『雨とチョコレート』
プロローグ
横殴りの雨が降っていた。
深夜――。
月も星も雨雲に隠れた闇の中、ただ、ザーザーという音だけが耳に付いた。
音が周囲の気配を消し、闇をさらに見通せないものにしていた。
そんな暗闇の中で、パっと光る赤い炎が見えて消える。
直後、大きな爆発音と共に紅蓮の炎が闇を染めた。
闇が一瞬だけ照らされる。
二つの影があった。
一つは人間のようにみえる影、もう一つは人の形をしていたが、その背中に翼を生やしているように見えた。
炎が消え周囲が再び闇に包まれる。
その後、周囲は完全に雨の音だけになった。
…………。
1
入学式の写真撮影と言えば、青空の中、桜の木の下が定番だった。
岩瀬恭司(いわせただし)もその定番通りに桜の下のひな壇に今日一緒になったばかりのクラスメイト達と並んでいた。
そして、いざ撮影となった時、急に空を雲が覆った。
雲はみるみる厚さを増して、一分もしない内に土砂降りの雨と変わった。
「一旦中止です、生徒の皆さんは校舎にっ」
教師の声で生徒達が一斉に昇降口に向かい校舎の中に入る。
春だというのにゲリラ豪雨というのも変だが、まさにそんな状況だった。
このまま降ると折角の桜が散ってしまい、本気で台無しになってしまう。
「異常気象だなぁ」
恭司が昇降口で呟く。
周りでは、教師の案内で全員教室に向かう事になり、みんなが上履きに履き替えている最中だった。
と、外を見ていた恭司の目に不思議な物が写った。
桜の下で制服を着た女子が傘を差す事もなく佇んでいた。
しかし、その姿は激しい雨でも全く濡れている様子がなく、長く少しウェーブの掛かった薄い色の黒髪も少し広がる制服のスカートも萎んでいるように見えなかった。
「え?」
豪雨の中、そこだけ雨が避けているような光景。
その彼女と恭司の目が一瞬だけ合った。
可愛らしく整った顔に僅かに浮かぶ笑み。
「ぁ――」
少なくとも恭司にとっては息を飲む程の可愛さだった。
自分の理想の女子を形にするとしたら、まさに目の前の彼女しかいないというくらいのレベルだった。
衝動的に校門の方に足が向いた時、恭司の頭の中から、その彼女に対しての認識が全て消し飛んだ。
「――ん?」
次の瞬間、恭司は教室の席に座っていた。
教壇に担任が立ち、自分の名前を黒板に書いていた。
状況的にこれから自己紹介タイムだろう。
それは理解出来たが、自分が乗降口から移動した記憶が無かった。
「……」
違和感を覚えたが、無意識に教室に入って座ったとしか思えない。
変な出来事だったが、有り得ない程の異常事態でもない。
もし、もっと突拍子もない場所に移動していたなら、完全におかしいと思って原因を探るが、昇降口から教室程度の移動なら騒ぐ程ではないだろう。
「疲れているのか?」
小声で言って、ひとまず落ち着く事にする。
原因を決めてしまえば、もっと他に考える事があった。
自己紹介タイムが始まる以上、それに合わせて喋る事を決める必要があった。
「では新入生の皆さん、お待たせしました。まずは自己紹介から始めます」
担任が言って出席番号順の名乗りが始まる。
恭司の『い』で始まる名字的に出席番号が早く三番目だった。
あまり深く考えている時間はなかった。
「……」
名乗った後、適当に差し障りの無い事を言えば良いだろうと思った時、唐突に教室の前のドアが開かれた。
「遅れましたっ、二石十月(ふたいしとつき)です」
女子が一人勢い良く入って来る。
クラス全員の視線がそちらに向いた。
恭司も例外ではなかった。
「っ!」
十月を見た途端、頭の芯が猛烈に痛くなった。
脳髄を刺すような頭痛だった。
目の前がグルグルと回り、色が無くなり、思考がままならない。
吐き気すらしてきた。
ガタッ!!
身体のバランスを失い意外な程に大きな音と共に椅子から床に倒れた。
「お、おい、大丈夫かっ!?」
担任の叫びが恭司の意識が途切れる前に聞いた最後の言葉だった。
*
春の空に雨が降り出す少し前の事――。
桜が舞う中、何者かの気配が動く。
「……見付けました」
一言の呟き。
その呟きには、嬉しさが籠もっていた。
しかし、その場所には誰も居ない。
ただ桜が舞い散るだけだった。
*
「――ん……んん」
恭司は白い天井を見上げて目を醒ました。
前後の事が思い出せない、一日に二回の記憶欠損は不味い気がした。
「何だ……一体?」
昨日の夜に多少緊張して眠れなかった事が関係あるだろうか、と思う。
だが、寝不足程度で記憶が飛ぶのも不自然だった。
「――あら? 気付きましたか?」
ベッド脇の白のカーテンの裏から女性の声がした。
直後カーテンがツゥーと開く。
「気分はいかがですか?」
現れたのは学校の制服を着たおそらく先輩だった。
纏っている雰囲気が一年のそれではなく『大人』だった。
さらさらストレート黒髪、ぬけるように白い肌、形の良い瞳、ふっくらと色っぽく赤い唇。
「あの……ここは保健室か何かですか?」
相手の美貌に戸惑いつつ訪ねる。
制服姿の人間が出て来るなら、病院ではないだろうと思った。
「はい、私は篠崎由梨香(しのざきゆりか)と申します。三年で保健委員をやっています」
「保健委員ですか、先生は?」
「ええ、今、先生は外出していて」
「そうですか、でも、なぜ、先輩の方が?」
別学年の生徒の付き添いというのはあまり聞かない気がした。
「今日は入学式で他の学年の生徒さんは登校していませんから、別の用事で丁度保健室に居た私が付き添っている形です」
「はぁ……」
事情を知らない恭司にとって、納得するしかない理由を言われた。
「それで、どこか具合が悪いところはありますか?」
「いえ、今は特には」
何かあって倒れたような気がするが、今のところ記憶が飛んだ以外の異常はなかった。
記憶が飛んだ事をいきなり話しても仕方ないだろう。
「そうですか? では、起きあがれますか? 今、雨が止んだので写真撮影を再開しています。このままだと丸枠で囲まれた写真になってしまいますよ」
「あ」
入学式に出たのに、そんな写真になるのは思い出として非常に恥ずかしかった。
「えっと、三組の岩瀬恭司さん」
手元にあった紙を見ながら由梨香が言う。
おそらく、恭司が運ばれて来た時のデータシートだろう。
「は、はい」
「三組はまだみたいですから今から行けば間に合いそうです。付き添いますか?」
手を差し伸べて来る。
「い、いえ」
由梨香の申し出を断り、恭司は一人でベッドから起き上がった。
あらゆる意味で綺麗な先輩と一緒に登場というのは目立ち過ぎる。
ベッドの下には自分の上履きが揃えて置いてあった。
それを履きつつ、
「ありがとう御座いました。――じゃ、失礼します」
頭を下げた。
「いえ、どういたしまして、また会えると良いですね」
由梨香が微笑み、意味深な事を呟いた。
「はい?」
「いえ、それでは」
聞き返すと、はぐらかされてしまう。
先輩として冗談だったのかも知れないと思い、恭司は特に気にせず写真撮影の現場に向かった。
外に出ると確かに雨は止んでいて、さっきまで降っていたのが嘘のように青空が戻っていた。
雨で散るかと思われた桜も、思ったほどに影響を受けていない様子だった。
恭司は走って生徒の集まる校門近くに向かった。
丁度三組の生徒が、再び設置されたひな壇に上がっているところだった。
一度体育館に設置し直したのをまた戻したのだから、正直ご苦労様だと思いつつ、近くに居た担任に平気だと話をして、恭司もひな壇に登ろうとした。
「あ、大丈夫?」
横からふいに話し掛けられた。
見ると十月がそこに居た。
自分が気になっている女子にいきなり話し掛けられた。
「?」
そこで恭司は違和感を感じた。
十月の事を気にするタイミングがあったのか、覚えが無かった。
ただ、十月の事が気になるという気持ちだけが胸の中にあるような気がした。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
十月が心配そうな顔をする。
「いや、どうして僕の事を?」
違和感もあったが、そもそも十月が自分の事を心配する理由が分からなかった。
「私が教室に入ったと同時に、貴方が倒れたから気になって」
「そうだったけ?」
十月が入って来て名乗ったシーンまでは記憶にある。
その後の記憶は保健室で目覚めたものだ。
合わせて考えると十月の言っている事で正しいのだろう。
「それで、大丈夫なの?」
「あ、それは問題ないよ、変なタイミングで倒れたみたいで、ごめん」
「貧血とかあるの?」
「いや、全然、どうして倒れたのか自分でも分からない」
「そうなんだ……」
十月が僅かに視線を逸らして考えるような顔をする。
「でも、今問題ないなら多分、平気だと思うよ」
微笑して言う。
「あ、うん」
そんな十月の様子に恭司はどこか既視感を覚えた。
さっきの違和感に続く感触。
十月が教室に入って来た時に初めて彼女の事を知った筈なのに、それだけでは無い別の出会いがあったような記憶。
何かがあったような気がしてならない。
「ちょっと、変な事――」
恭司が言い掛けた時、
「あ、そろそろ撮るみたいだよ」
十月が言い、ひな壇の列が揃えられて行く。
男子と女子は左右に別れた為、恭司は十月に話し掛けるタイミングを失ってしまった。
2
入学式から一週間が経ち、各クラス委員などが決まり、それぞれの委員会の初日が集中する日。
図書委員になった恭司は廊下を歩いていた。
隣には十月の姿がある。
「……」
思い返せば壮絶な戦いだった。
十月のクラス内での男子人気は圧倒的であり、同じ委員なり同じクラブなりに入りたい輩が溢れる結果になった。
十月が図書委員になりたいと言った時、クラスの男子の八割が図書委員に立候補した程だった。
恭司も当然のように立候補して、じゃんけん選抜という荒ぶる男子の戦い参加した。そして、人生の幸運配分の半分くらいは使った感じで、その戦いに勝利してしまったのだった。
恭司が勝った時の相手の嘆きの雄叫びは生涯忘れる事はないだろう。
「どうかした?」
「いや、図書室って初めて行くんだけど、二石さんは?」
「私も初めてだけど、恭司君、場所分かっているの?」
十月は最初から恭司の事を名前で呼んでいた。
何故なのか気にはなったが恭司を理由を聞けずにいた。
「一応、場所は調べてあるから」
仮に知らないとしても、特別に迷う程に広い校舎ではなかった。
「そう、ところで恭司君、本好きなの?」
「え」
「だって図書委員だよ? 普通、本好きな人向けじゃない?」
「まぁ……そうかもね」
曖昧に答える。
十月と一緒になる事だけが目的で図書委員になったとは言えなかった。
恭司の趣味に読書は特にない。
本が好きか? と聞かれて頷く事は出来なかった。
「割と正直だね、恭司くんは」
数秒の間の後に十月が言った。
「……好きか嫌いかは答えてないけど」
「思い切り表情に出ているし、でも、それなら、どうして図書委員になったの?」
「それは……」
本心を答えるという事は、半分以上告白とイコールだった。
十月の事が気になるのは事実だったが、それを伝えるにはまだ心の準備が足りなかった。
「何か倍率が高い委員だったから、それだけ良いことがあるのかな、と思って」
とりあえず、それっぽい理由を答えた。
「倍率が高いのは、聞いた話だと、三年の委員長さんが凄い綺麗な人だから、らしいけど、恭司君もその人狙い?」
十月が恭司の知らない事を言う。
その話が本当なら、他のクラスでも男子の競争倍率は高かった事になるだろう。
「そうなんだ、僕は知らなかったけど」
「ふーん、確かに『知らなかった』って、顔に出ているね」
また恭司の顔色を読んで言う。
「そんなに読みやすい?」
「気にする程じゃないかな、私が特別なだけだから」
「特別?」
「ううん、何でも。――それより、恭司くんはチョコレート好き?」
全く脈絡がない質問だった。
「え、別に……嫌いじゃないけど」
不思議に思いつつも、難しい質問では無かったので答えた。
「じゃ、私と仲良くなれる可能性アップだね。私、チョコレート大好きだから」
「え?」
十月の言おうとしている事がやや理解出来ない。
恭司の事を誘っているようにも受け取れる発言だったが、そうだと断言出来る程、恭司は自惚れていなかった。
「可能性がある人は久しぶりだから、――とりあえず、あそこが図書室かな?」
十月が話を切り替える。
意図の分からない会話だった。
「えっと、そうみたいだけど」
「じゃ、行こっ」
そのまま、視界の先にある図書室に走って行ってしまう。
恭司はその後を追うしかなかった。
図書室の中はかなり広かった。
ざっと見ただけでも大きめの本棚が二十はある。
「会議の場所は司書室とあるけど」
「あそこがそうじゃない?」
司書カウンターの裏にガラス張りの壁があり、その裏に部屋があった。
おそらくそこが司書室だろう。
恭司達はカウンターの係の人間に話して、奥に通してもらった。
司書室の中には五人程の生徒がいた。
部屋の中央にある机を囲んで座っている。
「まだ、全然だね」
「そうだね」
「とりあえず座ってよ」
十月に促されて、恭司は長机に備え付けられたパイプ椅子に腰掛ける。
そして、座っている面々を何気なく眺めた。
「――あ」
一人の女生徒と目が合い、その女生徒が微笑してぺこりと頭を下げた。
入学式に保健室であった篠崎由梨香だった。
それから少しして、他のクラスの委員が集まり、新年度第一回の図書委員会が始まった。
一回目という事で、会議は自己紹介と仕事の内容と説明に終わり、その後、最初の仕事として、各クラスの生徒分の図書カードを作る仕事が行われる事になった。
最近は生徒IDで電子管理している学校もあるらしいが、恭司の学校は古風な紙にスタンプ式だった。
作業説明が終わると、
「じゃ、私がスタンプを押して名前を書くから、恭司くんは出席番号順に並べて、通し番号をふってね」
「ああ」
十月が言い、配られた真新しい図書カードにクラススタンプを押して、クラス名簿順に名前を記入していく。
その字はとても綺麗で整った字だった。
恭司は十月の書いたカードに黙々と番号を振り、積み重ねて行った。
クラス三十五人、それほど時間の掛かる作業ではない。
二人とも真面目に作業をこなし、二十分ほどで終了してしまう。
「はい、終了」
十月が長机の上に両手を揃えて言う。
その声に由梨香が反応する。
「……二人共、息が合ってて早かったですね」
「えっ、そうですか?」
「ええ」
ニッコリと由梨香が頷く。
「何か嬉しいです。――ねっ、恭司くん」
「え、あ、まぁ」
「嬉しくない?」
「いや、そういう事じゃなくて」
照れる話だった。
そして、十月の親しすぎる態度に戸惑っていた。図書室に入る時にも十月は恭司を誘うような事を言い、今も解釈的には誘っていた。
「むぅ」
十月はちょっと拗ねたような顔になって、
「恭司君ははっきりしないなー」
「いや、嬉しいのは嬉しいよ。ただ、それをあっさり認めるって事はさ」
「――事は?」
「それは……」
少し考えれば分かる事のような気がした。
分からないのだとすれば、天然系というタイプなのかも知れない。
そんな言動は十月の行動の節々に見られていた。
ただ、天然じゃないとすれば、からかわれている可能性もあった。
恭司が答えに困っていると、
「二石さん、それくらいにしてあげてください。ね?」
由梨香が助け船を出してくれた。
「ん? 何かマズい事言いましたか? 先輩?」
完全に分からないという顔を十月はする。
「そうですね、いきなりは戸惑う事もあるのですよ」
「ええっと、どういう?」
「ともかく、今日はもう終わりですから、二人とも帰っていいですよ、――他の皆さんも」
由梨香が話を打ち切り、委員長らしく場を仕切る。
十月にそれ以上聞く雰囲気を与えなかった。
「んー」
やや釈然としない様子で十月は唸っていたが、部屋の中の人間の数が少なくなり残りが恭司と由梨香だけになると、恭司に向き直り、
「じゃ、一緒に帰ろうか?」
「え?」
まるで当然のようにそう言った。
恭司はさらに戸惑ってしまう。
深く考え過ぎなのかも知れないが、相手が気になる異性となれば混乱しても仕方ない。
「それって、教室までって事だよね?」
確認する。
「別に駅まででもいいけど、あっ、恭司君は、バスだっけ、電車だっけ?」
「電車だけど」
「じゃ、駅まで、私も電車だから」
「あ、う、うん」
半ば強制的に押し切られる。
恭司の戸惑いがますます増える結果だった。
「二人とも、やっぱり仲がよいですね」
由梨香が微笑む。
他人から見て、ある意味微笑ましい状況なのだろう。
恭司は急に恥ずかしくなって来て、
「では、先輩、帰ります」
司書室から十月と一緒に出ようとする。
その時だった。
ガシャン!!!
司書室と図書室を隔てていたガラスの壁が粉々に砕け、図書室側から何かが突入して来た。
それは何か子供くらいの大きさのマネキン人形のようなものだった。
ただ、身体はおそらく金属で出来ていて、両手に長い刃物のような爪が生えた怪人形だった。
「二人とも怪我はない!? 動けるなら下がってくださいっ!」
その人形の前に由梨香が立つ。
恭司達はガラスの壁の前から離れていたので幸い何ともなかった。
「大丈夫ですが、な、何なんですか!?」
「質問は後ですっ!」
鋭く言い放ち、由梨香はその人形との間合いを詰めて蹴り掛かった。
足を大きく振り上げて、制服のスカートが翻る。
人形は片腕でそれを防ぎ、逆の手で由梨香に爪を突き立てる。
それを由梨香は背後に飛ぶようかわし、直ぐさま取って返して、人形の胴体を狙って回し蹴りを放つ。
その素速い動きに人形は対応出来ずに蹴り飛ばされ、砕けたガラスの向こうに吹き飛び本棚に激突した。
棚は辛うじて倒れなかったが、本が派手に崩れ落ちる。
「……」
恭司はあまりの事に声すら出せなかった。
十月は恭司の後ろに隠れるようにして、ことの様子を伺っていた。
崩れた本の中から人形がのろりと起き上がる。
「二人ともっ、伏せてください!」
由梨香が叫ぶ。
同時に人形の手がいきなり伸びて恭司達に迫った。
「っ!」
恭司は反射的に背後の十月を庇うように前に出た。
そして、胸に強い衝撃を受けて、そのまま壁に叩き付けられた。
「きゃ!!」
その裏で十月の悲鳴があがる。
人形の腕は二人をまとめて吹っ飛ばしていた。
「岩瀬さんっ!! 二石さんっ!!」
由梨香が叫ぶ、合わせて人形が伸ばした腕をしならせて、由梨香を狙う。
その手の先にある刃物のような爪には血が滴っていた。
「――人命優先モード、能力限定解放っ!」
血を見た途端、由梨香の動きが変わった。
床を蹴って天井近くまで跳躍、長い髪を踊らせ人形の頭頂部に踵落としを決める。
ガコっ!!
派手な音がして人形の頭が完全に陥没して、粉砕された。
金属の外装をもろともしない一撃だった。
人形の動きが止まり、図書室中に静寂が戻る。
「岩瀬さんっ!」
由梨香が恭司の元に駆け寄る。
恭司は胸から血を流して、十月と共に壁に寄りかかるように倒れていた。
「まずい、岩瀬さん、意識はありますか!?」
二人の様子を見て、十月は気絶しているだけに見えたが、恭司の方は致命傷に見えた。
心臓はそれているかも知れないが、人形の爪が確実に肺を貫いていた。
「……っ……ゴホっ!!」
恭司が由梨香の声に薄目を開けて咳き込む。
そして、口から鮮血が溢れ、再び目を閉じた。
「グラビオ、応急だけでも治癒して早くっ!」
由梨香が制服の胸ポケットから小さな犬の縫いぐるみを取り出した。
「なんじゃ、これは止血しても無理じゃろ?」
その人形が由梨香の手の上で喋る。
「止血後、動ける内に仮契約して私の力を解放、その力で再生させます」
「本気か? まぁ、目星を付けていた人間だという事は分かるが、調査が足りんじゃろ?」
「つべこべ言っている場合じゃありまん、お願いしますっ」
由梨香が強い口調で言い切る。
「仕方ないのぅ」
犬の縫いぐるみがぽんっと由梨香の手から離れて、恭司の身体に乗っかる。
「――内臓術式発動、かの者の快復力を我の力をもって増幅せよ」
縫いぐるみの身体がぽっと明るく光り、その後、恭司の胸から流れ血の量がみるみる減って行く。
「恭司さん、目を覚ましてください」
名前で呼び掛ける。
「っ……ぁ……せ、先輩?」
開いた恭司の口から流血は無くなっていた。
「良かった、時間が無いので良く聞いてください、このままでは恭司さんは三十分程度で死にます。ですが、助かる方法があります」
「――死ぬ?」
言われて、恭司は胸の傷を認識する。
脈に合わせるようにズキズキと痛む。それでも何故か今は楽だった。
しかし、これは死ぬ傷だなという事が、制服をべっとりと汚す血の量で悟れた。
「ええ、でも、私なら助けられます。ただ、唯一、それを行うと恭司さんを私達の闘争に巻き込んでしまう可能性が高くなります、それでも構いませんか?」
「闘争……? 先輩は何かと戦っているのか?」
言って今襲って来た人形が頭に浮かんだ。
しかし、それでも実感のわかない話だった。
あまりに非現実過ぎる人形の動きは、まるで夢でも見ているような光景だった。
「はい、長い間ずっと。ただ、ここで私の言う事を聞いていただけるなら、恭司さんの身の安全は私が保証します」
「僕は、何をしたら助かるんだ?」
話は見えなかったが、ひとまずそれを聞いた。
「私のコアに触れて、仮マスター契約をしてください」
由梨香がおもむろに制服のジャケットを脱ぎ、下に着ているブラウスの前ボタンを開き腹部を露出した。
「――えっ?」
白くて綺麗なお腹を見て戸惑いつつ、由梨香が何をする気なのか全く分からなくなる。
そんな恭司の右腕を由梨香が握り、自身のお腹に押し付けた。
「せ、先輩、何をっ!?」
「驚かないでください、今、コアを出します。すぐに済みますから」
恭司の手にある柔らかい由梨香のお腹の感触が、急に硬質なモノに変わった。
「んっ」
由梨香の口から吐息が漏れる。
「な、なんですか……これ?」
恭司の見ている前で由梨香のお腹に巨大な赤い宝石が露出した。
それは、中から出て来たという感じではなく、お腹の部分が全て一つの巨大な宝石に変化したという感じのものだった。
「これが『無垢なる物』のコアです、私のは特殊サイズですが、このまま仮契約をしていただければ、恭司さんを助ける事が出来ます」
「契約ってどうすれば?」
「コアに触れたまま――『我、マスターに名乗り出る』と言っていただければ、後はこちらで処理します」
「それだけで、助かると?」
「はい」
由梨香は言い切った。
「……」
巨大な宝石は楕円球形で、よく見ると柔らかく発光し神秘的な雰囲気を漂わせていた。
どう考えても人間のお腹に填っている物体ではない。容積的に内蔵が半分以上ない計算になってしまう。
つまり、由梨香がただの人間ではない証が恭司の目の前にあった。
はっきり言って色々と理解出来ない状況だが、一つだけこのままでは自分は死ぬだろうという事だけは確実だった。
迷う時間もあまりない。
「――分かりました。その契約します」
死ぬという終焉を、ここで迎える事は出来ないと思った。
助かるというなら何かしらの代償は仕方ない。
それが、よく理解出来ていない『闘争』に巻き込まれるという事でも――。
「では、先ほどの言葉を」
「はい」
一度息をのみ。
「――我、マスターに名乗り出る」
恭司がそう呟くと、コアがドクンっと脈打ったように感じた。
「承認します。――レーナ・テルチェ・ユーリ、マスター仮承認、能力封印限定解除――エーテル取り込み翼展開」
由梨香の背中に光が集まり、瞬間的に一つの造形物となった。
それは金属と石で出来た機械の翼だった。基部が鈍く光る金属で出来ていて、羽根の部分はプレート状の白い石で構成されていた。
ブラウスの背中部分を破る事なく、背中にごく近い位置で浮いていた。
「エーテルを術式起動まで収集完了。――我がマスターに対して、その細胞の損傷を我が認識せし範囲で修復せよ」
由梨香が恭司の胸に手をかざした。
その部分に光が集まり恭司の胸の傷が急速に癒える。
「っ……これは……」
痛みが嘘のように消えて、感じていた生命の危機が薄れて行く。
「良かった、間に合った様子ですね」
「一体、先輩は何者なんですか?」
常識をはるかに越える、奇蹟とも言える力を目の当たりにした。
「過去に人が創り出した思考物体『無垢なる物』です。ただ、詳しい話は後で、今度は二石さんの具合を見ますから」
由梨香がジャケットを着なおして、倒れている十月の元に移動する。
その間に背中の機械の翼は音もなく消滅していた。
「そ、そうだ、二石は?」
恭司も隣に倒れている十月の事に意識を向けた。
忘れていた訳ではないが、あまりの出来事に気が回らずにいた。
「大丈夫な様子です。身体に衝撃を受けて気絶しているだけの様子ですね」
「本当に平気なんですか?」
身体を起こしつつ十月の様子を見やる。
目立った外傷はどこにもない、乱れた髪が顔に掛かっている様が、こんな時だと思いつつも、変な色っぽさを出していた。
「問題ありませんが、念のため救急車を呼んでおきます」
「先輩の力で治療出来ないのですか?」
致命傷を治癒したのだから、気絶程度なら何という事はない気がした。
「あの力はマスターに対してのみしか使えません」
「そうですか」
何でも可能な万能という事では無いようだった。
「――じゃ、グラビオ、救急に連絡お願いね?」
「連絡だけならお前でも出来るじゃろ、ワシとて暇じゃない」
恭司の耳に第三者の声が聞こえた。
「へ?」
驚いて回りを見回すが、自分たち三人以外の姿はない。
「ここじゃよ」
声は恭司の視線の下の方から聞こえた。
そこには小さな犬の縫いぐるみが立っていた。
「え? 今の君?」
縫いぐるみを指差して聞く。
「失敬や奴じゃな、人に指を差した上に君とは、ワシはお前よりずっと年上じゃぞ」
その縫いぐるみがはっきりとした人語で喋った。
「そ、そう言われても……」
次から次へと信じられない事が起こる。
今、自分の傷が奇蹟的に治癒されたという事実が無ければ、もっと驚いていた事だろう。
「まぁいい、ワシはグラビオ、訳あってこの姿じゃが、侮るでないぞ」
「は、はぁ」
「じゃ、グラビオ、連絡を、私は別にする事があるから」
紹介を待っていた由梨香が重ねて言う。
「――仕方ないの」
犬の縫いぐるみは、それっきり黙る。
おそらく、どんな手段かは不明だが救急車を呼んでいるのだろう。
「後は、念のための忌避操作と二石さんへの記憶処理、残骸の後片づけと、それから恭司さんの服を綺麗にしないと駄目ですね」
「記憶処理?」
特にその言葉が気になった。
「ええ、今見たものを忘れてもらうだけです。すぐ済みます」
由梨香の背中に再び金属の翼が構成された。
そして、指先で空中に何か描くような動作をした。
「忌避操作完了、次いで記憶操作完了。次は――偽物の残骸よ、疑似コアの消滅と分解を命ずる」
唱えると、部屋に転がっていた人形の残骸が光の粒となって綺麗に消えた。
とはいえ、倒れた本棚や立ち回った時に床に付いた傷などはそのままだった。
「後は、本棚が老朽化していた倒れた事にして処理します。二石さんの記憶もそうしておきました、目が覚めたら、急に本棚が倒れて来て頭を打った事にして話を合わせてください、恭司さんは二石さんが下敷きになるのを防いだ事にしてあります」
「いきなりそう言われても……そう思うように二石の記憶を弄ったというんですか?」
「そうなります。では最後に、その制服を綺麗にします。――対象認識、損傷と汚れを元に」
恭司の血に汚れて裂けた制服が見る見る綺麗に元通りになる。
「これで完了です。――グラビオ連絡は付いた?」
「ああ、ここの学校の校長の名前で救急車を呼んだ、校長の記憶を処理してくれ」
「はい――対象人物場所特定」
再び空中に何か描くような動作をして、その後、背中の翼を消滅させた。
「さて、これでやっと時間が出来ました。救急車が来るまでの間にあらましを説明します」
テキパキと事後処理をして恭司に向き直る。
「聞くしかない状況ですよね」
「ええ、では先程の続きです。私は『無垢なる物』という人とは違う存在です。そしてクレイドルという組織に狙われています。今さっきの人形はクレイドルの戦闘用オートドール『無垢なる物』の劣化コピーです」
「クレイドルというのが敵だと?」
とりあえず、その事だけは理解出来る話だった。
「はい、恭司さんは『クレイドルグループ』という海外のコングロマリットを知りませんか?」
「いや……」
知っている海外企業の名前の中に、そんな名前はなかった。
「そうですか、大きな会社で手広く事業を展開しています。しかし裏では人知を越えた力を扱う研究をしていて、私達の敵です。あと、部署によって看板となる企業名は違いますから、きっと恭司さんが知っている社名も傘下にあると思います」
そう言って由梨香は幾つかの日本語名の企業を挙げた。
その中には確かに恭司が知っている会社もあった。
「それで、そのデカイ会社が何故、先輩を?」
「基本的には私達の力が欲しいからという回答になります、私達は複数存在していて、それらを集める事をクレイドルは目的にしています。ただ、詳しい事は長くなるので、また別の時に」
「分かりました」
由梨香の力を欲しているという話は納得出来る話だった。
先ほどの治癒能力一つでも、理屈が解明出来れば世界が変わってしまう。
「では、次に私が恭司さんを仮マスターとして必要とした理由です」
「はい」
「『無垢なる物』はその膨大な力を勝手に使用出来ないように、命令してくださる主人となる人間を必要とします、例外もいますが、私は後期型なので主人がいないと、力の九割程度が使えない状態となります」
「それじゃ、僕を主人とする事で力を解放して、僕を助けたという事ですか?」
仮契約前後の由梨香の言葉を思い出すと、そうとしか思えない話だった。
「結果的にそうなります」
「けど、その主人って、どう考えても、もの凄く責任重大だと思うのですが? 誰でもいいとは到底……」
「あ」
恭司の様子を見て由梨香が悟った顔をする。
「恭司さんは、私が恭司さんを助けるために、仕方なく恭司さんを選んだと思っているのですか?」
「はい」
自分がそんな大きな力を預かるべき人物とは全く思えなかった。
「いいえ、それは違います。マスターと呼べる人間を選ぶ事は『無垢なる物』にとって非常に重要な事で、決してその場しのぎで選ぶものではありまん。恭司さんの事は入学式で見掛けた時からマスター候補として調べていました」
「僕が? 何故? 何の力もないですけど」
完全に疑問しか浮かばない。
自分が選ばれた理由に心当たりがまるでない。
「相性が最大の理由です。入学式に何か変な事はありませんでしたか? 私が近くに居た事で何かあったと思います」
「――あ」
思い当たる事はあった。
そして倒れて保健室に行って由梨香と出会ったのだった。
「そう言えば、あの時、先輩は保健委員だったけど掛け持ちですか?」
「いえ、恭司さんの身に異変があったので、保健委員としてあの場に割り込んだだけです。そして、間近で恭司さんを見て、間違いなく適合者だと思いました」
「じゃ、まさか図書委員長というのも?」
「いえ、それは偶然です。普段、私はこの学校で普通の生徒をしていますから」
「まっ、単なる暇潰しじゃがな」
グラビオが会話に割り込む。
「違いますっ、外見年齢的に学校に居た方が潜伏しやすいだけです」
少しムキになって由梨香が言う。
暇潰しという部分もあるのだろう。
「ともかく、恭司さんがマスターとして適任だと判断したため、恭司さんを選んだのであって、決して急場しのぎという事はありません」
「……」
いまいち釈然としないものがあった。
ただ、相性だと言われてしまうと、由梨香と特に合わないという感じはない。
といっても、今まで話した由梨香の雰囲気からすれば、人当たりはとても良く、特別に相性が悪い人間がいるようには思えなかった。
「それで現在マスター候補という形ですが、この先、恭司さんの存在がクレイドルに補足されて狙われる可能性があります。これは先にも話した事ですが、防衛は私が徹底します」
「さっきの人形にまた狙われるという事ですか?」
「そうなります。――また今回の襲撃は、私がマスター候補を見付けた事を気取られて、先に手を打って来た形だと思われます」
「学校に堂々と? あんな目立つ形で?」
襲撃するなら夜道など目立たない時と場所を考えるのが妥当な気がした。
「それは『無垢なる物』の特性に関係がある話になります、『無垢なる物』は基本機能として人の記憶に干渉する力を持ちます。故に見られても、その人間の記 憶を改変すれば良いだけですから襲撃の場所は選びません、ただ、流石に群衆のど真ん中とかですと、記憶消去の対象を絞りきれない事があるため、滅多な事で は襲って来ませんが」
「それって、いつでも何処でも襲撃される可能性があるという事では?」
安全と言える場所や時間の方が無いに等しい話だった。
「はい、否定はしません。ですので、基本、私の家で一緒に住んでいただく形になります、外に出る時は私かグラビオが護衛に付きます」
「はい?」
さらりと凄い事を言われた気がした。
素で聞き返してしまう。
「私の家で一緒に住んでいただくという話です。ご家族の記憶はこちらで弄りますから、何ら問題ありません」
「……そ、そう言う話じゃ、いや、それはそれで問題大ありだけど」
もっと凄い事が上乗せされてしまった。
恭司の家族の記憶を操作するという事は、どう弄るのか不明だが、恭司が自宅に居なくても誰も心配しない状況を作るという事だろう、正直、無茶苦茶だった。
「問題がありますか?」
「それはだって、急に家族と別れろって事でしょ?」
「でしたら、私が恭司さんの家に同居でも構いませんが、中の広さは十分にありますか?」
「なっ!? それはもっと問題ですっ!」
家に彼女を連れ込むレベルの話ではない。
高校一年の恭司には早すぎる話だった。
「では、私の家で同居という形以外に恭司さんの身の安全は保証出来ません」
「うっ」
半ば強迫だった。
断れば襲われて死ぬかも知れないという。
先ほど死にかけた現実が、頷くしかない状況を作り出す。
「――分かりました。当面の処置なんですよね?」
「それは恭司さん次第です」
「……」
どういう意味なのか聞きたかったが、何となく聞ける雰囲気ではなかった。
と、その時、外から救急車の音が聞こえて来た。
「あ、到着した様子ですね、この場所に対する忌避を解きます。――では、私は恭司さんの家に行ってきますね」
「は? 何故?」
場所を知っている前提で話す事には、突っ込む気になれなかった。
それくらいは一週間の内に調べているのだろう。
「恭司さんの身の回りの品々を運ぶ為です。今日から必要かと」
「いや、それくらい自分で、というより衣類とか先輩に見られるのはちょっと……」
はっきり言えば下着は見られたくなかった。
「いえ、恭司さんは二石さんについて病院に行ってあげてください、グラビオを付けますから、あと二石さんのご両親には私から連絡しておきます」
「僕がですか?」
「他に適任いますか? それに付き添い無しは可愛そうです」
「そうですが……」
気絶している十月を見る。
この状況で付き添って行くというのは、美味しいポジションである事は間違いない。
「反論禁止です。付き添って行ってあげるのが義務ですよ」
「は、はい」
とても強い口調で言い切られて反論出来なかった。
しかし、下着の問題が片付いた訳ではない、由梨香の雰囲気から恭司の恥ずかしいという気持ちなどは全て無視して衣類をあさるのは予測出来た。
「なら、付き添いは構いませんが、その帰りに家によって身の回りの物は自分で運びます」
「それなら私もそれにお供します。ただ、今すぐとは行きませんが、一応他に監視のドールが潜伏していないか付近を探索した後になります」
「それでいいですよ、病院を出たら連絡します、先輩携帯は?」
「はい、これです」
由梨香が携帯を出して番号交換を済ませる。
「それじゃ、とにかく勝手に僕の家に行かないでくださいね」
「はい。――では、グラビオ、恭司さんをお願いね」
「ああ」
グラビオが恭司の足下に来る。
「……」
どうしていいのか、恭司は迷う。
摘んでいいのか、恭しく持ち上げるべきか。
「遠慮せずに掴んでポケットにでも入れておけ、危険を察するまで単なる縫いぐるみと化す事も出来る」
「わ、分かりました」
喋る縫いぐるみというのは、すぐに慣れる事が出来ないものだった。
ひとまず摘んでズボンのポケットに入れた。
少し大きいキーホルダーを入れたように感じだった。
「それでは私はこれで、後は救急隊の人に従ってください」
「――はい」
由梨香は一人図書室を出て行った。
残った恭司は十月を見守りながら救急隊の到着を待った。
3
「これは私の独断で動くべきかなぁ」
恭司達の学校から二百メートル程離れた電柱の上に一人の少女の姿があった。
少女は学校の方をしばらく見詰めていたが、救急車の音が聞こえ始めた段階で、そこから飛び降りて、そのまま走り去った。
その動きは軽やかで、到底人間の動きには見えなかった。
*
恭司は街の総合病院にもう一人付き添った教師と一緒に到着して、待合室で二石の両親を待っていた。
そして、到着した両親、教師が恭司が庇って軽傷で済んだ事を伝えると、二石の両親は恭司に泣いて感謝した。
恭司としては庇った事は本当でも、言えない事が沢山あったので心苦しい気持ちになったが、その場は何とか納めて、後は両親と教師に任せて帰る事になる。
「――さて、先輩に電話するか」
約束だったので、病院前の駐車場に出たところで携帯電話を取り出した。
外はすでに暗くなり、病院の明かりと街灯で照られた空間には人影は見えなかった。
時間を見ると十八時過ぎだった。
「みーつーけた」
と、背後から唐突に可愛い声がした。
「ん?」
振り返ると、そこに中学生くらいの少女がいた。
制服のような黄色いブレザーと白いプリーツスカートを穿いているが、制服としては少し派手で、制服っぽい私服――プレッピースタイルという感じだった。
金色に近い髪が綺麗で外人のように見えた。
「何か用事?」
「貴方がレーナお姉ちゃんのマスター候補でしょ?」
少女の口から漏れた言葉を聞いた瞬間、恭司は身構えた。
ポケットの中のグラビオが直ぐさま反応する。
「出せ、ワシが相手をする」
「……」
恭司がポケットからグラビオを出して手の平に乗せる。
「あっ、久しぶりね、元気にしてた?」
「お前ほどではない」
どうやら知り合いの様子だった。
ただ、仲の良い知り合いには到底見えない。
「これは私の独断なんだけど、レーナお姉ちゃんがマスターを得るのは、力のバランス的にちょっと困るのよね、だから、ここで死んで欲しいのだけど?」
恭司を殺すという宣言。
それが冗談ではない異様な気配を少女は放っていた。
まるで獲物を狙う鷹のような鋭さと、戦う事を待ち望んでいるかのような気迫。
「だとしても、お前が直接仕掛けて来る事でもあるまい」
グラビオが静かな声で対応する。
「それはねー、一応レーナお姉ちゃんが選んだという人間を見ておこうと思って、遠くからだとはっきり分からないし」
少女が恭司を見た。
それは汚らしいものを見るような冷たい視線だった。
「ふーん、私はエシス・カリア・リムシィート、お前は?」
「……岩瀬恭司」
どう見ても年下に『お前』と言われたの癪だったが、相手の威圧感に飲まれて答えた。
「そう、確かに私達の事が分かる素質があるみたいね、珍しい個体ではある感じかしら」
「君も『無垢なる物』なのか?」
「ええ、分かる筈でしょ? 人では無い物の気配が?」
「……」
言われた事にはっきりとした実感は無かった。
ただ、何かが人間とは違う気もしていた。
それは由梨香と話していた時にも感じていた、人とは違うリズムで存在しているような雰囲気。
それが気配を感じているという事なのかも知れないが、まだあやふやな感覚だった。
「そ、まだ全然みたいね、なら、やっぱり今の内に処分するべきね」
エシスがその背中に金属の翼を出現させた。
「――広範囲記憶操作展開、戦闘モードに移行」
リーンっと鉄琴をならした時のように澄んだ音が響き、翼の白い石の羽根が震えた。
「相変わらず戦好きな奴じゃな、――防壁展開、対象防御」
恭司を囲むように瞬時に薄い光のドームが形成された。
「突破するよっ! ――燃焼せよっ、その炎をもって我の槍とする」
エシスが少し後方に間合いを取り、その周囲に火の玉を衛星のように浮かべた。
炎の塊が次々と炎の槍に姿を変え恭司めがけて飛んで来る。
「っ!?」
逃げようと思うが、光の壁に覆われている今、動きが採れなかった。
「心配いらん、この程度なら弾く」
光の壁と炎の槍が衝突して、槍が弾けて爆発する。その音は内側に伝わったが熱と爆風は遮断された。
槍が連続で打ち出され光の壁によって弾けて、目の前が真っ白になるくらい明るく染まった。
「す、すごい」
常人なら腰を抜かしてもおかしくないただ中で、恭司はその光景に見とれた。
喰らわないと分かっているなら、それは美しい光景だった。
良く見れば光の壁は炎の槍がぶつかる度に表面に波紋を描き、片や炎の槍の方は弾ける時に花火のように光の尾を引いた。
「感嘆している余裕があるとは、少々見込みはあるようだな、今、由梨香を呼んでいる、それまでは持たせるが、仮に持たなかった場合は許せよ」
「いや、この程度なら、弾くんじゃ?」
「ワシとエシスでは持久力が違い過ぎる、今はいいが、永続的に弾ける訳ではない」
「っ――分かった」
そう言われたところで、どの道どうにも出来なかった。
光の壁が消えた後、恭司に炎の槍を何とかする力はない。
一発喰らっただけで吹き飛んで終了だろう。
その時は覚悟するしかなかった。
「よし、ならば由梨香が一刻も早く到着する事を祈るぞ」
「ああ」
*
グラビオから連絡を受けた由梨香は総合病院に向けて急いでいた。
暗がりの中、電柱や街頭の上をジャンプで移動する。
「まさか、エシスが来るなんて……」
エシスはクレイドルに属する『無垢なる物』だった。
以前のエシスは由梨香の味方であったが、マスターが殺され、その後、クレイドルの人間がエシスのマスターとなった為、エシスはクレイドル為に働く存在と なった。『無垢なる物』は基本マスターの意思に絶対であり、それまで味方であっても、ある日を境に敵になったりする事もよくあった。
「今の私では」
由梨香は味方だったエシスの力を良く知っていた。
その力は戦闘のみに特化されていて、何かを破壊するだけなら起動している『無垢なる物』の中での最強に近い存在だった。
今の由梨香が真っ向からぶつかって勝てる相手ではなかった。
「一度、逃げられると良いのだけど」
どうすれば、エシスを煙に巻く事が出来るか、それだけを考えて移動速度を上げた。
*
「頑張るね、前期型は無駄に硬いから、こっちが火力を上げないと駄目そう?」
「独断でこれ以上派手な事をしていいのか?」
「それが面倒なのよね……まっ、仕留めれば問題ないと思うし、システム『清風凛』から『水黄凛』に移行」
エシスの背中の翼が一度淡く黄色く光り、プレート状の羽根がやや伸びる。
すると、エシスの周りに浮いている火球の大きさが一回り増し、それから作られる槍の太さも大きくなった。
「まずいなっ」
槍が放たれ光の壁にぶつかると、その表面に出来ていた波紋の振幅が増す。
「持たないって話?」
「ああ、後三発で貫かれる、防壁が破れたらあの車の方に走れ、そのまま障害物がある方に逃げるんだ」
グラビオが小さな手で駐車場の一方向を指した。
その方向には、複数の車が止まっていて、その先はちょっとした林になっていた。
「分かった」
「一応、ワシが引きつけるが、まっ、この身体だ、期待するな」
「ごめん」
「お前が謝る事ではない」
グラビオが言い切り、次の槍が光壁に衝突した。
先ほど違い直ぐには爆発せず、形を保ったまま先端から根本に向けて溶けるように火花を散らして消えて行く、光壁の限界が近いのは視覚的に明らかだった。
「そろそろ来るぞ、防壁が完全に消える前にこちらで合図を出して消す。そのまますぐに走り出せっ」
「ああ」
恭司は覚悟を決めた。
逃げ切れる自信は到底無かったが、突っ立ったまま殺される理由もない。
「――行けっ」
グラビオが言って光の壁が消えた。
恭司が走り出す、エシスの方を見ている余裕は無かった。
「逃げたら駄目よっ!」
「お前の相手はワシじゃ、――空気よ冷えて濃い霧となれ」
駐車場全体の空気を冷却して大量の霧を瞬時に作り出す。
グラビオの姿も恭司の姿も霧の中に隠れた。
「目くらましとか無駄よ、気配で攻撃すればいいんだから」
エシスが気配に集中する。
近場にいる特定の人間の気配を探るくらい造作もない事だった。
「ただの霧だと思うな――霧よ探査を撹乱せよ」
グラビオの声に合わせて、エシスの探査感覚が狂う。
「っ、面倒な事を――我が炎よ、霧散させよっ!」
エシスを中心にして炎の輪が構成され、それが周囲に水平に膨張して行く。
それに合わせて炎周辺の霧が晴れて行くが、
「馬鹿かっ!? やみくもにそんな事をすればっ!」
炎が広がり霧の中に有った一台の車に触れ、それを超高温で焼いた。
数秒の内に燃料タンクに火が回り爆発するのが明白な状態。
「エシス、いい加減にしなさいっ!! ――炎よその猛りを静め凍り付けっ!!」
霧の中で由梨香の声が響き、車を焼いていた炎が瞬間的に消え、車全体に霜が降りる。
そして、炎で霧が消えた空間に翼を生やした制服姿の由梨香が舞い降りた。
エシスとの距離は三メートル程だった。
「あら、早かったね、というより私が時間掛かりすぎって事か」
「周りを無視した戦い方は変わらないわね、あまり大きな変異を納得させる記憶操作は人間に負担が大きい事を忘れたの?」
エシスを見据える。
その目は悪戯をした妹を叱る姉のような目だった。
「別にそんな事どうでいも良いでしょ? 人を殺さなければさ」
「異端なる物……」
どこか諦めたように呟く。
「で、レーナお姉ちゃんはマスターを助けに来たの? それって、つまり私と殺り合うって事?」
「――これは独断だと聞きましたが?」
由梨香はエシスには答えず質問で返した。
「そうよ」
「私と戦えば今より力を使う事になりますが、マスターが許すのですか?」
「どうだろ? 仕留め損なえば怒ると思うけど、仕留めてしまえばOKかな」
少し小首を傾げて言う。
「仕留めさせまん」
「そっ、じゃ、一気に行く事になるだけかな。一応、今までは遠慮していたのよ? この辺り一帯を火の海にする事だって出来るんだから」
「そんなことさせませんっ! ――くっ、自己破損確認っ、特別防御システム起動、空間障壁構成、対象捕縛っ!」
由梨香が叫びつつ右手で自分の左手を掴み、それを肘の部分から力でねじ切った。
同時にエシスの周りに空間のズレが生じて、それがそのまま結界となりエシスを内側に閉じ込める。
「ちょ――っ!」
エシスの声が途中で途切れた。
一見何もないように見える障壁が完成すると、そこからエシスの姿が消え去ってしまう。
「グラビオ来てっ! 一度退きます!」
背中の翼をしまい叫ぶ。
「おう」
グラビオが由梨香の肩に飛び乗り、
「恭司はあっちに逃がしたぞ」
「はい」
恭司が逃げた方に走り出した。
「恭司さんっ!」
駐車場を未だ覆う霧を抜けて、暗がりとなる林の方に入り呼び掛ける。
霧は林の中にも拡がっていた。
「こ、ここです」
恭司がヤブの影から出て来る。
「遅くなって申し訳ありません、お怪我はありませんか?」
「いや、大丈夫です。って、先輩、腕はっ!?」
由梨香の制服の左袖が風で揺れていてた。
見ると肘から先がない。
「問題ありません」
「そういう話じゃ、痛くは無いんですか?」
血は出ていないが痛々しい。
断面からは光る金属のような物が覗いていた。
「全く、痛覚は遮断しましたから。それより、非常に申し上げにくいのですが、緊急事態です、あの子を退ける為に私と本契約をしていただけないでしょうか? 私が張った封印壁はもって五分程度です」
「それは、本格的にマスターになって欲しいという話ですか?」
「はい」
由梨香が力強く頷く。
「別にそれは構いませんが、何をすれば?」
エシスという存在がやって来た事で、色々と巻き込まれてしまった事実は、もう変えられないと思った。
いまさら、ここで嫌だと言っても、余計に自分の立場が危なくなるだけだった。
「それは――誓いのキスを」
恭司の手を自然と握り、自身の胸に当てて由梨香は言った。
その顔はもの凄く真剣だった。
「き、キスですか」
思わず顔が赤くなってしまう。
とても、ありがちな誓いと契約の方法。
何も難しい事では無いが、いきなり言われると考えてしまう。
それに、十月への気持ちが急に心の中でわき上がる。好きな相手がいる上で、他の相手とキスする事への躊躇い。
「二石さんの事、恭司さんが気にしている事は分かっています。それでも、お願いします」
「……他に方法は無いんですか?」
「契約の方法という意味ですか? 契約せずに乗り切る方法ですか?」
「前者です」
契約して本当の力を出さないと勝てない相手だという事は、恭司にも何となく分かった。
「無い事は無いですが、この場で、もっとも簡単な方法がキスとなります」
由梨香が少し顔を赤くして言う。
「手間が掛かってもいいですけど」
「い、いえ……多分、キスより色々と、その……まずいです」
声が小さくなり、恭司の手を握る手の力が微妙に強くなったり弱くなったりする。
「あ――」
恭司は一つの事に思い当たって追求を恥じた。
キスより凄い事という話なのだろう。
「じ、じゃ、キスしか手段がないという事なんですね」
焦りつつ話を戻す。
「は、はい。十月さんには本当に申し訳ない状況なのですが、エシスが出て来た以上、仮にここで契約せずに逃げても、この先、行き詰まります」
「――分かりました」
ずっとエシスに狙われる状況を考えると、由梨香の力を上げておく事は必至だった。
「よろしいのですか?」
「契約だというなら、状況的に仕方ないです」
「はい……申し訳ありません」
由梨香は少し寂しそうに頷いて、
「では、目を閉じていてください、済ませます」
「何か言わなくていいのですか?」
「仮契約をしているので、大丈夫です」
「そうですか、じゃ……」
恭司が瞳を閉じた。
「行きます」
その恭司の顔に由梨香の顔が近付き、唇と唇が触れる。
「ん」
由梨香の吐息。
少しの間の接触、恭司は自分の唇に柔らかくて暖かい感触を感じて、そして、その感触が遠ざかり、由梨香が恭司の手を離した。
「――完了です。貴方をマスターと認めます」
「は、はい」
目を開けて答える。由梨香は凛々しい顔で宣言していた。
「では、マスター、これからは由梨香かレーナとお呼びください、敬語も控えていただけると助かります」
「それって、強制ですか?」
「はい、マスターが所有物に敬語など、理屈が通りませんから」
由梨香が目見えて一歩引いた態度を取る。
「いや、無理ですって、先輩は先輩ですし」
「そう言われても私が困ります」
本当に困った顔で恭司を見つめる。
「じゃ、敬語だけはやめます、いや、やめるよ」
名前で呼ぶのだけは恥ずかしくて出来なかった。
「そうですか――分かりました。では、マスター命令してください、エシスを退けろと」
「ま、待ってくれ、こっちからもお願いがある、そのマスターっていうのをやめてくれ」
むず痒くなる呼ばれ方だった。
「マスターはマスターです」
由梨香の言い方はあくまで真剣だ。
真剣ゆえに対応に一瞬詰まる。
「そうじゃなくて、名前で呼んでくれ」
「それは命令ですか?」
やはり真顔だった。何か間違ったスイッチを押してしまった気持ちになって来る。
「命令じゃなくて、お願いだ」
「……分かりました。ほとんど命令と同じ意味合いだと解釈して納得します。では、恭司さん命令を」
「あ、ああ――エシスを何とかしてくれ」
「はい、マスター了解しました」
由梨香の背中に再び金属の翼が生えて広がった。
「マスターはそこに居てください」
「……ああ」
呼び名の変化は一回だけだった。
だが、今はそれを訂正している場合でなく流す。
「では、行ってきます。――グラビオはマスターと一緒に居て」
「うむ」
グラビオが由梨香から恭司の肩に飛び乗る。
「先輩、一人で平気なのか?」
「私の力が復活した今、それほど大きな戦いにはならない筈です。エシスは賢い子ですから」
そう言って由梨香は駐車場の方に飛んで行った。
*
「面倒くさいっ!!」
エシスの声が駐車場の見掛け上、何もない場所で響き、景色が崩れた。
そこに鏡があったように景色が崩れて破片が空間に消えて行く。
「流石ですね」
エシスの前には由梨香が待ちかまえていた。
「次元障壁とか、今の私だと破るの大変なんだけど、やったら、やり返すよ?」
「どうぞ」
余裕の笑みを浮かべる。
「そっ、じゃ、遠慮無く、炎弾よ舞えっ!」
声と共にエシスの手から炎の塊が複数放出された。
複雑な軌道を描いて由梨香に迫る。
「障壁っ」
由梨香が手を前に伸ばし叫ぶ。
光の壁が形成されて、全ての炎弾をあっさり弾く。
「ふーん、じゃ、これなら」
エシスが少し高く飛び上り、両手を頭上に掲げた。
「――混沌たる原始の炎よ、全てを焼き尽くせっ!!」
エシスの頭上に青白い光球が出来上がった。
「――深淵なる宇宙の闇よ、星の熱さを冷ませっ!!」
対して由梨香が発する。
「え!?」
エシスの顔が引きつる。
両手で掲げていた青白い光の塊が逆回しのように小さくなり消滅してしまう。
「無駄だという事が分かったでしょ? この場は退きなさい、貴方では私には勝てないわ」
「もう、契約したって事? あんな男でいいの?」
信じられないという顔で言う。
「失礼ですよ、私が選んだ人です」
「むぅぅぅぅ、阻止しようと思ったのにっ!」
宙に浮いたまま地団駄を踏む。
「退いてください」
由梨香は重ねて言った。
「分かったわよっ!! 今日は、そんな装備してきてないし」
「はい、あと、周辺への記憶処理ご苦労様でした」
「ふ、ふざけないでっ、今度はマスターに限定解除して貰って来るからねっ!」
「その時は、こちらも本気で相手をします」
自信たっぷりの口調で微笑む。
「くぅぅぅ!!」
エシスは悔しそうに顔を歪めて、
「絶対っ、お姉ちゃんのマスターの息の根を止めるからねっ。憶えておきなさいよっ!!」
金属の羽を大きく広げ、その次の瞬間に夜の空に飛び立った。
「――ふぅ、しのげましたね」
一息吐いて、由梨香は駐車場の端の林に戻った。
「エシスは逃げたのか?」
その様子は暗くても恭司の方から確認出来た。
「はい、今日のエシスは装備が無い上、能力の段階封印が掛かったままでしたから、逃げるしかなかった筈です」
「つまり、先輩はさっきのエシスより強いと?」
恭司から見ればエシスの強さは驚嘆するレベルだった。由梨香がそれ以上だという事が素直に信じられない。
「私は戦闘力はエシスに及びませんが、対『無垢なる物』戦闘において負けた事は一度もありません」
「何か切り札的な物があると?」
「それほどではありませんが」
由梨香が笑ってごまかす。
「――由梨香は今存在している『無垢なる物』の長、まとめ役だ。まっ、それで察しろ」
グラビオが小声で呟いた。
「それは……」
相当に強い事が予想される事実だった。
「大した役ではないですよ、他になる人がいなかったから私がやっているだけです。本気で刃向かわれたら、勝てない子も沢山いますから」
さらに、にこやかに言う。
刃向かったら勝てない相手がいるというのに、一度も負けた事がないというのは、違う意味で恐ろしい。
そこに『刃向かえない何か』があるという事だ。
「僕は割と大変な役を引き受けたのでは?」
「いえ、マスターに負担を掛けるような事は、極力しませんのでご安心を」
「…………」
極力という言葉が酷く気になる状況だった。
「では、当初の予定に従って行動したいと思うのですが、一度、恭司さんの自宅に向かう形でよろしいですか?」
「ああ」
「それでは、失礼します」
由梨香が恭司の後ろ側に回った。
「え――」
素速く恭司の脇に右手を入れて彼を抱え上げる。
次の瞬間、恭司の足が地から離れた。
「ちょ!!」
「なにか?」
「と、飛んでいるよね?」
地面は三十センチほど下にあり、まだ浮いている程度だが飛んでいる事に間違いはなかった。
「ええ、移動には飛ぶ方が速いですから、あと、人目を避ける術式を飛んでる間は自動展開しているので問題ありません」
「そ、そういう話じゃなくて本当に飛ぶの? 僕を片手で抱えて?」
恭司は一般人として飛ぶ事には慣れてなかった。
それに由梨香の腕は細く、いくら尋常では無い戦闘力を見た後でも不安だった。
「あ、怖いという事ですか?」
「ま、まぁ、そういう事になる……かな」
少し恥ずかしいと思いつつ認めた。
「マスターを私が空中で放すような事をすると思いますか? 大丈夫です、安心してください」
「それは思わないけど……」
高く浮き上がるという事には本能的な怖さもある。
「私を信用してくださいマスター。――では、行きます」
由梨香が音もなく飛び上がった。
背中の翼が動くという事はなく、本当に浮いている感じだった。
「わっ!」
恭司は思わず間抜けな声を出してしまう。
グラビオが素速く由梨香に飛び移り、そのポケットの中に収まる。
上昇は急で、あっという間に五十メートルくらいの高さまで上がってしまう。
病院の建物より倍以上高い。
「マスター、動かないでくださいね、片手で動かれると流石に危険ですから」
由梨香は恭司の返事を確認する前に、彼の家の方角に向かって飛行を開始した。
その後には悲鳴のような声だけが残った。
4
恭司が自分の家を回ってから由梨香の家付近に到着した時には、夜の九時を回っていた。自宅で必要最低限な物をスポーツバッグに詰めて、そのまま由梨香の家に向かう形だったが、由梨香宅にはタクシーで向かったので、思ったより時間が掛かってしまった。
「わざわざタクシーなど使わなくても、飛べばもっと早く着く事が出来ました」
「い、いや、基本的に僕を抱えて飛ぶのは禁止で」
何処かフラフラしている恭司が言う。
二人は由梨香の家の少し手前の道を歩いていた。
由梨香が自宅までタクシーで乗り付ける事を嫌った結果だった。
「あの程度の飛行で音を上げたか?」
由梨香のスカートのポケットからグラビオが顔を出す。
「普通無理だろ、高速道路を車で飛ばしている時以上の速度だったぞ」
恭司の経験から言う。
おそらく時速にして百キロ以上は出ていた。
「マスターは速いと感じたのですか?」
「マスターじゃなくて、恭司」
地上に降りて少し余裕が出たところで修正する。
「はい、恭司さんは、速いと感じたのですか?」
「ああ」
「そうですか……一応、あの十倍以上速く飛べるのですが、まだ加減する必要がある様子ですね、考慮しておきます」
「いや、考慮しなくていい、抱えて飛ぶの禁止だから」
「それは命令ですか?」
「命令です」
「――分かりました。緊急時以外は従います」
「緊急時がこない事を願うよ。――それで、先輩の家は?」
夜道を歩いているが、視界には右に普通の家と左に白い壁というか塀があるだけだった。
壁はかなり高く中に何があるのか見通す事が出来ない。
「はい、もうすぐ入り口ですよ」
由梨香が先を行き、壁の先にある門のような部分で立ち止まった。
「――え?」
その段階で恭司の頭の中で一つの予感がする。
「ここが私の家です」
「やっぱり……」
長い塀に囲まれた敷地全てが、おそらく由梨香の自宅なのだろう。
「何か?」
「いや、豪邸だね」
「ええ、一応、色々としまう物があったり、お客様が来たりする事もあるので、このサイズになっています」
「一応聞くけど、一人で住んでいるの?」
「はい」
「ワシもいるがな」
この際、グラビオは数に入らない。
「掃除とか、戸締まりは?」
続いている塀から想像される家の広さは相当な物な気がした。
別館などが建っていてもおかしくない。
その全てに目を配るには一人では厳しいだろう。
「問題ありません、建物の随所に術式が組み込んであり、そういう事は必要ないようになっているので」
「はぁ」
すでに想像を超えた領域の話だった。
「ともかく、お入りください」
「あ、ああ」
由梨香が門を開けて敷地の中に入る。
入り口に綜合警備会社のシールや監視カメラの類は無かった。
そういう物も必要がない造りになっているという事なのだろう。
「本館はこちらです」
由梨香が石畳の道を歩いて行く。
言葉から視界には入っていないが、恭司の予想通り別館もあるのだろう。
石畳の周りには芝が植わっていて左右にライトが灯っていた。
そして、その先に大きな洋館が建っていた。
二階造りで高さは無いが、かなりの横の広がりをもっていた。
床面積は優に二百㎡はあるだろう。
「本当にこんな所に住んでいる人がいるとは……」
正直、感嘆してしまう。
「人――ではありませんが、それと、もちろん私が建てたものではありません、建物自体は戦前からあるものです」
「それを先輩が買い取ったの?」
「買い取った訳ではありませんが、私のものです」
「……凄いな」
どれだけの値段で買えるのか想像が付かなかった。
「ともかく建物の中に、グラビオ」
由梨香の声に答えて、グラビオが彼女のポケットから出てくる。
「なんじゃ?」
「恭司さんを部屋に案内して、私は腕を治すから」
「了解じゃ」
「それでは恭司さん。グラビオについて先に本館の部屋の方に」
「先輩、腕を治すって?」
「私は別棟に行くという事です。申し訳ありませんが、先にグラビオに付いて中に入って休んでいてください」
「――分かった」
恭司が頷くとグラビオが歩き出した。
そして本館と由梨香が呼んだ建物の入り口前で止まる。
そこには豪華な木製の扉があった。
「鍵は開いている、入れ」
「ああ」
促されるままに扉を開けて中に入る。
そこは小さめなホールと呼べる空間だった。
天井からアンティークな感じの電灯がぶら下がっていた。
もう少し大きい物ならシャンデリアと言えるかも知れないと、恭司は思った。
グラビオは奧に延びる通路に進む。
恭司もそれに従った。
「この部屋で休んでおれ」
グラビオが一つの扉の前で立ち止まる。
開けると、大きな窓のある明るい感じの部屋だった。
中央にはテーブルセットが一通り揃っており、壁には上品な花柄の壁紙が張られ、柱時計がコチコチと落ち着いた音を奏でていた。
「これは……どこかの高級ホテルだな」
「適当に座って待っているといい、じきに由梨香が来る」
グラビオがテーブルの端にジャンプして上がる。
「分かった」
恭司は素直に椅子に座った。
座り心地はフカフカで、前にあるテーブルと合わせていかにも高級な造りだった。
そんな部屋の様子を観察している間に時間が過ぎて、
コンコン。
「恭司さん、入りますね」
由梨香の声だった。
「ああ」
返事を返すと扉が開き、由梨香が入って来る。
その瞬間、恭司は息を飲んだ。
「せ、先輩、その格好……」
「え、どうかしましたか?」
由梨香が恭司の前までたおやかにやって来る。
その手は元に戻っていた、そしてそれより驚く事があった。
彼女の服装が制服から一般的にメイド服と呼ばれるものに変化していた。
落ち着いた色のロングワンピースに、フリルの沢山付いたエプロン、そして頭にはフリルのキャップ。
由梨香にとても似合う格好だったが、メイド服に着替えた意図が分からなかった。
「一体、どうしたの?」
「何か変ですか?」
由梨香が真顔で聞き返す。
変な事をしている認識はない様子だった。
「変だと思うけど、格好としては似合っているけど、先輩ってコスプレの趣味があるのか?」
家服がメイドのコスプレという事も人によっては無い訳でない。
「別にそんな趣味はありませんが、恭司さんが何か望むのであれば用意しますが」
「……」
ある意味、完全な形で『素』で返された。
メイド服を着ている事を全くコスプレだとは思っていない様子だった。
「先輩、その服、いつも着ているのか?」
「はい、家ではこの格好の事が多いです」
「ちなみに何故?」
理由は聞いておきたいと思った。
メイド服が理由もなく普段着だという人が居ても否定はしないが、理由があった方が恭司としては付き合いやすかった。
「それは、以前、この屋敷で私がメイドとして仕えていたからです。そうですね、大正時代の話です」
「は?」
意味が正確に理解出来なかった。
大正時代と言えば約九十年前だ。
「ですから、このお屋敷でメイドとして住んでいたので、その時から習慣です。何だか着慣れてしまって」
「……着慣れたって」
時間的に九十年あれば着慣れるが問題はそこではなかった。
「先輩は九十年前からここにいるのか?」
人では無い以上、外見年齢と存在時間が一致しない事はあり得る。
それに、ずっと戦って来たという由梨香の言葉から数年というより数十年の重みを感じたが、九十年以上とは思っていなかった。
「この場所では約九十年です。以前は清にいました」
「じゃ、先輩は一体、何時から存在しているんだ?」
「正確には三千二十四年と二ヶ月と十一日と八時間五十四分二十九秒です」
「三千年……!?」
恭司の時間感覚では計れない大昔だった。
西暦以前の事なんて、人類の歴史としても完全には伝わっていない。
何があっても、何がなくても分からない時代の話だ。
「その辺りの説明は夕食後に追々するつもりでしたが、聞かれたのでお話します」
「いや、詳しくは夕食後でいいよ、九十年前日本に来た理由は?」
色々驚いたが、いっぺんに話されても理解出来ない。
いま気になる事だけ聞く事にした。
「マスターを追う形です。以前のマスターは貿易商でした、ここはその財で建てたお屋敷です」
「その前のマスターにメイドとして仕えていたと?」
「はい、そうなります」
「前のマスターは亡くなっているという事だよね?」
「はい、一九四〇年に亡くっています。それから今日まで私はマスター無しで、この屋敷で生活していました。現在の屋敷の名義は私です」
「遺産相続みたいなもの?」
「大体は『無垢なる物』は記憶干渉能力があるので、正式な書類の作成程度はいくらでも」
「ダークだな」
「多少は仕方ありません、そもそも、ずっと歳を取らない存在が一カ所に居続ける為には必要な力です」
「それはな……」
近所で噂になる程度の話ではなかった。
これまでの由梨香の事を考えると、仮にここ九十年でも相当に苦労したのではないかと言う事が伺えた。
「色々と大変だったんだね」
「すみません、心配していただいて、夕食の準備を始めようと思って、好物等を伺いに来たところだったのですが」
「そう、ならお願い出来るかな」
時間的にお腹の空く時間だったが、色々な事があって空腹を感じていなかった。
けれど、作ってくれるというなら、喜んで食べる事に変わりはない。
「では、好物やリクエストがあれば、大抵のものは作れますから」
由梨香が少し自信ありげに胸を張って言う。
「贅沢は言う気はないから、今ある材料で何か作ってもらえば」
「遠慮しなくてもいいですよ。とりあえず苦手な物だけでも言ってもらえれば助かります」
「……ならアスパラガスと銀杏とマヨネーズ」
一瞬、思考してから言葉に甘えた。
アスパラガスはどうしても皮の繊維が嫌で、銀杏は味が受け付けず、マヨネーズは調味料の中で唯一駄目な物だった。
「分かりました。では、それらが入らないものを作って来ますね」
そう言って由梨香が部屋から消えた。
部屋にまた恭司とグラビオだけが取り残される。
恭司には、どうしても犬の縫いぐるみという外観イメージが捨て切れず、恭司から気軽に話し掛ける事が出来なかった。
縫いぐるみに高校生男子が向き合って会話している図が、どうしても変に思えたからだ。
「……主、由梨香が消えると急に無口になるな」
グラビオが渋い声で呟いた。
しかし、そこにはファンシーな縫いぐるみがあるだけ。
恭司は己の価値観を一度捨てた。
「……えっと、そうだな、先輩とは長いの?」
思い切って話し掛けた。
「そうだな、知り合ったのは五百八十年前じゃ。ただ、由梨香が目覚める前に会っていると言えば会っているが、それは別だ」
「……目覚める前って先輩が言っていた三千年前からって事?」
「そうなるな、由梨香の設計時にはワシはもう存在していた。ただ、由梨香が目覚めてからは、しばらく会う機会が無かった」
「……じゃ、その『しばらく』という期間が二千四百年くらいあるって事?」
「まぁ、そうなるな。ただ、その内ワシの方が二千年以上眠っていたかな。再び目覚めて由梨香に出会うまでは数百年というところだな」
グラビオの口調はその数百年間を短いと感じている口調だった。
二千四百年間を『しばらく』という言葉で一括りにするところも含めて、恭司には理解出来ない時間感覚だった。
それにしても、少し話を聞いただけで謎が深まる話だった。
「――あのさ、少し聞いていい? 先輩やグラビオを創り出したのは誰なの?」
思い切って聞く。
「それは、夕食の後に由梨香が話す筈だ」
「まぁ、触りだけでも」
「触りか……いいだろう、ワシ等を創ったのは、リエグという国の人間達じゃ」
「リエグ?」
「聞いた事は無いはずじゃ、当の昔に滅んだ国じゃからな。ただ残骸は今も残っているがな」
「言葉の響きから考えると、西洋っぽいけど」
「ハズレではない。主は四大文明を知っておるか?」
「ああ、エジプト、メソポタミア、インダス、中国の四つだろ」
「あれに、もう一つ足したものがリエグだと思えばいい」
「そんなの聞いた事ないけど?」
「それが普通だ、リエグは今でいう黒海の上にあった文明じゃ」
「上?」
言い方に不自然さを感じた。
付近ではなく『上』という言葉に。
「黒海には、昔、今は無い島が浮かんでいてな、それがリエグ王国の場所じゃ」
「島はどうなったの?」
「島は、リエグ存在の記憶ごと黒海の海に沈めて消した」
「消したって……」
島を丸ごと沈めたという話は、何処かの洪水伝説のような話だった。
「リエグは封印された禁断の王国じゃ、これ以上は由梨香から聞け」
「いや、話せる事なら話して欲しい」
とても気になるところで話を打ち切られても、夕食に集中出来なかった。
「触りと言ったじゃろ?」
「ごめん、気になるんだ」
「ふむ、で、何が気になる」
グラビオは仕方がないというふうに続けた。
「なんで封印されたの? 人の記憶から消えているのは、先輩が使ったような力で?」
「リエグには未来を見通す力も持つものがいた、そして、その未来視の結果に従い封印という道を辿ったというのが、一番簡単な説明だ。記憶から消えているのは、由梨香の力を強力にしたものだと思っていい」
「未来予知の結果を信じて、みんなで国を封印したと?」
「結果的にはそうなる」
「……」
どういう経緯でそうなるのか、まるで考えられない話だった。
未来予知の結果がどんな結果であったとしても、進んで自ら滅びる事を選ぶ国があるだろうか?
リエグという国の正気を疑ってしまう。
半ば呆然と、どんな状況か考えるが、どうしても想像出来なかった。
「主が何を考えいるのかは分かる。ただ、主の尺で考えるな。人類に文明が芽生えたばかり頃に、リエグにはワシ等を創れる技術があった、その影響力を考えてみろ。もしリエグが今も残っていたら、今の世界はきっと無くなっている」
グラビオが静かに言った。
「……それはそうかも知れないが」
グラビオの言った事は理解出来たが、だからと言って国一つが自ら自滅するというのは、まるで理解出来ないままだった。
「でも、そうだとするなら、グラビオ達は? 国が封印されて、その存在が消えたのなら、グラビオ達も消える筈では?」
ふと、矛盾に思い当たった。
「ああ、消えていた方が楽だったな。ただ、その話は由梨香にしてもらった方がいいだろ、その辺りの事は由梨香の方が詳しい」
「分かった、じゃ、もう一つだけいい?」
「なんじゃ?」
「その姿は、その話からすると造られた時の姿じゃないよね? 何かあったの?」
「そんな事か……一応最初は人型だったと言っておく、あとは秘密だ」
「言えない事があると?」
「まぁ、色々とな」
グラビオがクールに笑った気がした。
縫いぐるみの顔だが、何故かその時は表情が見えた。
と、
コンコン。
さっきと同じくノックの音。
「入りますね」
扉が開きメイド姿の由梨香が顔を覗かせる。
一気に部屋の空気が和む。
「お待たせしました、夕食の準備が出来ました。こちらにお持ちしますか? それとも、食事部屋の方で食べますか?」
「食事部屋って?」
聞きながら恭司の頭の中に、真っ白なテーブルクロスの敷かれたバカ長いテーブルの置かれた部屋がイメージされる。
そのテーブルの中央には決まって花瓶が置かれ、それをドジなメイドさんがひっくり返すのが世の中の流れなのだ。
「えっと、食事部屋は食卓のある部屋ですけど」
由梨香が答える。
どんな部屋なのか全く分からない。
己の想像を質問する。
「その食卓は長いテーブルだったりするのか?」
「え……長いといえば長いですが、この部屋のテーブルとそんなに変わりませんよ」
「なら、いい。運ぶのが面倒じゃなかったら、ここで食べる形で」
特に変化がないなら移動する必要はなかった。
「分かりました。――では、少し待ってくださいね。お持ちいたします」
由梨香が再び部屋を出ていった。
そして、今度は二分ほどで戻ってくる。
「――お待たせいたしました」
料理をリストランテワゴンに乗せて部屋へと入って来る。
ワゴンの上には、所狭しと料理が並べられていた。
「とりあえず、早く作れる料理にしました。お口に合うとよいのですが」
「いや、その心配はない気がする」
恭司は料理から香る匂いと、見た目だけで言い切った。
料理は豪華な屋敷という場所から想像していたものとは違って、恭司的にも見慣れた家庭的なものだった。
鳥の唐揚げメインで、ライスとサラダとスープ。
メニュー自体に驚く点は無かったが、それらは、見た目という事を完璧に計算された配置に盛りつけされ、尚且つ、とても美味しそうな匂いを発していた。
「まるで、料理番組のゲストにでもなった気分だ」
「そんな大袈裟です」
由梨香が照れる。
グラビオが一言。
「こいつは誉めると調子に乗るぞ」
「そんな事ありません」
「いや、先輩、本当にここまで美味しそうに作れる人もいないと思う」
恭司は本心を語った。
「あ、有り難う御座います。じゃ、並べますね」
由梨香がテーブルの上に料理を並べていく。
そして、すぐに気付く。
由梨香の分と思われる料理がやたらと少なかった。
「……先輩はあまり食べないのか?」
「あ、それは、私はその気になれば食べなくても平気ですから、食事は補助的なエネルギー吸収方法でしかありません」
「補助的……」
「何か問題のある言い方でしたか?」
「いや、先輩が人じゃないって事を少し考えただけ」
「その事は納得していただけましたか?」
「ああ、色々みて納得はした」
今日、恭司が見た物は、恭司の考え方を変えるのには充分な物だった。
「あ、そう言えば先輩の腕って、もう何ともないの?」
改めて聞く。
「はい、もう直しました。この屋敷にスペアパーツがあるので、コア以外の損傷ならすぐに直ります」
「コアって、学校で僕が触ったアノ?」
「ええ、――その話は長くなりますから、食べた後にまとめてという事で」
由梨香が料理を並べ終わる。
そして、
「恭司さんはワイン飲みますか?」
ワゴンの中からワインボトルと取り出す。
「未成年に酒を勧めないでくれ」
「じゃ、緑茶か何かにしますか?」
「そんな物あるのか?」
洋風な雰囲気には似合わない飲み物な気がした。
「一応、あと、食事に合いそうなのはウーロン茶とか、麦茶とか、普通にミネラルウォーターもありますよ」
「だったらウーロン茶で」
「分かりました、ウーロン茶はお勧めです」
ワゴンの中から一つのポットを取り出す。
他に四つのポットが残っていた。
「――って、もしかして、いま言ったの全部その中に入ってるのか?」
「ええ」
「用意よすぎ」
「いけませんか?」
「いけなくはないけど……そこまで僕に気を遣わなくてもいいから」
「そうですか、逆に恭司さんに気を遣わせたようですね、すみません」
「いや、謝る事じゃもっとないし、もっと、こう、普通にさ」
契約してからの由梨香の態度には、なかなか慣れないものがあった。
「はい、では、なるべく普通に対応する事にします」
「ああ、それでお願い」
「――では、食べましょうか」
由梨香が恭司の向かいに座る。
と、恭司はテーブルの端にいるグラビオを見る。
彼の前には何も用意されていなかった。
ただ、用意されていたとして、縫いぐるみがムシャムシャとご飯を食べる様子というのは想像出来ないが。
そんなグラビオと目が合う。
「ん? ワシか? ワシは気にするな。この身体になってからは、ずっと何も食べておらんからな」
「本当に食べなくても平気なの?」
「まぁ、そういう事じゃ」
「なら、いいけど」
恭司が目の前の料理に視線を戻す。
「――じゃ、戴きます」
「はい、召し上げれ」
由梨香が頷いて、恭司は料理に手を付けた。
まずメインである唐揚げを口に運ぶ。
カリッ。
香ばしい味と香り、口に広がる肉のうま味。
その肉汁の中に含まれるスパイスのほどよい辛み……。
思わず料理番組の解説のようなものが脳内を駆けた。
「先輩っ、メチャクチャ美味しいんだけどっ!」
恭司は興奮した口調で言った。
「そうですか……そう言っていただけると、嬉しいです」
「これだけの美味しさは簡単に出来る物じゃないよ」
「いえ、ただとても長く存在しているだけです。約三千年の間ずっとご主人様のために料理を作っているんですよ」
「それにしても凄いよ」
由梨香が言った三千年という時間は何かを上達させるには充分な時間だと思うが、やはりどんなに時間があっても上達する人間と上達しない人間がいるものだ。
恭司はパクパクと料理に手を付けた。
「もし、おかわりがいるようでしたら、言ってくださいね」
由梨香が自分の分を食べながら言う。
恭司は食べる事に忙しく、ただ一度頷いた。
それからしばらく恭司は食べる事に専念した。
料理は全てとても美味しく、喋っている時間すらおしいと思った。
そして、何度かおかわりをして、恭司のお腹は満腹になった。
「ごちそうさま。――本当に美味しかったよ」
「どういたしまして」
由梨香はとっくに自分の分は食べ終えて、恭司が食べ終わるのを待っていた。
「なんだか、僕だけ沢山食べて悪い気がするな」
「いえ、私が食べなかっただけですから、それより、片付けて来ますね」
「ありがとう。全部してもらって」
「いえ、恭司さんはお客様ですから、食後のお茶はどうしますか?」
「じゃ、出来ればコーヒーで」
「はい、分かりました」
由梨香が食器をワゴンに片付け部屋を出る。
「いい喰いっぷりだったな」
グラビオが言う。
「ああ、今まで食べた料理の中で最高に美味しかった」
「まぁ、ワシには由梨香の料理の美味さを実感する事は出来んが、今までの由梨香の主人達は、そろって美味いと言っておったな」
「だろうね」
恭司はグラビオの言葉を実感した。
由梨香に掛かれば、高級レストランのシェフも逃げ出すかも知れない。
きっと手の込んだ料理を作っても、もの凄く美味しいだろう。
恭司がそんな事を考え料理の味の余韻に浸っていると、
再びノックの後に扉が開いた。
「コーヒーを持って来ました」
テーブルの上に湯気の出るコーヒーカップを並べる。
砂糖とミルクのポットも並ぶ。
「恭司さんは、お砂糖とミルクは?」
「いや、自分でやるよ」
砂糖のポットからスプーン一杯のグラニュー糖をすくってコーヒーに入れた。
その後、由梨香は自分のカップにスプーン三杯の砂糖と適量のミルクを入れる。
「先輩、甘党なんだな」
「ええ、嗜好としては甘い物が好きですから」
「……甘い物か」
一瞬チョコレートが大好きだと言った十月の顔が浮かぶ。
由梨香もチョコが好きだったりするのだろうか?
「先輩って、チョコ好き?」
何となく気になった。
「え、チョコレートですか……好きですが、私はそれより日本の甘いモノの方が好きだったりします」
「そっか」
「何かあるのですか?」
「いや、ちょっと思い付いただけの質問だから」
「そうですか、でしたら良いのですが」
言って、由梨香がコーヒーを口に付ける。
恭司も一口飲む。
酸味が少なくコクの強い味だった。
「――それでは、私の話を始めて良いですか?」
由梨香がソーサーの上にカップを置く。
「ああ、ただ、さっきグラビオから大体は聞いた。だから、こっちから質問に答えてくれた方が僕的には分かり易い」
由梨香がグラビオと視線を合わせる。
「そうなんですか?」
「うむ、リエグ封印の事は話した。大戦の事はお前から話せ」
グラビオは頷いた。
「――分かりました。では、何が聞きたいですか?」
由梨香は恭司に向き直り姿勢を正した。
メイド姿の女の子と改めて視線が合わさる。
恭司はその視線に少しだけ緊張した。
そして、軽く咳払いして、
「じゃあ、まずリエグが沈んだ後どうなったのか聞きたい。それと、その上で先輩達が残っている理由と、先輩達を狙っているクレイドルが一体何なのかを」
グラビオの話だけ聞くなら、何の理由もないなら一緒に封印されていて然るべきだろう。
「リエグは海中に封印された後、全ての人間の記憶から消える筈でしたが、封印を逃れた存在がいて、それがリエグ再興を目指す組織クレイドルとなりました」
「先輩達は何故残っているの? 何の為に造られた存在なの?」
「私達が創られた理由は後で話します。私達が残った理由はリエグの封印の管理と世界の記憶の為です。リエグが亡き後、世界を管理する立場をある存在と共に 継承しています。ですが、現状はクレイドルの野望を防ぐ為にクレイドルの動きを止めるのが最大の目的となっています」
由梨香が言う『つくる』という言葉は、何処か恭司が言うものとは発音が違った。
「じゃ、クレイドルの発祥はリエグ滅亡時からすぐなの?」
「そうですね。基本的には名称が変わったりしながら、ずっとです」
「という事は、その頃から先輩はクレイドルと戦い続けているのか?」
「一応、そうなります」
由梨香は頷いた。
「気が遠くなる話だな……」
「私一人ではないですから、それに、長い抗争というものは段々と互いへの攻撃が散発的になり、その内に暗黙了解で攻撃しない時期が出来たりするものなので、ずっと臨戦状態という訳ではありませんでしたから」
「今回、先輩が襲われたのはマスターを選出したから?」
そんな話だったような気がした。
「そういう事です。マスターを持つ事で『無垢なる物』の力が上がりますから、休戦を破る充分な理由になります」
「なら、マスターの居なかった間は戦っていなかったという事?」
「ここ二年程度は私が戦った事はありません」
「そうか」
恭司はコーヒーを飲んで、一度質問を区切った。
大体理解出来て来た。
他に分からない事を考えて整理する。
「あのエシスという子は? 元は仲間だったみたいな口ぶりだったけど?」
恭司の脳裏に翼を持った少女の姿が浮かぶ。
「はい、前のマスターが殺され、クレイドルがエシスを奪った形です。『無垢なる物』は基本的にマスターの命令に絶対ですから、主人の立場が変われば敵になる事もあります」
「複雑だな、そんな相手と戦えるのか?」
「いえ、簡単です。機械の所有者が変わると思ってください、機械に意思はありません」
「いや、先輩に意思はあるだろ?」
「それは許された範囲での自我でしかありません。あくまで制約の掛かった機械だという事、覚えておいて戴ければ幸いです」
言い切る由梨香の瞳は今までになく真剣なものだった。
「分かった」
恭司が伺い知る事が出来ない考え方がある事は、認めるしかなかった。
「ありがとうございます。他には何が知りたいですか?」
「先輩達の力は魔法のようなものなの?」
何度も目の前で見せ付けられて、やや慣れてしまったが明らかに超常の力だった。
どういう理屈なのか気にはなった。
「あれは、エーテルを触媒にして間粒子という人にとって未知の粒子を操る力です。理論を発見した存在は私達ではなく、その理論法則を使って力を使用しています」
「うっ……もっと分かりやすくお願い」
全く意味の分からない話だった。
「そうですね、この世界を構成している根源物質をある程度自由に扱う力です。それによって、個々のエーテルドライブの出力に応じて現空間に様々な物理現象を引き起こせます」
「そのエーテルドライブって?」
「コアの中に内包されている光エンジンだと思ってください。エーテルは既知範囲では光と同じですから」
「じゃ、それが先輩達の動力源なの?」
「そうなります。またパーソナルデータを保存しているメモリーでもあります」
「心臓と頭脳が同じパーツって事?」
「はい、そう思ってくださって構いません」
「なら、つまりエーテルドライブが全ての不思議の元だと?」
「大体そうです。ボディーの方に特殊パーツが組み込まれている『無垢なる物』も存在しますが、全ての『無垢なる物』はコアがあれば、そこから再生出来ます」
「何とか分かった」
由梨香の腕が即座に治った事も、コアは無傷だった事に関係しているのだろう。
ともかくコアの力で不思議な事が出来るという事だけ、分かれば後は何とかなる気がした。
「一応、力には名前があって正式には間粒子操作法といいます。ただ、術式、詩編と呼んだりする場合もあります」
「了解。――じゃ、後は先輩に話は任せる、こちらの聞きたい事は聞いたから」
大きな疑問となる部分は聞いた気がしていた。
「分かりました。では、私達が生まれた理由とリエグの封印について詳しく話します。ただ、少し長い話なので、よろしいですか?」
「構わない」
聞かなくてはならない話だった。
「リエグはすでにご存じだと思いますが、自ら未来予知に従う形で封印という滅びを迎えました。しかし、当時その事を良しとしない一派がリエグ王族の中にあ り、結果的に国二分する内戦が勃発する事になりました。王女を軸にするリエグ封印派と王家の血を引く神官の封印反発一派の戦いです」
「理解は出来る話だ」
全て封印して海の底に沈むと聞かされて、国中全てが納得する筈がない。
先に恭司が思った事だった。
「そこに私達『無垢なる物』が関係してきます。『無垢なる物』はその時まで人の代わりとして何か仕事をする名目で創られていましたが、内戦をきっかけにして戦争をする道具に変わって行きました、それが私達です」
「兵器という……事だな」
嫌な話だったが、そうなる事も理解出来た。
ロボットを製造出来る技術があるのなら、人間が自ら戦う事を避ける方向に、その技術を使うのは自然な事だろう。
「そうなります。そして、結果的にエーテルドライブの力が増し、それによってまた別の問題が発生しました。エーテルドライブは私の頭脳である為、光演算装 置であるとも言えます。その演算力がピークに達した時、別の形での未来予測が可能になってしまったのです」
「それは予想だけど、滅びなくても良い未来がみえたのか?」
その場合が一番最悪な結果を招く気がした。
「はい、その通りです。当然、封印反対派は勢い付き、内戦は大戦へと拡大して行きました」
「大戦……」
その言葉から連想される事は世界を巻き込む戦いだった。
「少し話が飛びますが、その反対派の生き残りがクレイドルという組織です」
「まぁ、それはそうだろうと思った」
「はい、それで大戦の結果はリエグ封印という形で決着しましたが、それには多くの犠牲を伴いました。大戦は三年続き、その間に生まれた『無垢なる物』を後期型と呼びます。私やエシスは『後期型』でグラビオは『前期型』です」
「後期型は兵器としての『無垢なる物』という事か」
「そうなります、後期型は力に制約があり、その制約の範囲で強大な力が使えます。最大の制約は非自立だという事です。後期型はマスター無しでは、最低限の自衛しか出来ないように創られています」
「いや、先輩はマスターが居ない間も、ここで生活して普通に学校の生徒をしていたんだろ?」
充分に自立しているように思えた。
「次のマスターを捜す為の行動を取っていただけです。プログラムにより自立しているようにみえる行動を取る事は可能ですから」
「プログラムか……」
少しもの悲しい話だと思えてしまう。
「私達が創り物であるという事です。――話を戻します」
「ああ」
「大戦の終結は私達が神官達の操る『無垢なる物』を殲滅した事で、大体の収束を見ました。それ以外にも集結の要因はあるのですが、基本的には現実の戦争と同じパターンだと思ってください。互いの兵器の力が上がり過ぎた場合に起きる悲劇というものです」
「……双方戦力を消失するくらいの兵器を作ってしまったという事か?」
核兵器のようなものを恭司は想像した。
「大体、そのようなものです。ともかく、反対一派が戦力を失い、リエグは封印という道を辿りました。封印にはかなりの時間が掛かり、その間に色々と問題も起きたのですが、それは省きます」
「リエグに住んでいた普通の人間達はどうしたの?」
「次元転移して、こことは違う世界に渡りました。現状、リエグ人の血を引く存在はクレイドル側にしか残っていません」
「なら、クレイドルも次元転移して追い掛けるという発想はないの?」
「この星に拘っている人達がクレイドルだとも言えます。また次元転移の技術はリエグと共に封印され、今は使えません」
「で、先輩達が、そのクレイドルを抑えていると?」
「そうなります。クレイドルの野望が叶う時は、彼らが運命を支配する事を意味しています」
「でも、話を聞いている限りでは、先輩達の方が圧倒的に強い気がするけど? クレイドル側にもエシス以外に強力な『無垢なる物』がいるという事? 三千年も戦って決着が付かないような」
世界の有り様が変わってしまうくらいの時間戦って決着が付かないというのは、相当な理由があるように思えた。
「決着が付かない理由は、私達が人を殺せない事がまず第一です。マスター以外の一般人に危害を加える事を禁じられているため、クレイドルという組織を殲滅 するような事は出ないのです。また、クレイドル側も私達のコアが欲しいため、私達を完全に破壊する事が出来ないというジレンマを抱えています」
「なぜコアを?」
「先に話した演算装置としての利用価値です。コアは現在製作不能のため、現存している『無垢なる物』の数を揃えてコアを並列化する事で超並列演算装置を作 り出し、運命を計算する事がクレイドルの大きな目的の一つです。また、もう一つは、リエグの封印そのものを破る方ですが、そちらは、ここ五百年程度は動き がありません」
「封印を解きたいのは分かるけど、運命を計算して、何が得られるの?」
運命を計算して支配する事の意味が不明だった。
「それは神の力です。リエグが迫り、そして自らを封印する理由となった力。人は神の力を持つべきではないのです」
「……」
具体的な回答を由梨香は示さなかった。
神の力という言葉の意味は重いが、それによって何を可能なのか想像できないレベルの話でもあった。
「難しく考える必要はありません、そうですね、世界を根底から作り替える事すら可能な力です。『そうなる』という運命を構築するだけで良いのですから」
「まぁ、それは確かに神の力だけど、逆を言えばその技術で作れたのが先輩達なんでしょ? それってつまり……」
思いつく事は『無垢なる物』が一つの神の力とも言えるという事だった。
「言いたい事は分かります。ですら私達『無垢なる物』は大量の制約コードが掛かっています。その制約の範囲で膨大な力を使う事を許された存在です。また、私達には原型となった『存在』が別にいて、それが『神』そのものだと言う事も出来ます」
「その別の存在って?」
「今は言えません。もう少しマスターの覚悟が出来た時にお話しします」
「分かった」
何か想像を超える存在が世界にいる事だけを恭司は知った。
「リエグ封印後に、そう言った存在の記憶や私達の事、当然リエグがあったという事実も含めて、人類の記憶から消えています。ただ、広大な面積の島が黒海に 水没した事件を消すというのいささか無理があり、人の記憶と歴史の中に断片が残るになってしまいました。恭司さんにも何か心当たりはありませんか?」
「……」
高校受験を受けたばかりの頭で歴史を思い出す。無駄に暗記した知識があった。
しかし、結果的に勉強した事とは違う内容が浮かんだ。
「……アトランティス大陸滅亡とか」
勉強の合間に見たテレビ番組が脳裏に浮かんだ。
確か題名は、失われた文明――神々の何とかだった気がする。
「少しは当たってます」
由梨香が微笑む。
「けど、正確には世界中に伝わる洪水伝説です。アレは全部リエグが元です」
「一晩で都市が海に沈んだとか、何日も雨が降り続いたとか、アレ?」
「ええ、各地に伝説は伝わっています。その伝説の元はリエグが黒海に沈んだ事を元にしています。というより黒海そのものが、リエグ周辺の大地が大戦で抉れて、そこに出来た大穴に海水が流れ込んで出来たものですから」
「……マジで? けど、それじゃ、抉れた時に沈むのでは?」
「リエグ全土にはシールドが張ってあった為、その外側が抉れる形になりました。その後にリエグは海底に封印されました。そして現在の形の黒海が出来上がったんです」
「……『たんです』って言われても」
恭司は言葉に詰まった。
グラビオは黒海の辺りにあった文明だと言っていたが、まさか黒海全部のレベルの話とは思わなかった。
「驚きましたか?」
「驚いたというより、正直呆れた」
「どういう意味ですか?」
「いや……途方も無すぎて、確かに人力じゃないな、という話」
恭司は溜め息を吐いた。
段々、話について行けなくなる。
そして、ふと、今までに由梨香のマスターになった人間はどうだったかと思う。
みんな、こんな荒唐無稽な話を信じたのだろうか?
「なぁ、少し関係ない事を聞くけどいいか?」
「なんですか?」
「先輩は、その、前のマスターにも同じ事を話したのか?」
「その質問は正解には『いいえ』です。普段は口頭で伝える事はありません」
「じゃ、どうやって?」
「記憶に刷り込みです」
由梨香がさらりと言う。
「…………」
恭司の顔が強ばった。
つまり、洗脳と変わらない気がした。
「『無垢なる物』が人の記憶に干渉出来るという話はしたと思いますが?」
「いや、それとこれとは……」
自分たちの姿を見られた記憶を消すなら、まだ理解出来るが、普通信じられないような事を信じさせる力として考えると危険だと思えた。
「なにか?」
「いや……話は大体分かったよ」
考え方が根本から違う以上、討論していも無駄だった。
一旦、話を区切る方向にする。
「そうですか、では、この後はお風呂にいたしますか?」
由梨香が当然のように言う。
「いや、お風呂なんて別に僕はいいよ。先輩が入るなら構わないけど」
「いえ、お客様に風呂無しというわけには行きません」
「そこまでしてもらわなくても……」
「いえ、お風呂に入ると死ぬとかではない限り、入って戴きます」
由梨香に諦める気配は全く見えない。
「……分かった。じゃ先輩の言葉に甘えるよ」
恭司は折れた。
というより、折れなくてならない状況だった。
「はい。――では、私は片付けをして来ます」
由梨香がテーブルから飲み終わったコーヒーカップを持って立ち上がる。
そして、一礼してから部屋を出て行った。
扉が閉まる音が室内に響く。
ずっと黙っていたグラビオが軽く溜め息を吐く。
「まぁ、由梨香もマスターが出来て嬉しいんじゃ、これからあやつの事をよろしくな。迷惑ばかり掛ける事になるかも知れんが……」
言ってグラビオが頭を下げた。
「いや、気持ちは何となく分かるから、大丈夫、引き受けるよ」
恭司は頷いた。
元々、由梨香の正体を知った時点で平穏な日常という物が終わりを告げる気がしていた。
そして、自分の意思で契約したのだから覚悟はあるつもりだった。
*
時を同じくして――。
エシスはつまらなそうな顔で、ベッドの上に転がっていた。
その周りには沢山の縫いぐるみがあり、ベッドと言わず部屋中を埋め尽くしていた。縫いぐるみ達はどれも可愛い衣装を着せられ、数という事を気にしなければ、特別、おかしな事はない普通の縫いぐるみだ。
部屋全体としては、可愛い感じの部屋だと言える。
壁にはピンクの壁紙が貼られ、丸みを帯びた家具がひと揃い。
窓に掛かる花柄のカーテンは閉じられていて、部屋の中はベッドの脇にあるスタンドライトが淡く照らしていた。
「あーあ、つまらない」
横になったエシスが爪を噛む。
そして、ごろごろと寝返りを打つ。
エシスは薄いキャミソール一枚という格好で小さくはない胸が透けて見えていた。
その胸がエシスが俯せになった事でぐにゃりと形を変える。
顔を枕に押しつけるようにして、そのまましばらく動かない。
「うぅー」
と、唸り声を出し、
「もうっ!」
がばっと仰向けになる。数分前から何度も繰り返されていた動作だった。
そして、エシスが再び寝返りを打とうした時、部屋の扉がノックされた。
「私だ」
続いて低い男の声。
「あ、ご主人様っ」
エシスがベッドから飛び降りた。
急いで部屋の扉を開ける。
「もう、まってたんだから」
「すまない、会議が長引いた」
男が一人入って来る。品がある男で歳は若くは無い。
「会議、会議って、私の事も忘れないでよ」
その男にエシスが抱きつく。
「忘れた訳じゃない。誰よりもお前を愛している」
男はエシスの態度に慌てた様子なく彼女を抱きしめる。
「……本当?」
「ああ。――それで、レーナがマスターを得たというのは本当なのかい?」
「えー、その話?」
エシスが眉をひそめる。
「重要な話だよ。それが本当ならエシスの身体をいじらなくてはならない。レーナに対抗するには新しい力が必要だよ」
「それは、分かったわ。けど、その話はベッドでしよ」
エシスが男の手を引っ張る。
「ああ、構わないよ」
男はエシスに微笑んだ。
そして二人は真っ白なシーツのベッドに倒れ込み、置かれていた縫いぐるみの何体かが脇に落ちた。
5
記憶に無い天井だと思った。
目を覚まして少しぼやける視界に映ったのは、綺麗な白壁の天井だった。
首を動かして部屋の様子を探る。
高級ホテルのような部屋に、レースのカーテン越しの淡い朝日が射し込んでいた。
…………。
しばし、昨日の記憶を探り、自分がどこにいるのかを思い出す。
由梨香の屋敷に来て、宛がわれた寝室にいるのだった。
すぐにベッドから起きて、近くの椅子に掛けておいた制服に着替える。昨夜眠る前にクローゼットの使用を由梨香から勧められたが、何か慣れない感じがして 使わずにいた。着ていた寝間着は、持ってきたスポーツバックにひとまず詰めて、部屋の鏡で軽く身なりを整えてどうするか考える。
携帯で時間を確認すると、いつも起きている時間とほぼ同じだった。学校の授業が始まるまで小一時間ほど前の時間。
普通なら顔を洗ってご飯を食べるところだが、まだ屋敷の内部構造がよく分かっていなかった。
「まぁ、トイレだけ行っておくか」
トイレの場所だけは昨夜の内に聞いていた。
部屋を出て廊下を左に向かい、角を曲がったその先の突き当たりが目的の場所だった。
その角で曲がろうとした時、
「あっ」
「わっ」
角の向こうから由梨香が姿を見せる。互いに正面を見ていたので衝突は避けられた。
「す、すみません」
由梨香が頭を下げる。恭司の眼前でフリルキャップの白が上下する。昨日から変わらずのメイド服姿だった。
「朝からその格好でいいのか? 今日、これから学校に行くんだろ」
「はい、行く時には着替えますから問題ありません」
「それならいいけど」
効率が悪い気もしたが、由梨香が良いと思っているなら個人の問題だった。
「それより、恭司さん少しだけ用事あるのですが、お時間を戴けますか?」
「時間って、学校に行くならそんなに時間は……」
「いえ、用件は五分も掛かりませんから。――その上で、恭司さんに特に用事が無ければ」
「先にトイレに行きたいくらいだけど」
「そうですか、では、その後、昨日の食事をした部屋の方に来てください、待っていますので」
「分かった。――じゃ」
「はい」
恭司は一度由梨香と別れてトイレに向かい、その後、言われように昨日の最初に通された部屋に向かった。
ノックして入ると、微笑した由梨香が立って待っていた。
「それで用事って?
「はい、では早速なのですが、昨日行ったマスター契約の手続きに少し不備があった事を思い出して、お手伝い願えますか?」
「て、手伝いって、まさか、またキス?」
マスター契約と聞いて思い出す事はそれしかなった。
「それでも良いのですが、簡潔に言うと、なるべく新鮮な体細胞の供給です」
「どういう意味?」
「分かりにくい言い方でしたか? では、噛み砕いて言えば、例えばディープキスによって恭司さんの口内粘膜を採取したりする、という事です」
「ちょ、待った」
恭司は深く息を吐いて由梨香の言った事を考えた。
昨日は触れる程度のキスだったが、それでは足りなかったという話らしい。
確かに、口内粘膜を採取するならディープキスの方がいいだろう。
しかし、単に細胞が欲しいだけなら別の方法がある事に気付く。
「いや、別に綿棒か何かで採って渡すんじゃ駄目なのか?」
「そんなの私が嫌です、その綿棒の先を舐めるとか……」
由梨香がむくれた。
はっきりとした否定だった。
「じゃ、別に口の中の細胞じゃなくても、例えば血とか、痛いのは嫌だと採血程度ならいいよ?」
「ええ、血でも構いませんが、精液などでも良いです。痛くない方法で採取するとなるとベストなのは精液かも知れません」
由梨香が真面目かつ真剣な口調で言った。
恭司の時間が止まる。
由梨香の言った事を全力で否定したい自分と、ちょっと待てそれは凄い事なのでないかという強い誘惑。
あまりの矛盾にそれ以上何も考えられなくなってしまう。
「……あの、どうかしましたか?」
由梨香が固まった恭司の顔を覗き込み、その前で手を振った。
しかし、恭司に反応は無い。
「恭司さん、しっかりしてくださいっ」
恭司の肩を掴んで揺さぶる。
「――あ、わ、悪い」
「あの、本当にどうかしたのですか?」
困惑の表情で由梨香が聞く。
「い、いや……」
恭司は言葉が続かなかった。脳内の矛と盾の戦いは一進一退。
だが、ここに来て片方がより強力な矛を持ち出した。
凄い事になるという具体的な想像図。それはとても魅惑的な図であり、恭司の決断を傾かせるのには充分な力を持っていた。
「うっ」
恭司は途端に由梨香を直視出来なくなる。
顔が火照るのが分かった。
このまま欲望に負けても良いかも知れないと思い始めた時、
「っ!! ぎゃっ!」
指先に激痛が走った。
「何をちんたらしているんじゃ、――ほら、血が出たから、これを採取しろ」
声がした方を見ると、床の上にグラビオが居た。
飛びついて恭司の指先を噛んだのだった。
よく見ると、その部分に小さい歯形がある。
「グラビオっ、なんて事するのっ!」
由梨香が悲鳴のような声をあげる。
「お前達がもたもたしているからじゃ」
「だからと言ってして良い事と悪い事がありますっ」
怒鳴りながら恭司の手をとり噛み跡を見る。
「恭司さん、大丈夫ですかっ?」
「あ、ああ」
空気が抜けた風船のように答えた。
「とにかく消毒します。悪い菌が入ったら大変ですから」
「ワシは狂犬か」
「恭司さん、歩けますか? 私に捕まってください」
由梨香はグラビオを無視して恭司に肩を貸す。
「いや、傷口は手だし……」
それに、手乗りサイズの犬が噛んだ傷など実際たかが知れていた。
案外牙が深く刺さって痛かったが、傷自体はすぐに塞がるレベル。
「いえ、大事をとって不都合はありません」
由梨香は強引に恭司の腕を自分の肩に掛けると、廊下を進み出した。
「せ、先輩っ」
恭司は無理に逆らう事も出来ず、由梨香に合わせるしかなかった。
由梨香は立ち止まる事なく歩き屋敷の外に出て、敷地内の別棟に向かう。
別棟には大きなガラス窓が何枚もあり、その中で植物が育っているのが見えたが、棟全体が温室という訳でもなさそうだった。全体の大きさは平屋で四十坪ぐらいだ。
「ここは便宜上、研究棟と呼んでいます」
由梨香が入り口を開く。中は窓から日が射し込み自然光の輝きに満ちていた。
部屋の半分が植物が置かれたサンルーム的な構造で、もう半分は壁で仕切られ、そこに扉が一つあった。
恭司は由梨香に連れられるままに、その扉の中に入った。
「おぉー」
部屋の中を見て思わず呻いた。
色々な機械がびっしりと並んでいる。
「どうですか? 驚かれましたか?」
由梨香が少し誇らしげに言う。怪我の治療という名目で、この場所を見せたかったのではないかと思えしまう雰囲気だった。
恭司は部屋の中を見渡した。
機械類は所狭しと並べられ、部屋の奥の方を見渡せない。機械一つ一つはデザイン重視の設計らしく芸術品のように見ていて飽きない。また、雰囲気的にとても古い機械が多い感じで、博物館の中にいるような雰囲気を醸し出していた。
「ここは私の研究室兼メンテナンス室です。ここにある機材は、大体が『無垢なる物』のパーツや武装です」
由梨香が言いながら部屋の端まで行き、そこにあった棚から小箱を取り出す。
「――恭司さんはそこの椅子に座っていてください」
恭司が示された椅子に座ると、その前に由梨香が屈み込む。
「では、消毒の前に一応確認です。――体細胞の採取はこの傷口から採血で構いませんね?」
「あ、ああ」
「それでは、回復が早まるという民間療法と一緒に試しますね」
由梨香がメイド服の胸のボタンに手を付ける。そして、おもむろにそこを開けて行く、
「ちょ、な、なにっ!?」
「静かにしていてください」
落ち着いた声で言い、レースのブラに包まれた胸を露出する。
平均より大きめサイズな胸だった。
その胸の谷間に、恭司の手を挟み込んで左右から圧迫を掛ける。
「こうして胸で挟むと傷の治りが早くなると言われています。――では、失礼いたします、ぺろん」
胸の間から出た指先の傷を、由梨香がぺろりと舐めた。
「――え」
もう、何が何だか分からないまま、恭司は今日二回目の完全硬直状態になった。
「はい、お終いです」
由梨香が何事もなかったかのように、恭司の指を胸から離して衣服を整える。
「い、いま、先輩、な、何を……?」
震える声で確認する。
「はい、恭司さんB型ですね」
「……」
咄嗟に返す言葉が思い付かなかった。
「あれ、違いますか? けど、Bだと思うのですが……あっ、正確には遺伝子型BOですけど」
「いや、それは合ってるけど……」
舐めて細胞採取をしたのはまだ理解出来た。
「『けど』なんですか?」
「本当に、これで直りが早いのか?」
「はい、とても。これでマスター登録は終わりました」
深く答える気はない、という感じで由梨香が微笑む。
「……」
身体で記憶――状況的にとてもエッチに聞こえてしまう言葉だった。
「あ、あのさ、ちなみに聞くけど」
「なんですか?」
「せ、精液を採取する場合は、どうやって?」
自らの好奇心と欲望に負けて上擦った声で聞く。
「そうですね。たとえば、精嚢に注射針を突き立てるとか……」
由梨香が指先を口元に当てて冷静に言う。
「――え゛」
恭司はカエルが潰れたような声を出した。それは無いだろ、という方法。
昂ぶっていた気持ちが一気に冷めた。
すると由梨香が小さく笑う。
「なんて、冗談です。さっき一番痛くなくて簡単な方法と言ったでしょ」
「じ、じゃ」
「恭司さんが思っている通りの事だと思います。要は私の身体の中に精液が入れば良いのですから」
「……」
一度冷めたものが、再び昂ぶってしまう。
「恭司さんは、そう言った方法をお望みですか?」
由梨香が微妙に声音を優しく変えた。
「い、いや……そ、それは」
焦ってたじろぐ事しか出来ない。恭司にその手の経験は、全く無かったからだ。
「――なんて、これも冗談です。恭司さんは十月さんの事が好きなのでしょ? その気持ちを大切にしないと駄目ですよ」
由梨香が笑って言う。
「そ、それは……」
突然十月の事を出されて、さらに焦ってしまう。
「私とキスするのも躊躇ったじゃないですか」
「……」
なんと答えて良いのか分からない。由梨香の態度から由梨香自身の気持ちが分からなかった。ただ、女の子がキスするという事だけを考えた場合、恭司が十月を好きでいる事は、由梨香に対する裏切りのような気がした。
「何か、僕、もの凄く先輩の気持ちを無視したんじゃ……」
由梨香の誘いをきっぱりと断れなかった優柔不断さは、責められても仕方ない部分だと思えた。
「いえ、そんな事はありません。マスターとの関係は恋人という訳ではありませんから」
「ごめん、先輩」
「いえ、私は恭司さんがマスターになってくれただけで満足ですから、相性が合う人に出会える確率はとても低いので」
由梨香が少しだけ恥ずかしそうする。
その顔から覗く由梨香の気持ちが、恭司の心をモヤモヤさせた。
「それが、先輩の本当の気持ちなの?」
それをどうしても確かめたかった。
その答えが、どんな答えであってもマスターになった以上、受け止める必要がある筈だと思えた。
「え」
由梨香が少し驚いた顔で恭司を見る。
「私の……気持ちですか?」
「そう、先輩の気持ち」
「それは……本当に……本心を言っていいのですか?」
戸惑いの表情を恭司に見せる。
「出来れば言って欲しい」
「……」
由梨香が恭司を見つめる。
「……分かりました。私の本心を言うなら、恭司さんから愛情は欲しいです、ですが私は『物』です。不相応な愛情までは望みません」
真剣な口調で言う。
「そんな答えで――いいの?」
恭司として困る答えだった。由梨香の事を到底『物』だと思えない。
もちろん、人間ではない部分も知っていたが、気持ちや感情はちゃんと存在しているとか思えなかった。
「もちろんです。仮に『無垢なる物』を愛しても、悲劇が待つだけです」
「そうは言うけど、そんな悲劇とか」
「いえ、そうですね、壺に恋するようなものだと思ってください。壺は決して貴方には答えません、そして、壺は大事にすれば百年くらい壊れずにありますから、壺に恋した人間は先に死ぬ事になります」
「……」
壺の例なら確かに悲劇だが、由梨香の場合は完全に受け答えしてくれる存在だ。
その存在の気持ちを無視して、振る舞い続ける方が辛い気がした。
「私の事はあくまで『物』だと思ってください。もちろん、酷くしてくださいとは言いませんが、愛用の文房具くらいに想っていただければそれで幸せです」
「――分かった」
言い切る由梨香に対して、恭司の方には、それ以上の言葉が思い付かなかった。
もし、十月の事が無ければ何か言えたかも知れないが、十月が好きだと想っている以上、その事を裏切るような事も言えなかった。
「ありがとうございます。さっきも言いましたが、恭司さんは十月さんへの気持ちを大切にしてください、私もサポートしますから」
「先輩のサポートか……」
割と大胆な性格な気がする由梨香の補助というのは、少し怖い部分もあった。
「では、少し時間が経ってしまいましたが、傷の手当てをしますね」
由梨香は最初に手に取った小箱を開けて、中から消毒液やガーゼを取りだした。
いそいそ傷口を消毒して傷テープを貼って行く。
「終わりました。思ったより深い傷だったので、もし、この後痛むようでしたら言ってください」
「いや、大丈夫だと思うよ」
「そうですか。では、本館に戻って、学校に向かう支度を」
「そうだな」
恭司は言いながら、ポケットの携帯電話で時間を確認する。
時間はホームルーム開始まで残り三十分を示していた。二人はやや急いで本館に戻り学校に向かう為の支度をした。
*
その日、十月は学校に来ていなかった。念のための検査入院という説明を担任がした。恭司は学校の終わった後、十月の見舞いに行く事にして近くのバス停でバスを待っていた。
あと、五分以内には由梨香も来る事になっている。
由梨香は警護の為、恭司から百メートル以上離れないようにしていたが、大勢人がいる場所では例外だった。
クレイドルが事件を秘密にしようとした場合、大勢の人間がいる場所で恭司を襲う事は難しく、また、その後の記憶処理も手間が掛かり過ぎるからだ。
「しかし、まだ色々と実感が湧かないな」
空を見上げて漏らす。
自分が狙われる存在になったという事、昨日見た『無垢なる物』の戦闘、どれも現実離れしていて、全て夢だった気すらして来てしまう。
見上げる空には春の薄い雲が掛かり、まだ残る桜の花びらが舞っていた。
「――恭司さん、お待たせしませした」
と、由梨香が走って恭司の元にやって来る。かなり急いで来た様子だったが、息が乱れた様子もなく落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「先輩、別にそんなに急いで来なくても、まだバスの時間じゃないし」
病院を回るルートのバスが来るまでには十五分以上の時間があった。
「いえ、念のためです。これだけ人が平気だとは思いますが、しばらくは警戒が必要だと考えます」
「しばらくってどの程度?」
「エシスにどのような命令が出るかにもよりますが、過去の例からだと三ヶ月程の期間は仕掛けて来る確率が上がります」
「三ヶ月か……」
その間、由梨香との付かず離れずの生活。
それは一人の男子として嬉しい話ではあったが、困る話でもあった。
「あと、聞くけど、どれくらいの人間がいれば、向こうは自重する訳?」
クレイドル側が大勢と定義する人数を知っておきたかった。
今、恭司の周辺には下校する生徒がざっと三十人。
「そうですね、十人以上なら大体。ただ、病院の駐車場の時のように、一時的に人が居ないタイミングで仕掛けて来る事はあります。その場に人を寄せ付けないようにする事は比較的簡単にできるので」
「人払いする力が使えるという事?」
「はい、忌避能力です。ですので、極力一人になる事は避けてください」
「分かった。なら、もう一つ聞くけど、例えば狙撃のような心配はないの?」
長距離からドンっと狙われる分には防ぎようがない気がした。
「クレイドルにも矜持がありますから、それはありません、過去マスターとなった方が、他の『無垢なる物』のマスターも含めて、そういった殺され方をした事はありません」
「へぇ、案外と正々堂々という事?」
少し感心してしまう。
「元々神官の集まりだという点で、その辺りの精神はあると思って構いません」
「そっか、分かった、ありがとう」
大体、自分がどの程度危険なのかを理解する。
本当なら由梨香にべったりしているのが一番安全だが、それほど臆病でも無いつもりだった。
「いえ、他に何かあれば、また聞いてください。――あ、バス来ましたよ」
二人の前にバスが停まる。
二人はそのままバスに乗り込み病院へと向かった。
バスは程なく病院前に到着し、二人は面会の手続きを行い、入院フロアまでエレベーターに乗った。
「もう、目は覚めているのでしょうか?」
「意識は戻っていると聞いているけど」
担任から聞いた話だった。
「そうですか、でしたら、あの時の事は本棚が倒れた事故だったと二石さんの記憶を弄った話は覚えていますよね? それを恭司さんが庇った事になっているので、そのように口裏を合わせてくださいね」
「その話だけど、本当にそんな都合良く、昨日の事を忘れているの?」
「はい」
「……」
恭司は一抹の不安を覚えた。
十月が昨日の事を覚えていても、忘れていても、それは十月にとって良い事では無い気がしたからだ。
記憶を弄るという言葉には抵抗を感じてしまう。
エレベーターが目的の階に着き、二人は十月の部屋の前で立ち止まった。
余裕があるらしく部屋は個室だった。
ノックの後『どうぞ』という声が聞こえて二人は中に入る。
「お見舞いに来た」
「こんにちは、二石さん」
窓際に設置されたベッドの上に起き上がった十月がいた。
「あっ、恭司君、それに篠崎先輩も」
十月は嬉しそうな顔で二人を見て、
「二人とも聞いて。大した事ないって私が言うのに、今日一日ずっと検査でこのダサイ格好なんだよ」
腕を広げてガウンをみせる。今はその上にカーディガンを着ていた。
確かに機能一貫主義のどう見ても格好の良くない服だったが、恭司には十月が着ているとそれなりに可愛いく見える気がしてしまう。
「もう恭司君、じっと見ないでよ。恥ずかしいでしょ」
十月が恭司の視線に気付いて、手で胸元を隠すようにする。
「ご、ごめん」
慌てて顔を逸らし、その隣で由梨香が苦笑する。
「それで、具合はどうなの?」
微妙に顔を逸らしたまま聞く。
「全然平気。――って、ずっと顔を逸らしていて、という話じゃないから、こっち見てもいいよ」
「わ、分かった」
視線を戻す。
「とりあえず、頭を打ったみたいだから、念のためらしいんだけどね。恭司君が庇ってくれたから他は何ともないし、ありがとうね、またお礼はちゃんとした形でするから」
「あ、ああ」
十月が言った言葉に後ろめたい物を感じる。
間違いなく『恭司が庇った』という虚実を信じている姿だった。
由梨香の言った記憶操作の結果だと分かっていても、面と向かって、記憶を弄られた十月と会話するのは、犯罪をしているような気にすらなって来る。
「どうかした?」
恭司の様子を見て十月が言う。
「緊張しているのだと思いますよ」
由梨香が代わりに答えた。
「あ、先輩も、連絡とかしてくれたんですよね? ありがとう御座います」
「いえ、私はあの場の責任者としての対応をしただけですから」
「でも、いきなり迷惑を掛けてしまいましたね」
「それは、こちらこそ、本棚が古くなって倒れるなんて、私が気付かない方がミスでした」
「そんな事ないです。そんなの予測出来ないですから」
「そう言ってくれると助かります、あと、この事で図書委員を辞めたりしないでくれたら、嬉しいです」
由梨香がたおやかに微笑む。
恭司はその顔を見ていると、僅かに不気味さを感じた。人の記憶を弄って、自分の都合良く事態を収拾してしまう力。
それが正しいとは、どうしても思えなかったからだ。
「それで、退院はいつの予定なのですか?」
「あ、うん。一応今日の夕方遅くの予定です、今日中には結果の出ない物もあるみたいなんですけど、それは何か異常があれば後で連絡するという話で、でも、凄く今日一日損した気がします」
「気持ちは分かりますが、悪い所が何もないと確認出来る事は良い事ですよ。――それでは、この後、家族の方が来られるのですか?」
「ううん。誰も来ないですよ。私一人です」
十月は何でも無い事のようにあっさりと言う。
「それは、何か事情でも?」
由梨香が控えめに聞く。
「あ、気にしないでください、別に大した事じゃないから家族の都合というより、私の都合ですから、昨夜来て貰ったのも大変だったみたいだし」
十月が明るい声で言う。
「すみません……立ち入った事を聞きました」
「そんなに気にしなくても平気です、とにかく、お見舞いに来てくれてありがとう御座います」
由梨香が頭を下げる。
「全然、先輩のせいじゃないから気にしないでください」
「すみません」
由梨香がまた頭を上げ、いいよ――と十月が続ける。
「……」
恭司は結局黙って、二人の会話を聞いているしかなかった。
一度感じた由梨香の力を使った事で生まれている違和感。それは恭司しか感じていない事だが、だからこそ会話に加わる事が出来なかった。
「ねぇ、本当にどうかしたの? 恭司君?」
十月の問い、その顔はずっと恭司が黙っている事を心配している顔だった。
「え、い、いや、何でもない」
乾いた笑いを浮かべる。
「あ、もしかして身体何処か痛いとか? 庇った時、落ちた本とか当たったでしょ?」
「いや、そういう事じゃなくて」
君の記憶がおかしいとは、言える筈がなかった。
「それならいいんだけど、何かあったら言ってね」
十月が微笑む。
その顔を恭司は見ていられなかった。
「いや気にしなくていいよ。それより、これから退院なら着替えとか色々あるだろ、僕達はもう帰るよ」
恭司に、このまま十月と話を合わせる自信はなかった。
「えー、別に平気だよ。それは着替えの時は困るけど、出来たら一緒に帰りたいくらいだし」
「ごめん、今日、僕、この後用事があるから」
由梨香に記憶改変について一度話す必要があると思った。
その時、十月がいたらまずいのは事実だった。
「そうなんだ……じゃ、仕方ないか。それで先輩も一緒に帰るんですか?」
「はい」
由梨香は一言頷いた。十月の目が細まる。
「……ふーん。二人で秘密の約束か何か?」
「いえ、私も用事があるだけです」
由梨香は恭司に合わせるように穏やかな顔で言う。
「そっ、用事ね……分かったわ。別に私は気にしないから」
その言葉とは裏腹に、十月の態度は凄く気にしたふうだった。
しかし、それを気に止める余裕は恭司にはなかった。
「――じゃ、帰るから。ごめん。また、明日学校で」
ほとんど逃げるように病室から出た。
「それでは」
その後に由梨香がゆっくりと続いた。
病室から出て、恭司は人のいない場所を探して院内を歩いた。
後ろには由梨香の気配がずっと付いて来ている。きっと恭司の意図を察しているのだろう。だから、恭司は振り返る事はしなかった。
そして、人のいない自販機コーナーを見付け立ち止まった。
「話があるんだけど」
始めて振り返って言う。
目に入った由梨香は微笑を浮かべた顔をしていた。
「なんでしょう?」
「分かっているんでしょ」
恭司は少し激しい口調で言った。
「記憶操作の事ですか? 恭司さんに都合が悪い形にはなっていなかったと思いますが」
由梨香が真顔になり、さらりと言う。
それが当然の事であるという言い方。
「先輩には人の記憶を弄る事に抵抗はないんですか?」
弄られた十月という存在を見て、その力の怖さをしみじみ感じた。恭司の家族も同じ状態にあると思うと尚更だった。
「基本的に何も、そうしないと私達は存在出来ませんから」
「だからと言って、嘘の記憶を本当だと思って暮らす事になるのを……」
理屈では無かった。
確かに、ずっと死なない存在が、その場にあろうとすれば、何らかの形の誤魔化しが必要になる。その事は由梨香の家に着いた時に聞いて理解はした。
そして、由梨香の力についても、人に知られる訳にはいかない事も分かる。
けど、そんな事で十月の記憶を変えて良い理由にはならない気がした。
「では、十月さんも、こちら側に巻き込むおつもりですか?」
「くっ」
由梨香の言葉は正論だった。
十月の記憶を弄らないという事は、まず大きなショックを十月に与える事になり、それを静めるには、由梨香の正体やクレイドルの事を話さなくてならなくなるだろう。それはつまり、十月を危険に晒す事だった。
「納得出来ない事だとしても、これだけは慣れていただくしかありません、長い存在期間を経て、この方法がもっとも穏便に全てを隠す事が出来る方法だと確信していますから」
「分かった」
由梨香の考えは三千年という歳月から得たものだ。
それに対して感情論で反論する余地はなかった。
「ありがとうございます」
それだけ答えて、由梨香は再び微笑した。
それから二人は病院を出て再びバスを待った。
飛行での帰還を申し出た由梨香を恭司が却下した結果だ。
「そんなに、飛ぶのは気に入りませんでしたか? 今度は両手で支えますよ」
「そう言う問題じゃない」
地に足が着かない状態での高速移動の恐怖は想像以上、出来れば二度と味わいたくない。
「そうですか……」
由梨香が残念そうにする。
と、その顔が急に引き締まった。
「恭司さん、先に屋敷に戻っていてください」
「何? 敵?」
昨日の事で、恭司にもそれくらいは察する事が出来た。
「はい、ただ、これはちょっと変です。おそらく恭司さんを襲う目的ではないかと」
「どういう事? 僕を襲う目的じゃないって?」
「少し待ってください。あと、念のため、グラビオを付けます」
由梨香が制服の胸ポケットからグラビオを取り出し恭司に渡した。何かに集中するような雰囲気になる。
恭司の手に乗ったグラビオが動き出した。
「なんじゃ、また厄介ごとか?」
「はい、恭司さんを屋敷まで頼みます」
「敵か、なぜ恭司から離れる?」
「この感じは、私だけの方がいい感じに思えるので、少なくてもエシスが、そちらに向かう事はないようにします」
周辺の気配を探っている様子だった。
「エシスが近くにいるのか?」
「はい、ただ、私とは別の相手と何かしています」
「何?」
グラビオが縫い付けられた目を細め、驚いた声を出す。
「私が確認していない『無垢なる物』が動いている可能性があるという事です。ただ気配は現時点ではしません。エシスの動きから、誰かいるという事が推測出来るだけです」
「先輩が、一人でその確認に向かうという事?」
「はい、現場が上空ですから、どの道、恭司さんを抱えての戦闘は無理です」
「上か……」
空を見上げる。
先ほどまで、薄く曇っていただけの空が、いつの間にか分厚い雲に覆われていた。
後少しで雨すら降りそうな気配。
「もしかして、雲の上?」
「いえ、そこまで上ではありません」
「そう、じゃ、こういう時は、任せるって、言えばいいのかな?」
自分が全く役に立たない事態である事は分かった。
「はい」
「分かった。なら任せる」
「分かりました。――では、行って来ます」
由梨香の背中に機械の翼が瞬間構成された。そのままフワリと浮き上がる。
同時に周辺への記憶操作が完了している様子で、バス停の周りに居た人間は誰も由梨香の事を気に止めない。
「先輩、雨降りそうだけど、そういうのは平気なの?」
「問題ありません、じゃ、グラビオお願いね」
「ああ」
グラビオの返事を確認した後、由梨香は上空に昇って行き恭司の視界から消えた。
「屋敷にはオートでセキュリティがある、由梨香の言うとおりに戻るぞ」
「分かった」
残った恭司とグラビオは、やって来たバスに乗って由梨香の屋敷まで戻った。
*
「な、なに!? 私の邪魔をするの!?」
エシスは上空で正体不明の物体と交戦していた。
相手は言うなれば水を固めたような存在だった。形状とサイズは人、ほぼ透明で気配がない。
いや、正確には近距離ならば僅かにエーテルの気配を感知出来た。
しかし、それは本当に微量で気配が無い存在といってよい状況だった。
エシスの記憶に、その物体に対して情報は無かった。ただ、技術的にリエグの技術以外には考えられなかった。
「くっ!」
水人形の拳が素速くエシスの腹部を狙う。
攻撃方法は格闘だけだが一撃が重かった。エシスは拳をかわして術を唱える。
「――我を妨げるモノよ、我の炎にて、焼き消えろっ!」
起動式により術が発動、水人形の周りを炎で包み込む。
相手が本当に水なら水蒸気爆発するところだが、それが起きた場合でも制御するつもりでの攻撃だった。
「え!?」
しかし、起きた反応はエシスの予想とは違い、水人形を取り巻いた炎は一瞬で消え去った。
爆発も何も発生しない、スッと、いきなり炎は消えた。
「発生物理現象を無効化出来るのっ!?」
それはほとんどの術が効かない事を意味していた。その手の兵器がリエグの大戦時に作れた事はエシスの知識にあったが、実物を見るのは初めてだった。
エシスはかなり後に作られた後期型の『無垢なる物』であり、後期型の登場によって既存の兵器は駆逐された過去がある。『無垢なる物』こそが究極の兵器であり、全ての兵器を越える存在だといえたからだ。
しかし、越えた存在とはいえ、今のエシスには目の前の兵器に対する対策が限られていた。
それは今のエシスが対『無垢なる物』戦闘に特化調整されすぎているからだった、過去に使われなくなった兵器の対策までは施されていない。
「っ……」
一度間合いを取り、どうするべきかを考える。
現敵に対して一番有効なのはエーテルデバイスと呼ばれる特殊な道具群による物理攻撃だったが、今、それを持っていない。
他の対策となると手段が限られた。
「お姉ちゃんじゃないけど、ここは結界で閉じ込めて、その間に逃げるとか……屈辱ね」
体表面で術を無効化すると言っても、次元の壁で結界を作れば、その無効化には時間が掛かる筈だった。
また、発動に時間が掛かる強力な術で、相手の防御を無視して消滅させるという手段もあったが、その術を行使するだけの時間が稼げるか確かではなかった。
簡単に倒せないなら、その間に逃げてしまうのが最善。
だが、エシスのプライド的には選びたくない選択でもあった。
水人形が思考するエシスに向かって飛び込んで来る。
「くっ」
それをかわすが、すぐに水人形が身体をひねり、キックを繰り出す。間接の無い動きだった。
「流石に水ねっ!」
予測出来ない攻撃を腕を楯にして受け止める。
腕にヒビが入るのではないかと思う衝撃が走った。『無垢なる物』の腕は鋼以上の強度を誇るが、それでも危険だと思う一撃だった。
「ちっ」
意地になっている場合ではないと判断し、空間閉鎖結界の発動準備に入った時、
「お姉ちゃん!?」
下方から、由梨香の気配が急速接近して来た。すぐにエシスの視界まで到達する。
「エシス、あれは何っ!?」
「え!? お姉ちゃんの所の奴じゃないの?」
エシスが驚き、その彼女の横に由梨香が付ける。二人で水人形に対峙する位置になる。水人形は由梨香の登場に二人から一度間合いを取り、様子を伺うような体勢を取った。
「アレは、私の所の物ではありません、――となると、別の誰かが、何かしようとしているという事でしょうね」
「別の誰かって、アレはどう見てもリエグ製だよ? 他の存在と言ったら……」
エシスが口ごもる。
「いえ、それは無いでしょう、彼等はリエグの道具を使う事を、まずしませんから、おそらく私が知らない『無垢なる物』がいるという事です」
二人の間だけで通じる『彼等』という存在では無く、別の『無垢なる物』の仕業だと由梨香は結論付けた。
「ロストしている子か……」
「そう考えるのが妥当かと」
由梨香は『無垢なる物』のまとめ役という立場上、創られた『無垢なる物』の大半を知り得ているが、製造後に何らかの理由で廃棄され、ロスト体となった 『無垢なる物』についての知識はない。そういったロスト体は基本的には起動していないが、稀に適合マスターを得るなどして、偶然に起動条件を満たしてしま う事があった。
そして、現敵である水人形にはエーテルドライブであるコアが存在している気配がなった。コア無しで単独起動するリエグ製の兵器は時限式の爆弾くらいしか 無く、状況判断をして停まるような芸当が出来る兵器は確実に存在しなかった。その点から外部コントロールの可能性が非常に高く、そんな事が可能なのは『無 垢なる物』以外には存在しなかった。
由梨香の知識にない『無垢なる物』が操る兵器となると対応が簡単ではない。
「エシス、ここは退いてください」
まず、相手の目的が分からない、そして、由梨香にとっての懸案として、自身の探査範囲内にその対象がいないという事実があった。
仮に居たとしても由梨香の探査を逃れる高度な偽造をしている。
それは由梨香からすれば驚異でしかなかった。彼女が主に『情報戦』を得意とする『無垢なる物』であり、その分野では負けた事がない。
そんな由梨香を欺ける存在となると、
「ヤバイ相手って事?」
エシスが由梨香の意図をくみ取って言う。
「はい、貴方が退いて、この水人形が追わないなら良し、私に向かって来るような私が対処します」
「分かったわ……カリが出来るみたいで気分が悪いけど、言うとおりにする」
「そう、ありがとう――ところで、貴方は、また私達にちょっかいを掛ける為に来たの?」
別れる前にエシスが接近して来た理由を一応訪ねておく。
「それは当然でしょ? 色々と試したい事があったけど、こいつが来て、そんな状況じゃなくなったのよ」
水人形を指差して言う。
「だとすると、基本的には貴方の行動を邪魔する為に現れたと考えるべきね」
「めんどくさい話っ」
苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「じゃ、退いて、後はこちらで何とかするから」
「分かったっ、任せるわ」
エシスが背中の翼を拡げて、曇り空の下、その場から加速して遠離る。
水人形の前には由梨香が立ち塞がった。
「さぁ、どうするのかしら?」
その問い掛けに対して、水人形は形状崩壊というリアクションをとった。
あっさりと形を崩して、僅かなエーテルの気配ごと消滅する。
「私とやり合う気はないという事ね」
呟きつつ、操っている誰かを探る為に周辺を丁寧に探査するが、エシスの気配が遠くにある以外には特に何もない。
「……」
探って分からない事は不気味だったが、恭司を一人にしている以上、由梨香の行動も制限されていた。
戻るしかないと考え、由梨香も翼を拡げて屋敷へと急行した。
*
「あれ、晴れて来たな」
バスが屋敷に近付くにつれて、厚く曇っていた空が見る見る晴れて行く。
完全に青空には戻らなかったが、薄曇り程度までは戻る。
「振らずに済んだか」
グラビオが恭司だけに聞こえる小さな声を出す。
バスの中には他の乗客も居た。
「先輩も濡れずにすんだだろうな」
それは良いことのように思えた。
バスは屋敷近くの停留所に停車し、二人は屋敷へと向かった。
*
翌日――。
恭司と由梨香の二人は揃ってバスで学校に向かい、学校前のバス停で降りて校門に向かっていた。
恭司は今まで電車通学だったので、バスでの通学は二日目だ。
「バスは慣れましたか?」
由梨香が恭司に寄り添って歩く。
「別に、ちょっと揺れるとは思うけど、慣れないほどじゃない」
「そうですか、車酔いとかは平気ですか?」
少し身体を倒して恭司の顔を覗き込む。
「問題ないから。先輩は色々と心配しすぎ」
「いえ、こちらの都合で慣れない事をさせているのですから」
「そんなに気にしなくていいから」
由梨香は基本的に恭司にべったりだ。
まだ二日目という事で、特に何事も起きていないが、毎日となれば確実に恭司が先輩と付き合い始めたという噂になるだろう。
十月が好きな恭司にとってその噂が広まる事は致命的だった。
しかし、由梨香の気持ちを考えると、離れて欲しいとは言えない状況でもあった。
「……じゃ、先輩、僕は自分の教室に行くから」
とりあえずの理由を付けて、自分から離れようとする。
「あ、はい。昨日話したと思いますが、正体が確認出来ない別勢力がいる可能性があります。くれぐれも気をつけてください」
昨夕の水人形についての事だった。恭司が屋敷に戻ってすぐに由梨香も戻って来て、ことの子細を伝えていた。
「分かってる、基本、一人にならなければ良いんだろ?」
「はい。それでは、お昼休みに伺います」
由梨香は恭司の弁当を製作していた。
それを持って行くという話だ。
流石に一緒に食べるつもりは無かったが、弁当を作ってくれる事を断る理由は無かったので受け入れていた。
「ああ、じゃ、お昼に」
恭司は足早に昇降口に向かって由梨香と別れた。恭司が急いでいる理由は由梨香と離れたいこと以外にも、もう一つある。
十月が退院して学校に来ている筈だったからだ。
病院で恭司としては気まずい別れ方をしたので、落ち着いて話をしたいと思っていた。急いで自分のクラスに向かい、十月が来ているかを確認する。
そして、座席に座るクラスメイトの中に十月の後ろ姿を見付けて、近付き声を掛けようと思った時、違和感を覚えた。
髪の色が違う気がするのだ。
十月の髪の色は色素が薄い感じの黒だった。それが、さらに色素が薄くなったというか、白味掛かった黒になっていた。
「二石、その髪どうしたんだ?」
挨拶より前に聞いていた。
「え? あ、恭司君、おはよう、――髪?」
十月が不思議そうな顔で恭司を見た。自分の髪を前に持って来て手で撫でる。
「何かへん?」
「え――いや、色が」
戸惑ってしまう反応だった。十月は自分の髪の色の変化に気付いていない。そんな不可解な事があるだろうか? あるとすれば恭司の勘違いの方が確率が高いだろう。
「色? 別に染めても、何もしてないけど?」
十月も戸惑った顔になる。
その顔は、本気で何も変わった事はない、と言っている顔だった。
「あ……う、うん、ごめん、気のせいだったみたいだ、何でもないよ」
自分の方がおかしいと思い、そう答えるしかなかった。
そして、もう一度よく考えると、今の十月の髪の色が、昨日までの十月の髪の色と本当に違うのか自信が持てなくなって来る。
記憶違いだと言われたら反論する根拠はなかった。
唯一とすれば、昨日の十月を見ている由梨香に来てもらうことだったが、そこまでする気にはならない。
自分の勘違いだと思えば特に問題のないことだった。
「そう、――あ、ところで少しいい?」
「なに?」
「今日、恭司君の分のお弁当を作って来てみたんだけど、良かったかな?」
「え、なんで、また」
「もちろん、昨日とか一昨日のお礼だよ、迷惑だった?」
「いや、それは全然迷惑じゃないけど」
全く予想していない展開だった。
迷惑では無いが、ただ一つ問題がある事を思い出す、由梨香も恭司のお弁当を用意している。
仮に両方を食べるとしても、気まずいことは間違いない。
「『けど』?」
十月が小首を傾げる。
「い、いや……」
正直に由梨香が弁当を作っている事を話せば、十月が辞退するのは予想出来た。
また、今は黙って後で由梨香に事情を話した場合は、由梨香が辞退するだろう。
どっちも、選択肢としては無しだった。
「特になんでもないよ」
笑って誤魔化す。
それは自分に対しての誤魔化しでもあった。
「そう。じゃ、後一ついいかな?」
「なに?」
「携帯の番号教えて、考えてみるとまだ聞いてなかったから」
「あ、ああ」
言われて恭司も気付く。由梨香とは番号交換していたが、十月とはタイミングが合わずまだだった。
互いに携帯を取り出して番号とアドレスを交換する。
「ん、OK。――じゃ、そろそろHR始まるから」
十月が自分の携帯をしまう。
「うん、また」
恭司は自分の席に向かい着席する。
お昼までに何か対策を考えることが必須だった。
*
由梨香の学校生活は、実際のところ由梨香の趣味のようなものだった。
学校という場所は、本来、勉学に励む場所だが、それは由梨香にとってはお遊びにもならないレベルであり、それ故、他の事で由梨香は楽しんでいた。
三年ごとに行く学校を変えて新しい友達を作ってみたり、好きな委員会やクラブ活動に打ち込んでみたり、学校の設備を自分の都合が良いものに変えさせてみたり、ある意味、記憶を弄る力で好きにやって来ていた。
そして、その力でとても目立つ生徒の筈なのに一枚の写真にも残らず、クラブなどでどんなに好成績を上げても決して記録に残らず、当然、部活のレギュラー入りなどもせず、目立つのに目立っていない生活をしていた。
もちろん、公式大会で記録を残すような事をすれば、後で明らかな矛盾を産んでしまうので、出たくても出られないという事情はあったが、それでも、由梨香は由梨香なりに楽しんで学校生活を送っていた。
ちなみに、あらゆる分野の活動を最高レベルでこなす能力を有しているため、もし、公式の大会や試合に出た場合は、全ての部門で篠崎由梨香が全国制覇してしまう可能性すらあった。
「少し控えた方がいいという事でしょうか?」
朝、席に座り自問する。
恭司に言われた事を気にしていた。
記憶操作の力を良くは思われていないこと――それは、由梨香の今までの生活の否定に繋がる話だった。
全く使わないという事は出来ないが、必要最低限にとどめることは可能だった。
あまりに長い間、当たり前のように使って来た力だということで、感覚が鈍っていたのかも知れないと思う。
人の記憶を勝手に書き換える事が、道徳的に『善』とは言えないことは理解出来た。ただ、理解しても、全く使わないという選択は無い以上、自分の行動が善の反対だとは思えなかった。
そう思ってしまえば苦しくなるだけだ。
その上で、少しの非でも、大きな非でも、非に大差はないと言えばそれまでの話だが、ことを少しに出来るなら、少しにした方が気分的には良い。
「一旦卒業したら、そのまま大学に行って、ここのみんなの記憶はもう弄らないという方向にするべきかも知れませんね」
気に入った学校なら、全学年三周くらいする事は良くあった。
その都度、新入生を除く関係者全員の記憶を弄っていた。一度に弄れる人間の数には限りがあるが、少しずつ二週間くらいの時間があれば、千人単位でも充分に可能だった。
とはいえ、常時展開している力までは消せなかった。
基本的に他人に用事がない時、由梨香はクラスの中で自分の事を上手く認識出来ないようにしていた。
故に小さな独り言程度なら、隣の席の人間ですら気にする事がない。
それは、自己防衛であり、世の中で隠れて暮らす『無垢なる物』としての基本だった。
*
そして、お昼休み。
距離的な絶対優位があるのは十月だった。
「恭司君、お昼だよ、一緒にお弁当食べよう」
授業終了の鐘と共に恭司の席の前にやって来る。
その手に可愛い巾着を二つ下げて。
「あ、ああ」
恭司はクラスの男子の痛い視線を感じつつ頷いた。
十月が突然来るとは思っていなかった為、内心、驚いて戸惑った。
十月には自分の行動が目立っているという認識がない。クラス内で一番人気のフリーの女子が、ある日突然、授業終了と同時に特定の男子の席に行って、お弁当を出すというのは、その瞬間に内乱が発生するかも知れない話だ。
「と、とりあえず、教室で食べるのは目立つから」
席を立って十月を促す。昼休みどこで食事をするかは生徒の自由だった。
「うん」
素直に十月が頷いて、二人一緒に教室を出る。教室を出る時、恭司は派手な舌打ちを聞いたが振り返る事はしなかった。
焦り気味で廊下を進みつつ、上に行くか下に行くかを考える。
上は食堂と屋上コースであり、下は芝の中庭コースだった。中庭となると座るにはシートが必要だが持っている筈もなく、食堂は教室と同じく目立ち過ぎた。
となると、屋上コースしかない。
恭司は階段を上がって屋上を目指した。上階に三年生の教室があるという事を完全に失念して……。
「あ」
階段の上から聞き覚えのある声がした。
見上げて、時が止まるほどの硬直、今日は三度目だった。嫌な汗も噴き出してしまう。
そこに居たのは、恭司にお弁当を届けるために降りて来た由梨香だった。
「二人でどちらに?」
由梨香は手に持っていた二つの巾着を後ろ手に隠して言った。
その様子を見て恭司は、とんでもない失敗をしたと思う。
この結果を招いたのは、お昼休みになるまでに自分が結論を出せなかったからだ。
そして、十月の不意打ちを喰らい、由梨香に酷いことをしてしまった。
完全に自分のミスだった。
「篠崎先輩。私達は屋上にお弁当を食べに行こうと思って、先輩は下の食堂ですか?」
十月が普通に答える。
その普通さが、きっと由梨香にはダメージだろう。
「そうですか、今日は天気もいいですからね、私はちょっと職員室に用事が」
由梨香がとても穏やかに言う。
その顔を恭司は見ていられなかった。
「大変ですね、お昼休みなのに」
「いえ、すぐに済むことですから、――それでは」
二人の横を通って階下に降って行く。
恭司には何も言うことが出来なかった。由梨香は表面的には恭司と十月のこと応援している。
しかし、由梨香のマスターとなった恭司には、最低でもマスターとしての責任があると思えたし、由梨香自身の態度や話から、由梨香がマスターとなった人間に対してどういう感情を持っているのか推測可能だった。
「くっ」
自分の不甲斐なさを呪う。
「ん? どうかした?」
何も知らない十月が恭司のことを覗き込むようにする。
「いや……屋上に行こう」
いま出来る事は、それしかなかった。
由梨香を追い掛けるという選択も脳裏に浮かんだが、追ったところで由梨香は恭司に対して戻れ、ということが見えていた。
その場合、由梨香にこれ以上、余計な気を回させることになってしまう。
それだけは出来なかった。
屋上に着き、生徒のために設置されたベンチの一つに並んで座る。
恭司は内心にひとまず整理を付けて、何とか気持ちを落ち着けた。後で由梨香をフォローする必要があるが、今は十月が隣にいる事の方を大切にしようと考えた。
屋上を見渡すと、他に何人かの生徒が居て、カップルも存在していた。
だから、特別、恭司達が目立つという事もない。
「はい、これが恭司君の分ね」
十月が可愛い巾着の中から、可愛いお弁当箱を取り出して恭司に渡す。
「ありがとう」
受け取って蓋を開けてみる。
中には可愛く纏まったおかずとご飯が入っていた。
「ちょっと少ないかな? 男の子がどれくらい食べるのか、分からなくて」
「いや、別に問題ないよ」
大食漢という方ではなかった。
「そっか、なら、食べてみて」
「ああ」
おかずのミートボールにまず箸を付けて口に運んだ。
「――」
予想していなかった味がした。
これは肉だよな?
思わず自問してしまう。
見掛けは間違いなく肉だったが、味は甘いチョコレート。
舌触り、歯ごたえ、全て肉だが、味だけはチョコレート。
紛う方なくチョコレートだった。
「どう、美味しい?」
「いや、まぁ、不味くはないけど……」
チョコの味自体は嫌いではないので、不味いとは思わない。
ただ見た目も食感も全て肉なのに、味がチョコというのは不気味だった。
「美味しくもないって事?」
「そういう話じゃなくて、これ……その、原材料は肉だよね?」
作った本人に聞くしかない状況。
「そうだけど」
素で肯定されても困る。
「本当に?」
「うん」
はっきり頷かれてしまった。
これ以上は聞けない。
恭司はとりあえず、別のおかずに箸を付けた。
次は卵焼きだ。色も黄色く、確実に卵焼きにしか見えない物体を口に運ぶ。
「――」
同じ展開だった。多くを語る必要はない。
チョコの味しかしない。
飲み込んで、ご飯に手を付ける。
そぼろが載ったご飯だった。
「――」
やはり予想通りのチョコの味。
茶色いそぼろがチョコの味ならまだ分かる。
真っ白いご飯までチョコの味だった。
ここまで来ると驚異でしかない。
おそらく、まだ手をつけていない全ての内容物がチョコ味なのだろう。
弁当箱一杯分のチョコは中々に厳しい量だ。
「どうかな?」
そう聞く十月の顔は、料理に自信が無いという顔ではなく『それなりに出来たと思うけど』という顔だった。
確かに、それなりには出来ている。食べられないような味ではないし、見た目も整っていて美味しそうだ。
だが、正直、素直に褒めてあげることが出来ない弁当だった。
「作る時にさ、これ、何か甘い物を加えなかった?」
「ん? 砂糖は入れたけど、甘すぎた?」
「砂糖だけ?」
「そうだけど」
「……」
あまり深く考えてはいけない気がした。
量を考えると、目眩がするがここは全部食べなくてはならない。
それが出来る唯一のことだった。
「うーん、ちょっと微妙だった? 私は美味しいと思ったんだけど」
「味見したんだ?」
「うん、少しね」
「そ、そう」
箸を進めながら考える。
味見して、チョコの味のままOKを出したと言うことは、十月の好みが単にずれているという事だろう。
その場合、それを直す事は難しく恭司に何か言うべきことはなかった。ただ、今度何かを作ってもらうことは遠慮したかった。
「ところで、今度、どこかに遊びに行かない?」
少しして十月が言う。
「え」
箸を止めて聞き返す。
突然の誘いだった。
「あ、お礼のつもりなんだけど、恭司君、週末に時間ある?」
「お礼って、弁当だけじゃないんだ」
そんなに気にして貰うことでは本来なかった。全ては由梨香が偽装した記憶であり、十月に気を遣われるたびに心苦しい。
ただ、十月が信じている以上、余計なことは言えなかった。
「なにか用事でもあるの?」
「いや、それは大丈夫だけど」
「それじゃ、私と遊びに行く約束してくれる?」
「い、いや、少しだけ待ってくれ、確認する事があるから」
本来なら、十月からの誘いを断る理由など、どこにも存在しなかった。
だが、現状の恭司には複雑な事情があった。十月と二人きりで遊びに行くということが危険なのだ。
それを由梨香が許す筈もない。事情を話せば影ながら見守ると言うだろうし、話さずに当日こっそり抜け出すというのは、おそらく無理だ。
つまり、どんな選択をしても由梨香同伴ということになる。
だとすれば、事前に話して由梨香の行動を予測出来るようにしておいた方が良い。
「少し電話して来ていいかな?」
「予定の開けるの? 誰との先約があったりするの?」
「違う、それは無いけど、ちょっと色々あって」
自分一人で決められない状況だとは、情けなくて言えない。
「よく分からないけど、私が止める事でもないと思うから」
「ありがとう」
一旦、弁当をベンチの上に置いて、屋上入り口の影まで戻る。
「――はぁ」
由梨香の番号を携帯に表示するが、さっきの事と合わさり掛けるのが非常に気まずかった。
ただ、十月への返事を待たせる事も出来ない。
覚悟を決めて電話を掛ける。
「もしもし、さっきはごめん」
繋がった瞬間にまず謝った。
『何のことですか? 何か急用ですか?』
由梨香は全くの自然に答えた。
「お弁当の事、悪かった」
『あ、いえ、そのことは特に問題はありません。それより、今は十月さんと一緒にいるのでは?』
「ああ、それで聞きたい事があるんだ?」
『何でしょう?』
「週末に十月に遊びに誘われた。今の状態だと二人で何処かに出掛けるのは危険だと思うんだ」
『それは恭司さんが心配する事ではありません。そう言った場合には、気付かれることなくガードする形をとります。――それで、誘いは受けたのですか?』
「いや、先に先輩の判断を聞いておきたいと思ったから」
『そうですか、では、電話を切ってすぐに十月さんの所に戻って上げてください』
「分かった」
由梨香の反応は恭司の予想通りのものだった。だが、それを聞いて十月の誘いを受けやすい気持ちになった。由梨香が恭司に対して気を遣うことを、最低限に留めることが出来た気がするからだ。
もし、完全に隠せるならそれが最良だが、実質的に無理である以上、先にばらしてしまった方が、あらゆる影響を最小に出来るという理屈でもある。
「じゃ、また後で」
通話を終えて十月の元に戻る。
「用事済んだの?」
「ああ、週末は特に問題ない」
「良かった。――それなら土曜と日曜の、いつがいい?」
十月が少し安堵した顔をする。
「どちらでも」
「そう、じゃ、次の日曜日でいいよね、あと行き先と日時はどうしょうか? 私はどこでも平気だけど、恭司君の希望があれば――どこか行きたい所とかある?」
「いや、僕も基本どこでもいいけど、賑やかなところかな」
人の多い場所なら襲撃の確率も減るし、由梨香が隠れやすい筈だと思った。
「そっか、賑やかな場所ね。だったら詳しい行き先は私が決めて良いかな?」
「任せるよ」
「うん、なら、今晩、場所は決めておくね。決まったらメールするから」
携帯電話を掲げて言う。
「分かった」
十月からのメールを無視するという事は有り得ない。
「それなら、お弁当、続き食べよう」
ニッコリと言って、恭司がベンチの上に置いた弁当を差し出す。
「う、うん」
乾いた返事をして、恭司は覚悟を決めたのだった。
*
「新規ユニット起動テスト――ビルドインエーテルデバイススタート」
白い壁と大きなガラスに仕切られた広い部屋の中に翼を拡げたエシスがいた。
彼女の周りには、バスケットボール大の球体機械が四つ浮かんで、付かず離れずの距離を取っていた。
「――光塵よ我が剣となれ――」
エシスの術式の呟きと共に、新たに装備した武装がその手に出現する。
それは細身の光の剣――刀身に燃えさえるような揺らぎを纏っていた。
「さて、試し切りよ」
フワっと浮き上がり、的である球体機械を間合いに入れる。
球体機械の方もエシスが浮いたと同時に、その動きを速くして逃げる的となっていた。
「武器格闘技能なんて、使うの何百年振り? ――はっ!!」
呟きつつ鋭く動き、気合い一線。
光の刃が球体機械を捉えて真っ二つにする。
「腕は落ちてないみたいね……まっ、プログラムだから、変わる筈もないけど」
面白く無さそうに言って、残り三つの浮遊体を睨んだ。
6
その日は朝から快晴だった。恭司は十月との待ち合わせの駅前にいた。
あと、五分で約束の時間になる。
十月が提案した行く先は、海浜公園とその周りにあるショッピング街だった。
恭司が住む所から電車で小一時間ほどの場所。
「……」
周りを見遣る。特に知り人の姿はなかった。しかし、今の何処かから由梨香が見ているのは確実だった。
ジャケットの内ポケにはグラビオも入っている。今は縫いぐるみモードで機能停止中だ。
「落ち着かないな」
思わず漏らす。
監視状態で、意中の相手と行動することになるというのは、色々な意味で恥ずかしい。しかし、我慢しなくてはならないことだった。十月を好きになったタイミングで由梨香のマスターになってしまった以上、どちらか片方を優先するようなことは出来ない。
やがて、約束の時間が訪れる。
恭司は遠くから歩いてくる十月の姿を認めた。
薄い色のワンピースに揃いのボレロ風の上着を着ている。長い髪がフワフワしていて、客観的に見ても可愛く目立つ容姿だった。
「おはよう、恭司君」
十月が恭司の前で立ち止まる。その顔を見ていると、男として一緒にいることで思わず誇らしくなる。
「なに? どうかした?」
「いや、おはよう」
「時間、遅れてないよね」
肩に下げたトートバッグから携帯電話を出して時刻を確認する。
「うん、遅れてない、じゃ、行こうか」
自分に自分で頷いて改札の方に向かう。
「ああ」
恭司も後に付いて、二人で電車に乗った。
由梨香がどういった方法で尾行しているのか不明だが、電車に一緒に乗るような事はしていない気がした。
そして、急行で七駅ほど乗って目的の駅で降りる。
海浜公園前という何の飾り気も無い名前の駅だったが、近年整備された事もあり、モダンな雰囲気を醸し出してした。
駅から出ると、システマチックに建物が並び、それぞれが何かのお店だった。
その建物が並ぶ通りの向こう側に、海浜公園がある。
道は歩行者天国になっており、その人の混み具合は、程々といったところだった。
「まずは、映画、その後、お昼を食べて公園へ。――それでいいよね」
十月が弾んだ声で言う。その淡い色の髪が風に揺れてなびく度に、一種幻想的な光景を作り出した。
恭司はそんな十月に一瞬見とれつつ『ああ』とぶっきらぼうに答えた。
十月が眉を顰める。
「どうかした?」
「いや――行こうか」
歩き出す。
「う、うん」
十月がそれに続いた。
歩き出して恭司はすぐにあることを感じた。付けてくる気配があった。
内心で溜め息を吐く。
だが、ここで一つの疑問を湧く、由梨香だとして気付かれるような事をするのだろうか? ということ。
今さっきまで、その気配すらなったものが、急に気配を現すことも疑問だった。
振り返るが、特に見知った顔はない。
単に気配だけだった。
「気にしすぎか?」
誰か付けて来ていると思うから、そんな風に感じているのかも知れないと思う。
「何か言った?」
十月が恭司の呟きを拾う。
「いや、何でも――」
そして、最初の予定スポット――映画館に到着する。
上映している映画は『クールダンサー』
十月に聞いたあらすじによると冷酷なダンサーの話らしい。
まんまだと、恭司は思いつつチケットを購入して館内に入る。中に入った段階で背後に感じていた気配は消えていた。
「気のせいだったみたいだな」
上映開始まで十五分弱。
座席の埋まり具合は、八割程度だった。
「じゃ、私、飲み物とお菓子買ってくるね」
「任せた。けど、お菓子はポテチ以外で」
「え?」
「映画館でポテチをばりばり喰うヤツは死刑と昔から決まってる」
「ふーん。じゃ、ポテチ以外ね」
十月が座席を離れて売店に向かう。
一人になって恭司は考えた。
現在、好きな女の子とデート状態にある。それが現実のはずだったが、その事に集中出来ているとは言えなかった。
原因は自身が狙われている事にあるのだが、もっと集中してちゃんとデートしたいという欲求が芽生えてしまう。
我慢するつもりだったが、何とかならないか、と考えてしまう自分がいた。
今、由梨香が監視している必要性も『分かる』が、平然とその事実を無視していられるほど、感情を抑えられなかった。
と、
「お待たせ」
十月がジュースとお菓子を手に戻って来る。
「ありがと」
「いえいえ、今日は私のお礼なんだから、気にしないで」
「ああ」
恭司は渡されたジュースを受け取り、一口飲んでから備え付けのジュースホルダーに置いた。
「そろそろ始まるね」
「僕としては、かなり微妙な期待なんだけどな」
「そう? 私は楽しみだよ」
「まぁ、どの道、始まったら分かる事だから、今は何も先入観を持たない事にするよ」
「うん、その方がいいよ」
十月が頷き、しばらくしてから場内にブザーが鳴り照明が絞られた。
恭司はひとまず画面と隣の十月に集中しようと思った。
由梨香の事は映画が終わってからでも間に合う。
そして、気の早い夏休み映画の予告に続いて『クールダンサー』が始まった。
…………。
映画の内容は、十月が言った内容とだいぶん違った。
腕の良かった人形使いが事故で利き腕を怪我し、それでも、目指していたコンクールで、難しい人形ダンスをやり遂げるという話だった。
無機質な人形が踊るから――クールダンサー。
その題名については深く考えるところではないのだろう。
ちなみにラストシーンは、コンクールの優勝というお決まりの展開だったが、全体のストーリーの筋がしっかりしていて、それなりに感動出来た。その時、横目で十月を見るとハンカチで目元を押さえていた。
「――面白かったね」
照明が戻った場内で十月が言う。
場内アナウンスが映画の終わりを告げ観客が席を立つ。恭司は席に留まっていた。
結局、あまり映画に集中出来ず、由梨香の事をどうするか考えていた。
「……どうかした?」
「いや、ちょっと、トイレに行っていいかな? 二石は先に外に出ていいから」
「あ、うん、なら入り口で待っている」
座席で十月と別れ、恭司は映画館内のロビーに向かった。
そして、携帯電話を取り出して由梨香に掛ける。グラビオを使う事も考えたが慣れた電話の方が良かった。
『もしもし、なんでしょうか?』
電話から落ち着いた由梨香の声がした。
「いま、どの位置からここを見ている?」
『外からですよ、入り口に十月さんの気配があるのが分かります』
「こんなこと言うのは悪いと思うけど、どうしても集中出来ない、出来れば引き上げて貰えないかな?」
それが考えた結論だった。最初は我慢する事も考えたが、やはり監視されている状態は無理だという結論だった。
そのことをはっきりと告げる、遠回しな言い方は話がこじれる気がした。
『それは命令ですか?』
「いや、お願いだ」
『襲撃の時に、対応が遅れますが』
「この人混みで相手が襲ってくる確率は?」
『過去の事例から0.3パーセント以下です』
「だったら、退いてくれ、十月に悪い気がしてならない」
『分かりました。では、直接の監視は止めます』
「近くには居るということ?」
『念のためです』
「――分かった。じゃ、帰ったらまた」
『はい』
由梨香の返事を聞いてから、恭司は通話を切った。
相当に自分勝手なことを言ったと思ったが、一緒にいる十月を大事にすることが、やはり重要だと思えた。
そのまま十月が待つ映画館の外に向かう。
これで、やっと気持ちを切り替えて十月と向き合える気がした。
「お待たせ」
外で待っていた十月は、すぐに見つかった。
「うん。――それで、映画どうだった?」
「まぁ、良かったと思う」
「本当に? あまり集中出来てなかった気がしたんだけど」
鋭い事を言う。
それだけ恭司のことを観察していたということでもある。
「――いや、そんな事もないよ」
「じゃ、どの辺が面白かった?」
「そうだな……一辺諦めそうになった主人公が、もう一度やる気を取り戻すシーンとか」
「あっ、あそこは良かったよね。埃を被った人形が泣いているように見えちゃうシーンでしょ」
「ああ」
「『人形に辛い思いをさせても仕方ないな』っていう、主人公の呟きに、ジーンとしちゃった」
十月が主人公の台詞を真似る。
「……そうだな」
今の恭司にとって十月の真似た台詞は意味深だった。
完全に今の自分の状況だ。
「やっぱり恭司君も感動したんだ」
「ああ」
感動というよりむしろ共感。
そして、この話題が続く事は、あまり気分が良い話ではない。
「とりあえず、面白かったよ。――そろそろ、ご飯でも食べに行かない?」
やや強引に話題を切り替えた。
「あ、う、うん。そうだね」
十月は話題を変えられた事に少し戸惑った様子を見せたが頷いた。
時間的にお昼前で、昼食の話題に無理がなかったからだろう。
二人は映画館前から少し歩いて、飲食店が多く並ぶ通りに向かった。
「どこのお店にしようか?」
店は本当に沢山あって迷う。
視界に入るだけでも、パスタ屋、カレー屋、中華屋、ハンバーグ屋と多岐に渡る。
「僕は別にどこでもいいけど」
「そう? だったら、私、一応、大体調べて来てはあるんだ」
携帯電話のグルメガイドサイトを表示しながら十月が先導する。
何か決めているお店があるなら、十月に任せた方がいいだろう。
「うーん、このお店、写真より外見がダサイかも」
そして、一見の店で立ち止まる。
「写真撮る時は、普通、周りにある邪魔な物を片付けるからな」
「詐欺っぽい、次のお店にゴー」
十月の理屈としてはアウトらしくまた別のお店に向けて歩きだす。
「了解」
恭司に特別、反論は無かった。
十月が気に入るまでお店を探すのも悪くない。
それに、店を探している十月の姿は、とても楽しそうで、それを見ている恭司も楽しかった。
「次のお店はね。デザートでケーキが食べ放題なの、いい感じでしょ」
「まぁ、任せるけど」
ケーキにそれほどの興味は無かったが、女子には重要事項なのだろう。
そのお店に向かって通りを進む。お昼に近付くつれて徐々に人の数が増え、かなり混雑してくる。
「すみません、ちょっといい?」
と、急に恭司は後ろから背中をつつかれた。
「――え」
反射的に振り返って息を飲む。
そこに本当に作り物のように可愛い少女がいた。
それは、文字通り作り物であるエシスだった。
翼は出していないが間違いはない。
沢山フリルの付いた白と黄色のミニのワンピースを着ている。
「驚いて止まるのは構わないけど、連れの娘、呼び止めないと行っちゃうよ」
そのエシスが軽く笑う。
「な、何のつもりだっ!」
恭司は思わず叫んでいた。周囲の人が驚いて離れる程の声だった。
「え?」
先に行きかけていた十月が立ち止まって振り返る。
「二石、来るな!」
数歩先の十月に制止を求める。そして、何とかすることを考えるが、今、エシスが何かを始めたら止められる自信は全くなかった。
ポケットの中のグラビオの起動も考えるが、人混みだと逆に難しい。
「そんなに怖い顔しなくても、何もしないわ」
エシスがからかうような笑顔で言う。
目的が全く見えなかった。
「信用出来るかっ!」
見た目、険悪な雰囲気の為、恭司とエシスを囲むように人の輪が形成され、ざわめきが拡がる。
「なに、恭司君、どうしたの!?」
その輪をかき分けて、十月が顔を覗かせ二人に近付こうとする。
「だめだっ、二石、来るなっ!」
重ねて遠ざける。
「えっ……で、でも」
十月は両手を胸の前で重ねてオロオロする。その気持ちも分かるが、恭司にはどうしようもなかった。
出来ることはエシスに近付かせないことだけだ。
人の輪から『痴話喧嘩か?』という声が聞こえて来る。
そう見えても仕方はないが、十月に誤解はされたくなった。
「二石、この子は、ちょっと危険なんだ」
上手い説明が出来ないが、それ以上は話せなかった。
「なに、どういう事?」
「いま、これ以上説明出来ない」
「そう言われても……」
困った顔で恭司を見つめる。
その中でエシスが一人落ち着いた口調で、
「危険とか、酷い言いようね? それにお姉ちゃんがいるのに、別の娘とか、それでもご主人様なの?」
咎める視線を恭司に送る。
「っ……それは」
十月も聞いている、この状況では何も反論出来なかった。
「まぁ、それより、お姉ちゃん、この近くにいるんでしょ? 呼んで欲しいんだけど?」
「呼んだら、どうする気だ?」
「うん、ちょっと用事があるの、まっ、どの道、私が貴方に接触した事で、もう飛んで来ていると思うけど」
エシスが空を見上げる。
文字通り飛んで来る可能性があるから冗談にならない。確か、由梨香は近くには居ると言っていた。
だとすれば、もう気付いてこちらに向かって来ているだろう。さっき、突き放しておいて、もう頼ることになっている状況が非常に情けなかった。
「……」
自分だけで出来ることを考えると、一つくらいしかない。
走って逃げるという選択だ。
仮に、ここで逃げ出せば、エシスは自分だけを追ってくるだろう。その場合、十月を置き去りにする事になるが、十月の危険は減る。
「くっ」
しかし、置き去りにして走り去るというのは、十月に確実に嫌われる行為だ。
いくら十月の安全のためと言っても、その決断は出来なかった。
結局、恭司は動けず、その場で三十秒程度の時間が流れる。
それは、どうしようもなく緊張した三十秒だった。
「あの、すみません、通してくださいっ!」
と、恭司が聞き慣れた綺麗な声が響く、声のした方で人の輪が崩れ、そこから由梨香が現れた。
「先輩っ!?」
十月が驚きの声を上げる。当然の反応だろう。
由梨香は白のセーターにベレー帽、それに茶色のフレアスカートという格好だった。長い黒髪が白のセーターに映える十月と同等の完璧な美少女。
そんな目立つ由梨香の登場で、周囲のざわめきが大きくなる。男に一人に対して女三人の構図は、端から見れば修羅場にしか見えないだろう。さらにその三人の容姿が平均より圧倒的に高いとなれば、注目するなという方が無理だった。
恭司は何とか場を収拾する方法を考えたが、全く何も思い付かず、その場の流れに任せるしかない状況だった。
「エシス、一体どういうつもりっ!?」
由梨香がエシスと恭司の前に立つ。
「こんにちは、お姉ちゃん」
エシスがペコリとお辞儀をした。
美しい金髪がサラサラと揺れる。
「だから、なんのつもりなのっ!? こんな場所でっ!」
由梨香はエシスを引っ叩くのではないかと思わせる勢いで、恭司の前に入り、エシスと対峙する。
その時、十月が小走りで恭司の後ろに駆け寄って来た。
おそらく、割り込むタイミングを探っていたのだろう。
「ねぇ、何なの?」
小声で恭司に聞く。
「いや、簡単に説明出来ない」
「……そう、金髪の子と先輩は知り合いみたいだけど」
混乱した気配が十月の口調から伝わる。
「今、それに答えてる暇はない」
恭司はそれだけ言って、由梨香とエシスの睨み合いに集中した。
「新武装の試しのつもりで、対象付近をうろついていただけ、でも何も起きなくて退屈だったから、ちょっと、声を掛けたの」
「マスターを餌に使ったという事ですか?」
「だって、そんな感じで、前のあの敵は出現したもん」
「そういう問題では」
「別にお姉ちゃんが来てくれたし、もう、それはどうでもいいんだけどね。お姉ちゃゃん遊んでくれないかな?」
「こんなところで、貴方に付き合える訳ないでしょ?」
「お姉ちゃんなら、このくらいの人数、簡単に処理出来るでしょ?」
「それは脅し? それとも、私に力を使わせたいの?」
「さぁ、ただ、私は遊びたいだけよ、お姉ちゃんが嫌だって言うなら、その二人と遊ぶけど?」
エシスが無邪気な目で恭司達の方を見る。
その視線からは、子供の残虐さのような恐怖を感じた。
「っく」
由梨香が言葉を無くす。
どちらを選択しても、由梨香にとって好ましい事態ではないだろうからだ。
「……あの?」
沈黙が場に落ちたその時、よく通る声が場の注目を集める。
十月だった。
「二人共、事情はよく分からないけど、道路の真ん中は迷惑だと思うから何をするにしても場所を変えない?」
その言葉を受けて、エシスが十月を殺意を篭めた視線で睨む。
「部外者は黙ってて」
背筋が凍るくらいの迫力。
「そっちこそ部外者でしょ? 私は恭司君の連れで、先輩の知り合いでもあるんだから」
十月はそれに全く怯むことなく言い返した。
「お、おい」
恭司の方が焦ってしまう。相手は一撃で人間など粉砕出来る力の持ち主だ。
「恭司君も何か言ってよ、折角のデートを邪魔されているんだよ?」
十月がデートだとはっきりと言う。
そのことに驚くが、今はそれ以上に事態が緊迫していた。エシスの性格は分かり易い、煽られて黙っているタイプでは無いのは予想出来る。
「二石、気持ちは分かるけど、少し言い過ぎだ」
「そうかも知れないけど、ここは腹を立てても良いところでしょ?」
「それはそうだけど……」
十月の方に退く気はない様子だった。
「何も知らない子が私に盾突くのね? 面白いわ」
エシスが完全に十月を馬鹿にした口調で言う。確かにそれだけの上位にエシスは存在していたが、十月は知らないことだ。
「盾突くとか、貴方一体何なの? とにかく私達に構わないでください。先輩に用事があるなら、それでいいでしょ?」
「ふーん、そう言ってるけど、お姉ちゃんはどうする?」
由梨香に話を振る。
「私は……」
とても複雑な顔で恭司の方を見て、それからエシスの方に向き直して、
「貴方の目的は私と遊べればいいの?」
「お姉ちゃんが勝負してくれるなら、それでいいけど」
「そう、分かったわ。だったら勝負方法を考えるわ、まさかこの場で力を使う訳にも行かないでしょ?」
「つまらない勝負方法だったら嫌だからね」
「――あの、先輩」
すると、十月が前に出て由梨香の肩を叩いた。
「勝負ならいい方法がありますけど」
「え?」
「この先でケーキが食べ放題のお店があります。そこでどれだけケーキが食べられるかを勝負するのはどうですか?」
「ケ、ケーキですか」
軽く驚いたような、また呆れたような顔をする。
「平和的で良いと思いませんか?」
「私は構いませんが……」
エシスの方に視線を向ける。
「ん? 私も別にいいわよ。ケーキ好きだし」
「そういうことなら、ケーキ勝負で良いですね、お店はこっちです」
十月が仕切って歩き出そうとする。
事情を知る恭司から見ると、とんでもない剛胆だったが、知らずにやっているのだから何も言えない。
唖然とする恭司に、
「どうしたの?」
「いや、じゃ行こうか」
恭司は由梨香の方を少し見て答えた。
「先輩も、そこの子もついて来てくださいね」
十月が『そこの子』の部分のアクセントを変えてエシスに敵意を向ける。
「はい」
「私はエシス・カリア・リムシィートよ」
「そうですか、私は二石十月です」
一応名乗り返す。
「別に名前なんて覚える気はないから、どうでもいいわ。――それより、お姉ちゃん私が勝負に勝ったら、お願いを一つ聞いてもらうから」
十月のことを軽くあしらって由梨香に話を振る。あくまで興味があるのは由梨香だけという態度。
「ええ、構いません。でも、それは私も同じ条件ということで」
「ふーん、お姉ちゃんにも私にお願いがあるんだ?」
「それは私が勝ったらお話します」
「ふーん。まぁ、いいけど。――じゃ、そこの子、案内してね」
「私は二石十月です」
「だから、名前を覚える気はないって言ったでしょ?」
どうして理解出来ないの? という顔をする。
「……」
十月のこめかみがピクっと引きつる。
「二石」
恭司が小声で囁く。ここで十月が切れると、おそらく由梨香に大きな負担が掛かる事になる。
「その勝負、私も参加するから」
静かな声で宣言する。
「どうぞ、勝手にしたら?」
エシスが余裕たっぷりに笑う。
「それなら、とにかく、お店はこっちです」
十月が歩き出して、その後に三人が続く。
取り囲んでいた人の輪は自然と崩れて、四人は目的のお店へと向かった。
*
そのお店は、軽食の出る喫茶店とケーキ屋が融合したようなお店だった。
グルメサイトでケーキが美味しいと評判の店であり、また、ウェイトレスの制服が可愛く、一部愛好家にも有名なお店だった。
店内は基本的に清潔で落ち着いた雰囲気だったが、今日だけは一つのテーブルから発せられるオーラによってピリピリとした空気が漂い、店内の他のお客にま で伝染していた。それでも、そのテーブルに店員が何も言わないのは、そこに座る三人の少女が声を掛け辛い気迫を纏い、また、有り得ないレベルで高水準だと いうことも関係あるだろう。
現在のそのテーブルの近くには、男性が一人座っているだけで、他のお客は遠巻きに、その場の様子を伺っていた。
それは明らかに何かが起こる前兆であり、三人がオーダーの為にウェイトレスを呼んだ時から、それは始まった。
『ケーキ食べ放題Cコース、オーダー3つで』
それは、三人同時のオーダーだった。
*
オーダーを聞いて、おそらく一番ベテランのウェイトレスが恐る恐る三人が座るテーブルの元に来る。
「お客様、ご注文の確認です。食べ放題Cコース、スリーオーダーで宜しいでしょうか?」
注文の復唱は、場の雰囲気に飲まれることなくしっかりしたものだった。
やや腰は退けていたが、流石にプロという感じだ。
「うん」
十月が他の二人の了解を取らずに返事をする。
Cコースとは、五千円で店内全てのケーキが食べ放題になる高額コースで、他のコースとは別格のコースだった。ちなみにAコースとBコースは三千円で食べ られるケーキの種類にそれぞれ別の制限があるコースだったが、それでも、普通はコース内の全ての種類のケーキを制覇するのがやっとのレベルだった。
店では細かく三十種類のケーキがあり、それをわざわざ五千円も出して全部一度に食べようと考えるお客は稀だった。
「本当にCコースで三つで構いませんね?」
稀な注文であるため念押しの確認を取る。
「問題ありません」
今度は由梨香が静かな声で答えた。
「分かりました。それではコース説明を」
「あ、いいです、分かっていますから」
十月がウェイトレスの言葉を遮り、
「それより、少し私達の勝負に協力してくれますか? 多分、お店のケーキの大半が消えてしまうと思うので」
「は、はぁ」
「じゃ、こちらケーキを取りに行きますので、後はお願いします」
ウェイトレスを十月が下がらせた。ウェイトレスはそのまま店長と思われる人物の所に報告に向かった。
店内に困惑の空気が流れる。
三人の少女だけで、お店のケーキを平らげると宣言したのだから当然だろう。
「じゃ、二人ともコースの説明はいいよね、次はルールの説明」
「何、あんたが仕切っているのよ?」
「エシス、ここは十月さんが詳しい様子ですから」
目くじらを立てるエシスを由梨香がなだめる。
「ルールは簡単。ケーキワンカットは、種類に関わらず大体同じ大きさだから、それをどれでも十個頼んでトレーに乗せてもらう。そして、食べ終わったら、そ のトレーを置いて、新しいトレーでまた十個頼む。最終的にトレーを積み重ねて、一番積んだ人が勝ち、これでどうかな?」
十月の口調はやや興奮していて、由梨香への敬語も抜けていた。
「十個が最低単位ってことね、けど、あんた、そんなに食べられるの? 一トレーでギブとか笑えないから止めてよね」
エシスが十月の普通の女の子としての限界を的確に考えて言う。
このお店での十個という個数は、ワンホールと同じくらいの量になる。
「十個なんて全然、大丈夫、そっちこそ、私より小さいんだから大丈夫なの?」
十月が胸を張って言う。エシスの見た目は十月より小さかった。
「大丈夫も何も、数の内に入らないわ」
「それは戦い甲斐がありそうね。――先輩も行けますよね?」
由梨香にも確認をする。
「はい、まぁ、それなりには」
由梨香が控えめに同意した。
「OK、それなら注文は各自自由に、好きな十個頼んでも、バラバラに頼んでもその辺は作戦という事で」
「フン、分かったわ」
「はい、了解です」
「じゃ、ウェイトレスさん、私はガトーショコラを十個、お願いします」
「私は苺ショートを十個で」
十月とエシスがメニューを見ずに即座に注文した。
「私はチーズケーキを五個と、このカスタード&モンブランというケーキを五個お願いします」
由梨香はメニューを見て、半分は店オリジナルのケーキを注文した。
「はい、かしこまりました。それで、お飲物はいかがなさいますか?」
ウェイトレスがある意味、お決まりの台詞を反射的に返す。
「いちいち頼んでいる暇ないと思うから、水差しを一個をそのまま持ってきてください。――あ、そうだ、恭司君が何か飲むなら」
十月が思い出したように恭司に振る。
三人のテーブルに近い位置で座るただ一人の男性客だった。
「あ、僕は、じゃ、ブレンドコーヒーで」
「はい。かしこまりました。――それではごゆっくり」
ウェイトレスが下がる。
最初のオーダーが届くまで、テーブルの上には水の入ったコップが四つと、紙ナプキンがあるだけだ。
「ところで、私に勝てると思ってるの?」
エシスが十月を軽く睨む。
「負けるとは思ってないけど」
「あっそ、けど、そもそも何で私達の勝負に割り込んで来たの?」
「私達のデートを邪魔しておいて、その言い方?」
「デートね……」
エシスが由梨香に視線を送る。由梨香は無反応だった。
「とにかく私が勝った場合、二人は帰って」
「勝つ気なの? まぁ、いいけど」
「あの……二石さん、その少し誤解がありませんか? 私は別にお二人の邪魔をしようと思って出て来た訳ではありません」
由梨香が困った顔をする。
詳しい事情を話せない難しさが表情に滲んでいた。
「誤解も何も、先輩、この最近恭司君とべったりだよね? 一緒学校にも来ているし、それでこの状況で私が何か致命的な誤解をしていると言えるの?」
ため口で十月が勢い込む。
やっぱり相当に怒っているのだと、恭司は改めて思った。
「それは……」
全てを話せない以上、十月が納得する説明は誰にも出来ないだろう。
「ほら、何も言い返せないという事は、先輩も恭司君が狙いなんでしょ?」
「――狙いという点では否定しません」
一瞬の間の後に由梨香は認めた。
それを恭司の前で否定することは、彼女の『無垢なる物』としての自我に関わるレベルの話だった。
マスターはどんな時でも絶対であり、それに嘘偽りは挟むことが出来ないのだ。
「認めるって事ね?」
厳しい口調で問いただす。
「決してデートの邪魔をしようと思った訳ではありませんが……結果的に邪魔してしまっていることは認めます」
「そんな遠回しな答え方で納得出来ると?」
「…………」
由梨香が本当に困った顔でエシスの方を少しだけ見た。
エシスはその視線にすぐに気付いて、
「なに? 私のせい? 私がデートを邪魔したというの?」
「そうね、そもそも、何で私達に話し掛けて来たの? 先輩に用事なら先輩の家にでも行けばいいじゃない?」
「分かってないわね。私がお姉ちゃんに近付くのは簡単じゃないの、今回はガードの低いところを突いただけ」
「え……?」
十月が良く分からないという顔をする。
「エシス、今、その事は」
「いいでしょ? 別にこれくらい、それとも今度は電話したら会ってくれる?」
「そういう訳には行きません」
エシスと由梨香の関係はとても長く、現在、エシスのマスターがクレイドル側ということで、複雑になっていた。
ただ一つ言えるのは、エシスが由梨香を好きなことであり、好き過ぎて悪戯したいというような精神状態にあることだった。
「――あの、お客様」
と、横からウェイトレスの声がした。
見ると両手にトレーを持ち、その上のお皿にはケーキが山と載っていた。
「まず、ガトーショコラとチーズケーキになります。残りは、この後すぐにお持ちいたします」
「来たわね」
途端にエシスの顔が引き締まる。
「なら、話は後にして勝負よ」
十月が腕まくりする。
「――あまり得意な分野ではありませんが、お受けします」
由梨香がチーズケーキを一つ自分の取り皿に乗せた。
そして、ウェイトレスがテーブルにガトーショコラとチーズケーキを置き、一度消え、すぐにマロン&カスタードと苺ショートとコーヒーを持って戻ってくる。
「全員分揃ったね」
「それでは恭司さん、一応審判をお願いしますね」
由梨香が恭司の方を見る。
「あ、ああ」
どんな戦いになるのか、恐ろしく思いつつ恭司は頷いた。
「じゃ、勝負スタート」
十月の声と共に三者が一斉にケーキに手を付ける。
最初に人目を引く動きを見せたのはエシスだった。
おもむろに苺ショートを、その手で掴みバクバクと囓り付いた。
一個が六秒程度で口の中に消えてしまう。
つまり、計算上ロスが無ければ、十個一分の早さである。
しかし他の二人も負けてはいなかった。
まず、十月はフォークをガトーショコラに突き刺して持ち上げ、そのままガブリと喰らい付き一個を二口で食べてしまう。
そして、由梨香はフォークで切り分けてから、口に運んでいるものの、その早さが尋常ではなく一個が十秒でお皿の上から消えていった。
単純な速度ならエシスが一番早いが、口に詰めてから飲み込むまでに数秒掛かるため、結局は他の二人と同じぐらいの早さになる。
戦いは互角といえた。
その凄まじい食べっ振りに、野次馬客から徐々に言葉が無くなり、ただ驚嘆の眼差しを場に向けるようになる。
その中で恭司は特に十月に対して驚いていた。
人ではない由梨香とエシスの異常さは分かる。しかし、十月までもが人間離れした速度でケーキを平らげていく様子には目を見張った。
十月は自分が挑んだ相手が人でないことを知らない、今のスピードは意地によるスタートダッシュ的なものだろう。となると、いずれ限界が来てしまう。
その時、どうフォローするべきか――。
いっそ、由梨香とエシスを残して、二人だけで店を出てしまうのも良いかも知れないと考える、由梨香には悪いが、こうなってしまった以上、由梨香に気を使う理由は無い気がした。
そして、三人がほぼ同時に最初の十個を食べ終わる。
観客は皆拍手をしたい気持ちになったが、その隙を十月達は与えなかった。
「ウェイトレスさん、ショコラさらに十個っ!」
「苺ショートを今、店にあるだけを十個ずつ全部出してっ!」
「アップルタルトと苺のミルフィーユを出来る限り多めに五個ずつお願いします」
三人の注文は食べ終わるのと同時だった。
「は、はいっ、ただいま」
ウェイトレスが上擦った口調で答え、カウンターの奧に消える。
この時点で店の品出しのペースは十月達のものになった。むしろ、他のお客からのオーダーが途絶える。
新しくお客が入って来ても、野次馬の誰かが事情を説明する状況が生まれていた。
「……」
次のケーキが出て来るまでの間、テーブルの上に微妙な沈黙が降りる。
「……あの、二石さん」
由梨香が最初に口を開く。
耐え切れなった様子だった。
「なに?」
口の周りに付いたチョコを紙ナプキンで拭きながら答える。
「――無理してませんか?」
「え、別に全然平気だけど、――先輩こそ無理してない?」
「私は……特別には」
「なら、二人とも平気って事で問題ないと思うけど」
「それなら良いのですが……」
由梨香は言ってエシスの様子を伺うように視線を向けた。
「――なによ? 何か用事?」
エシスは水をストローで啜っていた口を離して答えた。
「いえ、ただ、随分と豪快な食べ方だと思って」
「悪い?」
「特には、けど、勝負には勝たせて戴きます」
「随分な自信ね」
「何とでも言ってください。勝てば全てですから」
「なっ、言ったわねっ、もう絶対勝つ!」
エシスが拳を握りしめる。
由梨香はそんなエシスを涼しい瞳で見つめた。彼女の中での敵はエシス一人だった。十月の事は心配だが、それだけで勝負に関係して来るとは全く考えていなかった。
「――あの、お客様。よろしいですか?」
と、さっきのウェイトレスが両手にトレーを載せて戻ってくる。
「注文が多いため、御三人さまの注文を段階的にお運びして宜しいでしょうか?」
見ると、トレーにはガトーショコラと苺ショートとアップルタルトが五つずつお皿に乗っていた。
「構わないです。けど、誰かのケーキが途切れそうになったらすぐに持ってきてください」
十月が答えてケーキの乗ったお皿をトレーから降ろし、由梨香とエシスの前に並べる。
「この段階でルールちょっと変更、小皿を各自残したトレーに溜めるで良い?」
お店側の都合も考えた様子で言う。
「いいわよ」
「はい」
「なら、それで」
「あの、では御注文は先程の物を続けてお持ちすれば宜しいでしょうか?」
「はい、私はいいです。――ただ先輩は?」
「え、私ですか?」
「そう、だって、先輩だけ注文バラバラでしょ」
「あ、はい――そうですね、では、私はメニューの端から、五つずつオーダーという形でお願いします」
由梨香がウェイトレスに頭を下げる。
「かしこまりました。――では、そちらのお客様は?」
ウェイトレスが残りのエシスにも聞く。
「私も一緒で構わないわ、けど、もし作り置きが切れたら、ある物を適当に持ってきて。作ってる時間は無いと思うから」
エシスの言葉はどこか攻撃的で、ウェイトレスは身を縮ませる。
「は、はい、では、続けてご注文をお持ちいたします」
ウェイトレスが下がる。
「じゃ、ここからが本番だからね」
十月が二人を見て言う。
「はい」
「いいから早く」
エシスはすでにケーキを掴んで臨戦態勢だ。
「焦らないで。――じゃ、行くよ、スタートっ」
十月の声と共に第二ラウンドが始まった。
これまでのペースが維持されるとするなら、五個二分あれば余裕のはずだ。
そして、その予測は的中し、三人とも最初の十個と全く変わらないペースでケーキを平らげ、結局、一分強で次の注文がテーブルの上に並んだ。
観客の驚きが一定値を越えてしまう、中にはテレビの企画を疑いカメラを捜す者まで現れた。
三人の容姿も相まって店内は完璧に三人の為のイベント状態だった。
だが、当の三人は、そんな騒ぎには目もくれず、ひたすら黙々と食べる。
追加の五個を全員があっさりと食べ終え、さらにそれぞれ五個が並ぶ。この時点で二十個食べていることを考えると全員化け物だった。
そして、そのまま次の五個を食べても、三人の顔には未だ苦しさは見られなかった。
恭司は思う。
十月は手品でも使っているのではないか?
とても普通の女の子のお腹の中に入る量ではない。仮に入ったとしても、もっと時間が掛かるだろう。ただ、手品では無いことはおそらく確かで、そう考えると十月の事が心配になってたまらなかった。
後で吐いたりお腹を壊したりする可能性が高い、そうなる前に強制的に止めるべきかも知れない。もし、十月が少しでも苦しそうな顔をしたら頃合だ。
そこで止めなかったらきっと後悔する。 恭司は勝負に割り込むタイミングを決めた。
そして、各自、次の五個がテーブルに並ぶ。
三人は脇目も振らず、その五個に手を伸ばした。そこから先の戦いは、すでに普通の女の子の領域ではなかった。
合計三十個目は、やっぱりというか予想通りに一分強の時間で食べ尽くされ、三十五個目、四十個目と、そのペースが続いた。
観客の見る目が驚愕から戦慄へと変わる。
数人の観客が気分が悪くなった様子で退席した。
確かに見ている方がヤバイ気持ちになる状況だった。
三人ですでに百二十個のケーキを食べている、店のストックも種類によっては切れそうだ。
そして、一人につき五十個目を食べ終えようという時、観客の一人が手で口を押さえてトイレに駆け込む。
もう見ているだけで吐いてしまうくらい危険な戦い。
三人は百五十個のケーキを二十分未満で食べ尽くしていた。なのに、相変わらず苦しい顔一つ見せない。
『化け物か……』
『怖い……』
そんな呟きが、観客の中から漏れた。
「二石っ、もうヤメロっ!」
恭司がテーブルから立ち上がる、もう限界だった。
苦しい顔はしていないが、一人五十個は有り得ない、このままでは十月がどうにかなってしまう。
「え」
「いいからっ」
十月の手を引いてテーブルから立たせる。
「な、なに!? まだ勝負の途中だよ」
「馬鹿っ! 無理し過ぎだっ。この二人に付き合う必要なんてないから、行くぞ」
「え、え、な、何、恭司君、ちょっ待って――」
十月が何か言うより先に、恭司が十月の腕を引っ張って出口に向かう。
「恭司さんっ」
由梨香の呼ぶ声を恭司は無視した。
そのまま入り口のレジに行き、カウンターに一万円を叩き付ける。
迷惑料込みのつもりだった。
「僕達は帰りますから、おつりは要りません」
「ち、ちょっと、恭司君」
十月がごねたが、無理やり腕を引いて店を出る。
外には中の様子を伺う人集りが出来ていたが、それをかき分けて恭司は進んだ。
十月の手を握ったまま歩き、臨海公園の方に向かう。
その頃には二人を注目する人間はいなくなっていた。
「――もう、恭司君、離してよ!」
公園の敷地に入ったタイミングで、十月が恭司の手を振り解く。
辺りに人影はまばらで、海からの風が微かに湿っている事が感じられた。
「一体、何のつもり、まだ勝負は途中だったでしょ」
十月は恭司から距離を取り彼を睨んだ。
「何のつもりって……あんなに喰って、大丈夫な訳ないだろ。絶対に身体を壊すぞ」
恭司も十月を睨み返す。
「そんなの私の勝手でしょ。それにあれくらいなら、全然、平気よ」
「平気な訳あるか、とりあえず吐けるだけ、そこのトイレで吐け。じゃないと、明日腹壊すぞ」
視界の先にあった公衆トレイを指差す。
「言われて吐けるはずないでしょ。平気なのっ!」
十月は身を乗り出すようにして、強い口調で言い切った。
確かにこれだけ元気があって、苦しいのを我慢している様子には見えなかった。
恭司は少し落ち着いて、
「……分かった、なら、とりあえず座って休憩だ」
公園の奧に見えるベンチを指差す、ベンチの向こうには海が見えた。
「……うん」
十月は納得の行かない顔をしつつ頷いた。
ベンチまで移動して二人で一緒に腰掛ける。
視界に海が開けた。
十三時過ぎの光が水面を眩しいくらいに照らす。
「……本当に平気なのか?」
恭司は隣を見ずに聞いた。
視界の先の海を貨物船が過ぎって行く。
「平気だって言ってるでしょ」
「……分かった。ならいい」
「良くないっ、勝負はどうしてくれるの!?」
十月が恭司の方を向いて叫ぶように言う。
「別に勝つ必要はなかっただろっ!」
思わず恭司も言い返す。
「どうして?」
十月が即座に問い返す。
恭司は少し言い淀み、
「それは……結果的に、今は、僕達の事を邪魔する人は、いないだろ?」
「……え……あっ……」
十月が思わず言葉を詰まらせる。
今が二人きりだとという事をやっと認識した様子だった。
心地の良い海風が吹き、十月の熱が冷まされて行く。
…………。
そして、また海風が吹き、それに合わせて恭司がポツリと口を開いた。
「先輩は実は朝から僕達をつけていたんだ。二石は気付かなかったと思うけど」
「――そうなんだ。気付かなかった」
答える十月の声は完全に落ち着いていた。
「それで、先輩が僕達をつけていた事には理由があるんだけど、それを言うことは出来ないんだ、すまない」
「う、ううん――でも、先輩と恭司君って……どういう関係なの?」
十月の声には躊躇いの色があった。
「それも本当の事は先輩と一緒の時しか言えない、ただ、少なくても恋人とか、そういう関係じゃない」
恭司はきっぱり言った。この一点だけは十月に対して分かってもらいたい部分。
「つまり、どんな関係か詳しくは秘密って事?」
「そうなる」
「先輩、恭司君のこと、マスターとか呼んでたよね?」
「うっ」
確かに呼んでいたが、十月が気付いているとは思っていなかった。
「まさか『メイドとご主人様』とか、そんな関係じゃないよね?」
疑っているというより、恭司が否定してくれるのを信じている口調だった。
故に恭司は答えられなかった。
事実、それは本当の事だとも言えたから。
だからと言って答えなければ、怪しまれる事は分かっていた。
「……ごめん」
結局、謝る以外の言葉は見つからなかった。
「謝るって事は……本当に、そうなの?」
十月が眉をひそめ、退き気味の感じになる。
「いや、多分、二石が思っているのとは、かなり違う……と思う」
実際、どこまで『メイドとご主人様』の関係かと言われると、由梨香が一方的なだけであって、恭司としては由梨香をメイドだとは思っていなかった。
「『と思う』ってなに? 先輩ってそんな趣味の人なの?」
「先輩の趣味は分からないけど、僕は違う。でも、詳しいことを説明出来ない複雑な関係だという事は分かって欲しい」
「そんなこと言われても……」
十月は呆れた顔で言葉を無くす。
「ごめん、僕も訳が分からない事を言ってると思う。――けど、先輩の事は考えないで一つだけ分かって欲しい」
恭司は言葉に力を込めた。
いま言わなければ、この先聞いて貰うことが出来なくなる言葉。
その言葉を本心から言おうと思った。
「……なに?」
十月が探るよな目で恭司を見つめる。
「……」
声が震えそうになった。
短い沈黙。
そして、
「……僕は、二石の事が好きだ」
ゆっくりと言って十月を見つめ返す。
十月は、すぐに視線をそらした。
「そういうこと……言うんだ」
それが十月の感想だった。
「え」
恭司の予想していた、どの感想とも違った。
「『好き』っていえば、この場が収まると思ったの?」
「――そ、それは」
そのつもりは無かった。
ただ、言うべき時が、今しかないと思っただけだった。しかし、結果的に場を納めようとしたと、取られても仕方ない発言でもあった。
「なら、私も言うね」
十月はうろたえる恭司を無視して続ける。
「私も恭司君のことが好きだよ。すごく気に入ってる。けど、いきなり『好き』って言って、話をリセットするようなことする人は嫌い」
「違う、別にそんなつもりで」
「じゃ、どんなつもりっ!?」
「――っ」
十月の声は震えていた。その怒りを理解して恭司は反省するしかなかった。
「何か言ってよ? 先輩との事が説明出来ないから私に告白? それって、つまり先輩とそういう仲だって、言っているようなものでしょ?」
十月の言うことは多少飛躍していたが、勢いも手伝い筋が通っているようにも聞こえた。
「……く」
何も言えないまま恭司は拳を握りしめた。
十月に対して失礼なことをしたのは事実。
「恭司君が先輩を好きでも構わないよ。でも、それを誤魔化して、私のことも好きって言うのは、嫌。――もし、二股掛けるつもりなら、嘘を吐かずにやってっ!」
十月が猛烈に啖呵を切るような勢いで言う。
言われて、恭司は自分が由梨香を好きなのか、真剣に考える。
その上で答えは一つだった。
ベンチから立ち上がり、
「僕は二石の事だけが好きなんだっ、それに嘘はないっ!」
「じゃ、先輩の態度は何? 少なくても恭司君が嫌いって言って突き放した後の態度じゃないよね?」
「それは――」
「『それは』って言わないでよっ。また言い訳するのっ」
十月が叫ぶ。
恭司は反射的に怒鳴りたい感情を抑えて拳をさらに強く握り、一度深く息をした。
「どうしても言えないことなんだ、先輩とは……好きとかそう言うのじゃなくて」
言って奥歯を噛みしめる。
十月と由梨香のどちらも裏切れなかった。
その上での精一杯の『言い訳』だった。
「なら、私も好きだという気持ちが本気かどうか分からないよ。今のままじゃ都合いい誤魔化しの言葉でしょっ……!」
十月が言い放ち、俯いてしまう。
恭司はそんな十月を見下ろす体勢になる。
「……」
項垂れる十月に対して、何を言っていいのか分からなかった。
だが、このまま無言ではいられなかった。
何を言えば十月を納得させられるのか、十月に気持ちを伝えられるのか。
堂々巡りする思考の中から、答えを探す。
「……二石」
かすれそうになる声で言った。
言葉を続けようとする。
頭の片隅で、どんな事を言っても無駄だという声がした。
しかし、言わなくてはいけない。
身体に力が入る、気を抜くと膝が崩れそうだった。
訳が分からないくらいに緊張する。
それでも、言わなくてならない。
「二石」
もう一度、枯れかけた声で言った。
「もう一度言う、僕は二石十月の事が好きだ。その気持ちには嘘はない」
俯く十月に向かって一気に言った。
言葉を選ぶ余裕はなかった。
それに、どんな言葉に置き換えたとしても、結局言うことは同じなのだ。
頭の中には、どれだけ思考しても、その意味の言葉しか浮かばなかった。
だったら一番簡単な言葉で言った方が、十月に伝わる気がした。
「……」
無言で十月の反応を待つ。
十月が俯いたまま、二人の間にまた海風が吹く。
そして、
「……」
ふと、呟きが聞こえた気がした。
「え?」
「バカ」
「――え」
「だから、バカって言ったの」
「ど、どういう……」
なぜ『バカ』なのか分からなかった。
「バカだから、バカなの」
十月が顔を上げた。
その顔は笑っていた。
そして、続ける。
「分かった。――いいよ、信じてあげる」
「え」
「恭司君が私を好きなことを。――私も恭司君のことが好きだから、いきなり両想いだね」
「り、両想い……」
恭司は事態の変化に付いて行けなかった。
自分の本心が十月に伝わったのだろうか?
その想像は都合良すぎやしないか?
けど、だとしたら、今の十月の態度は?
疑問だらけだった。
「何か問題でもあるの?」
十月がベンチから腰を浮かせて、恭司に顔を近付けた。
「そういう訳じゃないけど」
「それなら……いいよね。目を瞑って」
「え?」
「いいから、目を瞑って」
恭司は言われるままに、あまり考えずに目を閉じた。
!
閉じた瞬間。
唇に柔らかな感触を感じた。
驚きの声が上がりそうになったが、口を塞がれ声は頭の中だけで響いた。
柔らかいものは十月の唇だった。
目を開けて確認するまでもない、間違いなく十月の甘い唇だった。
やがて、唇が離れる。
目を開いた。
「――これが、私が恭司君を好きだっていう証明だよ」
十月の顔が少しだけ赤い。
「……」
恭司は心の奥が熱くなった。
一言では言い表せない気持ちが迫り上がってくる。
それは締め付けられるように苦しいのに不快ではなく、それでいてとてもそわそわしたような複雑な気持ちだった。
「二石」
呟いた時、意識の中から余計な物が消え、ただ十月の事が好きだと思った。
そして、恭司は十月を抱きしめた。
「恭司君……」
十月は少しだけ驚いた顔をしたが、抵抗する事はなかった。
そのまま恭司の腕に抱かれる。
恭司は十月を離したくないと思った。
ずっと一緒にいたい。
そんな想いが心の大半を占拠した。
腕の中の十月の暖かみが心地良かった。
もっと強くその暖かみを感じていたいと思う。
「……た、恭司君、少し痛いよ」
十月が身もだえした。
「あ――ご、ごめん」
恭司は知らずに力を強めていた腕を放した。
「う、ううん。別に平気だから」
十月が微笑む。
「――それより、恭司君の唇は、篠崎先輩の匂いがしたかも」
そして、冗談めいた口調で続けた。
恭司は、それこそ絵に描いたように狼狽してしまう。
「え、ええっと……そ、それは……」
「ふふ、恭司君は素直だね、こんなのに引っ掛かるなんて、でも、好きじゃない相手と、どうしてキスした事があるの?」
十月の顔は怒ってはいなかった。
ただ、言葉とは裏腹に笑ってもいなかった。
「ごめん、それも言えない。でも、今みたいなキスじゃなかった」
自分の中でのファーストキスは、今のこのキスだと恭司は思っていた。
「本当によっぽどの事情があるんだね」
恭司の答えを聞いて諦めたような顔になる。
「ごめん、話せば二石を巻き込むから」
それが答えられる限界の答えだった。
「わかった。――じゃ、デートの続きしよう」
トンっと恭司から離れて、軽く弾むようにステップしてから恭司に手を差し伸ばす。
「あ、ああ」
頷きながら恭司はその手を取り、ややぎこちなく握り返した。
十月は一応、恭司の答えに納得した様子だった。
「じゃ、一度街に戻って、お店とか見てまわろうよ」
十月が恭司をリードする。
春の日射しが、その場と二人を包む。
この瞬間だけでも、恭司は自分が生まれて来た価値があると思える出来事だった。
7
薄暗く無機質な機械が並ぶ部屋の奥で、エメラルドグリーンの光が灯り、部屋の中が淡い緑の色に包まれる。
だが、光が届くのは部屋の一部だけで、部屋全体の薄暗さが払われた訳ではない。
光が照らす事によって影は強くなり、薄闇の中に漆黒の闇を意識させた。
その漆黒の闇の中から、黒衣の男が現れる。
キッチリと着込んだ黒のスーツ――礼服といってもおかしくない作りだった。
男は緑色の光が満ちた場へと足を進めた。
そこには、ガラスで出来た巨大な筒があった。
光は筒の中から発せられている。
筒の中は何も見えない。覗こうとしても光が強く、まるで緑色の蛍光灯を見ているように内部を透かす事が出来ないのだ。
そして、筒の上部には用途不明な機械が付属しており、その機械からは天井に向かって幾つものケーブルが伸びていた。
「――具合は?」
男がガラス筒に向かって言う。
『平気』
やや籠もった声が筒上部の機械から聞こえた。
スピーカーを通した声だった。
「では、始める」
『うん』
スピーカーから返事を受けて、男がガラス筒の前で両手をまるでピアノを弾く時のように揃える。
すると、何も無かった空間にレーザー光によるキーボードが浮かび上がった。
男がキーボードを操作する。
「持てる限りの技術をお前に注ぎ込む。これで次は負ける事はないはずだ。最強という名をお前が冠する日が来ることになる」
キー操作をしながら、男が語る。
「最強を有する事が私の目標。お前はその期待に答えてくるかい?」
『ご主人様が望むなら、私は何でもするから』
「ありがとう。ならば、私は私の出来る事をするだけだ」
男がキーの操作を続ける。
『――あ、そういえば、レーナお姉ちゃんから伝言があったんだった』
スピーカーが鳴る。
「……レーナから?」
男の手が止まる。
『この前、遊びに行った時にね。――今度はこちらから参ります。だって』
「それは随分と威勢がいい話だな。レーナらしくない」
『マスターを得て自信を付けたという事かな? この前の勝負にも結局負けたし』
「外野から邪魔が入ったと聞いているが?」
『そうだけど、お姉ちゃんの強さは多分ここ数百年では一番だよ』
「それを超える調整をするまでだ」
『……そうなんだけど……まぁ、いいか。――じゃ、ご主人様続けて』
「そうだな」
男の止まっていた手が再び動き、打ち込みがしばらく続く。
そして、男がふいに手を止める。
「一度、エーテルの量を下げる」
『どうかした?』
「翼の出来具合を目で確認する。機能重視だけという訳には行かないからな」
『分かったわ』
その返事と共に緑色に発光していたガラスの筒が発光量を減らし、筒の中が視認可能になる。
そこには、沢山のコードが繋がれた裸のエシスが浮かんでいた。
コードはエシスの背骨に当たる部分に皮膚を突き破って潜り込んでおり、また、腹部は皮膚が裂け、小さな黄色い宝石が露出していた。
その石を取り囲むように機械的な構造があり内臓のようなものは見えない。
さらに黄色い石を観察すると、その表面に細かい文字のようなものがびっしりと浮かび、それは発光点滅を繰り返し、まるでエシスの鼓動のように見えた。
そして、コードの刺さっている背中には、翼が折り畳まれた状態で出現していた。
翼は滑らかな曲線を描く細かい金属のパーツが芯となり、そこに薄い石の板が、羽の一枚一枚として張り付き全体を構築していた。
それは芸術的といえる構築物だった。
「――いい出来だ」
『お姉ちゃんの翼より綺麗かな』
「現時点で私が知る限りでは最上の翼だ」
『ありがとう。ご主人様』
筒の中でエシスが微笑んだ。
それに合わせてお腹の宝石の輝きが増したような気がした。
「――では、作業に戻ろう。この出来なら問題ない」
『はい』
再びガラスの筒が緑色に強く光り、筒の上の機械が起動し鈍い音を響かせた。
そして、後には男が作業を続ける音と、得体の知れない機械の音だけが残り、その音は部屋の闇に染み込んで行った。
*
恭司と十月が去った後の店内は騒然としていた。
「仕方ありませんね、このままでは目立ち過ぎます。――広範囲記憶操作、状況リセット」
由梨香が席から立ち上がって、その背中に光から機械の翼を作り出した。突然のことに、店内に居たお客数十人が呆然となる。
が、次の瞬間、まるで由梨香達が最初からその場に居なかったような態度を取る。 各々が普通に自分のテーブルに戻り、由梨香達が来る前にやっていた動作の続きを開始した。
それは店の外の人だかりにも伝染して、全ての人間の行動が正常に戻る。
「――処理完了。エシス、勝負はどうしますか?」
「ここまで来たら止められないでしょ?」
不敵に笑う。
「分かりました。では――外に出ましょう、数百年振りで少し本気で相手をしてあげます」
そう答えた由梨香の顔はどこか怒っているようにも見えた。
「そういう展開を待っていたんだよねー、じゃ、私も本気で行くから」
エシスもその背中に金属の翼を出現させた。
二人の会話は、すでに店内の誰も聞いてはいない。そのまま店の外に出て上空に飛翔する。
ショッピング街を眼下に、二人が十メートル程の距離で向き合う。
「一応、下方に注意でお願いします」
「それは分かっているし」
「では、参ります――我が身、写し身、その数、末広がり」
言葉と共に由梨香の姿がぶれて、そのぶれが左右に広がり計八人の由梨香がその場に現れる。
「その技、八人もいけたっけ?」
エシスが驚いた顔をする。
「ある程度、本気ですから」
八人の由梨香が同時に微笑み、手を振り上げて一斉にエシスに飛び掛かった。
エシスから見て上下左右全方向に散り、一定の距離でその手を振り下ろす。
すると、そこから真空の刃が高速で放たれた。
「――防壁形成」
エシスは自分の周りに球体状の光の防壁を張り巡らせ、それを弾いた。
「そんな防ぎ方では詰んでしまいますよ。――『アーグルの鳥籠』召喚、狭まれっ」
突如、光で出来た巨大な鳥籠が出現して、エシスを防壁ごと内側に閉じ込める。
鳥籠は出現と同時に縮小を始めてエシスの防壁を圧迫して行く。光で出来た物質同士が摩擦し火花を散らす。
「――鳥籠の鳥を射止める矢よ、我が手に」
八方に散った由梨香達の手に光が集まり弓と矢が構成された。
鳥籠が防壁を圧縮破壊した瞬間に、エシスを狙うつもりだった。
「捕まえてから射るとか、どんな趣味よ!? ――我の身のみ焼く事が無い炎よ、激しく爆ぜろっ!」
エシスの叫びと共に、防壁内の球空間が紅蓮の炎に満たされて、それを抑えていた鳥籠ごと爆発する。
吹き飛ばされた鳥籠の破片は光の粒となって消え去り、炎が収まるとその場に無傷のエシスが浮いていた。
「この程度では、流石に終わりにはならない様子ですね」
手にした弓と矢を消して言う。
「違うわっ!? 今のを押し切れば、お姉ちゃんが勝てたかも知れないのに、どうして手を抜くの!?」
「いえ、そのようなつもりは、次、行きます。――『リリュージのベル』召喚、奏でよっ」
八人の由梨香の手に光で出来たハンドベルが出現して一斉に澄んだ音を鳴らす。
その音は空間に細かい亀裂を作る音色。
エシスの周りでランダムに空間が裂け、裂けた空間に触れた部分が分断される。
背後に拡がる翼、服のあちこち、胴体の数カ所に亀裂が入り、細かい破片が飛び散った。
「ちっ! ――場よ、汝がもっとも長く記憶した『元』に復元せよっ!」
亀裂を全て修繕しないと前に進むだけで、身体が徐々に細切れにされてしまう状況だった。
「――打ち鳴らせ、響きは伝わり大きく裂けよっ」
エシスが空間の亀裂を修復する力を働かせ、逆に由梨香が亀裂をより拡げようとする。
せめぎ合いが一分程度続き、
「くっ!! もうっ、押し返せないっ!」
先にエシスが音を上げた。パキっと音が響き、ボディーの箇所箇所が細かい破片となって宙を舞う。古くなった粘土細工が表面から崩れるような感じだった。
「では、負けを認めますか?」
「そんな訳ないでしょっ!」
「そうですか、そうなると少々痛い目をみて貰うしかありませんね。――鳴り響け、破壊の音色」
八つのハンドベルで一つの曲を演奏する。
それは厳かな曲だったが、どこか不吉な印象もある曲だった。
その鐘の音が響くたびにエシスから脱落する破片が増えて行く。
「くっ、使うしかないわね、エーテルドライブ全開、デバイスサーキット起動、――光塵よ無数の剣と成りて降り注げ!」
エシスが背中の翼を大きく拡げて叫ぶ。開いた翼は亀裂に触れて細かく切り裂かれて行くが、粉々になるより先に突如出現した無数の光の剣が八人の由梨香に降り注ぐ。
「エシスっ!!? ――防壁多重展開っ!」
大量の剣は基本、由梨香達を狙ったが、その何割かは外れて地上に落下して行く。
由梨香は自分本体を守りつつ、その外れて落下する分を受け止めるシールドまで大量に展開した。
いくつもの光の板が空間に構成され、その表面で光の剣が弾けて消え、分身の方の七体は剣に貫かれると、そのまま剣ごと消え去った。
「流石に分身と空間亀裂とシールド、三つの同時展開は出来ないわよねっ!!」
翼を拡げたエシスが、その手に光の剣を握って由梨香に急接近する。
確かに由梨香がシールドを多量に展開したのと同時に、エシスの周りの空間亀裂は消え去っていた。
「エシス、人質を取るような戦い方は感心しません! ――『バレスアレアの天秤』召喚、速度よ傾けっ」
空中に一抱え程度の光の天秤が出現して、カクンと片方に傾く。
瞬間、由梨香の動きが超加速し、代わりにエシスの動きが著しく鈍化する。
突っ込んで来たエシスの剣撃を由梨香は上に逃げてかわし、空中でエシスの背後を取った。
「お仕置きですっ!!」
由梨香が鋭い目つきで叫ぶ。
「――『ラの破片』召喚、貫けっ!」
空中に人の背ほどの槍のような、ねじれた金属の棒のような、形容し難いいびつな物体が現れてエシスの背中を狙い放つ。
それは命中すればエシスを大破させるクラスの技であり、その上、鈍化したエシスには確実に避けられない一撃。
ガンッ!!!
「――っえ!」
放たれた槍状の物体がエシスの背中に突き刺さる直前、その攻撃ベクトルが音と共に発生した衝撃によって変えられ、エシスからそれた。
「なにっ!?」
由梨香は地上に向かう召喚物体を即座に分解して、周囲に探りを入れるが何の気配も感じない。
ただ、長距離から銃撃のような攻撃で矛先を変えられたのだと測出来た。
そして、由梨香の加速とエシスの遅緩が終わる。
「なんで、攻撃がそれて――!?」
エシスは遅くなった自分の動きの中で負けを覚悟していた。背中からコア周辺部を貫かれて大ダメージ――というパターンだ。
しかし、その攻撃が何故かそれていた。
「エシス、貴方に援軍が来る可能性を訪ねます、今の私の攻撃は外部から妨害されました」
全身にシールドを展開して由梨香が問う。自分が感知出来ない距離からエーテル構成物質を弾く遠距離攻撃が出来る相手が居るということは、どこからいつ攻撃を受けるか分からない状態だった。
「居ないわよ。それに私が援軍を頼むと思う?」
「ですよね――そうなると、これは前回貴方が襲われた時と同じだと推測します」
「またアレ? で、今回は私達の勝負を邪魔するってこと?」
「おそらく、未だ次の攻撃が来ないところをみると」
「何よ、それっ」
エシスが吐き捨てるように言う。
「……この勝負、続けない方が良いと思います」
外野から狙われている状態での勝負など有り得ないだろう。
「ううん、もう勝負は付いていたわ、さっきのお姉ちゃんの攻撃は喰らっていたから」
「そんな殊勝なことを言うのですか?」
「――別に、負けは負けだったという話、こっちから吹っ掛けたのだから、それくらい、わきまえているわよ」
視線を逸らしてボソボソと言う。
「そうですか」
人質を取るような攻撃をする相手だったが、完全に悪という訳でもない。
由梨香はエシスを大破するような攻撃を繰り出したことを内心反省する。
喫茶店でのことで自分の中で発生した苛立ちをぶつけてしまっていた。
「じゃ、お姉ちゃんの願い事はなに? 一つだけ聴いてあげるわ」
「はい、それは、貴方のマスターへの伝言です」
「そんな簡単なことで良いの?」
「ええ」
由梨香は頷いて、しとやかに笑った。
*
恭司は学校のトイレから出て廊下の左右を見渡した。
昼休みに入ってすぐにトイレに駆け込み、出て来たところだった。
トイレには用を足しに入った訳ではない。
十月のお昼の誘いをかわす事が目的だった。
デートから一週間半、恭司の昼休みは全く心休まる時間ではなくなっていた。
理由は毎日十月がお弁当を作ってくる事であり、その上、由梨香も同じく毎日お弁当を作るようになっていた。
そして、当然のことだが十月のお弁当は基本的には食べたくない。
ここ四回ほど断れずに食べたが全てチョコ味。
チョコとしての味に問題が無くても、そろそろ限界だった。
教室にずっと居れば確実に十月の誘いを受けることになってしまうため、この数日はずっと授業終了後にトイレに駆け込むパターンが続いていた。
十月も男子トイレまでは追って来ない。
「さて――」
トイレから出た恭司は一つの選択をしなければならなかった。
――廊下を右に行けば、十月がいる自分の教室
――廊下を左に行けば、由梨香がいる上級生クラスへの階段。
一応バランスを考えて、交互に向かうようにして来ていたが、やっぱりチョコ味はキツイ。
そして、交互に向かうのも相手に対して失礼な気がしていたし、向かわなかった相手に対する言い訳のネタが尽きていた。そろそろ何か対策を考えて実行しないとマズイ。
「よし」
恭司はある事を決めて、廊下を左へと向かった。
「今日は私の方に来てくれたのですか?」
教室の入り口から中を伺うと、由梨香が出て来て言った。
「先に先輩に確認しておきたい事があって」
「何でしょうか?」
「二石と一緒に三人で、昼食を食べる事は出来ないか?」
「……」
由梨香の顔があからさまに曇る。
十月とデートした日から由梨香は十月の話題を避けていた。気持ちは分かると恭司は思う。
完全に由梨香を無視する形で二石と店を出たのだから、由梨香の機嫌が悪くなるは当然だった。恭司に対する態度も微妙に冷たいし、特に十月の話題が出ることを嫌っていた。
「先輩の気持ちは分かるけど、このままじゃ、正直、良い方向に向かうとは思えない」
「では、二石さんを優先したらいかがですか?」
由梨香の十月の呼び方は、ここ数日『二石さん』になっていた。
「これ以上、先輩との仲を険悪にしたくない」
「別に何も変わっていないと思いますが、マスター」
由梨香が妙に他人行儀で言う。学校でマスターと呼ばれる事は恭司にとって気まずい。
「かなり関係が悪くなっている気がするけど、とにかく、僕と一緒に来て、二石と一緒にご飯を食べて欲しい」
「それは命令ですか? それならば従います」
「――命令だ」
迷ったが言うしかなかった。
由梨香の性格上、そう言わない限りテコでも動かないだろう。
それに教室の入り口で問答していても何も始まらない。
「分かりました――では従います。どこに行けばよろしいですか?」
「僕のクラスまで来て欲しい」
「はい」
恭司が歩き出すと由梨香がそれに従った。
階段を降りて廊下を進み、すぐに恭司のクラスの前に到着する。
「到着しましたが?」
少し嫌味のように機械的に言う。
「なら、ここで少し待っていて欲しい、二石を連れて来るから」
恭司だけが教室に入る。
十月は普通に座っていて、恭司の姿を見るとすぐに、
「あ、恭司君、どこに行っていたの?」
「いや、まぁ、ちょっと」
「そっか、それじゃ、お弁当食べに行こう?」
自分の席から巾着を二つ持って立ち上がり、笑顔で恭司の前までやって来る。
「それはいいんだけど……」
恭司が視線を送って、教室の外に立つ由梨香の方を見る。
十月も恭司の視線を追い掛けて、
「先輩……」
「こんにちは、二石さん」
由梨香が軽く会釈する。
「今日は三人で食べようと思うんだけど、どうかな?」
「それは……私は別に、いいけど」
十月の態度はそれほど硬化したものではない。
デートの日、恭司が十月を選んだ事で、十月自身にはアドバンテージによる余裕があるように見えた。
「私も問題ありませんよ」
命令には従うと答えた由梨香が拒否する事はない。
「なら、どこで食べますか? 私、シートを持って来ていますけど?」
それは中庭で食べるという事を意味していた。
「構いませんよ、今日は天気もよいですから、中庭で食べるには絶好かと」
由梨香の態度はややシニカルだったが普通の範囲だった。
その普通さの裏に隠されていることを考え、恭司は少し恐怖してしまう。
「じゃ、シート取って来ます」
十月が一度自分の座席に戻って鞄からシートを出して戻って来る。
「それじゃ、行きましょうか」
中庭には、すでに何人かの生徒が場所を取って昼食を開始していた。
大半が女子だけのグループでカップルは少ない。
「あの辺りでどうかな?」
十月がシートを敷くポイントを決める。少し木陰になった花壇の近くだった。
その場所に三角形の頂点配置で座る。
「じゃ、これ、お弁当です」
由梨香が持っていた巾着の一つを素速く恭司に渡した。
「先輩も用意していたんですね、――はい、恭司君、私の作ったお弁当だよ」
十月もお弁当を出して恭司に渡す。
二つのお弁当を前にして、恭司が取るべき行動は決まっていた。
「これは両方食べるけど、二人はさ、自分の分のお弁当を交換してみたらどうかな?」
何はともあれ、二人が仲良くなってくれないことには、どうにもならないと思っていた。仲良くさせるにはまず会話からであり、その話の種としてのお弁当交換を思い付いたのだった。
「交換ですか、私は構いませんよ」
由梨香が自分のお弁当を十月の方に向ける。
「あ、私もいいですよ」
十月も自分の膝の上にあったお弁当を由梨香に差し出した。
そして、二人がお弁当を交換する。
「先輩、開けていいですか?」
「はい、では、私も開けますね」
二人がほぼ同時にお弁当の蓋を開ける。見た目は二人とも互角の勝負だった。
由梨香は料理全般が得意だし、十月も見た目だけは完璧に整えることが出来た。
恭司はやや緊張しつつ状況を見守る、和やかな空気になってくれれば大成功だ。
また、図らずも、お弁当交換の話を持ち出した段階で、二人を同時に誘ったことの矛先を自分から逸らすことに成功していた。
「美味しそう」
十月が開けた由梨香のお弁当の中身は、ミニハンバーグがメインで、横にコーンとマカロニのサラダ。そういったオカズ類が弁当箱の半分で、残り半分にはハムレタスサンドが詰まっていた。
ハンバーグの汁が他に流れないようにシートを見えない位置に敷いてある辺りが手が込んでいる。
「じゃ、いただきます」
ミニハンバーグにプラフォークを刺して口に運ぶ。
「――どうですか?」
もぐもぐと口を動かす十月に聞く。
「はい、美味しいです。先輩も私のをどうぞ」
割とあっさりとした褒め言葉と共に自分のお弁当を由梨香に勧める。
その様子から、十月も由梨香に対して打ち解けてはいないと恭司は思った。考えてみれば当然の話ではあるが……。
「では、いただきます」
由梨香が十月のお弁当の中身に手を付ける。
内容はミニおにぎりが二つと鶏の唐揚げ、それから卵焼きとブロッコリーのサラダだ。見た目はそれ以上の食品には見えないものだったが、恭司はその味を想像してちょっと胸焼けしてしまう。
その内、由梨香は唐揚げを箸でつまんで口に運んだ。
思わず固唾を飲んで見守ってしまう。
そして、一噛みした由梨香の眉がピクっと僅かに動いた。
「これは……その、独創的な味ですね」
やっぱりチョコ味だったと推測出来た。
「そうですか? 美味しくないですか?」
「いえ、味は嫌いではないですが……」
恭司と同じような反応を見せる。
確かに味としては美味しいチョコレートであり、一口二口なら別段問題なく食べれてしまう。
その元の食材の食感や見た目を気にしない前提にはなるが……。
「これ、材料はチキンですよね?」
「はい」
「そう、ですか……」
由梨香が口に入れた分を飲み込み、恭司に視線を送った。
いつもこんな味なのですか? という視線の問いに恭司は軽く頷いて返す。
「何か、問題でもありましたか?」
「そういう事は特には――ところで、二石さんは料理を始めてどれくらいですか?」
「え、あ……そうですね、結構長いので、良く覚えてないです」
「そうですか……」
由梨香がとても微妙な表情を作る。
その表情の意味が、恭司にはとても良く分かった。
「まぁ、とにかく食べよう」
恭司は自らも十月のお弁当の中身に手を付けた。この場で食べないという選択は出来ない。
覚悟して食べれば弁当箱一杯分のチョコでしかない。
それに今日は、まともな味がする由梨香の分のお弁当もあった。
三人はややギクシャクした調子であったが昼食を食べ進めて、それぞれの弁当箱を片付けた。
そして、教室に戻る準備をする。昼休みは残り十分だ。
「あの……先輩?」
十月が躊躇いを含む声で呼びかけた。
「なんですか?」
「えっと……これからも恭司君のお弁当を作ってくるんですか?」
「はい」
由梨香がほぼ即答する。
「分かりました」
十月は一度頷いて、その後、少し勇気を使う感じで、
「けど、私も作ってくるつもりなので、一日に二個は要らないと思うんです」
「では、どうしますか?」
「あの、交代で、というのでは?」
「交代制……ですか?」
由梨香が恭司の顔を見る。
「僕は一日に二個あっても食べるけど、どうするかは二人で決めて欲しい」
「分かりました。では、交代でも構いません」
「それなら、それでお願いします、明日の分は言い出しの私からで良いですか?」
「ええ、お願いします」
二人の間で協定が成立する。これで恭司は昼休み毎に冷や冷やする事がなくなった。作戦としては成功だと言えた。
「じゃ、戻ろうか」
恭司が立ち上がり、十月がシートをたたんで三人で校舎に戻る。
由梨香が途中で『では』と階段を昇って三年の教室に向かい、恭司と十月の二人だけになる。
「ねえ?」
十月が恭司の背後から声を掛けた。
「先輩とは、本当に何もないの?」
「二石が思っているようなことはない」
聞かれても仕方ない質問だったし、そろそろ、何かの答えを十月に提示しないとマズイとは思っていた。
「けど、先輩は間違いなく恭司君のこと、好きだよ?」
それは恭司も分かっていることだった。その上で由梨香は一歩退いた立場をあくまで取っている。最近、十月に対してのことで絡むと言っても、本気でぶつかって来るようなことはない。
「恭司君は先輩になんて答えているの? 嫌いとは言っていないのでしょ?」
「それは……」
主人になると答えたとは、到底言える話ではなかった。
「それとも、先輩は、恭司君に告白してないとか?」
「それはある意味、正しい」
明確に好きだと告白されたことはなかった。ただ、明確な好意は感じている。
「そうなんだ……それは意外かも。それで、私と先輩の気持ち両方を知った上で、恭司君は、私を選んでくれたんだよね?」
「それは――」
面と向かって確認されると気恥ずかしい内容だった。顔が熱くなって来てしまう。
キーンコーンカーンコーン。
と、その時、昼休み終了のチャイムが鳴る。
「お、チャイムだ。――早く教室に戻らないと」
タイミングの良い予鈴に救われた。
「えっ、なにそれ、答えてよ」
「答えは二石に任せる」
恭司はやや逃げるように教室に向かった。
好きだと二度目で言うことは、やっぱり覚悟がないと出来ない。いきなり聞かれて答えられる言葉では無かった。
「もうっ、恭司君のズル! バカっ!!」
言った十月は、口調の割には怒っていない。
むしろ、状況を楽しんでいるような笑顔にも見えた。
と、その時、風が吹き廊下のポスターの端がめくり上がる、それは『廊下では静かに』のポスターだった。
*
次の日。
曜日的には木曜日。
十月が学校を休んだ、理由は不明。
恭司に対してメールも何もない、しかも、携帯の電源が落ちていて、こちら連絡する手段がない。
「……」
悪い予感しかしなかった。
恭司は一時間目が終わった段階で、すぐに由梨香の教室に向かった。
「あ、恭司さん、どうかなさいましたか?」
教室の入り口から中を覗いた段階で、すぐに由梨香が気付く。
「ちょっと話がある、二石のことだ」
「何かあったのですか?」
「ここじゃマズイ、屋上でいいか?」
次の授業をサボるつもりで言う。
「はい」
すぐに屋上に向かい、由梨香が忌避操作で教師の巡回を遠ざけた。昼休み以外での屋上の使用は原則禁止で授業中は巡回対象エリアだった。
「二石が学校を休んだ、その上携帯も通じない、電源が切れているか圏外だ」
焦った口調で恭司が言う。
「そういう事もあるのではないですか? 通じないと言っても、今日の朝からでしょ?」
由梨香が備え付けのベンチに腰掛けて普通に対応する。
まだ午前十時前であり、何かの理由で充電を忘れていて、掛からない事態であるということも無い話ではない。
「確かにあるかも知れない。けど、十月はエシスと接触している、それに先輩とも知り合いであることを知られている、僕が狙われるなら、十月だって同じような話にならないか?」
恭司は座らず話す。
「クレイドルが二石さんを誘拐した、とでも言いたいのですか?」
「ああ」
恭司の中では、それしか思い付かなかった。
「……考えすぎです」
「そうかも知れない、けど悪い予感がするんだ」
はっきりと胸騒ぎのようなものを感じていた。
「人の勘ですか……」
「ああ」
「リエグが先見の力を持っていた事は憶えていますか?」
「ああ、未来を見通す力だよね」
「それは完全に計算の延長線上にある力です、つまり、世界は勘で見通せるものではありません」
由梨香は涼しい顔で言う。
それが絶対の論理だと言い切っていた。
「僕は別に世界を見通している訳じゃない、二石個人の身の危険を感じるだけだ」
理屈以前の話だった。
「そう言われましても」
由梨香は乗り気ではない様子で困った顔をする。
「まぁ、そういうな、調べてみるくらいしてやったらどうだ?」
と、そのスカートのポケットの中から突然声がした。
久し振りのグラビオだった。
由梨香のスカートポケットから素速く出て来てベンチの上に立つ。
「クレイドルが人質を取るような戦い方をしない事は、承知している筈です」
「それはそうだがの、今回は例外的な事が起きている、違うか?」
「……分かりました。では、調べてみます。しかし、そのためには一度、家に帰る必要がありますが、構いませんか?」
「それは構わない、ありがとう、先輩、グラビオ」
「いえ。――ところで、グラビオは休眠終了ですか?」
「まぁな」
「休眠?」
恭司にとって聞き慣れない言葉だった。
「ああ、この身体だと一度派手に動くと基本休まないと後で支障が出るんでな、緊急事態は別で、ちょっと休んでおった」
派手に動いたというのは、病院でのことだろう。
その後、翌日までは動いていた記憶があるが、それ以降はあまり動いている姿を見た事が無かった。
「じゃ、二石と出掛けた時は休んでいたということ? 問題無かったの?」
「下手に言うとお前が気を遣うじゃろ? それに緊急時は別だと今いった」
「そうだったんだ、わざわざありがとう」
「では、グラビオが本起動なら、ある程度は問題ありませんね。――屋敷に戻って探査を始めましょう」
由梨香が背中に機械の翼を光から作り出した。
何度見ても綺麗だと思える翼だった。
当然のように飛んで帰宅することを示していた。時間的なロスを考えるなら、最善の選択だろう。
「飛んで帰るんだね?」
一応確認する。
「はい、もしクレイドル関係なら一刻を争いますから」
「――分かった」
恭司は覚悟を決めた。
「それでは、失礼しますね」
由梨香が恭司の脇に手を入れ、そのまま身体を浮遊させて、文字通り抱き上げる。
グラビオも再び由梨香のポケットの中に潜り込んだ。
そして、晴れた春の空に向かって一陣の風が舞い起こった。
屋敷までは、ほんの五分しか掛からなかった。おそらく、時速にして三百キロ以上は出ていた。風圧や呼吸の問題は由梨香が術式で何とかしてくれていたが、それでも空中で三百キロは一般人には厳しい。
「はぁ、はぁ」
屋敷内の庭に着地して恭司は荒い息を吐く。以前の病院からの飛行より、飛び方が手荒な気もした。
やはり、十月とのデートの時から由梨香はどこか怒っている感じだった。
「ついて来てください、別館の方で作業は行います」
由梨香が先に歩き出す。いつもなら恭司を気遣う台詞の一つも出た気がする。
「先輩」
行こうとする由梨香の背中を呼び止めた。
「なんでしょうか?」
「怒っているのは分かるけど、いい加減機嫌を直してくれないか?」
「……」
ピタっと由梨香の動きが止まった。
「思うことがあるならはっきり言って欲しい」
「はっきりと言ってしまって、本当に良いのですか?」
恭司の方を向かないまま静かな口調で言う。念押しだった。
「構わない」
「分かりました。――では、帰ってくれと言われ、その直後、結果にまた呼び出されて、さらにその後、完全に無視される形で放置された時の気持ちが理解出来ますか?」
「っ、それは……悪かったと思っている」
恭司の胸に刺さる言葉。
十月を優先した結果、由梨香を無視することになったのは事実だった。
「いえ、半端な態度を取られるよりはマシでした。ただ、私が納得出来ないだけ、単に私の我が儘です」
「そんな事は」
由梨香は自分の気持ちを抑えて、恭司と十月のことを応援しようとしている。
それがストレスとなっていることは事実で、そのことを無理矢理納得しようとしてる節があった。
何かしらフォローする必要があるだろう。
「お弁当の件も、二石さんのお弁当の味を考えると、交代で私の所に来たくなる気持ちも理解出来ました」
「アレは、まぁ……」
「ただ、本当に全てのことをはっきり言うなら、恭司さんに覚悟を決めて欲しいとは思っています」
「……」
マスターとしての覚悟という意味なのは分かった。
恭司には、『無垢なる物』というのもが完全に理解出来ていなかった。見た目も反応も、完全に人間と同じでしかない。
それでも本人達は人とは違う『物』だという存在、そしてその異能力。
「一つ例があります。マスターになることが出来る人間の条件です。これは当人に教えることではないのですが、恭司さんなら、きっと問題ないと思ってお話します」
恭司は無言で頷いた。
「私達が基本能力として備えている『記憶操作』の力ですが、この力のことを聞いても恭司さんは、一度も悪いことに使おうと言い出しませんでした。それだけでも、特別なことなんですよ」
「どういう意味?」
とても危険な力だとは思ったが、それ以上は考えなかった。
「この力は一日で世界を手にすることも出来る力です。例えば、全人類に対して、私こそが絶対の支配者だと記憶を弄ってしまえば良いのですから」
「まさか、そんな……」
「私が記憶処理の限界についてお話しましたか?」
「いや……広域は難しいとか、そういうことだけだったと思うけど」
「はい、難しいだけで、実は不可能ではありません」
由梨香が言い切って、
「私の力を悪用することを全く考えない、そんな思考の持ち主だけが、私のマスターになれます。私は『無垢なる物』の中でも最強の情報操作系能力を有する、人間に対してもっとも危険で、もっとも扱いづらいドールですから」
「最強……」
「私が『無垢なる物』のまとめ役を務めていると言ったと思います。それは、私が最強の存在だからなんですよ」
そう言う由梨香の口調は自嘲気味で全く誇っていなかった。
自分の力を嫌っている、そんな風に見える。
一日で全人類の記憶を弄れる程の力があったとしたら持て余し、その力を自ら恐れ嫌うことになるのは、恭司には分かる気がした。
「もちろん、ちょっとのズルくらいは寛容します。私は別に法の番人というわけではありませんから、それと、仮にマスターとなった人が正気を失うなどして、 さっき話したようなことを私に命じた場合は、ちゃんと安全装置が働きますから実際は実現不可能な話です」
「先輩……」
由梨香が言う覚悟の意味が少しは分かった。
強大な力を持つ責任を分かち合うことが出来る相手が、由梨香のマスターとして相応しいということ。
その点で恭司は失格だった。知らなかったとは言え、全く考えてもいなかったのだから。
「恭司さんは、この話を聞いて力を使うと思いますか?」
背中を向けたまま問う。
「いや……ごめん、先輩は信じてくれていたのに……本当に悪かった」
恭司のことを本当に信じているからこそ話せる内容だった。
逆に恭司は由梨香のことをそこまで考えていなかった。
頭を下げるしかなかった。
「……少しはっきり言い過ぎてしまいました、大人げなかったですね」
由梨香が振り返って恭司に近付く気配があった。恭司の地面を見ている視界に由梨香のつま先が映る。
「恭司さんは、優しすぎます」
由梨香の手が頭を下げる恭司の頬に触れる。とても暖かで造り物とは思えない柔らかさだった。
「顔を上げてください。物に頭を下げる必要はありません」
「そんな風に思える筈がないだろ」
「いえ、それが覚悟が足りないということです」
「いや、先輩がいくらそう言っても、僕はそう思えない、たとえ先輩が物であっても、先輩は先輩として一個人だし、僕にとって大切な人だ」
頭を上げて恭司は宣言した。
十月の事がなければ、きっと別の言葉が言えたが、それでも恭司にとって精一杯の言葉だった。
「……」
由梨香の顔が複雑な表情を作る。笑っているような泣いているような、それでも涙を流すことを我慢しているような顔。
「甘すぎます。――けど、ありがとうございます」
そして、最後にニッコリと笑った。
「別に、お礼を言われるようなことじゃ」
気恥ずかしくなる笑顔だった。
「では、恭司さんの覚悟を試します、けど、これはいつかは言うべき言葉でした」
「分かった、何?」
「今回の二石さんの件が仮にクレイドル絡みだった場合は、私と一緒にすぐに転校してください。また、もし違う場合でも来年には転校してください。それが、一番他人を巻き込まない方法です」
「て、転校!?」
考えてもいないことだった。ただ、理解出来ない話ではない。確かにその方法が確実に十月を脅威から守ることにはなる。
しかし、それは恭司にとって本末転倒だ、十月と別れることになるのでは何の意味もない。
「嫌ですか? 最善の方法だと考えますが」
「それは……」
理屈で反論は出来なかった。
由梨香のマスターになるということは、いずれは、そう言った事態に直面するということだった。
「そんなに二石さんのことが好きなのですか?」
その質問に恭司は無言で頷いた。
恭司にとって十月も由梨香も両方大切な相手であり、どちらを選ぶ選択は不可能だった。
「私のマスターとして生きていただくということは、いつかは二石さんと別れるということです。この国では一夫多妻制は認められていませんよ」
由梨香が逃げられない事実を言う。
冷静に考えて、仮に十月と結婚という話になったとしても、由梨香がいる状態では無理だった。
「そんなことは分かってる、けど、僕は十月が好きだ、先輩の事も大切だと思っている。都合がいいのも、二人とも傷付けることになるのも分かっている。でも、この気持ちに嘘はつけない」
「でしたら私が、結婚してください――と言ったら?」
由梨香が呟くように言った。
恭司は呼吸を一度整えてから真っ直ぐに由梨香を見た。優しさと厳しさをたたえた少し切れ長の目、サラサラと揺れる長い黒髪、柔らかに閉じられた赤く色っぽい唇。
誰もが純粋に綺麗だと思える存在がそこにあった。
人ではない『無垢なる物』という存在が――。
「――分かった。学校を卒業したら結婚しよう」
恭司は言った。
言葉の意味は分かっている。
その重さと共に。
「二石さんの事はどうするんですか?」
「裏切るつもりは無い」
「どんな理屈ですか……矛盾しています」
「方法はある」
「どんな方法ですか?」
「先輩が『無垢なる物』であることを二石にばらす。事実が分かればきっと二石は納得する」
「……」
由梨香はちょっと呆れたような顔をして、
「それは結果として、二石さんを危険に巻き込む事になりますよ」
「もう巻き込んでしまっているかも知れない、だから、何も知らせずに巻き込むよりはマシだ」
「分かりました、恭司さんがそういうのであれば、私は何も言いません、ただ」
由梨香は一度言葉を切った。
「『ただ?』」
「随分と女殺しですね」
ジトーっと目を細めて恭司のことを睨む。
「うっ」
都合の良いことを言っている自覚はあったので、何も反論出来なかった。
「私は、別に妾でも、二号さんでも、いいですけど、二石さんが納得するかは、分かりませんよ?」
「な、何とかする」
二人の女性を幸せにするというハードルは思ったより高そうだ。
「そうですか。――では、この話は一旦ここまでです。早く二石さんを捜しましょう?」
由梨香が自分のメンテナンスルームがある別館に向かう。
その後に恭司も続いた。
中に入り、由梨香はよく分からない機械が多く置かれた部屋に入った。
「では、グラビオ、広域スキャンを開始して、対象は二石十月さん、彼女の生体パターンは記憶させてあります」
「分かった」
由梨香のポケットからグラビオが出て来て、おそらく操作盤と思われる機械の上に乗る。
その途端に、部屋の中央にエアーレーザーディスプレイが出現して地図が映し出された。
「まんまSFだな」
思わず感心してしまう。
「大した技術ではありません、今の技術でも3次元像空間描画くらいは出来た筈ですが?」
「それは国の研究所とかで実験に成功してるかも知れないが、一般的な技術ではないと思うよ」
「そうですか、でも、その内確立する技術ですよ。――グラビオ、どう見付かりそう?」
「うーむ、自宅とされている場所にはおらんな」
グラビオがさらに機械の表面を撫でる。
すると地図がさらに広域表示になった。
「地図に赤い点が出たら、それが二石さんの居場所です」
由梨香が説明する。
「どれくらいで分かるんだ?」
「この地図の範囲にいる場合なら一分程度で」
「早いな」
「そういうものですから」
恭司は由梨香と共に地図を見守る。
…………。
「……出ませんね」
一分経過しても、地図には何の反応もなかった。
「故障って事はないよな」
「――グラビオ、恭司さんの生体スキャンをお願い」
由梨香が少しムッとした声で言う。
「了解じゃ」
グラビオが機械を弄ると、十秒掛からず地図に反応が出た。
「これが僕か……」
赤い点を指差す。
「故障ではないようですね」
「ああ、けど、これじゃ、問題が大きくなっただけだろ?」
故障でないとすれば三十キロ圏内に十月がいない事になる。
「家族で旅行の可能性も考えられます。ひとまず範囲を広げてみますね。――グラビオ段階的に範囲拡大でお願い」
「了解じゃ」
グラビオがまた機械を撫でる。
ディスプレイに表示される地図が次第に広範囲なものに変わって行く。
やがて、日本列島全体を映し出すが、赤い点が表示される事はなかった。
「……おかしいですね」
「……」
恭司は悪い予感がさらに大きくなるのを感じた。
「これって、要するに生体反応スキャンだよね?」
嫌なことを思ってしまう。
「はい」
「だったら……死んでいる人間は見付からないのか?」
「え」
由梨香が眉をひそめる。
「どうなんだ?」
「は、はい、そうなります」
「じゃ……」
恭司の顔が青ざめた。
「いえ、その結論は早過ぎます」
由梨香が恭司が結論を言うことを止めて、グラビオに向き直る。
「グラビオ、二石さんの残存粒子を検出して、移動ルートを割り出します」
「構わんが、少し時間が掛かるぞ」
「それは分かってるわ。――お願い」
「了解じゃ」
グラビオが機械操作に集中する。
どうやら難しい操作のようだった。
「残存粒子が見付かれば、二石さんの移動したルートが判明します、それを辿れば自ずと現在位置が」
「けど、生体反応がないという事は……」
「いえ、もしクレイドルが絡んでいるなら二石さんの生体反応を隠すことくらいは可能です」
「なら、やっぱりクレイドルが、二石を!?」
「ええ、可能性は高くなったと思います。昨日の今日で生体反応が消えて、学校や恭司さんにも何の連絡もなく……となると」
「――っく」
恭司は拳を握りしめた。
やり場の無い怒りが込み上げる。
「気をつけていれば、予想出来た、僕のせいだ!」
「いえ、間違いなく私のせいです、クレイドルが人質を取る可能性を全く考えていなかったのは、私ですから」
由梨香が頭を下げた。
「そんなの関係ないよ、先輩は長年の経験からそう判断しただけで、間違いじゃない、単に僕が不用意に二石に近付きすぎただけだ、僕にとって大事な人だと相手に悟られるくらいに」
恭司の中では完全に自分のせいだった。
由梨香のマスターになったということの自覚が、全く足りなかった証でしかない。
「くそっ!! くそっ!!」
自分の太腿を拳で叩く。
「恭司さん、落ち着いてください」
その手を由梨香が握って止める。
「分かってるっ。けど」
「これを、ご自身の責任だとお考えですか?」
「それ以外にあるのか?」
「いえ、このことがクレイドル絡みなら私の不注意です。まさか、ここまでするとは思っていませんでしたから。恭司さんは、ちゃんと警戒心を持っていました」
「けど、こうなってしまったら」
「まだ全く状況が分かりません、仮にクレイドルにさらわれたというのなら、私が全力で救出に向かいますので安心してください」
「すまない」
今は由梨香を頼るしかない状況だった。
「いえ、こちらこそ、申し訳ありませんでした」
由梨香が丁寧に頭を下げた。
「先輩が頭を下げることじゃない」
「この場は下げさせてください」
たっぷり三十秒以上、由梨香は頭を下げた。
「先輩……」
その姿を見ている内に、恭司は自分の焦りが少し落ち着くのを感じた。
「――グラビオ、どう分かった?」
そして、由梨香が頭を上げて言う。
「ふむ……残留粒子が消されている様子じゃな、エシスが居た反応もある」
「では、確定ですね、私がクレイドルの日本本部に様子を見に行ってきます」
「それは結構、大ごとだな?」
「いずれにしても近い内に向かうつもりでしたから」
落ち着き払った口調で言う。
由梨香は恭司の知らないところで、すでに宣戦布告に近いことをしていた。
「それでは私は物理武装を行うので、恭司さん協力をお願いできますか」
「何をすればいい?」
「コアの武装封印を解除してください。マスターの許可無しに重武装は出来ないので」
「いいけど……また、アレをするのか?」
「お願いします」
由梨香が早速と言わんばかりに、着ている制服のボタンを外して行く。
恭司は黙ってその様子を見守った。
状況が状況だけ下手に反応することが出来なかったが、恭司の心拍数が高まるのは仕方がない。
由梨香がテキパキと前をはだけ、白いブラに包まれたやや大きめな胸と腹部を露出させた。
すぐに腹部の皮膚がぐるりと裏返るように消え、代わりに巨大な緋玉が現れる。
由梨香のコアだ。
「――触れてください。指示します」
「あ、ああ」
上擦る声を抑えて言う。
「まず、コアの上部に文字を光らせますので、それを指で押さえてください」
「了解」
恭司が頷くと、由梨香の言ったようにコアの上部に象形文字のような記号が浮かび光った。
言われた通りにそれを指で押さえる。
「ありがとうございます。ではその状態で『澄んだ緋玉の物理武装を許可する』と恭司さんの名前で言ってください」
「――つまり、名前を言って、その台詞を言えばいいのか?」
「はい」
「……岩瀬恭司の名において澄んだ緋玉の物理武装を許可する」
恭司は軽く咳払いした後、やや恥ずかしい気持ちで言った。
「許可コード認識――澄んだ緋玉――物理武装モードに移行」
由梨香がどこか無機質な声を発して、コアが強く光った。
「恭司さん、少し離れていてください。この部屋にあるものを取り込みますから」
元に戻った声で言う。
「あ、ああ」
意味が分からなかったが、言葉に従って入り口近くまで後退した。
「――グラビオ、そっちは後どれくらい?」
「クレイドルの本部に向かうなら無理して捜す気もないと思うが? そこにいるじゃろ?」
「いえ、念のため、確実な居場所の特定は必要かと」
「分かった、なら引き続き捜す」
「お願い、私は二十分程度で取り込める物を取り込むから、何かあったらお願い」
「了解じゃ」
「――では、恭司さん、これから自閉モードで武装を取り込むので、少々お待ちください」
由梨香がコアを露出したまま手近な椅子に座って瞳を閉じた。
「自閉モードって?」
「身体の内部を再構築するので一度意識を切るだけです。心配しないでください」
「……分かった」
「では――始めます」
由梨香の背中に機械の翼が構成され、そこから何本もの機械のコードが伸びた。
それらが部屋に散らばる用途不明の機械パーツに伸びて接続され、接続部が淡く赤い光を出す。
その数秒後に、コードが繋がったパーツが光りながら分解されて消えてしまう。
おそらく取り込んでいるのだという事が視覚的に理解出来た。
と、
ビィー!!
いきなり部屋にブザーが鳴り響いた。
「な、何だっ!?」
「エシスじゃ、こんなに時にっ」
グラビオが操作盤の上で叫ぶ。
「だ、大丈夫なのか!?」
「この屋敷には自動防衛システムがある、だが、エシス相手に何分持つかは不明じゃ。下手すると謀られていた可能性もあるからな」
「どういう事?」
「由梨香が武装の為に自閉する事を見抜いて、その時を待っていたということじゃ。となると、エシスはここの防衛システムを突破する武装をしている可能性が高い」
「じゃ、どうするんだよ? 先輩を起こすのは無理なのか?」
「由梨香を起こすにしても、自閉モードからの再起動には最低五分は掛かる」
「その五分が稼げないという話じゃないのか?」
準備万端で向かって来ているのだとしたら、駐車場での戦いを思い出す限り一瞬で全てを灰にしてしまいそうなキャラだった。
「手段はある――ワシの言うとおりにしろ」
「何をすればいい。五分稼げるなら何でもする」
「まず、ワシを手の上に乗せろ」
「は?」
「いいから、早くしろ」
「分かった」
何だか分からなかったが、言われたままにグラビオを手に乗せた。
「――構築分離――」
グラビオがそう言った途端に、その姿が光の粒子に分解されて消えた。
だが、それに驚いている暇は無かった。
「――再構築『ラクステリア』」
何も居ないはずの手の平から声がして、
「恭司、握れ。――落とすでないぞ」
「え」
恭司が言われた事を意識した瞬間――その手に巨大な剣が現れた。
刃渡り二メートル、幅十五センチはある両刃の剣。
思わず両手で支えようとするが、見た目よりは重くなかった。
「対『無垢なる物』専用の剣――『ラクステリア』だ」
剣からグラビオの声がする。
「ぐ、グラビオなのか!?」
「ああ、そうじゃ、この『ラクステリア』は『無垢なる物』に反応して力を出す剣だが人にしか使えん、しかも、今は由梨香のマスターのみが使えるようになっておる。故に、お前だけの剣だ」
「この剣でエシスと戦えるのか?」
見た目より軽いだけで、それ以外の特別な力を感じることは出来なかった。
「そうだ、とにかく外に出るぞ」
「分かった」
恭司は剣を携えて研究棟から外に出た。
すぐに空を見上げるが、まだエシスの姿はなかった。
ただ、さっきまで晴れていた空が少し雲っていた。
「後どれくらいで来るんだ?」
「もう来る――エシスと対峙した段階で、剣の力でお前は強化され、反応速度などが上がる、あとは使いながら慣れろ」
と、見上げる視界に変化が起こった。
上空三十メートルぐらいの位置で空に亀裂が入る。
「な、なんだ!?」
「慌てるな。防衛壁が破られている様子が見えているだけだ。亀裂の位置に空を透過している防壁がある、実際空が割れている訳じゃない」
「つまり、あの亀裂が広がったらエシスが入って来るわけだな」
「そうじゃ、剣が起動するぞ。ワシは由梨香の再起動に集中するから、逐一反応は出来ん」
「――分かった」
恭司は剣を構えて空の亀裂を睨んだ。
そして、いきなり身体が軽くなったような気がして、目に映るものの速度が遅くなる。動体視力があがっていた。
「――根源たる粒子、その自由なる動きにより、雷の槍を構成せよっ!」
その時、亀裂からエシスの声が響いた。
同時に雷が亀裂より発生し、恭司に向かって落ちて来る。
その様子がはっきりと恭司には見えて、素速く横に飛んで避けた。
「おっ」
軽くジャンプしただけで、三メートル程度飛んでいた。足に着地の衝撃を感じることもない。
「確かに、これは凄いな」
剣の力に感心していると、亀裂からセーラーカラーの黄色いワンピースを着たエシスが急降下して来た。
「ふーん、随分と珍しい物を持っているじゃない?」
恭司の前方二メートル、地面から三メートル程の空中で停止する。
その背に拡がる機械の翼が、以前のものより緻密なパーツ構成になり巨大化していた。
背中に出されている翼が、前に見た時より一回り大きくなっている気がした。
「その剣みんな捜していたのよ。お姉ちゃんが隠し持っていたんだ」
恭司の持っている剣を指差す。
「エシス、何用だ? こちらは無駄な戦いをしたくはない」
剣からグラビオの声がする。
「えっ、犬さんなんだ。ふーん、そういう事か、まぁ、だったら隠していたというより、使えなかった訳ね」
「……用件はなんだ?」
グラビオが繰り返す。
「用事? 用事ねぇ……」
エシスが目を細めて研究棟の方を見る。
「とりあえずお姉ちゃんの確保かな」
「そんな事が出来ると思うのか?」
「出来ないと思うなら来ないわよ。こっちには人質がいるし、ね、お姉ちゃんのマスターさん?」
「十月の事か……」
恭司が押さえた声で言う。
「そうよ、私達が預かってるわ。彼女に何かされたくなかったら、大人しくレーナお姉ちゃんを渡しなさい」
「……」
剣を握る手に力がこもる。
「恭司、聞くな。クレイドルが人間をどうこうする事は、まずない」
「『まず』じゃ困る」
十月と由梨香の身柄を天秤に掛けた場合、恭司の中で優先するべきは十月だった。
「そうだよ、殺さなければイイだけだし」
エシスが楽しそうに言う。
「そこまでこちらを煽るのなら、この状況で勝算があるというんじゃな」
「犬さんの思考だと、――防壁の中に入ったのは良いけど出られない、その上対『無垢なる物』専用剣を持つ人間を相手にして対策はない筈だ――とかいう感じ?」
「そうだ」
「それなら私と戦ってみる?」
エシスの態度は余裕たっぷりだ。
「『ラクステリア』の相手になるというのか、ならば恭司行くぞ」
「ああ」
二人の声に合わせて刀身が淡く白銀に輝く。
「用意は良いみたいね。じゃ、行くわよっ」
エシスが両手を掲げ、そこに火球を生み出し一気に放つ。
恭司はまるで剣に導かれるように身体を動かし、放たれた火球を次々と切り落とし爆発させる。
爆風も剣が防御し恭司には届かない。
「さすがにこの程度じゃ無理か、なら――光塵よ我が剣となれ――」
エシスの手に光が集まり細身の剣が形作られる。
「剣の勝負よっ」
空中から滑るように恭司に向かい剣を突き出す。
恭司はエシスの剣を鮮やかに避け、そのままエシスに剣を振り下ろす。
エシスは素速く剣を戻して受け流し、一度離れて上昇し、今度は真上から垂直に恭司を狙う。
「シールド干渉」
剣からグラビオの声。
途端に恭司の頭の上に光の壁が発生し、エシスの剣の突きをはじき返す。
エシスは少し驚いたような顔で、一度上空へと距離を取る。
「ふーん、やっぱり強いね。障壁まで作れるんだ」
「負けを認めて、人質を解放するか?」
グラビオの声が響く。
「別にそんなこと思わないわ。――ここで新しい能力を解放するだけだから」
エシスが言って剣を消失させる。
「何をする気だ?」
恭司は只ならぬ何かを感じた。
「結構、凄い事よ。――システム『水黄凛』より『烈火凛』に移行――エーテルデバイスセカンドスタート」
エシスの翼が一気に限界まで広がった。
同時に小石ほどの金属球が幾つも翼の周りに出現する。
金属球は鈍く銀色に輝きつつ、翼の周りをグルグルと回る。
「まぁ、死んじゃったらゴメンね。――爆槍衝波っ」
回っていた金属球が矢尻のような形に変化し、恭司を目指して超高速で降り注ぐ。
「防壁展開」
「シールド干渉っ!」
グラビオの声はエシスの声とほぼ同時だった。
発生した光の壁が即座に白いガラスのようにものに代わり、エシスが放った金属の矢尻によって粉々に砕け散る。
矢尻はそのまま恭司の身体に直撃した。
「っ!!」
そのまま撃ち抜かれるかと思ったが、強化された恭司の身体は矢尻を弾いた。
しかし、着弾の衝撃は凄まじく、全身を一度に何十発も殴られたような衝撃を受けて床に片膝をつく。
「っは、っ……くっ」
「恭司っ!」
全身の力が抜け、剣が手から落ちる。
「どう? 強いでしょ」
エシスが恭司の目の前に着地して、足で『ラクステリア』を踏みつけた。
「この力……お主まさか、『無垢なる物』制約コードを無視しているのか?」
エシスの足の下でグラビオが言う。
力の制約を無視した異常な強さだった。
「マスターがいじってくれたのよ。制約を無視して出力増量よ」
「バカな……コアが軋んで……自己崩壊するぞ」
「大丈夫。五分しかこのモード持たないから、壊れる前に元に戻るの。で、時間がないから――」
エシスが膝をつく恭司を見下し、
「とりあえず、死にたくなかったら、レーナお姉ちゃんのマスター契約を解除しなさい」
「――くぅっ」
恭司はエシスを見上げる事すら出来なかった。
そして、マスター契約の解除が出来るという話は聞いた事がなかった。
知らない話では否定も肯定も出来ない。
「ねぇ、五分しかないから、早くしてくれる?」
「話の意味が……分からない」
「ふーん、とぼけるんだ……なら」
エシスが左の二の腕に高速で蹴りを入れた。
「!!」
一撃で骨が粉砕しあらぬ方向に曲がる。
強化されていなかったら、腕もぎ取れていただろう。
「もう一撃」
容赦ない蹴りを、今度は右の二の腕にくわえた。
「ぎっ!!」
両腕が砕かれ、肩先の感覚が麻痺する。
骨が砕けた他に腱まで切れた様子だった。力を入れてもまるで動かなくなってしまった。
「次やると、腕がもげると思うけど、どうする?」
エシスが再度蹴りを加える体勢を作る。
「が……ぁぁ……くっ」
恭司には激痛で何も答えられなかった。
「エシスやめろっ!」
グラビオが代わりに叫ぶ。
「犬は黙ってなさい」
エシスが蹴りの姿勢を解いて再び剣を踏みつける。
そして、恭司を睨み、
「死ぬ気なら楽に殺してあげてもいいわよ。痛めつけるのあまり趣味じゃないし、一気に行く?」
「……」
恭司の思考は止まっていた。
痛みだけが脳に反響して、目の前が真っ白になっていた。
「まぁ、運が無かったと思って諦めなさい」
エシスが指で『鉄砲』の形を作った。その先に光が集まる。
「じゃ、これで殺してあげる」
指先の光が恭司の頭を目がけて発射される――その瞬間。
もう一つ別の光が弾けた。
「!」
エシスの身体が傾ぐ。
衝撃を右半身に感じた。
「エシスっ!」
声がした方向に翼を出した由梨香が浮かんでいた。
先程はだけていた制服をきちんと着て、手には一振りの杖が握られている。
杖はシンプルな棒の先に、凝った彫刻が成された半円形の飾りが付いていた。
その杖にエシスに向け、
「ここから今すぐ去りなさい、拒むと言うのなら消滅させます」
「本物のベルゲトリープの杖っ!? それはお姉ちゃんにも負荷が!」
エシスが驚いた顔で由梨香を見る、その右の羽が少し欠けていた。
「手段を選んでいる時間がありません、十秒間だけ待ちます」
由梨香の口から無感情なカウントダウンが始まる。
「10.9.8.7.6」
「まっ、待ってよ、二石十月が、どうなってもいいの?」
「5.4.3」
由梨香のカウントは止まらない。
良く見るとかざす杖の先が小刻みに微動していた。
何かに耐えているようにも見える。
「――もうっ、分かったわよ。ただ、防衛システムは解いてよね。面倒だから」
「はい」
レーナが杖を降ろすと、エシスが上空に飛び立った。
その瞬間、空がピンボケ写真のように滲む。
そして、その滲みの中にエシスは吸い込まれるように消えた。
「恭司さんっ」
由梨香が恭司の元に飛ぶ。恭司は地面に倒れていた。
すぐにしゃがみ込んで状態を確かめる。
「マズイ……」
恭司はエシスが撃った光弾により右鎖骨の下を撃ち抜かれていた。
ぽっかりと穴が空き、そこから血が溢れ出ていた。
エシスの狙い通りに当たっていれば、頭を撃ち抜かれて即死だっただろう。由梨香の一撃で狙いが逸れたが致命傷には変わらない。
由梨香が恭司の頬に触れる。
「――私は分かりますか?」
恭司はピクリとも動かない。
傷口からは血がドクドクと出続ける。
脳はまだ生きているが、他は死んでいる状態だった。
「……」
由梨香は地面に転がる剣に視線を一瞬向けた。
「――グラビオ、まだ戻れないの?」
「無理を言うな。一度このモードになったら、一日は元に戻らん」
「恭司さんが、このままでは完全に死にます。『ラクステリア』から『リクトランジェ』に変換しなさい」
恭司の首筋に手を当てる。鼓動が弱くなり始めていた。
「――っ、気は確かか!?」
剣が驚いた声を上げる。
「それしか方法はありません。変換物質は私の身体から使っていいから早くっ」
由梨香が『ラクステリア』を持ち上げる。
「たとえ、助けたとしても、それを恭司が望むかは分からないぞ」
「最終判断は、恭司さんが目覚めてから聞きます。とにかく早く」
「――どうなっても知らんぞ。――構築分離」
由梨香の手の剣が消える。
そして、光が由梨香を取り巻く。
「――再構築――『リクトランジェ』」
8
広いホールような部屋だった。
部屋に特に装飾はないが無機質な印象はなく、落ち着く雰囲気の空間が作り出されていた。
そして天井が高く、そこから吊り下げられている物があった。
四角い箱状の檻だった。
檻といっても柵に囲われている訳でなく中は見えない。
小さな窓が一つだけ開き、後は無機質な鉄板に囲われていた。
そのホールの端にある扉が開く。
入って来たのは若くは無いスーツ姿の男。
檻の下まで歩き、見上げる。
ピピピピ。
と、男の胸ポケットの携帯が鳴った。
「――私だ。――そうか、分かった」
すぐに通話を終える。
「――また、来るとしょう」
男は入って来た扉へと引き返した。
*
恭司は温かい感覚に包まれて目を覚ました。
目を開けると、そこに由梨香の顔があった。
「……良かった。間に合いました」
「せ、先輩か……僕は……」
四肢を意識する。
痛みは感じない。
「ぼ……僕は死んだじゃないのか?」
エシスの攻撃を受けた時の記憶が過ぎるが、今は身体の何処に異常は感じなかった。砕けた腕も動く。
「いえ……ともかく立てますか」
「あ、ああ」
由梨香の膝の上に寝かされている格好だった。
少し慌てて立ち上がり周囲を見る。自分が意識を失った由梨香の家の敷地だった。
「先輩、顔色が悪くないか?」
由梨香の顔色が青い、いつもは赤い唇にも生気がない。
「はい、私の疑似生体パーツを恭司さんを再生させる事に使いましたから、現在外装に影響が出ています」
「そこまでして……大丈夫なのか? それとエシスは?」
「エシスは帰りました、後、私は大丈夫です、それよりもっと犠牲を払った人がいますから」
「それって、まさか? グラビオは!?」
自分の周りに剣が落ちていない事に気付く。
「恭司さんの中です」
「は?」
由梨香の言葉を聞き違えたと思った。
「恭司さんの中にいます」
由梨香が立ち上がって恭司を見つめた。
「……どういう、っく」
言った途端、全身に強い不快感を覚えた。
「想像している通りだと思いますが、補足します。ナノレベルまで細かくなったグラビオが恭司の身体の中に入って、恭司さんの生命活動を維持しています」
「……じゃ、僕は」
言葉が思わず震えた。
「はい、グラビオがいない状態では死んでいました」
「……」
はっきりと告げられると何も言えなかった。
グラビオが自分の中に入ってる感覚はない。
一体、自分がどういう状態なのか知りたかった。
「……恭司さんが混乱なさるのは分かります。ですが、これから言う事を、真剣に聞いてください」
「……」
恭司は頷いた。
「今の恭司さんは、グラビオの存在で生きています。それで選択しなくてはならない事があります。このままグラビオを身体の中に入れたままにするか、今すぐグラビオを外に出すか、この二つです」
由梨香が一度言葉を切り恭司の様子を伺う。
恭司は頷いた。
「二つの選択の結果は、まずグラビオを体内に入れたままにした場合、三十パーセント前後の確率で助かります。ですがその時、恭司さんは純粋な人間ではなく なります。また、残り七十パーセントの確率はグラビオとの拒絶反応が起こる確率で、その場合は確実に死にます。どちらになるかは約五時間以内には分かりま す」
「……もう一つは?」
聞かなくても予測は付いたが、由梨香の口から確認しておくべきことだった。
「今すぐグラビオを排出した場合は直後に死亡します。医療手段で治療出来る状態ではありませんし、私の力でも、すでに治療不可能な領域です」
「その二つを選べと?」
「はい」
由梨香は静かに頷いた。
「……」
どうすれば良いのかを考えるより、最初に怒りが込み上がった。
由梨香の勝手さに対しての怒りだ。
子供じみた身勝手な怒りだったが、急に究極の選択を求められて、すぐに冷静に考えることが出来るほど、恭司は大人ではなかった。
だが、次に死なずに済む方法があるなら助かりたいと思ってしまう。
それは純粋な生への執着だ。
由梨香が何もしなければ死んでいた。
その点は感謝こそして、恨むべきではない。
「ふぅ……」
深く息を吐く。
身体にある違和感はグラビオがいることに対するものだろう。
この感じが強くなれば拒絶反応が起きて死ぬというのは、感覚的に理解出来た。
だが、いまはどちらにせよ生きている。
生死の判断以前に、絶対にしなくてはならないことがあった。
十月を助けなくてはならない。
死ぬ怖さから、いますぐ、どこかへ逃げ出したい気持ちにもなっていた。
だが、十月のことを考えると、まだ死ねないと思ってしまう。
そう思う自分がいるなら、答えは決まっていた。
「このままにしてくれ……」
覚悟の上で答えた。
たとえ五時間後に死んでも、その間に十月を助ける覚悟だった。
「良いのですね」
「ああ、十月を助けに行く必要があるだろ」
「――分かりました」
「場所はクレイドルの日本支部でいいのか? 時間がなくて確定していないが」
エシスの襲撃でその時間が無くなっていた。
「ほぼ、そこに捕らわれていると考えますが、仮に違う場所に監禁されていても、情報を得るために向かう必要があります」
答えて由梨香が翼を広げた。
「武装は終わったのか?」
「恭司さんが目覚める前に終了させました」
そう言う由梨香の姿に変わったところはない。
学校の制服を着て、背中の翼以外はいつも通りだ。
その翼も特に変化が見られる事はない。
「必要な物は必要な時に出します。恭司さんも今なら出来るはずですよ」
由梨香が恭司の視線に答える。
「……?」
疑問が浮かんだのは、由梨香の言葉を聞いた直後だけだった。
――どうじゃ、調子は?
頭の中にグラビオの声が響いた。
「ぐ、グラビオ!?」
――言葉にする必要はない。伝えるように強く思えば伝わる。
「……」
――で、どうじゃ、調子は?
――居るなら、居るって言ってくれ。
思った事を伝えようとする。
――お前の選択が決まるまで出るつもりはなかった。ワシが出たら、選択を迷わすことになっただけだ。
――それはそうかも知れないけど、そっちこそ、今、どういう状態なんだ?
――ワシか? ワシはお主自身じゃ。
――そんな説明じゃ分からない。
――深く考える必要はない。こうなってしまった以上、一蓮托生という事じゃ。
――ってじゃ、僕が死んだらグラビオも?
――そうなる。拒絶反応が起きて排出されれば別だが、五時間経って、何もなければ融合してワシとお前は一つになる。
――グラビオはそれでいいのか? というより、先輩の命令じゃなくてグラビオが自ら身を張ったのか?
――どうしてそう思う?
――だって、自分の事だろ。
――そうか、まっ、ワシとしては反対じゃった。しかし、由梨香のために生きると、昔決めたのでな。由梨香の命令には逆らえん。
そう伝えてきたグラビオの心は、とても穏やかな感情を纏っていた。
――僕が口出し出来ることじゃない感じだね。
――そういう事じゃな。それよりワシの知識を受け渡す。さすれば、お前も『力』を使えるようになるからな。
――僕が『力』を……。
――まぁ、とりあえず受け取れ。
グラビオの念と共に、何かが頭の中に流れ込むのを感じた。
膨大なその情報は、不思議と無理なく頭の中に染み込んで行く。
グラビオが約三千年ため込んだ知識を一瞬で理解し、自分の物とする。
「……これは」
思わず声が漏れた。
「知識の受け渡しが終了したようですね」
由梨香が微笑む。
「ああ」
「では、翼を出して見てください」
「――やってみる」
恭司は背中に意識を集中させた。
その途端、今まで無かった感覚が自らの背後に感じられた。
一瞬で由梨香と同じような翼が出来上がっていた。
「グラビオの翼ですね。数千年振りに見ます」
「――そうみたいだな」
グラビオの知識を貰った恭司には、由梨香の言葉の意味がよく分かった。
だが今はそれに気を向けている場合ではなかった。
「じゃ、行こう。十月を助けに」
恭司が翼を広げた。
飛ぶのには直接必要無いが、出しておくと便利だと、最初に由梨香が言った意味が分かる。
翼は力を使う時に必要とするエーテルを吸収しエネルギーに変える、いわば呼吸器官+ジェネレーターだった。飛んでいる時はエーテルの消費が激しいため、翼を出してエーテルを溜めるのだ。
ちなみに、翼は出していない状態でも体内で機能し、その役割を果たすが、出して広げた方が、より多くのエーテルを吸収可能だった。
また、グラビオの場合、犬の姿になってからは翼を出せなくなり、そのために『無垢なる物』としては、弱くなっていた。
拡げた翼がエーテルを取り込み、恭司の身体に力が満ちる。
「クレイドルの本部には私が案内します。付いて来てください。――あと姿を消すのを忘れずに」
由梨香がフワリと浮いた。
「分かった」
恭司もそれに続く。
始めての自力浮遊だが、グラビオの知識のためか驚くほどに簡単だった。
そして、二人は空へと飛び立った。
その空は先程よりも雲を濃くし、雨が降り始めそうな雰囲気だった。
恭司は由梨香の後ろ飛びながら、この先について考えた。
十月を助け出した後、もし生きていた場合、自分がどうなるのかグラビオの知識で知った。
現在までに『無垢なる物』と融合して、生き残った例は少ないが、生き残った場合、その存在は完璧に人ではなくなる。
食事を摂らずにも生きて行けるし、寝なくても平気だ。
また、身体能力も当然のようにアップする。
また頭も機械的に物事を処理出来るようになり、まるで集積回路のように、数億桁の計算も一瞬だし、記憶力も打ち込みのように忘れる事なくメモリーされる。
そして、人としての性も消える。
それは人と交わっても子が出来ないという事だ。
結論として、コアとマスターの必要ない『無垢なる物』になるというのが、融合だった。
その状態になって、十月に由梨香の事と一緒に自分の事情を伝えたとして、十月は納得するだろうか。
それは分からなかった。
分からなかったが、それでも今は構わなかった。
何に変えてでも、十月を助ける事が先決だった。
「着きました」
由梨香が空中で停止した。
そこは恭司も良く知る都心の超高層ビル群のど真ん中だった。
自分達が浮いている位置より高く、ビルが左右にそびえ立っている。
恭司はグラビオの知識からそのビルの中の一つに注意を向ける。
そのビルの外見は他のビルと大差なかった。
遮光ガラスに覆われて中は見えないが、普通のオフィスルームがある事が想像できた。しかし、それとは別の次元空間を内包している事が感覚的に分かった。
そこがクレイドルの日本支部の中心だった。
「もう、理解しているとは思いますが、クレイドルの日本支部は表向き、このビルの三十五階から四十五階に入ってる経営コンサルティング会社です。その部分 にはクレイドルの裏を知らない一般会社員の方々が働いています。しかし、その部分には隠された別次元空間が重なって存在していて、そこが目的の真のクレイ ドル日本支部です」
「その場所への進入は何度も失敗しているだろ、どうやって入るつもりなんだ?」
グラビオの知識から言う。
次元障壁と次元回廊の二つが、その場所を塞いでいて、入り方を知る者が正規ルートから入らない限り、たとえ次元を切り裂いても簡単に到達できないようになっていた。
「はい。実はグラビオには秘密で次元干渉兵器を作っていて、それが先日完成しました」
「次元干渉って、まさか……」
グラビオの知識を漁る。
「はい、マイクロブラックホールを創り出す兵器です」
「バカな事を言うなよ、一般人が巻き込まれるぞ。先輩まで制約コードを無視する気か?」
『無垢なる物』には一般人に被害が出る行為は、基本的に不可能だという制約があった。
「いえ、そんな事はしません。巻き込まないようにすれば良いだけです。――見ていてください」
由梨香がその手に一振りの杖を出現させる。
それは、恭司が直接見るのは始めてのものだったが、エシスに突き付けた杖だった。
「――重力場変出――位相空間への転移スタンバイ――干渉コード六桁展開」
「……空間転移の応用か」
恭司はなるほどなと思う。
自らを空間転移(テレポート)させるのには膨大な力がいるが、小さな物を転移させるだけなら、それ程難しくない。
その転移の力を使って、次元干渉兵器をクレイドル本部がある別次元に入り込ませ、内側から場を崩そうという作戦だった。
「――転移スタンバイ完了――転移」
由梨香の声と共に杖の先に小さな箱が現れ、そしてすぐに消えた。
「――追尾システム作動――目的ポイントに転移完了を確認――次元干渉スタート」
「やりすぎると表の空間を歪ませて、他人を巻き込むぞ」
「分かっています。一番壁が薄く外からでも入れるポイントに転移しましたから」
「手際がいいな」
「こういうのが私の得意分野ですから――空間障壁に歪みを確認――あの窓の部分飛び込んでください、割れることはありません」
杖の先を一つの窓に向ける。
「了解」
二人はビルの窓に向かって加速した。
そして、先頭を行く由梨香が窓ガラスに触れた瞬間、空間がグニャリと曲がり、その姿が吸い込まれた。
恭司もそれに続いて中に進入した。
中は外見から予想されるような普通のオフィスルームという事はなく、薄闇に閉ざされた一つの部屋だった。
「倉庫の一つです。私達が入った事に気付いてた筈ですから、すぐに反応が来ますよ」
由梨香が先に転移させた小箱を回収しながら言う。
「雑魚に構っている暇はない、一気に中心を目指す」
「……中心部に二石さんがいると思いますか?」
「こういう場合、大体、中心を目指せば当たりだ」
「また、勘ですか?」
「外したら、その時捜せばいい」
「分かりました。では、中心を目指します」
由梨香が部屋の端に行き、壁に手を当てた。
「この壁を壊します。同時に警備のオートドールがなだれ込むと思うので準備を」
「了解」
恭司は親指を立てた。
そして、その手に『ラクステリア』を出現させる。
今の恭司には、それをまだ扱えた。
そういう意味では、まだ『人』だったが、五時間後、使えるかどうかは不明だった。
「では」
由梨香が壁から少し離れて杖を壁に向けた。
「――意思なき物よ、混沌へと帰れ」
杖が一瞬だけ振動し、その瞬間、壁が由梨香達が通れるぐらいの幅、音もなく消滅した。
「来ますよ」
「了解」
由梨香と場所を変わり、恭司は剣を正眼に構えた。
ほぼ同時に恭司に向けて、オートドールからの最初の攻撃がある。
まるで、何もない位置から突如ビームが放たれ、恭司はほぼ無意識で展開した光のシールドでそれを弾く。
オートドールは基本的に可視不能な存在だった。
「――白刃よ、衝撃にて立ちふさがる物を駆逐せよ」
恭司の口から発せられた言葉に合わせて刀身が震える。
ラクステリアの効果的な使い方も、すべて知識として頭にあった。
剣を振り下ろすと同時に、恭司の目の前で凄まじい突風が発生した。
突風は通路を突き当たりまで吹き抜けて行く。
ガシャン、ガシャン。
と、通路の上に何かが落ちた。
それは、疾風に乗せた真空の刃によって切り刻まれた複数のオートドールの残骸だった。
「行くぞっ」
「はい」
二人は通路をただ中央部に向かって疾走した。
内部の構造は、別空間と行っても、普通のビルの内部と大差なく、通路と部屋が扉で繋がっている構造がずっと続く。
感覚的には、予め作っておいたビルを別空間に閉じこめたという感じだ。
材質的にも、特別変わった物は見当たらない。
天井には、蛍光灯が灯っていた。
ただ、窓が無いため、閉塞された感じを受けるが、普通のビルと違うのは、むしろそれぐらいだった。
進む通路の先に、大きな扉が見えた。
今までの扉とは感じ明らかに違う。
「――ここか」
「でしょうね。構造的に、ここがおそらく真ん中ですから」
「さて、一気にいくか慎重に行くか、先輩はどうする?」
「そうでね……私達のことにはとっくに気付いているでしょうから、彼が中にいるなら、きっとすぐに開けてくれると思いますよ」
「ロレアか……」
グラビオの知識を読み取る。
彼とはクレイドルの日本支部長ロレアのことだった。
ロレアは一見初老のイギリス紳士に見える男だったが、すでに百年以上その地位にあり、数十年前にエシスのマスターになっていた。
「扉を蹴破るのも無駄な力ですし、ここは開くまで待ちましょう」
由梨香が床に着地した。
「了解」
恭司も着地する。
そして待つこと数秒。
音もなく大きな扉がゆっくりと開いた。
「ようこそ、レーナ・テルチェ・ユーリと、そのトゥルーマスター」
開いた扉の奧から、男の声がした。
二人は無言で扉の中へと入った。
そこは、大きなホールのような空間だった。
全体に柔らかな光に満ち、座席と舞台があれば、本当のホールと言っても問題ない。
しかし、室内には、ただ白い壁と床が広がっているだけで、他に何もない。
「ロレア、いるんですかっ?」
由梨香が室内に木霊する声を上げる。
「すまない、今、手が放せなくてな、顔は出せないが、そちらの様子は見えている」
ロレアの声がどこからともなく聞こえた。
「――では、こちらの要求を伝えます。二石十月さんを解放しなさい」
「いきなり用件か、久し振りに言葉を交わすというのに」
「非礼には非礼で返すのが、私の礼儀です」
「それは参ったな。では、エシスを遊び相手に出そう。しばし時間を潰してくれ」
言葉と同時に、恭司達がいる側とは反対の壁に扉が浮かび上がり、そこからエシスが現れる。
「エシスっ!?」
由梨香が驚いた声を上げる。
恭司も現れたエシスを見て声を失った。
彼女だと判別出来るのは、その顔だけで、首から下が完全に別の物になっていた。
足は無く、宙に浮かび、むき出しの腹部には黄色のコアが光り、胸部には鎧のような物が装着され、肩から先には元の四倍以上の大きさがある装甲に覆われた腕が付いていた。
そして、背中の翼は基部が四カ所になり、そこから、それぞれが微妙に違った形の翼が生え、全体としての異形を際立たせていた。
「少しパーツを取り替えた結果だ。最高のスペックを出せると私は考えている。本人は嫌がったが、先の失敗を考えると、君の相手は、まだ難しいようだったからな」
ロレアの声が無機質に響く。
「なんて事を……私達『無垢なる物』への冒涜よっ!」
由梨香が半ば呆然とした顔で叫ぶ。
「所詮は『物』だ。エシスのことは気に入っていたが、もっと良い『物』が手に入ったのでな。それのために実験として使ったまでだ。――さあ、エシス起動だ。目の前の物を破壊しろ」
エシスが少し下に向けていた顔を上げた。
瞳に力が全く感じられない。完全に『物』として動いていた。
「恭司さん、『ラクステリア』で」
「分かってる、けど、攻撃していいのか?」
グラビオの知識を得た今、エシスと由梨香が旧知の仲であり、それなりに相手を気にしていることを理解していた。
「はい、こうなってしまった以上、破壊してあげるべきかと」
「わかった」
エシスに切っ先を向ける。
感覚的にエシスが格段に強くなっているのは悟れた。
戦わなければ自分がやられる。
今は、どちらにしても、それが最優先だった。
「――『ラクステリア』起動」
恭司が剣を構える。
合わせて、
「――エシス・カリア・リムシィート、起動」
時間が早送りになったかと思うスピードでエシスが爆ぜた。
一気に恭司との間合いに納め、無表情のまま装甲に覆われた巨腕を振り下ろす。
恭司はギリギリのタイミングでそれをかわし、エシスの手が床に当たり、そこを派手に陥没させた。
が、その陥没が、まるでゴムを押した時のように復元していく。
「なんだ?」
「この部屋は特別製だ、少々のことでは破壊されない、もちろん、表の次元であるビルの方に影響が出ることもない、思い切りやってくれて構わない」
ロレアの涼しい声が響く。
恭司はその声を聞き流して後方にジャンプし、エシスと距離を取った。
どこから攻めるべきかを考える。
スピードと破壊力を併せ持つ相手だ、下手に接近すれば巨腕に潰されることが見えていた。
となれば、『無垢なる物』のエネルギー吸収パーツである翼を狙うのが定石。
そう言った戦闘知識は、全てグラビオのものだった。
「――空間干渉、重力増加」
エシスの周辺の重力を下方向に百倍にまで跳ね上げる。
ズンッ!!
浮遊していたエシスが床に張り付いた。
――先輩、翼をっ。
脳内で由梨香に呼びかける。
――はい。
由梨香が床に張り付くエシスの翼に向かって、握る杖から高密度の荷電子弾を飛ばす。
恭司はそれがエシスに当たる瞬間に重力場の維持を止める。
重力の影響で弾が曲がってしまうからだった。
直後、荷電粒子弾が爆発して室内が閃光に包まれる。
「――ちっ」
が、爆発からエシスが高速で飛び出す。
無傷とは言わないが翼が少し欠けた程度だった。
そのまま恭司に向かって来て、再び巨腕を振り下ろした。
ドンッ!
『ラクステリア』とエシスの腕が激しく衝突する。
――恭司さん、手加減してませんか?
由梨香が会話を脳内に飛ばして来る。
――いや、全部壊すのはマズイだろ。
由梨香の心情を察すれば、エシスを完全に壊すことには抵抗があった。
――私のことを気にしていらっしゃるのですか?
――それもあるけど、操られているなら正気に戻る可能性もあるんじゃないのか?
――現状でコア内の制約コードを相当に書き換えられています。その状態では普通は自我が保てないため、それをロレアが封じて無理矢理起動させているように思えます。
そこまで内部を弄られているとなると、『ラクステリア』でコアを切る以外には。
由梨香の言っている意味は、グラビオから得た知識で理解は出来た。
しかし、それでも、エシスをこのまま見捨てるようなことは出来ないと、恭司は思ってしまう。
敵とはいえ、マスターが悪いことが問題なだけで、エシスは悪くないのでは? と思うからだった。
――僕は別の方法を捜す。
由梨香に対して決意を伝え、巨腕を力で弾き、再びエシスと間合いを取った。
エシスは即座に間合いを詰めようと突進して来る。
「――『ラクステリア』構築分解『イシティリアス』へ」
握る剣が、声にあわせて金属で編まれた大きなネットに変化し、突進して来たエシスをすっぽりと包み込んだ。
「『イシティリアス』――エシスへの強制アクセス開始――全コード初期化」
ネットが収縮してエシスを完全に絡み取る。そして、エシスの飛行能力を消去し、そのまま床へと落下した。
その側に由梨香が駆け寄る。
「恭司さん、無茶し過ぎですっ! 『ラクステリア』を捨てるなんて」
「それしかないだろ、あの剣が無くても別の剣なら作れる」
恭司は言いながら、一振りの光の剣をその手に出現させた。
「エシスを助けても、今のマスターがロレアのままでは意味がありませんよ」
「なら、ロレアを倒せばいい」
契約の解除は、マスター側が行うか、マスターが死ぬ以外には出来ない。
「分かりました、ではロレアを捜して、二石さんの手掛かりを」
恭司は口を噤むしかなかった。
「ああ、十月を捜そう」
「はい」
と、その時。
「――いや、その必要はない」
ロレアの声が再び室内に響く。
「『ラクステリア』に『イシティリアス』か、そんな物を隠し持っていたとはね、少し驚きだ」
「私の立場を甘く見ていたのでは?」
「『ラクステリア』は所有していると思っていたが、『イシティリアス』までとはね、元々、最終決戦用ドールの暴走時緊急干渉装置だった筈だが? どうして君が持っている?」
「妹が使わずに出掛けたからです。『アブソリュート』の方を使用したのは、貴方も知っていることかと?」
「そう言う話か、しかし、これで両方ともが使えない状態となった、私の新しいドールを出しても安心ということだ」
「いい加減、出て来たらどうです? そんなに臆病な人だとは知りませんでした」
由梨香が周りを見渡して言う。
「そうだな、そうしよう」
急に近くから声が聞こえた。
その方向を見ると、いつの間にかにグレーのスーツを来た初老の男が立っていた。
「そちらの君には挨拶が必要だな、私はロレア・クロフォードと言う。レーナとは旧知の仲だ」
「僕は岩瀬恭司だ」
「ふむ、見たところ『無垢なる物』と融合している様子だが、そうまでしてここに来た理由は何だ?」
「白々しい、十月はどうした?」
「話を早く進めたい様子だな。――いいだろう、会わせてやろう」
ロレアがパチンと指を鳴らした。
すると部屋の天井がスライドし、そこから一辺が二メートルはある金属の箱が鎖に吊されて現れた。
箱は床から三メートル程度のところで止まる。
「開封」
ロレアの呟くと箱が光の粒子となって消滅して、中に居た白のワンピース姿の十月が床に向けて落下する。
「――っ」
恭司は全力で駆けて、十月が床に衝突する前に空中で抱き留めた。
「十月っ! 大丈夫かっ!」
「……」
息はあったが、ぐったりとして意識がないようだった。
「貴様っ! 十月に何をした!?」
「まぁ、色々とさせてもらったよ」
悪びれた様子なく言う。
「ふざけるなっ!!」
恭司が床に着地する。
「十月、しっかりしろ、十月っ」
膝の上に寝かせて呼びかける。
「……う、……ん」
閉じられていた目が薄く開く。
「十月っ」
「……た、ただし……くん」
「ああ、もう大丈夫だ。――安心しろ」
「ただし、くん?」
十月の目が完全に見開かれる。
「ああ」
恭司が頷いた時、十月の右手が素速く動いた。
「死んで」
「!!」
恭司に反応する時間はなかった。
気付いた時には十月の手が自分の胸を貫通していた。
血が吹き出る。
「……と、十月、どうして」
「フフフ」
十月が恭司の身体から手を引き抜く、その手には心臓が握られていた。
吹き上がる血を浴びながら、ゆらりと立ち上がる。
白いワンピースが血の色に染まっていく。
「恭司さんっ!!」
由梨香が恭司の元に駆けて、抱き上げる。
人間なら即死だが、体内のグラビオのコアのお陰で意識を失っている状態に留まっていた。とは言え、まだ人間の身体で心臓が無い状態は絶望的だ。
もって、後数分以内には脳が死に、どうにも出来なくなるだろう。
「なんて事を……二石さん、あなた……」
言いかけて十月の異変に気づく。
十月はただ薄笑いを浮かべるだけで、由梨香に対して反応しない。
「ロレア、二石さんに何をしたんですか!?」
「『オプティー』」
ロレアがそれだけ呟いた。
その一言で、由梨香の表情が硬直する。
「なっ」
「当然知ってるようだな、では見せてやろう――フィーヌ・オプティー、起動だ」
「――はい、マスター」
十月の背に白く輝く半透明の翼が八枚出現した。
基部は機械的な構造をしていたが、それすら半透明に光り輝き、荘厳とも言える翼だった。
そして、その翼の影響か、元々、少し白味かがっていた十月の髪が白銀に変わって見えた。
十月がロレアの前に滑るように移動する。
「見よ、この姿、これが『無垢なる物』の最初の原型にして最高の一体。完全自立型ドール『始まりのもの』フィーヌ・オプティーだ」
「そんな、封印されたのでは無かったの……?」
『始まりのもの』は、創り出したリエグ人が手に余る程の力だと判断して、起動後に直ぐさま封印されたと言われていた。
あらゆる兵器が使われたリエグ大戦時にも起動を確認したものは居らず、封じられたまま、さらにリエグの封印の奥に封印された筈だった。
「単に封印されていなかったということだよ、フィーヌを手に入れた今の私は神にも等しい、君ならその意味が分かるだろ?」
ロレアが十月の光る翼を撫でながら言う。
「『始まりのもの』を制御出来る筈がありません、そもそも制御出来ないから、制御出来る――力を抑えた『無垢なる物』が創られた筈ですっ!」
少なくとも由梨香の知識ではそうだった。
「それは君達の知識での話だ。『始まりのもの』は実は制御可能だったんだよ、ただ、創った存在が勝手に恐れ、封じただけの話だ。臆病な奴だ」
「一体、どうやって制御しているの?」
「気になるのかな?」
「……知っておきたいとは思います」
制御出来ないといわれた存在を制御する方法を純粋に知りたかった。
「正直で宜しい。――では、教えてやろう」
ロレアは懐から十センチ程度のクリスタルを取りだした。
「これは黒海の底から百年捜して見付けた。オプティーの制御クリスタルだ。これ単体ではただの宝石だからな、封印の外に落ちていた」
「そんな物があったの? どうして、その存在を知っているの?」
「クレイドルとて遊んでいる組織ではない、当時のことを知る者もいる、制御クリスタルが存在していることは一部では知られていて、その引き上げは数年前に行われた。ただ、オプティーが封印の外にいるとは思っていなかったが」
「では、どうやって二石さんがオプティーだということに気付いたのですか?」
由梨香の感覚では十月は完全に人間の気配しかもっていなかった。
おそらく、外部に対しての情報を全てを力で偽装していたのだろう。
その状態では外からどんな検査をしても人間という結果にしかならない。仮にレントゲンを撮っても人として映る筈だった。また、十月は家族の偽装までしていた、その状態で疑う方が難しい。
「簡単なことだ、オプティーの方がここにノコノコとやって来て私を殺そうとしたからだよ」
「え?」
「信じられないかね? まぁ、中々に行動力のある子だったよ、制御クリスタルが日本支部保有物で助かったというべきかな」
「そんな偶然が……」
「ああ偶然だ、だが助かった、クリスタルも私にしか使えないように細工済みだ、これで本部の連中すら私の言いなりにすることが出来る」
「けど、制御クリスタルなんて物があるなら、オプティーが自身がそれを捜して壊していてもおかしくないのでは?」
「いや、制御クリスタルの存在はオプティーの記憶には無い、それは調べた。だからやって来て暴れているところを、あっさりと制御出来た」
「随分と運の良い男ね……」
そんな感想しか出ない状況だった。
偶然で『神』にも近い力を拾った男が、目の前に敵として存在している――笑えない冗談だと思いたかった。
「お手上げね……」
由梨香が溜め息と一緒に苦笑いする。
完全にどうにもならない。
抱き留める恭司の命も、もう持たないだろう。
「それは諦めの溜め息だと、とって良いのかな?」
ロレアがゆっくりと問い掛けた。
「――好きにしてくれていいわ」
由梨香は戦意を失い背中の翼をしまった。
降参するしかない。
「フフフッ、今日は最高の気分だ! ハハハハハッハッ!!」
そんな由梨香を見下すようにロレアの高笑いが響いた。
*
――恭司、恭司、起きろっ!
たゆたう感覚の中、恭司は声を聞いた。
――こんな短期間で二度死ぬなっ!
声は自分を叱咤していた。
――お前がここで死ぬとワシまで一緒に死ぬ事になるんじゃ、しっかりしろっ。
うるさい声だと思った。
――ほら意識だけでも覚醒せんかっ!
――うるさい。
――おお、起きたかっ! 間に合った。
――うるさい、誰だお前は?
――寝ぼけてる場合じゃない、ワシじゃ、グラビオだ。
――『グラビオ』?
――そうじゃ、思い出せ。
――うーん。誰だ? 僕の親戚は日本人しかいないぞ。
――肝心な部分でボケとる場合か、二石十月が大変なんじゃっ!
――十月……? 十月!! そうだ十月は!?
――女の名前で覚醒か……まぁ良い。十月は無事じゃが、無事ではない。
――って、グラビオ、僕はどうなって!?
――話を前後させるなっ、お前は死にかけている、それで、十月が大変なんじゃ。
――十月が……って、僕は今度こそ死んだと思ったんだが……。
――ワシが脳だけ生かしておる。
――そんな無茶な。
――とにかく十月がオプティーとして覚醒した。この説明で分かるな。
――十月が!!?
確かに一言で何の事か分かった。
その知識はあったが、しかし、信じられなかった。
そんな事はあり得ないと思う。
――その気持ちは分かる、ワシとて信じられん。あれ程、完璧に人間になれるとは……完全にワシも騙された。
――それで今はどうなって?
――ロレアがオプティーを制御しておる、事態は最悪じゃ。
――どうやって? 十月は制御を受けないはずだろ。
――制御クリスタルを見付けたらしい。それが本物かは不明じゃが、現状においてオプティーのマスターはロレアだ。
――確かに最悪だ。
恭司は意識の中で項垂れた。
オプティーは神とも言える力を持ち、その上、『無垢なる物』のような制約は全くない。
人を殺す事も出来るし、無茶苦茶な力の使い方で一晩で人類支配すら可能だ。
――恭司、聞け。
グラビオが強い意識を伝えてきた。
――何か打開策でもあるのか?
――ああ、ある。
――どんな?
――ロレアからクリスタルを奪い、破壊すれば、あるいは……。
――けど、どうやって? 僕の身体の方は死んだのと同じだろ?
――ワシがワシのコアで十分間だけ動けるようにする。その後、当然死ぬが、このまま死ぬよりマシじゃろ。
――って、そんな事したら、グラビオが死ぬだろ。今ならまだ分離出来るんじゃないのか?
――その気はない。
強い決意がその言葉には込められていた。
――いいのか?
――良くなかったら、こんな提案はせん。時間があまりない今すぐ行くぞ。
――ああ、けど、ロレアは今どこに? 周囲の状況が分からない。
――お前は今、由梨香の胸から移され、床の上に寝かされている。起きて右側に由梨香とロレアがいる。左には十月がいるが少し離れている。
――分かった。
――では、目を開けてみろ、頑張れよ。
――ああ、ありがとう。
恭司は心の中でグラビオに別れを告げた。
そして、ゆっくりと瞳を開けた。
*
「――さて、レーナ、壊されたくなかったら、私を新たなマスターとして認めろ、君は有能だからな私の秘書にしてやろう」
ロレアが由梨香の前に立つ。
「ここでですか?」
「そうだ、前のマスターはさっき死んだ。死亡は確認出来ているだろ? 問題無いはずだ」
「……」
恭司の身体は完全に冷たくなり、今しがた床に寝かせたところだった。
グラビオのコアも起動を停止していた。
混じったことで、恭司が受けたダメージを、コアも受けてしまったのだろう。
「――分かりました」
由梨香は制服のボタンに手を掛けた。
マスターが死亡した――その事実でマスター契約は『無垢なる物』側で解除可能。
ロレアに由梨香の基準ではマスターの資格は無いが、『無垢なる物』のマスターになっても耐えられる人間であることは違いなかった。
血で汚れた制服を脱ぐ手が震える。
泣きそうになったが意地でこらえた。
「そうだな、ただコアを出されても、つまらん。――ここで、全裸になってもらおうか?」
「――く」
「どうした? 出来ないとでも言うのか?」
ロレアが薄笑いを浮かべる。
「分かりました」
由梨香は言って唇を噛みしめた。
諦めたが、諦め切れない事もある。
けれど、どんなに屈辱でも諦めなくてはならなかった。
それが『物』としての定め。
上着を脱ぎ、ブラウスを脱ぎ、スカートを下ろし、白の下着姿になる。
だが、そこで一度止まった。
「なんだ下着は脱がないのか? 全裸になれと言ったはずだ」
「――あなたは人間の屑です」
「どうして? 梱包された物を取り出そうとしているだけだ」
「――ぅ」
本当に全てを諦めるしかなかった。
手を背中に回し、ブラのホックを触る。
「早くしろ」
「――っ」
ホックを少し浮かせて、留め具を外そうと――。
その時、由梨香は風を感じた。
「――え」
「ぐあっ!」
全ては一瞬だった。
恭司が背後からロレアを強襲していた。
ロレアの首根っこを恭司が後ろから片手で締め上げる。
「悪いが、こいつは貰うぞ」
空いた手でロレアのスーツの内側を漁り、制御クリスタルを奪い取る。
「き、キサマ、死んだのでは……」
ロレアが掴まれた首を無理矢理後ろに回して、恭司の姿を確認する。
「お前を殺すまで死ねるか」
恭司はロレアを持ったまま浮上して、そこから床に叩きつつける。
「ぐはっ!」
そのまま足で踏みつけ『力』で拘束し、口も封じる。
「先輩、大丈夫か? 平気なら上着だけでも羽織ってくれ」
「は、はい」
由梨香が急いで上着だけ身に付け、マイクロミニのワンピースを着たような格好になる。
「じゃ、これを」
恭司が制御クリスタルを由梨香にほうる。
「え、――恭司さんが持っていた方が良いのでは?」
受け取りながら言う。
「ああ、駄目なんだ、僕はあと十分もしないで死ぬ。後のことは任せた」
恭司はまるで他人ごとのようにさらりとその台詞を言った。
短時間で臨死体験を二度も味わい、死に対する恐怖感がどうかなっていた。
「……まさか、グラビオが」
由梨香の顔が曇る。
「ああ、彼の分もよろしく言っておく、直接、先輩に別れの挨拶が言えないのは心残りだとは思うが」
「そんな一度に、二人ともいなくなってしまうんですかっ!」
その目から涙がこぼれ落ちた。
「エシスを直して一緒に暮らせばいい――場合によっては十月とも」
「それは、そうしますが、けどっ!」
頬をポロポロと涙が伝って行く。
「泣くなよ――あと、まだ七分はある、泣いてる先輩の顔も綺麗だけど、僕は微笑んでる先輩の顔が見たい。グラビオもそうだ」
「うっ……恭司さん、グラビオ」
由梨香が声を詰まらせて口元に無理した笑顔を作る。
けれど、目から溢れる涙は止まらなかった。
「……」
恭司が穏やかな視線で由梨香を見つめて、
「……」
由梨香もそれに応えた。
「……さて、とりあえず、こいつを」
そう恭司が言って足元のロレアを見た瞬間――部屋全体が地震のように揺れ始めた。
「な、何だ!?」
「恭司さん、ロレアがっ!?」
足元をよく見るとロレアが溶け出していた。
文字通りドロドロに溶けて白いスーツだけを残して床に吸収されてしまう。
「な、なにっ!?」
部屋の揺れが激しくなる。
「ふははははっ!」
唐突に高笑いが部屋全体から聞こえた。
「小僧、余裕を見せすぎた。私が完全に丸腰でいたと思ったのか、この部屋に入った時点で、お前達は二度と外には出られない仕組みだったのだよっ」
床が激しく波打つ。
二人は立っていられず飛び上がった。
「この部屋はいわば私自身――ゆえにどんな事も可能だ」
突然、天井が変形して、そこから無数の槍が伸び二人を狙った。
二人は咄嗟に避けたが槍に阻まれる形で、距離を離されてしまう。
「恭司さんっ」
「平気だっ! こっちはいいから自分の身を守れっ!」
「仲がいいことだな。――では、まずレーナから相手をしてやろう、刃向かうというなら、壊してやるっ!!」
由梨香に向かって四方の壁と天井と床から槍が伸びる。
避ける方法は無かった。
「――物理干渉シールド!」
槍の到達より早く、由梨香の周りに光の壁が卵の殻のように展開される。
ズスズスズス!
槍が光の壁にぶち当たり、その先端をめり込ませる。
辛うじて防いでいたが、由梨香の動きは完全に封じられる形だ。
「先輩っ!」
恭司が手に光の剣を出して飛び出す。
「大人しくしていろ」
「ちっ!」
何本もの槍が各方向から一斉に出現して恭司の行く先を塞ぐ。
剣で切り落とすが、切っても切っても槍は発生し、一向に前に進めない。
――先輩っ、無事か!
頭の中で呼びかける。
――現状、何とか。
――今、助ける。
――自分の身は自分で守ると言ったのは恭司さんです、私は大丈夫ですから。
そこまでで意識のリンクが一方的に切れる。
「くそっ!」
恭司は自分に向かってくる無数の槍をひたすら薙ぎ払った。
「助けようとしても無駄だ。――その内に槍がシールド貫き、レーナを串刺しにして、コアを破壊する様子をじっくり眺めるがいい」
その言葉と共に立ち塞がる槍の一部が透明化し、シールド内の由梨香の様子がよく見えるようになる。
由梨香を覆うシールドに無数の槍が突き刺さり、シールド自体の形が歪んでいた。
恭司の見立てでは一分持てば良い方。
「ちっ、させるかっ!」
剣を握る手に力がこもる。
しかし、どれだけ剣に『力』を込めて斬りつけても、槍の再生力の方が早く、前に進む事が出来ない。
「無駄なあがきだな。そろそろシールドを突き破るぞっ!」
「先輩っ!!」
力の限り剣を振るい叫ぶ。
その瞬間、由梨香を囲む槍が一斉に内側へとめり込んだ。
シールドの光が消滅する。
!!
恭司は声にならない悲鳴を上げた。
全身に力を込め、立ち塞がる槍に剣ごと体当たりする。
「――フッ、遅かったな」
ロレアの勝ち誇った声、合わせて、槍の壁が恭司の突進を受ける前に消滅した。
何が起こったのかは、その声で悟れた。
少し先で、再び非透明になった槍の山が針玉のようになって浮いていた。
その中心に何があるのかは見えなかったが、
「ちくしょうっ!!!!!」
恭司は絶叫した。
そのまま近くの壁を無茶苦茶に切り刻む。
しかし、どれだけ切っても雲を切るように手応えがなかった。
壁は剣が当たる前に柔軟に形を変えて、攻撃全て受け流していた。
「あがけ、あがけ。――さてレーナはどうなったかな」
他人事のような呟きの後、由梨香を押しつぶした槍の包囲が解かれる。
「先輩っ!!」
「な、なにっ!?」
恭司とロレアの叫びは一緒だった。
その場所に由梨香の姿はなく、反射的にその姿を捜して部屋中を見渡す。
「先輩っ」
由梨香は天井に近い位置で浮いていた。
隣にはエシスが浮かんでいる。
――恭司さん、エシスに助けてもらいました。
意識に由梨香の声が響く。
――エシスが?
――テレポートを手伝ったの、『ラクステリア』を返すわね。
さらにエシスの声が意識に響く。
どうやらコアの初期化が成功して正気を取り戻した様子だった。
その途端、恭司の手の中に『ラクステリア』が出現する。
――『無垢なる物』が二人いれば空間転移は容易ですから。
――それは分かるけど、先輩、本当に平気なのか?
――はい、一緒にロレアを倒しましょう。
――ああ。
恭司は『ラクステリア』を握りしめた。
『無垢なる物』専用の剣とは言っても、普通の剣より弱いという事はない。むしろ術式が絡む『力』に対する専用剣とも言えるのが『ラクステリア』だった。
「小癪な真似を――だが、お前達が、私の『中』にいるという事実は変わらんぞ、消滅するのが数分延びただけだっ!」
「どうかな?」
恭司は『ラクステリア』を部屋の壁に打ち下ろした。
さっきとは違って手応えがあり、壁の一部が裂ける。
「この剣なら、お前を切れる」
「その程度の傷、何も感じんさ、全体の一千万分の一も切れてはおらん」
「だったら、一千万回切ればいいっ!!」
恭司が『ラクステリア』を壁に突き刺したまま部屋を飛ぶ、壁の裂け目が広がり、その向こうに暗い空間が覗いた。
「ちぃっ」
「どうだ? 少しは痛いだろ、それとも違う感覚を感じるのか?」
「こちらに手段が無いと思うなよ」
壁にチューリップの花のような形が無数に現れる。
その花が開くと同時に、灼熱の光線が恭司に向かって発射された。
「――光壁防御」
恭司が展開したシールドが、それらを全て弾き飛ばす。
「『ラクステリア』に、こんな花火は通用しないさ、さっきみたいに槍で攻撃して来いよっ!」
恭司には分かっていた。
槍はロレアの一部であり、それを『ラクステリア』で切られれば、少しずつロレア自身が消滅して行く事になる。
「調子に乗るなよっ!」
再び無数の槍が壁から出現して恭司を襲った。
由梨香を襲った時より素速く、数多く。
恭司は神速で剣を操り、それらを全て切り落とした。
ロレアは次を撃たなかった。
「さて、そっちの手札は終わりか?」
恭司が不敵に笑う。
「くぅっ」
「終わりなら、こっちから行くぞっ」
恭司が『ラクステリア』を振り上げた時――。
ズンっ!
形容し難い重みが恭司の身体を襲った。
ロレアの『力』ではない、十分間のタイムリミットだった。
「っが!」
背中の翼が消え身体を支える力が抜け、恭司は床へと落ちた。
「恭司さんっ!!」
床に仰向けに倒れた恭司の元に由梨香が駆け寄る。
「す……すまない……持たなかった」
「喋らないで」
恭司の顔が見る間に青ざめて行く。
握っていた『ラクステリア』が床に転がる。
「形勢逆転だな。その剣はお前達では使えまい」
ロレアの声が無機質に響く。
「お姉ちゃん」
エシスが由梨香の側に寄る。
「そうだな……私は慈悲深い。ここで二人仲良く消滅するか、それとも、もう一度私に忠誠を誓うか、選ばせてやろう」
「――」
由梨香は厳しい瞳で部屋全体を見渡した。
「断ります」
もう二度と屈辱を味わう気はなかった。
消滅する覚悟を決める。
「……お姉ちゃん」
エシスが震える声を出す。
「愚かな、――ではエシス、お前はどうする?」
コアの初期化で、ロレアとのマスター契約は解消されていた。
「お……お姉ちゃんを苛める、あんたなんかに忠誠を誓う訳ないでしょっ!」
泣きそうな声で怒鳴る。
「そうか……実に愚かしい判断だな。折角の私の慈悲を無駄にするとは」
「私は最善の判断だと思っています」
由梨香は毅然と言い放つ。
その顔には一点の迷いもなかった。
「ふっ、ならば仲良く消滅しろ」
床が波打った。
二人の足下から槍が幾つも伸びようとする。
「あまいわよっ!!」
その時、大声と共に部屋全体に衝撃波が走り、その波に飲まれて発生した槍の穂先が消滅する。
衝撃波は由梨香達三人をしっかりと避けていた。
「何事だっ!? ――ぐっ」
ロレアの声が途中で苦しげに途切れる。
二度目の衝撃波が走り、その中心に八枚の光の翼をはためかせた幻想的な空気を纏う存在がいた。
「私よ」
十月だ。
「ふ、フィーヌ、どうして……」
「コードを突破したのよ。あんな物をよく見付けて来たわね、それは誉めてあげる」
憮然と言う。
「ふざけるなっ、コードを突破したとて、お前も私の『中』にいる。――こうなれば全員消し去ってくれるっ」
「出来るならね。あと、しばらく黙っていて」
十月が光の翼を輝かせて、全身から三度目の衝撃波を放つ。
「な、なにっ!?」
すると波打っていた部屋の壁が全て硬化して、ロレアの声が聞こえなくなる。
「ふぅ、――恭司君」
十月が倒れた恭司の元に舞い降りる。
「十月か……良かった、君は助かったんだな」
まだ、恭司の息は辛うじて続いていた。
「馬鹿言わないで私は無敵よ。それよりこんな無茶して、だから、これはお仕置きだからね」
恭司の元に屈み込み、十月はその顔を恭司の顔に近付けた。
「ん――ちゅ」
キスの音が二人の耳に聞こえた。
「ちゅん……ちゅう……」
十月は求めるように積極的なキスをしたが、恭司にそれに応える体力は無かった。
「――死ぬ前のご褒美だな」
十月が顔を離して恭司が言う。
「違うわよ、お仕置きだって言ったでしょ、私の二回目のキス、とても美味しかったよ」
「そりゃ……よかった」
「ううん、私ね、創ったお父様が変な人でチョコの味しか分からないように出来ているの、けど、今のキスは別の味がした。絶対に忘れられない味」
「…………そうか」
十月のチョコ好きの原因が分かるが、同時に、かなり惨い調整をされたものだと思ってしまう。
「じゃ、ちょっとアイツを倒してくるから、待ってて、必ず助けるから」
「ああ」
恭司は期待はせずに、けれど強く頷いた。
もう意識が途切れそうだった。
十月は恭司に返事はせず、由梨香とエシスの方を向いた。
「――二人共、恭司君を抱えて、少し浮かんでて」
その顔は、全ての覚悟を決めたような顔だった。
「は、はいっ」
由梨香とエシスが言われたように恭司を抱えて浮き上がる。
「っ――ちっ、私ごと部屋全体を硬化だと? ふさげるな」
部屋の中に再びロレアの声が響いた。
そして、四方の壁が内側にせり出して来る。
「焼き殺し、押しつぶしてくれるっ!」
せり出す壁の表面が真っ赤に燃え、さらに青く輝き出す。
超高温になった壁が迫り、一気に十月達を飲み込もうとする。
「――防壁展開っ!」
由梨香がエシスと一緒にシールドを張る。
それで温度上昇には対応出来たが、壁の圧迫には長くは絶えられない。
「バカバカしい、この空間はエーテルが満ちているからやりたい放題ね、――全構築解析完了――共振崩壊スタート」
十月が迫ってくる灼熱の壁まで飛んで、その表面を軽く指で弾く。
リーン。
翼から澄んだ音がした。
その瞬間、十月の指が触れた部分からバラバラと壁が崩れ始める。
「な、なんだ、一体っ!?」
「全部同じ物質で構成している方が悪いんじゃない?」
十月が涼しい顔で言う。
その間にも壁は崩れ、その向こう側の空間が見え始める。
暗い闇色の空間が揺らぎ、さらに、その向こうには表の空間であるビルの一室が見えた。
暗い空間が次元障壁だった。
「――空間調律――干渉コード展開――」
十月の聞き取れない速度で、おそらく数字の羅列を口にした。
途端に暗い空間がクリアになり、十月達のいる場所が広いビルの一室になる。
しかし、そう見えるだけで異空間にいる事には変わりなく、表の空間に出たという訳ではない様子だった。
「十月さん」
「二人は隅に」
「はい」
十月は返事を確認し、部屋の隅に視線を注いだ。
そこには、人の姿に戻ったロレアが立っていた。
「やってくれるな、私の支配空間を崩すとは」
呟く口は半分が無かった。
それ以前に身体の左半分が消失して片端で立っていた。
「ボロボロね。――けど、どこまで改造した訳?」
「これで終わりだと思うな」
半分だけの口と喉で器用に喋る。
「いいわよ、いくらでも相手になるわ」
十月の翼がそれぞれ別の方向に調和がとれた広がりを見せる。
「――構築変異――『黒鎧』」
ロレアの身体が一度消滅し、すぐに再構築される。
そこに現れたのは身の丈三メートルの黒い鉄巨人だった。
「それが最終形態? まぁ、ラスボスの三段階変身はお約束よね」
「ほざけっ、この鎧は『力』を全て無効化する。原理は『ラクステリア』と同じだ」
「ふーん、けど粗悪コピーなんでしょ? 『ラクステリア』その物を作らなかったという事は?」
「剣の形にする必要が無かっただけだ。行くぞっ!」
ロレアが両手を掲げる。
そこに無数の金属球が出現する。
「――最も固く熱き物よ。全てを消滅させろっ!」
野球ボールほどの金属球が十月に殺到する。
十月は特別なにもする様子なく、その全てを受ける。
次々と金属球が弾け爆炎が上がり、十月の姿が煙と炎の中に消えた。
「ふ、避けようとも、しないとは――」
部屋がもうもうとした煙に包まれる。
「――『地球大気』へ安定変換――」
と、その声と共に煙りの全てが、一気に消え去る。
「全く……室内でバカな事しないでよね。みんなに当たるからシールドで弾き飛ばす訳にもいかないし」
爆炎の中心だった場所に十月がいた。
服が完全に破れ焼け落ち新たな姿を晒す。
裸身の手と足、股間と胸辺りにクリスタルの装甲を纏い、左右の耳の横から後方に伸びる角のような物が伸びる。
背中の翼も輝きを増し、まるで水晶の羽だ。
それは荘厳な神の造形物のように見えた。
「何だ、その姿は、まさかシールド無しで弾いたのかっ!?」
「そうよ、体は『ラクステリア』と同じ原理で出来ているの。装甲化は製作したお父様の趣味だけど、とりあえず今のあなたと同じよ」
「くっ!」
ロレアが床を蹴り十月に突進する。
「なに? 格闘戦?」
十月が構え、そこにロレアが仕掛ける。
ロレアの繰り出す全ての攻撃を十月は難なくかわす。
掌圧もパンチも蹴りも、全てが十月に当たらない。
だが攻撃の速度が遅い訳ではない、十月が速すぎるのだ。
十月のスピードは『無垢なる物』ですら視認出来ない速度になっていた。
「ねー、全然当たらないよ」
もの凄い速さで動いてるはずなのに、その声はぶれる事なく聞こえた。
「その程度なの? クレイドル三千年の研究の年月は?」
「ほざくなっ」
ロレアがさらに攻撃の速度を速める。
鎧の間接部分が軋んだ音を立てる。
「限界っぽいよ、やめたら?」
「黙れっ!」
「――あなたには色々と恨みがあるのよね。私達に色々とちょっかい出して、気付いてない振りをしてたけど」
「他のドールがいる可能性を考えた行動だ」
「まさか私だとは思わなかった? 正体を明かせない身だから私の方が隠れている振りをしてたのよ」
「くそっ! 全てが自分の思い通りだとでも言いたいのかっ!」
「そうかも、でもクリスタルだけは私も知らなかったら、バカお父様を呪うところね」
十月の視線が一瞬だけ過去を見るように遠くなった。
「じゃ――もう飽きたから終わりにしていい?」
その言葉と同時に十月の手が動く。
ロレアの返事は待たなかった。
十月の手がロレアの右手を掴み、まるで布団を乱暴に捲るような動作で壁に投げ飛ばす。
ガンッ!!
「ここが異空間じゃなかったら、空間遮断して私が全エーテルを制御に置いて終わりなんだけど、それが出来ないから、物理的に破壊してあげる」
十月が壁に歩み寄り、叩き付けられたショックから抜け出せないロレアの前に立った。
「まず、一撃」
十月の手刀がロレアの鎧に覆われた腹部を貫く。
「さらに次っ」
次は右太股。
「次」
左太股。
「次っ」
右肩の付け根を垂直薙ぐ。
そのまま右手が鎧ごと切断される。
血は出なかった。
「ラストっ」
左手を同じように切断する。
「――どう? 痛覚ってあるの?」
「……動けなくしたつもりか?」
「『ラクステリア』で切ったのと同じだから、再構築出来ないでしょ」
「性悪な。ここまで来て一気に殺さないのか」
「みんなを苦しめたお礼、なるべく苦しんで消えて欲しいから」
十月の手が言いながら今度は胸を貫く。
「くっ……やはり、オプティーは手に負えないということなのか」
ロレアが自嘲気味に呟く。
「悪人が、そんな諦めの台詞を吐くなんて最低よ」
十月が胸をもう一度貫く。
「諦めたのは、お前の制御だ、私にはまだ出来ることがある」
「――へぇ? まだ何か出来るんだ?」
「ここを次元崩壊させる。もうそのスイッチは入れた、お前達は永遠に次元の狭間をさまようことになる」
「また、古典的な」
十月は大して驚いたふうでもなく言う。
「そうだ、これでお前達は道連れだっ!」
「旅は人数が多い方が楽しいもんね。――けど、残念、一人で死んで」
酷く残虐な笑みを浮かべて、右手を掲げる。
「はい、終わりっ!」
「!!」
十月の手刀がロレアの頭部を貫通した。
そして、そのまま『力』で頭を粉砕する。
ロレアは完全にその生命活動を停止した。
十月が手刀を薙ぎ、手についたロレアの残骸を払う。
「さてと――先輩、エシス」
二人に対して向き直る。
「十月さん、この空間が崩れ始めていますっ」
地響きが部屋全体を揺らし始めた。
「焦らないで、何とかするから」
十月は由梨香達の近くまで移動した。
「えっと、……ちょっと待ってね」
そして、二人の前で瞳を閉じる。
二秒もすると十月の裸身に光が集まり、四秒後には、恭司達の学校の制服になった。
「いつまでも裸みたいな格好はね、露出狂じゃないし。あっ、別に制服フェチでもないよ。さらわれた時の服がこれだっただけで――」
「十月さんっ」
由梨香が十月の話を大声で遮る。
「そんな話をしている時じゃありません。もう時間が」
聞こえる地響きが、どんどんと大きくなる。
「だから焦らないで」
「けどっ」
「いいから。――あっ、エシスとは、このモードで直接会うのは始めてだよね。この前のケーキの時はごめんね」
十月は由梨香とは対照的に、いつものペースで話す。
「あなたがオプティーだったなんて……」
「まぁ、色々あってね。あまり姿を出せないから、十月でいる時は完全に『人間』になっているから」
「……それでどうする訳? 次元崩壊止められるの?」
制約を解除しているエシスでも難しい作業だった。
「『無垢なる物』に許された可能コードは最大八桁だから、絶対次元干渉領域の二十桁までは制御出来ないって言いたいの?」
十月がニヤリとした顔で聞き返す。
「まさか……制御出来るの?」
「当然、だって私はベースの存在と同等だからね。――まぁ、現空間にいる人に悪いから、ちょっと無理はするけど、何とか出来ると思うよ。二人は転移に備えて一応シールドを張っておいて」
「分かったわ」
「はい、十月さん、お願いします」
「了解」
十月が八枚の翼を広げる。
「――ふぅ」
深い息。
その後――。
音として認識出来るレベルを超えた詠唱が始まった。
それは次元構築している『もの』に対して直接アクセスする『言語』だった。
『無垢なる物』は空間構成物質に対してのアクセスコードを八桁まで制御出来る。
アクセスコードそのものはリエグの遺産だ。
リエグは世界の全てを計算により解き明かし法則化した。
その結果、全空間領域を制御するには、二十桁のアクセスコードが必要という結果が出た。それより上の桁は時間制御や運命関数といった領域になり、そこまでの研究が完成するより前にリエグの力は封印された。
それが正史とされている。
しかし、全ての『無垢なる物』のベースとなった『始まりのもの』を創り出した存在は、二十桁を扱える十月を最初に創り出し、それ以降も研究を続けた。
それは、十月が背負う運命のために。
「――コード操作終了。他空間へのテレポート準備」
十月を中心に由梨香とエシスを含めて、楕円形のシールドが包む。
「一緒に跳ぶよ。――私の意識からコードのアクセス権をサーチして、二人なら出来るでしょ。恭司君を忘れたらだめだよ」
「はい」
「うん」
二人の返事の後、全員の姿がその場所から消えた。
9
「――テレポート完了」
「ここは……私の家」
十月達を包んだシールドは由梨香の家の庭に出現した。
「あ、また雨振ってる」
十月がシールドを解いて空を見上げる。
空はどんよりと曇り、大粒の雨を降らせていた。
「『また』って?」
エシスが聞く。
「うん、私がこのモードになると、それだけで空間構成物質――地球上だと空気を減らしていくの。まぁ、その辺り自動的に制御されてて、いきなり真空になっ たり、風が吹き込んだりはしないんだけど、でも、どうやっても私の周りの気圧が下がる事になって、結果、私が低気圧の中心になっちゃって、その影響で周囲 に雨を降らせてしまう訳」
「そんなに強力なんですか?」
由梨香が目を見張る。
「まぁ……八枚翼はね、半オートだから、自分だと細かい制御出来ないし」
十月が首を回して背中の翼を恨めしげに見遣る。
そして、ふと、何かに気づいたように、
「――って、そんな事言ってる場合じゃなくて、恭司君を家の中に運んで、何とか蘇生させるから」
「え――蘇生って、そんな事が可能なんですか?」
死者の復活はリエグの科学でも不可能とされていた。
「まぁ、やってみないと分からないけど。とにかく中に案内して」
「分かりました」
ずっと恭司を抱きかかえていた由梨香が、急ぎ足で研究棟に向かった。
十月もそれに続こうとすると、
「――私も身体、直さないと」
エシスがボソリと呟いた。
今のエシスは化け物以外には形容出来ない姿になっていた。
「そうだね。じゃ、それは後でやるから、今はこっちに付き合って」
「分かったわ」
二人は由梨香から少し遅れて研究棟に向かった。
「ドア、くぐれない」
エシスが研究棟の入り口で止まる。
巨大な腕が邪魔になっていた。
「みたいね」
十月は答えると同時に、
――由梨香さん位置を教えて、中に二人で転移するから。
由梨香に意識伝達する。
――構いませんが、入り口分かりませんか?
――エシスがドアをくぐれないって。
――分かりました。
「エシス、一緒に転移するから、ちょっとシールドを張って」
「分かったわ」
エシスがシールドを張った同時に、十月はエシスと一緒に研究棟の中にテレポートした。
中では由梨香が恭司をベッドに寝かせて待っていた。
「お待たせ」
「いえ、ここには大抵のものは揃っています。必要なものがあったら言ってください」
「私に合うパーツある?」
エシスが声を上げる。
「――奧に私のスペアならあります。けど、サイズが合わないかもしれません」
「とりあえず我慢する。足を付けて、手を付け替えないと不便すぎ」
「なら、エシスはパーツを見繕っていて、後で、私が構築を書き換えて合わせるから」
「ほんと?」
「うん、ちゃんとやるから」
「やったー」
十月が言うと、エシスは嬉しそうな顔で部屋の奥へ消えた。
「――じゃ、先輩はこの部屋にエーテルを満たして、出来るでしょ」
由梨香に向き直る。
「はい、出来ますが……私では十月さんが必要とする量を集めるのは、少し時間が掛かりますが」
「量じゃなくて、エーテルが周りにないとマズイ事になるから、お願い。私が集めるんじゃ駄目なの、それと『さん』なんて堅苦しいから、普通でお願い」
「あ、はい」
由梨香が一度しまっていた翼を出して、それを淡く光らせる。
「――じゃ、私も始めようかな」
十月が出しっぱなしの翼をしまい込んだ。
そして、制服の上着のボタンと中のブラウスのボタンを外し、それらを着たまま自らのお腹を触る。
直ぐに皮膚が無くなり由梨香に比べて遙かに小さいコアが露出する。
十月のコアは青い光をたたえていた。
「――よっと」
コアを掴んで力を込める。
そして、おもむろにそれを取り出す。
「と、十月さんっ!!」
由梨香は仰天した。
『無垢なる物』にとってコアは心臓。
取り出せば、そのまま機能停止の筈だった。
「あ、へいき、へいき、私は二つあるから」
十月は取り出した青いコアを近くにあった机の上に置く。
「――先輩、エーテルもういいよ。ありがと」
十月の感覚が部屋にエーテルが満ちている事を感じた。
「は、はい」
由梨香は釈然としない様子で頷く。
「――構築変換――フィーヌ・ラキリ・オプティーモード」
十月が呟くと、その姿が霧のように消滅する。
「――」
由梨香はその事にはそれほど驚かなかった。グラビオにも同じ事が出来る。
しかし、いつまで待っても何かが再構築される事はなかった。
「と――十月さん?」
心配になって名を呼ぶ。
――ここにいる。
意識に直接話し掛けられる。
意識伝達とも感覚が違った。
脳内に十月がいるような感じがする。
「……どういう事ですか?」
――エーテルに存在を流したの。ラキリモードは意思そのもの、だから全てのものに存在を移動させ、変質させる事が可能なの。
「そ、それは、つまり……」
由梨香は声を詰まらせて驚きを顕わにした。
あらゆるものに存在を移動出来るといのは、あらゆるものに干渉し、あらゆるものを自分にしてしまうことが出来るという意味だ。
その力は――。
――そう、神様だよ。全てに干渉し、しかし、その意思をみせる事はなく、全てを静かに操るのみ……リエグではそうなっていたよね。
「は、はい」
――私を創った人はそれを目指したの。だから、別にこの部屋の空気に存在を移す事も出来たし、その気になれば、この宇宙全部に存在を移す事も出来る。ただ、今の私の力で、そんなに拡げたら希薄になりすぎて流石に保てないけど。
「なぜエーテルに?」
――五番目の要素、光を伝えるエーテルなら、一番薄くならずに私を保てるから。
「それで、どうやって恭司さんを……?」
――グラビオと同じ事をするだけよ。酸素が来なくなって死んだ細胞の一つ一つを生きている状態に書き換え、脳の記憶をその回路から推測して復活させ、さらに、魂の代わりに私のフィーヌコアを埋め込むの。
「む、無理ですっ! それにそうたら十月さんは恭司さんと融合してしまう。失敗したら、恭司さん、グラビオ、それに十月さんまで私の前からいなくなってしまうんですよ」
――無理って言われても、もう始めてるし。
「え……」
由梨香は言葉を失う。
部屋全体に広がったエーテルは当然恭司も包み込んでいた。
ベッドに寝かされている恭司の身体が微動する。
そして、その上に十月が外した青いコアが出現し、光を放ちながら、恭司の胸の中に解けるように消えていく。
「……」
由梨香は固唾を飲んで状況を見守った。
と、次の変化が起きる。
恭司の中から丸い光の塊が胸の上に浮かび上がる。
それは、徐々に発光を弱めて犬の縫いぐるみの形になった。
「グラビオっ」
「十月が強制排出しおった」
グラビオが完全にその姿を固定し、ベッドの空いた脇に着地する。
「あ、貴方が生きているって事は、大丈夫そうなのですか?」
「……いや、恭司はもう死んでいる」
グラビオが暗い声で言う。
「復活するかは運じゃ。それに、融合後の拒絶反応も起こらないとは言えんじゃろ」
「……では、祈るしかありませんね」
「そうなるな」
二人は神妙な面持ちで、恭司の様子を見守った。
…………。
「――二度? いや三度目だな、この感覚……」
恭司は心地よい浮遊感に包まれていた。
周りは闇だが、それが居心地の悪さには繋がらなかった。
その中に自分がしっかりと居る感じがする。
「前より随分はっきりしているって事は完璧に死んだな」
声が自分が喋っている声として聞こえていた。
見ると、闇の中なのに自分の身体があるのが分かる。
雲の中を浮くように、どこに向かうべきを考えた。
「……さて、どこに行けばいい? 天国とか地獄は本当にあるのか、衝撃の瞬間が今すぐという感じだな」
何だか、すっきりと死ねた気がする。
特に未練というものは無かった。
何もかもが薄れ、どうでも良くなる。
それが死ぬという事なのかも知れないと思う。
未練が消滅する事。そして、自分の存在を何とも思わなくなる事が死なのだと――。
「……特に変化が起きないな」
暗闇はいつまで経っても暗闇だった。
…………。
心の中が闇に浸食されていく気がした。
それは決して悪い感じではなく、むしろ、とても気持ちが良くて…………。
「ちょっと待ちなさいっ!」
唐突に『居心地の良さ』が、大声によって乱された。
「な、なんだ!?」
「――勝手に死んでる場合じゃないでしょっ!」
闇の向こうから、怒気をはらんだ女の子の声が聞こえた。
「誰だ、お前は?」
「怒るわよ? 私を忘れて済むと思ってるの?」
「――知らないものは、知らん」
恭司は言い切った。
「うーん、重傷ね……もう、駄目かも」
「何が駄目なんだよ?」
「この段階まで意識が闇に沈んだら、あなたが自力で思い出さなかったら、こっちには戻って来れないという事よ」
「『こっち』ってなんだよ?」
「『こっち』はこっちよ。私がいる方」
「は?」
闇から聞こえて来る声は全く意味不明な事ばかり言っていた。
「あ、ヒントをあげる。前にも同じ事があったでしょ、それも一時間と経ってないくらい最近に」
「……最近?」
恭司はさっき、同じ事を考えなかっただろうかと思った。
あれは、どうしてそう思ったのだろうか……。
ほんの少し前の事なのに思い出せない。
「……僕は何を……?」
「ほら、段々思い出して来た。もう少し」
「大体……僕は誰だ」
思考する。
自分が誰のか?
そして『岩瀬恭司』という固有名詞を唐突に思い出す。
「僕は岩瀬恭司、高校一年生……」
「そうそう。頑張って」
声に力がこもる。
「この春に入学したばかりで、それで……」
「うん、そこが肝心だよ」
「……うーん、何があったんだったっけ」
「あー、もう、じれったいっ」
「……何か、もの凄い事件があった気が……」
「そう、あった、あった」
「あっ」
「思い出したっ!?」
「やってたゲームのメモリーを思わず洗濯しちゃって、鬱入ったんだった……」
「違うっ! 全然、もの凄くないっ!」
声が張り裂けるような大声で怒鳴る。
「いや、結構重要なデータだったからな、僕の七十時間がパーになった」
「……そんな話聞いてないし、ホントに重要だったの?」
「うーん、そう言われると確かに……何か、もっと凄い事があって、データが消えたなんて事はどうでも良くなっていた気が……」
「セーブデータに負けたら、私と、もう一人の娘が泣くわ」
「……もう一人?」
記憶の片隅に引っ掛かりを感じた。
「思い出した?」
「あ、ああ、とてつもなく変なテンションの娘と、優しいけど実は計算高い娘がいた気がする」
「わー、最悪な印象。あとで先輩にも教えちゃうよ」
「って、何か段々思い出して来たぞ。――お前の声にも憶えがある」
「うん、それは正解。クリアまであと一歩っ」
「お前……ええっと……」
「いま思い出したら、姿をみせちゃう初回特典付きだよ。初回一本のみだけど」
「……うーん、確か……」
非常に重要な記憶な気がした。
必死に思い出す。
!
そして、唐突に雨の中で佇む少女の姿が浮かんだ。
「そうだ、十月、二石十月っ」
「正解っ!」
その声と共に闇の中に十月の姿が浮かび上がった。
初めて見た時の制服姿だ。
「ふー、良かった。何とか『落ちる』まえに引き上げられた」
「と、十月……どうして、こんな所に?」
恭司は茫然と十月を眺めた。
記憶の前後が全く繋がらない。
なにがあったのか? それが全く分からなかった。
「あ、現状を深く考える必要はないから、それより、少し前の事を思い出して」
「確か、今度こそ完璧に死んだはずじゃ……」
「まぁ、そうだけど、私が復活させようとしてるの」
「どうやって?」
「グラビオが似たような事をしたから察しは付くでしょ?」
「――って事は、もう『入って』いるのか?」
「そういう事、コアも移植済み。後は起動させるだけ」
「待て 十月はどうなるんだ?」
「私? さぁ、どうなるんだろ? 一応コアは二つあるから、消えるって事はないけど、しばらくは恭司君から出られないと思うよ。出たら、恭司君、また死ぬし」
「……無茶し過ぎだ」
恭司は力なく呟いた。
コアを分離した十月をいまさら止める事は出来なかった。
「いいの、私が良いって言ってる訳だし、それで起動なんだけど――分かる?」
「起動すれば『無垢なる物』として再生されるという事か?」
「ううん、『始まりのもの』としての再生よ。『物』ではなくて『者』でもなく『もの』よ。分かるでしょ」
十月の意識がダイレクトに伝わり、意味を把握する。
「なんか……中途半端だな」
「それは私に対する侮辱よ」
「それは悪かったな」
恭司は誠意なく謝った。
それが、やはりダイレクトに十月に伝わる。
「むぅー、バカにしてる?」
「いや」
軽く否定。
「――で、話を変えるが、とりあえず起動は分かる。けど一つ聞かせてくれ」
「何?」
「どうして僕のために、ここまでするんだ?」
お前はオプティーとして、全てを司る事すら出来る存在だろ僕個人に構う理由はないはずだ。
言葉と意識、両方で伝えた。
「はぁ……そんな事、それは簡単よ。私にも『個』があるの」
十月が何故かがっかりしたように言う。
「それで?」
「まだ言わせるの? ――恥ずかしいでしょ」
「は?」
「もうっ、私はあなたを好きなの、前にも言ったでしょ」
十月の顔がかーっと赤くなる。
「……そんな単純な理由なのか」
嬉しい事を言われたはずだが、実感がまるでなかった。
「単純なのっ、恭司君だって私のために戦ってくれたんでしょ?」
「それは……」
「とにかく、好きなものとは離れたくないの。それだけよ」
「……『もの』」
「『もの』よ完璧にね」
十月が言い切る。
「じゃ、起動の準備をして、サポートに回るから」
途端に真面目で固い口調になる。
「あ、ああ」
恭司は意識を集中した。
「――お、目を覚ますぞ」
「恭司さん」
由梨香がベッドの上に身を乗り出す。
「……ん……」
恭司の閉じられた瞳がゆっくりと開く。
「先輩か……何か、無理矢理復活させられた」
「良かったっ!」
由梨香が恭司に覆い被さる。
そして、口付けする。
「んっ――」
恭司は突然口を塞がれ強張ったが、すぐに由梨香を受け入れ力を抜いた。
しばらく由梨香は口付けを続けた。
そして、
「ごめんなさい――でも、嬉しくて、本当に良かったです」
潤んだ瞳で唇を離して、潤んだ瞳で続けた。
「先輩って、結構積極的だね。舌とか入って来てドキドキしちゃった」
唐突に恭司の口が、十月の声でそう言った。
「え」
由梨香の目が点になる。
「私が入ってるの」
恭司が笑う、十月の声で。
「え、えぇぇっ!?」
顔が瞬時に真っ赤になった。
「入ってるってっ、普通、個は消えるのでは……」
「そうなったかも知れないけど、コアが二個ある私は平気だったみたい。互いが残ったまま綺麗に融合しちゃった」
「……そんな」
真っ赤だった顔が、恭司が倒れた時より暗い色になる。
「おいっ、そんな話聞いてないぞ、人の身体を勝手に使うなっ、それより、どうしてもう肉体が操作出来るまで融合まで進んでいるんだ。普通そんなに早くくっつかないだろ」
グラビオから受け継いだ知識だと、コアとの融合には五時間から十時間は最低掛かるというのが常だった。
「あ、それは普通の時の話。私、反則存在だし」
十月が恭司の口で喋る。
と、
「ねー、何かあったパーツ繋げてみたんだけどー」
部屋の奥から全裸のエシスが現れる。
今までより手足が一割強長い。
「エシス、いまはそれどころじゃ――」
由梨香が言いかけた言葉を、
「あっ、エシス。――じゃ、ぴったり調整するね」
恭司がベッドから起き上がって塞いだ。
「え?」
エシスが一瞬、茫然とする。
「えっと、私が十月なの。――とりあえず、詳しい説明は後でするから、こっち来て」
「あ、う、うん」
エシスが少しビクビクしながら恭司の前に立つ。
「じゃ、始めるね。――干渉開始――。エシスはコアのゲートを開いて」
「う、うん。――ゲートオープン――」
「――構築変換――イメージ回収――構築開始」
エシスの身体全体が淡く輝き、見る見る全体の形が変わって行く。
アッという間に、元のサイズのエシスが出来上がる。
「――終了」
「――ゲートクローズ」
「どう? ちゃんと感覚ある?」
「ん……平気みたい。ありがと」
エシスがその場でくるりと回転して身体の動きを確かめる。
「いえ、どういたしまして。あ――ついでに服も作ってあげたら良かったかな」
「服? それくらい自分で作るわ」
エシスが少しだけじっとして集中する。
すぐに、前に着ていたフリル付きの可愛い服が形成される。
「はい、完了」
「その服、可愛いよね。私も今度着てって……あ、今は無理か」
恭司が自分の姿を見て言う。
「ねぇ、ホントに、中に入ってるの? ただのカマじゃなくて?」
エシスが疑いを込めた目で恭司を睨む。
「それはないよ。ねっ」
「『ねっ』じゃない」
恭司の声に急に変わる。
「この先、どうするつもりだ。このままはいくら何でも」
「え、そうだなぁ……まぁ、恭司君が、完璧に回復したら離れられるかも」
「何時だ、それは?」
「さぁ? 人間の事は分からないし」
「嘘を吐くなっ」
端から見ていると、理解出来ない一人芝居が続く。
「面白すぎ」
エシスが目を輝かせる。
そんな三人(?)を、由梨香はブルーな気持ちで見つめた。
「はぁ……最悪な気分です」
「恭司が生き返っただけでも良しとしろ」
横でグラビオが言う。
「それはそうですが……」
「まぁ、お前の心中を察しはするが、ワシは一言しか言えん、――諦めろ」
「……はぁ、……恭司さんの馬鹿」
部屋に大きな由梨香の溜め息が響いた。
その由梨香の前では、収まりそうにない恭司の一人芝居(?)が続いていた。
エピローグ
篠崎家の朝は、急に騒がしくなっていた。
「わっ、ちょっとあんたふざけないでよ、セクハラよっ!」
「知るかっ、十月が勝手にここまで連れて来たんだっ」
家の外まで木霊する声。
その後、ドタドタと響く足音。
「こらぁー、三人共静かにしなさいっ!」
そして、怒鳴り声。
その後、約二十分後に玄関が開く。
「いってきまぁーす」
「お前が言うな」
「お姉ちゃん、いこっ」
「はいはい。――グラビオ、戸締まりお願いね」
「了解じゃ」
出てきた三人(?)は、揃って敷地を出て学校に向かった。
「はぁ……十月が住み着いてから、良いことが一つもない」
恭司が俯いて言う。
「なによ。人を疫病神みたいに」
「それ以下だ。お前チョコしか食わないだろ、僕の身体だって事を忘れるな」
「いいじゃん。それに私チョコ以外の味が分からないって言ったでしょ?」
「ああ、それで僕も先輩の美味しい料理の味が分からなくなったよ。だからって、朝から板チョコを十枚も喰うな、こっちが死ぬっ!」
「むぅー、私一人だったら、三十枚は食べるのっ!」
恭司が道で地団駄を踏む。
「いつ見ても面白ーい」
エシスが心底楽しそうに言う。
彼女は恭司達と同じ学校の制服を着ていた。
相当無理矢理、転入した結果だった。
「エシス、面白がるのはやめなさい」
由梨香がエシスの頭をポンポンと叩く。
「いたぁーい」
「そんな強く叩いていません。それに、恭司さん達も、もうそろそろ落ち着かないと、ばれますよ」
由梨香が周りを見回して言う。
学校が近くなり、ちらほらと他の生徒の姿が見えた。
「はぁ……十月、大人しくしてろよ」
「溜め息はこっちよ。また、退屈な学校の時間なのね」
十月は恭司が学校に行ってる時間は表に出られなかった。
出たら、声が変わる時点で全員にバレてしまう。
その後、記憶の処理をすれば無かった事にはなるが、さすがに毎日という訳には行かない。
「――で、あと、どれくらいで、分離出来そうなんだ?」
「さぁ……夏くらいには、暑苦しいから離れたいけど」
「つまり、あと二ヶ月か……死にそう」
「死なないように、私がいるのっ」
「はいはい。じゃ、もう黙ってろ」
恭司は十月を押し込めた。
「――大変ですね」
由梨香がとても優しい目で恭司を見た。
「先輩にも迷惑を掛けて、すまない」
「いえ」
小さく頭を下げる。
「私にも迷惑掛かってる」
エシスが横から口を出す。
「あ? そうだな。エシスにも悪い」
「心が全然こもってない」
「お前が先輩に迷惑を掛けすぎだからだ」
「えー、そんな事ないよ。ねっ、お姉ちゃん」
「……そういう事にしておきます」
由梨香は大人な答えを返した。
「ほら、迷惑じゃないって」
「はいはい」
恭司に突っ込む気力は無かった。
これから、あと二ヶ月こんな状態が続くのかと思うと頭痛がした。
叫びたい気持ちを抑えて、空を見上げる。
空はくっきりと晴れ渡っていた。
広く青い光景を見ていると、気持ちが幾分落ち着く。
「恭司さん、上を見てると危ないですよ」
「ん、そうだな」
顔を戻す。
「どうかしたんですか?」
「いや、別に」
「それならいいのですが」
「ああ」
恭司は返事をしながら漠然と思った。
これは、これでハッピーエンドなのだと。
『雨とチョコレート』 END
|