蒼はすぐに気持ちを切り替え、達彦に向き合った。
達彦に目を覚ます気配は、今のところ無かった。
このまま抱えて連れて帰ろう思い、立ったままの達彦の身体を自分の両手の上に寝かす。
周りの空気が七瀬の術で多少固定されていたが、蒼が触ると術は自動的に解除された。
「……」
達彦を抱き上げ、そのまま抱えて帰る事にした。
目立つかも知れないが、特に人目を気にする理由もなかった。
蒼は達彦を抱いて体育館から出た。

達彦が目を覚ますと、自分の事務所の天井が見えた。
「起きたか?」
突然、蒼の顔が目の前を塞ぐ。
「!! あ、蒼!? お、俺は……」
達彦は一気に目が覚める程に驚いた。
「何もそんなに驚く必要はない」
冷静に蒼が言う。
「す、すまん、あの後、俺は……」
記憶が繋がらない。
現在、自分は今、事務所のソファーの上で仰向けに寝ているようだった。
隣には蒼が座っている。
身体に特に異常は無い。
一体、いつからここにいるのだろうか?
確か学校にいたような気がした。
「!!」
そこまで考えて、体育館での事を思い出す。
身体に異常が無いはずはなかった。
かなりズタボロにやられた記憶がある。
しかし、今の自分の身体に痛い所はどこにもない。
「思い出したか?」
蒼が達彦の様子をみて聞く。
「あ、ああ、けど、どうして俺は……」
呟きつつ、不意に自分の理解感覚が何倍も鋭くなっている事に気付いた。
事務所を中心として自分が行動する範囲どころか、一つの街全体を理解出来るようになっていた。
意識を失っている間に何かあった事は間違いなかった。
「……一体何があったんだ?」
「――そうか、そこまでは憶えていないのか……それなら、知らない方がいい」
蒼が少し厳しい顔で言う。
「聞くなって事か?」
「ああ」
短く断定する。
「分かった」
聞いても絶対に話さないだろうという事が予想出来た。
「……それで、戦いの結末は? 勝ったのか?」
「ああ、一応勝った」
「そうか……で、怪我とかはしていないのか?」
「別に無い、厳密にはあったけど、今は問題無い」
「なら、安心だ」
「オマエの方に変化は無いのか?」
蒼がどこか心配そうに聞いて来る。
「理解感覚が広がっている」
達彦は正直に答えた。
「そうか……多分、戦いで目覚めたのだろうな、血が」
「……竜の血か」
「ああ」
「まぁ、目覚めたものは仕方ないか。――それで、事件は完全に解決したのか? 君が記憶を消したとかだと、俺の仕事は最初から無かった事になるが」
「ああ、それは七瀬先生が調整した。先生は竜だった」
差し障りの無い範囲で事実を述べる。
「あの先生が……そうか、やっぱり」
「やっぱりって、オマエは気づいていたのか?」
蒼が少し驚いた顔をする。
「いや、ちょっと変だと思っただけだ。あの人、気配が無い事が二度程あったから」
「そうか……」
蒼はどこか納得した顔をした。
「秘密のやり取りがあった様子だな」
「ああ、そういう事だ」
蒼は否定しなかった。
しかし、話す気はまるで無い事は確実だと思った。
「――ああ、ところで、捕まっていた夏本さんは?」
「彼女も無事だ。もうすでに私達の事は忘れているだろう」
「記憶操作をしたという事か?」
「七瀬先生に任せた。問題は無い」
「ふーん、まぁ、大体、状況は分かった。確かに事件は解決した様子だな」
「そういう事だ――だから私もここから去る。オマエとの契約はこれで終了だ」
「確かにそうだな、それで何時消えるんだ?」
去るという事は次の魔竜でも倒しに行くのだろう。
それを止めようとは思わなかった。
「明日には出ようと思ってる」
「また、随分急だな」
流石に明日去ると言うとは思わなかった。
「急いではいけないのか?」
「別れの暇も無いな、と思っただけだ。急ぐなら止めないさ」
知り合いが一人いなくなる事は寂しかったが、蒼には使命がある以上仕方ないと思った。
「そうか……」
蒼は達彦から顔を逸らし少し遠くを見るような仕草をした。
「もう会う事は無いのか?」
「ああ、私はこの街から離れる。留まっていても魔竜は見付けられないからな」
「――分かった、まぁ、元気でやってくれ」
蒼の生き方に口を挟む権利は自分には無いと達彦は思っていた。
生きて来た長さが違い過ぎた。
「元気か……竜にとっての体調不良は、お腹が空くか怪我する以外には無いけど、その言葉は受け取っておく」
そう言って蒼は立ち上がった。
「帰るのか?」
「ああ」
「そうか……それじゃ、頑張ってくれ」
最後に何か言おうと思ったが、月並みな言葉しか思い付かなかった。
「ああ、さよならだ」
蒼は軽く手を振って事務所から出て行った。
随分とあっさりした別れだった。
達彦はソファーの上に再び横になり、特にする事なくぼーっとしたまま、しばらく後に眠りに落ちた。

エピローグ

翌日、朝早く達彦の事務所のドアがドンドンと叩かれた。
インターホンを押さないところをみると、余程の急用なのかも知れないと思った。
達彦は二、三度顔を叩いて目を覚ましてからドアに向かった。
そして、覗き穴から外の様子を伺う。
「なっ!!」
そこから見えた姿に驚いて、急いでドアを開ける。
「あ、蒼か!?」
「ああ、そんなに驚くなっ!」
そこには蒼がいた。
いたのだが、何か違う。
それはサイズが……。
「ど、どうして、そんな幼く……」
達彦は、蒼の大きさが縮んでいる事に面食らった。
インターホンを押さなかったのでは無い。
身長が縮んで押せなかったのだ。
蒼は十歳程度の年齢に若返って(?)いた。
元々のサイズに合っていたと思われるぶかぶかのワンピースを着ているのが、何かいけない空気を作っている気がした。
「――基本の力が減ったからだ。空腹のまま無理したのが不味かった。一時回復していたのは、詩の力だったみたいだ」
蒼がぶつぶつと呟く。
後半は聞き取れなかった。
「と、とにかく、中に入れ」
「いや、オマエが出ろ、行くんだから」
「は?」
「オマエが私と一緒に来るんだ」
蒼が達彦の手を引っ張る。
もう片方の手には、身体のサイズから考えると無茶な程、大きな鞄を持っていた。
「この街にオマエがいた記憶は、昨日全部消した。ここも誰も住んでない事にした。だから行くぞ」
「…………な、なに?」
蒼が言った事を考える。
それはつまり、自分の居場所を消されたという事ではないだろうか?
「すまん、もう一回言ってみてくれ?」
「オマエがここにいた記憶を、オマエに関係している人間全てから消した。分かったか? だから、私と一緒に来い」
「『だから』って前後が繋がってないだろ!? 無茶言い過ぎだっ! それにどうして俺を!?」
「オマエと一緒に歩く夢を見た。竜の夢は正夢だ。オマエは私と一緒に来たくないのか?」
「いや、それは……」
聞かれて言い詰まる。
蒼と一緒にどこかに行く。
その事を嫌だと思わない自分がいた。
しかし、色々と常識的な事が、邪魔をした。
それに、自分は蒼の事を知らない。
蒼の人生三千年の内でたった数日の付き合いでしかない。
その事が、付いて行くを躊躇わせた。
「即答出来ないのなら来い。嫌じゃないという事だろ? 拒否するなら、こっちはオマエに飲ませた血の制御を使っても良いんだからな」
「……それはすでに脅しだろ?」
「うるさい、来るのか、来ないのかハッキリしろ? どうせ荷物も大して無いんだろ?」
「それはそうだが……」
「何だ?」
「ひとまず、どこに行く気なんだ? それくらい教えろ」
「そうだな……南の方に行こうと思ってる」
アバウトな答えだった。
「そうか……」
蒼に聞いて、どこか明確な地名が出る訳は無かった。
やや悲観的な未来が見えた。
しかし、そんな蒼に着いて行くという事に、達彦は不思議な魅力を感じた。
「それで、どうするんだ? 私に付いて来るのか、来ないのか?」
「――ああ、分かった。行くよ、行くしかないだろ」
達彦は半ば自棄になって答えた。
実際、蒼の力があれば生活の心配は無い。
明るい未来展望に思考を切り替える。
こういうのは、良い方に考えた方が正解だ。
「そうか、じゃ、荷物をまとめろ。ここで待ってる」
「ああ」
達彦は部屋に戻って持っていくものを検討した。
元々、殺風景な部屋だ。
愛着のあるようなものは特に無い。
実際、蒼が大抵の物は手に入れてくれるだろう。
となると、一応仕事を再開する事を考えて事件記録のDVD-Rと数日分の着替え、あとは残して行くと面倒な身文書の類しかなかった。
それらをくたびれた鞄に詰めて、数分で荷造り完了だった。
「終わったぞ」
荷物をまとめて、玄関先の蒼の前に立つ。
「ああ。じゃ、いくぞ」
「移動手段は?」
「まず電車だ」
「その格好でか? まず、服屋だ」
ぶかぶかの服はいつ脱げるか知れない。
その上、下がった襟元を上から覗くと胸が丸見えだった。
「は? どうして?」
「どうしてもクソもない。服屋が開くまで大人しくしてろ」
「……うう、分かった」
達彦に言い切れて、蒼は渋々という感じで頷いた。
「ったく、子守の旅か……」
呟きながら、達彦の口元は笑っていた。
どうなるか分からない旅路だったが、不安はなかった。
蒼が誘ってくれた事が、どこかで嬉しかったのかも知れない。
達彦はこの先、蒼とは長い付き合いになる事を、そのとき感じていた。
蒼の夢1  完